見出し画像

ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」15.二人の天才


 ————デイビスさん、次の質問に移ってもよろしいでしょうか?

 ————どうぞ、なんなりと。

 ————ひょっとしたら、こんな質問はもう飽き飽きしていらっしゃるかもしれませんが……
 あなたが初めて空を飛びたいという夢を抱いたのは、いったい、いつのことなのでしょうか?

 五十代になったデイビスが、そうカメラとマイクを向けられるたび、彼は苦笑を浮かべながら答えたものだった。

 ————その質問は、確かに何度も受けましたが、それでも私は、毎回それに答えるのが大好きです。

 残念ながら、とても覚えてはいられませんよ。何せ、すでに物心ついた時から、私は空を飛ぶことに憧れていましたからね。
 けれども、とにもかくにも、それが最初に叶った瞬間というのは、いまだによく覚えています。それは、私が五歳の頃。帰りの車の中で、父母が声をひそめて語り合うのを聞きながら、うたた寝をしていました。

 多くの人々が、家族の間接的な愛に包まれながら、どこまでも続く夜の道路で、ぼんやりと薄暗い水銀灯を見つめたことがあるでしょう。
 物哀しいほどに世界を遠く感じる、あの漆黒の闇の中、その日経験したことで胸がいっぱいだった私は、無意識のうちに深い空想を膨らませていたのかもしれません。

 パイロットには誰にだって、忘れられないフライトがある。私は二十六歳の時、一生胸に残り続けるようなフライトを体験しましたし、ゲストを乗せた状態でエンジンが停止し、なんとか海に着水して生還したミッションも、大切な思い出です。

 しかしやはり、初めてのフライトは、いつだって特別なものです。
 それは、今でも、海の底に横たわる宝石のように、精神の奥で深い輝きを放っているのです。


 

……

「デイビス、寝てしまったの?」

 母親の声が、前方席から聞こえる。
 その呼びかけに、夢うつつを揺蕩っていたデイビスは、薄っすらと目を開けはしたが、しかしその言葉に返事はしなかった。ガラスの向こうには、真っ黒な夜空を照らし出して、睫毛には懐かしいオレンジ色の光が映り込み、泣きたくなるほどの速度で、ぼんやりとした照明灯の光芒が後ろへと流れていった。

「よせよ、あんなにはしゃいでいたんだ、疲れているんだよ。寝かせておいてやろう」

「この子ったら、スタージェットの試験飛行に、結局何度志願したのかしらね?」

「はは。こいつ、高いところばかり好きだからな」

「それだけじゃないのよ、スペース・マウンテンだって、三回も。私、もう目が回っちゃったわ」

 父親は、笑いながら、車内の再生機のボリュームを捻った。スピーカーから緩やかに流れていた『Beauty and the Beast』のメロディが、微かに大きくなって身に迫った。アルトサックスの物憂い旋律が、薄闇の中で甘やかに奏でられる。それはまるで、両親たちがふたたび独身時代に戻り、自分の知らないバーで、親しい会話を交わすかのようだった。けれども彼らが話題の中心にしたがるのは、もはや初々しいばかりの互いの話ではなく、二人が添い遂げ、結婚し、そしてその間に生まれ落ちた息子。つまり、彼についてのことなのだった。

「怖がらないんだよな、デイビスは。速いのも、激しいのも、高いのも」

「そうなのよ。まだ小さいのに、本当に度胸があると思うわ」

「あと、未来志向型なんだ。真新しい技術とか、デザインとか、すぐに興味を持ち出すからなあ」

「でも、初めてのトゥモローランドを楽しんでくれたみたいで、よかった」

 デイビスは、静かに瞬きをしながら、バラードに満たされた暗い夜の車内で、両親たちが和やかに会話しているのを聞いていた。不思議に居心地がよく、現実味がなく、そして狂おしいほどに儚かった。母親が、彼の食べ残したポップコーンをつまんでいた。その、しゃくりという咀嚼の音から、甘く漂うクリームソーダの香りまで、深く覚えている。


「デイビスは、将来、どんな大人になるんだろうなあ」


 薄闇の中、対面車両のヘッドライトに照らされた父親がそう呟くのを、切ないほどに記憶している。

 夜は更けて、もうデイビスの普段の寝る時間を過ぎていた。けれどもポート・ディスカバリーは、青いネオンのうちにその街を包み込み、人々の影は群青色に溶けて美しかった。潮の香りを含んだ夜風が虚空へ流れてゆき、遅い時間まで営業しているレストランは、氷の上に冷やされた牡蠣や、とろりと凍てつく黄金色の白ワインの縁や、汐風に靡くパラソルのはためきを、苦しいばかりの光に囲っていた。

 まだ、CWCも、ウォーターヴィークルも存在しない。けれども、海の上に設けられたその都市は、黒々とした波に青い蛍光の反射をちらつかせ、すべての印象にブルーをまぶしてゆく。ポート・ディスカバリーの青のネオンは、暗闇を怖くないものに変える、特別な色だった。あのサファイアのように深い立体的な光線が、薄闇の中に射し込んでくると、海面から顔を出す岩の艶々と濡れた表面や、金属製の椰子の下に陰を帯びるターポリン製の旗、人影も少なくなった橋を寂しげに帰る恋人たちまでもが、何か永遠に近い魔法の色を塗られ、朝も夜もない、蠱惑的な舞台の上に押し出されてゆくようだった。

 それはまるで、初めて宇宙にライトアップされた、赤裸々の文明。腫れぼったい切なさに満ちて、しかもすべては可能性の中に取り残されている。それが、彼の生まれた故郷だった。車のドアが開けられると、大自然を匂わせる波の音に混じって、あの聴き慣れた、勇壮な音楽が遠くから聞こえてくる。胸いっぱいに、締めつけるような海の香りが横切り、通り過ぎてゆく。

「ほら、デイビス。マリーナに着いたぞ。歩いて、自分の足でベッドに向かうんだ」

 覆い被さるように降ってくる父親の影と、優しい声。彼は束の間のあいだ、夜のポート・ディスカバリーを包み込む海の音と、あの特徴的な青いネオンの光を目に滲ませていたが、やがて、座席に頭を凭れさせたまま、ふたたび眠りに取り込まれつつあった。しようがねえなあ、と逞しい腕が彼を抱きかかえると、子ども部屋へと運んでゆく。安寧のうちに持ちあげられ、そっとその腕の中で揺さぶられる感覚が、静かな心臓の音と交わり、攪拌されてゆく。母親らしき手が、彼の短い髪を撫でる。その手つきは、酷く暖かく、柔らかだった。

 夢を、見ていた。

 碧い、青い、蒼い、吸い込まれるような光の帯。それが真っ直ぐに星空へと透き通ってゆき、サーチライトの如く、僅かばかりの大気を照らし出す。
 気づくと、彼はスペース・マウンテンの頂上に立っていた。針のように鋭い数本の尖塔に、大きくドレープを垂らすような真っ白の山。そこへ次々と色調の移り変わるライトアップがなされて、頭上の夜空の暗黒を反転させたかのように冴え冴えと、未知の惑星の如く照らしていた。

 そして、無駄なものを削ぎ落としたようなそのシャープな山を包み込むように、辺りには、非日常的な、それでいて未来を感じさせる電子音楽が、独特の浮遊感とともにスピーカーから響いてくる。柔らかな倍音、点滅するようなメロディ。それに混じって聞こえてくるのは、無線を交わす低い女性の声、アンドロイドが発する稼働音、アンテナから受信された微かな電磁波。それらが一体となって、この暗黒な宇宙のほとりに、切ないまでに小さな生命の希望を瞬かせながら、明日へと邁進しているように思われた。

「君はこの星の守備隊員か?」

 見知らぬ人影が、誰何する。デイビスは、声の方向を振り返った。
 宇宙服——なのだろうか? 丸く透明なヘルメットの内側には、紫のタイツで頭を包み、大きな顎にはのの字を描く髭を蓄えた、太眉の男。染みひとつない宇宙服は、逞しい鎧を連想させるように胸元を防御しており、アクセントとして走る蛍光色のグリーンが、彼の完璧な歯並びを白く輝かせるようである。何より、小さい。ほんのおもちゃのサイズくらいしかなかった。がちゃがちゃとプラスチックを鳴らして近寄ってきたその男は、居丈高にデイビスを見あげる。

「可愛い少年だな。どうしてこんなところに不時着したんだ」

「おじさん、だれ?」

「私は宇宙防衛隊のスペース・レンジャー、バズ・ライトイヤーだ」

 自信満々にそう名乗る男に、デイビスはぽかんと口を開けた。あっさりとその言葉を信じるには、どうにも胡散臭い——しかし、その確信に満ちた声色は、奇妙な生真面目さに溢れていた。

「君は海の住民のように見える。しかしこちらの世界へ来るとは……」

 バズは、さっと腕のボタンを押し込むと、アームカバーに取り付けられていた豆電球を、素早くデイビスへと向けた。

「スパイか!」

「スパイじゃないよ」

「陸の売り上げを奪いにきたんだな? 騙されんぞ、そうやってゲストを海の方へと吸い取る気なのだ」

 額に赤いレーザーポインターを突きつけられ、デイビスは両手を上げた。ぴーっ、ぴーっ、と威嚇する警告音が、宇宙服の機器から鳴り響く。

「ここは夢と魔法の王国だぞ、少年。君のいるべきは、冒険とイマジネーションの海だ。ディズニーリゾートラインに乗って、東京ディズニーシー・ステーションに帰りたまえ。子どもなら、たった130円だ」

「まってよ、おじさん」

「おじさんじゃない。スペース、レンジャー」

「ぼく、気づいたらここにいたんだよ。帰れっていわれても、お金なんてないし、どうやって帰ればいいのかも分からないよ」

 それを聞いたバズは、ようやく憮然とした表情でボタンから手を離すと、威嚇を止め、溜め息をついた。

「やれやれ、迷子か」

「そんなことってあるの?」

「どちらのパークも、一人の男の夢ワン・マンズ・ドリームで繋がっているからな。夢の中を彷徨ううちに、もう一方へと迷い込んでしまうことも、たまにはある。
 仕方ない。スペース・レンジャーたるこの私が、無事に海まで送り届けてやろう」

 そう言うと、バズは宇宙服の左胸に備えつけられている、丸く大きなボタンを押し込んだ。途端に、まるで甲虫が収納していた翅を開くように、背中から即座にウイングが射出され、少しばかり反動でバズの体ががたつく。まるで定規のように四角い形状をした翼だが、その色は紫で、非常に良く目立つ。おまけに、ウイングの先端のライトが赤と緑に点滅しており、夜闇の中でも、すぐにバズの居場所はそれと判別できた。

「かっこいい!」

「だろう?」

「ほんとに飛べるの?」

「この翼はメタリック合金でできている。ちゃんと飛べる」

 誇らしげにそう断言したバズは、そこでふと、改めて目の前の子どもの身長を思い出したかのように、しげしげと上から下までデイビスをチェックした。

「しかし君を乗せて飛ぶのは、少し燃料不足のようだ。ウッディの時と同じようにはいかないな」

「えーっ、へーきん体重だよ?」

「そんなことは関係ない。おもちゃが単三電池で持ちあげるには、人間はあまりに重すぎる。さあて、どうするか」

 そう呟いたバズは、奇妙に片目を歪めながらゆっくりと辺りを見回すと、今度は右の胸元にある、赤い楕円のボタンをポチリと押し込み、勿体ぶった口調で、何やら無線による通話を開始した。

「バズ・ライトイヤーからスター・コマンドへ、応答せよ。応援を要請したい。ファンタジーランドの航空隊員二名を、至急、スペース・マウンテン上まで派遣してくれたまえ」

 ファンタジーランド? 聞いたことのない名前だった。一体どういうところなのだろうか、とデイビスは想像しながら、夜空を見あげた。ちりばめられた星の海の中で、いかなる地上の照明よりも明るい満月である。

 すると、その月明かりに照らされる夜の底からそっと、ひそやかに肩を突つくような、黄金のパンフルートの音色が聞こえてきた。どきん、とデイビスの胸が高鳴った。何かの始まりを告げる、そのたった三音の旋律は、月明かりに照らされながら、ゆっくりと、悪戯心を隠した澄まし顔で誘いかける。そして彼の上を、一瞬、何かの素早い影が横切った。

 満月を陰らせるそのシルエットは、魔法の小人を思わせる。逆光でよく見えないが、頬を膨らませ、パンフルートに息を吹き込めているようだ。それまで、牧羊神の暇つぶしのように簡素に奏でていた影法師は、さっといきなり宙返りで身を翻すと、空中を不規則に飛翔した。黄金の燐光が瞬いて、まるで宙にもうひとつの天の河を創るよう——角度によって一等星ほどにも強く煌めくそれは、ただ一人の少年の軌跡を描き、彼が少しでも動くたび、たちまち光彩陸離として、新たな微粒子が撒き散らされるのだった。

 その人物は、尖った耳で、腰には短剣、上から下まで、エルフを思わせる真緑色の服。三角帽には赤い羽を刺して、少し鼻の潰れた、茶目っ気でいっぱいの顔立ちをしている。

「やあ、バズ。どうしたのさ、急に呼び出して?」

 くるくると身軽に回転しながら、その少年はスペース・マウンテンの尖塔に着地した。まるで体重などないかのように軽やかで、その表情も万華鏡を思わせるほど鮮やかに変わる。特に特徴的なのは、活発な茶色の瞳。一秒たりとも同じ感情に浸っておらず、絶え間なく好奇心の火花が散っているようだった。

「ああ、ピーター、緊急事態だ、作戦会議を開こう。ダンボはどうした?」

「すぐにくるだろうさ、彼には優秀なマネージャーがついているからね。ああ、あのシルエットが、そうなんじゃないか?」

 指差した先には、満月を陰らせる不思議な生き物。ぱたぱたと羽ばたきながら、気持ちよさそうに舞い降りてきたのは、小さな仔象である。ほとんど体を覆えるほど両耳が大きく、頭にはベビーイエローの帽子を乗せている。首回りに赤いよだれかけを掛けていることから、まだ生まれたばかりなのだろう。そしてその仔象の帽子の縁から、鼓笛隊の格好をした茶色の鼠が、ひょっこりと顔を出した。

「おや、珍しい。海の住人じゃないか!」

 鼠の甲高い声を聞いて、仔象は、ぱちくりと無邪気な青い目を瞬かせた。

「ダンボ、君は海に行ったことがあるかい?」

 鼠の問いかけに、仔象が懸命に首を横に振る。

「そうかい、それじゃ、サインをねだっておいた方が良いかもな! 我々とは普段、住む世界が違うんだ。こうやって交流できることなんて、滅多にないぞ」

 鼠の言葉に背中を押されたかのように、仔象は遠くからその幼い鼻を伸ばして、おっかなびっくり、しかし興味津々といった様子で、ぺたぺたとデイビスを触り始めた。

 その滑り台のような鼻を伝って二足歩行で歩きながら、真っ直ぐに伸びた髭をぴんと弾いた鼠が、デイビスに向かって話しかける。

「この子はな、ダンボといって、世界で唯一空を飛べる象なんだ。可愛いだろう? 僕はティモシー。この子の親友で、専属マネージャーだ」

「よろしく、ダンボにティモシー」

「ふむ。君、ピーナッツが好きな人間かい?」

「え?」

「なんだか、同志の匂いがするな」

 そう言って、頻りに鼻を微動させるティモシー。それにつられたのか、ダンボも楽しそうに鼻先をぴくぴくとうごめかせた。

「諸君、ご協力感謝する。このトゥモローランドまで、はるばるよく来てくれた」

 ティモシーの次に小さなバズが、観衆たち注目を集めるように両手をあげた。みな、見下ろすようにして、揃ってバズの言葉に聞き入る。

「本日の議題は、この少年だ。見ての通り、このディズニーランドの住人ではない。海側の人間だ」

「ねえ、なんでそんなことがわかるの?」

「君のパジャマから、潮の香りがする」

「犬かな?」

「ちなみに陸側の人間は、チュロスの香りだ」

「はあ」

 そんなものかと、デイビスは納得した。

「そこで君たちに協力を願いたい。今から、みんなで一緒に空を飛んで、この少年をディズニーシーに送り届ける」

「おじさん、それってつまり、ぼくも飛ぶってこと?」

「夢と魔法の王国なのだぞ。もちろん、飛べる」

 バズは平然として、デイビスの足を軽く突ついた。

「少年よ、恐れることはない。ここは君の夢の中だ。強く信じれば、誰だって飛べる」

「そうだよ。君だって飛べるさ!」とピーター。

「それが、ディズニーランドというものだ」とティモシー。
 
 デイビスは、その夢のある異口同音の賛同にすっかり感心して、溜め息をついた。

「へええ、ディズニーランドって、よく分からないけど、すっごいところなんだね」

「大人になれば、もっとその資金力を理解できるぞ。ところで少年、君の故郷はどこだね?」

「ポート・ディスカバリー」

「分かった。私の親友に力を貸してもらうとしよう」

 そう言うと、ふたたびバズはボタンを押して、どこかと通信をし始めた。

「ウッディ、こちら、バズ・ライトイヤー。至急、ポート・ディスカバリーに移動して、誘導用の明かりを点けてほしい。少年が迷子だ。私が責任を持って、そちらへ送り届ける」

《ええ? ポート・ディスカバリーだって?》

 無線の向こうからは、呆気に取られたような返事が聞こえてくる。

《そりゃ、アンディはたった今、ベッドで寝ついたばっかりだけどさ。でもポート・ディスカバリーって、トイビル・トロリーパークからは、ちょいと遠いんだぜ?》

《任せてよバズ、ボク、ポート・ディスカバリーなんて初めてだよ!》

《おいレックス、勝手に無線を奪うのはやめろ!》

《バズ、こっちはOKだよ! 大丈夫、ママもリビングで、深夜ドラマに夢中みたい。こっそり忍び出ても、気づかれやしないよ》

《ジェシーもこう言ってるし、みんなで大移動だな。お出かけ用のパーツに付け替えておこう》

《夜の探検なんて、初めてだぜ。おいウッディ、エレクトリック・レールウェイに乗るコインなら、俺の腹の中のじゃなくて、自分のへそくりで払ってくれよ》

《分かった、分かったよ、みんなで行こう。だけど懐中電灯と単三電池を、忘れるなよ》

 バズとその通信先の会話を尻目に、ティモシーは、帽子の中に隠し持っていたピーナッツを、これみよがしにデイビスの前に振った。

「少年、空を飛ぶ前に腹ごしらえはどうだ。こいつはとっておきのピーナッツだ」

「ピーナッツ?」

「おっと、殻ごと食べるんじゃないぞ。慎重に縦に割って、中の豆だけ、食べるんだ」

 言われた通りに、デイビスは軽くピーナッツの腹を押して殻を割ると、中に入っていた豆を口にした。

「おいしい!」

「だろう? フライトのおともに、ピーナッツは最高なんだ。よく噛まないといけないから、耳がキーンとしづらくなる。この子にも、よく食べさせてやっているのさ」

 ティモシーが、残っていた一粒を分けてやると、仔象は、赤ちゃんそのものといった表情でピーナッツを鼻で受け取り、ポリポリと噛み砕きながら、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。

「きみは、どうやって空を飛ぶの?」

 デイビスが仔象に訊ねると、仔象はそれはもう嬉しそうに、大きな耳をぱたぱたとはためかせて、ここぞとばかりにデイビスに見せつけた。

「かっこいい。耳をつかって飛ぶんだね」

 ダンボは何度も頷いた。頷きすぎて、すでに少しばかり宙に浮かびあがっている。

「ダンボ、まだ飛んじゃだめだ。海までは遠いぞ。体力を温存しておかなけりゃ」

 ティモシーがダンボの頭を突っついて忠告する横から、ピーターが、ティンカーベルの羽を無造作に捕まえると、その身を優しく振って、デイビスの上にたっぷりの妖精の粉を降りそそいだ。ティンカーベルは最後の粉を落とすなり、まるで大小の鈴を鳴らしたように尊大な身振りで、無数に光る微粒子の軌跡を描きながら、ピーターの後ろへ隠れてしまった。

 デイビスは、全身に降りかかった粉を不思議そうに見つめた。まるでチェダーチーズでも擦り下ろしたかのようにこんもりと積もった黄金のそれが、体を輝かせ、煌めかせ、熱くさせ、ドキドキと昂揚させる何かで胸を満たしていった。

 そしてデイビスは、そのときめきの中で、自身の足が、ほんの数センチ、文字通り浮き足立っていることに気づいた。ぱたぱたと爪先を動かすこともできるし、夜空へ向かって平泳ぎすることもできる。

「浮いてる!」

「そりゃそうさ。君、空を飛んだことないの?」

「うん、これが初めてだよ」

「へええ、そいつは珍しいや」

 ピーターは目を丸くしながら、どこか変わった生き物でも見るように彼を見つめた。ティンカーベルは鈴の音を立てながら、今までに飛んだことがないという事実に笑い転げているようだが、ピーターがそんなティンクを睨むと、こほんと咳払いして背を向けた。

「良いかい、少年、空を飛ぶ時はだな、自分は飛べるんだと、強く信じることだ」とティモシー。

「そうさ、簡単だよ。楽しいことを考えれば良い」とピーター。

「楽しいこと?」

 首を傾げて聞き返すデイビスに、ピーターは得意げに教えた。

「ああ。クリスマスのおもちゃ、橇、チラチラと降る雪。それに、美味しいお菓子なんかをね。
 さあ、うんと楽しいことを考えろ。羽が生えたのと同じになる」

 ダンボがその鼻で、デイビスの服の裾を引っ張ると、一緒に飛ぼうよ、と誘いかけるように、ぱたぱたと耳を打ち震わせた。まだ短いその鼻を撫でてやると、大層嬉しそうに、ダンボの顔が歓喜で花やいだ。

 やがて、遠いポート・ディスカバリーの一角に、空に向かって真っ直ぐに伸びあがる光の柱が立った。それはか細く、周囲のライトアップから比べるとあまりに儚いが、確かに彼を故郷へと導く、希望の光だった。

「少年、見えるか? あれが誘導灯の明かりだ」

 バズは手袋に包まれた指で、堂々とデイビスの行き先を指し示した。彼には、なぜか将来に渡って、その暗闇の故郷に立ちのぼる光の柱は、とても懐かしく感じるんだろうな、と思われた。

「諸君、飛び立つ準備はできているか?」

 全員が頷くのを確認すると、バズは拳を突きあげ、暗闇に瞬くウイングを夜風に乗せた。


「無限の彼方へ————さあ、行くぞ!」


 頭からのめり込むように身を翻した途端、重力がすべてを手離して、一挙に空を切る感覚が身を包んだ。悪寒がぶわっと頭皮の毛孔を広げた後、臍の下が一気に地面まで開いて、壮大な風が下腹まで吹き抜けてきた。まるで貫通するように、眼下のすべての景色が見える。樹、樹が黒い、建物が飛びすさる、夜空が迫りくる、天に向かったサーチライトが、その蒼白さを巨大にして彼らのそばを通り過ぎてゆく。膨大な風と浮遊感の中で、自分が今、空を飛んでいるのだ、という事実に、膀胱にじんとした痺れを覚え、泣きたくなるような身震いが走った。彼の本能はすぐさま、飛翔のコツを見出した——紙きれが風に乗って滑空するのと同じように、背筋を伸ばして、あの角度を保ち続けることが重要なのだ。大きく手を広げて、腹を中心として頭の角度の均衡を図れば、ごうごうと手応えのある風の中に、身体中が呑み込まれてゆく。バズも、ピーターも、ダンボも、全身をいっぱいに広げて飛んでいた。その表情を見れば、自分たちが今、どれほど素晴らしい自由を謳歌しているのかということが分かる。風の絶えず吹きすさぶせいで、二の腕はすっかり冷たくなり、眼下にはトゥモローランドのめくるめくイルミネーションが、アスファルトにも反射して煌めいていた。やがて見えてくるのは、まるで本の中にしか存在しないような景色。ライトアップされた美しいシンデレラ城も——子どもが手描きしたようなカートゥーンの街も——あまり詳しく触れてはならないバックステージも——飛び越えて、彼らはぐんぐんとスピードをあげていった。そして彼らは、ほとんど人が絶えたテーマパーク、そのアラビアン・コーストの上を、突き進んでいった。

 まるで陶器のように美しい彫りが施された豪華な宮殿や、ミナレット、華麗なタイルで覆われた伝統的なドームが腹の下に迫る。夜の宝石とも称されるその街は、暗闇に閉ざされればいっそう蠱惑的で、揺れ動く噴水の波紋も、冷えた揚げ物の香りも、鮮やかな花々の白さも、キャラバン隊の小型船の上に揺られる積荷も、何もかもが甘く誘ってきて、魔法の夜の中に迷い込んでしまった気がした。凄まじい歓喜が、胸の奥から込み上げてきた。頭は澄んで星空よりも高く、背中はしなって、最高の流線に反り返る。激しい風切り音も、宇宙の闇も、眼下のひそやかに息衝く灯りも、この浮遊感も、ほんの体の傾きで重力が変わり、充足してゆく。僕は、身ひとつで、世界のどこまでも行けるんだ。みずみずしさも、歓びも、何もかもが彼の味方だった。それは秘密の、特別な、そして何より、夢のような時間だったのだ。

 やがて、見慣れた青のネオンが眼下を満たすようになり、それとともに懐中電灯の光が近づいてきたが、バズはそれを素通りし、住宅街の上へと入り込んでいった。

「あー、おじさん。誘導灯を追い越したよ?」

「目指すは君の家だ」

「えーっとね、僕んち、あれ」

「ふむ。上から忍び込もう」

 バズとデイビスは、その見慣れた家の真上まで飛んでゆくと、煙突からストンと直角に落ち込んだ。

 埃を払いながら暖炉から這い出すと、見えてくるのは、彼がいつも遊んでいる子ども部屋。床に散らばっているおもちゃを避けながら、バズとデイビスは、窓際に置かれている、ベッドにまで到達した。

「どうやら、無事に辿り着いたようだな」

「ありがとう、おじさん」

「おじさんじゃない、スペース、レンジャー。また迷子になったら、いつでも呼んでくれたまえ」

 律儀に彼の発言を訂正すると、バズは顎を突き出して、ふむ、と呟きながら少し考え込んだ。

「君には見どころがある。いつか、自分だけのメタリック合金の翼で、空を飛ぶ日が来るかもしれない」

 デイビスは、ベッドの上に正座して、自分に空の飛び方を教えてくれた、このちいさな大人の言うことを大人しく聞いていた。

「けれども、それで終わりではない。その時が来たなら、今度は君が、夢を授ける存在になるんだ。今夜の私たちのように」

「うん。分かったよ、スペース・レンジャー」

「それと、もうひとつ。冒険の海と、魔法の王国とでは、夢の叶え方が違う。けれども、どこにいたってやるべきことは同じだ。信じれば、必ず夢は叶う。そのための努力を惜しまないことだ」

「教訓くさく終わるね」

「WDC社から、夢に関するメッセージは念押しするように言われている」

 言いながら、バズはベッドに反動をつけてジャンプすると、窓枠によじ登り、プルプルと腕を伸ばして窓の鍵を解除した。

 デイビスは窓を開けてやり、物寂しく壮大な夜の空気に包まれながら、大空を見あげた。大きなトパーズ色の満月に、帽子を被った少年と仔象のシルエットが浮かびあがっている。

「行くんだね?」

「ああ、だがさよならじゃないぞ。また再会の時が来るかもしれない。ピクサー・プレイタイムや、ファンタジー・スプリングスなんかで」

「スペース・レンジャー、ぼくのことを忘れないでね」

「もちろんだとも。君も、私が教えたことを忘れるな」

 バズは飛び立つ寸前、彼を振り返ると、月明かりの中にあの精巧に造られたプラスチック製の顔をさらし、毅然として敬礼をした。


「また会おう、ボーイ。では、さらばだ!」


 そこで目が醒めた。はっ、と目蓋を開けると、いつもの通り、子ども部屋の天井を見あげ、ベッドの中で横になっていた。父親がそこまで運んでくれたのだろう。薄暗い床には、まだ片付けていない飛行機のプラモデルが、たくさん転がっていた。

 窓を開けると、ポート・ディスカバリーの夜は、やはり先ほどと同じように、魔法の残り香のような青い光に包み込まれていた。柔らかに滴り落ちる滴や、汐風に揺さぶられる波や、風力を観測し続けるアンテナが、この科学都市を静かに守護していた。

 先ほどまで、ここを飛んでいたのだ、と思うと、故郷が見違えるような、特別なもので包まれているように思えた。
 それは子どもらしい、ヒーローや空想に満ちた夢と言えるのかもしれない。しかしその窓枠に目を走らせて、不思議なものを見つけたデイビスは、それをつまみあげた。


「…………ピーナッツの、殻だ」


 首を傾げるデイビス。綺麗に二つに割れているそれは、中の豆はどこにもなく、ただ、食べた痕跡だけが残されているのだった。改めて満月を見あげると、どこにもあのシルエットは見当たらず、ただ燦々と音もなく月光を降りそそぐのみ。

 ————以上が、彼が初めて空を飛んだ際の、事の顛末である。それ以降、飛行の夢は、彼の人生を通じて何度となく繰り返されることとなる。

 夢の中でいつも、彼は空の飛び方を知っていた。それはもうひとつの肉体に息づく本能と言えた。現実にはけしてできない生き方を、彼は何度も何度も夢で覚えていた。
 それは、単なる夢想された人生だったに過ぎない。目が覚めれば、地面を蹴っても、どんと音がして、すぐに足が着いてしまうだろうし、あの飛翔の体勢を取れば、腹から地面に倒れ込むに決まっている。けれども、何年経ったとしても、飛行の夢は彼の中から消え去ることはなかった。幼い日ばかりではない。ハイスクールでも、大学でも、CWCに勤めていても。たまにやってくる、あのかけがえのない夢。自分は飛べるのだ、と確信に満ちて身を翻す、あの瞬間。全ては自由で、嫌なこともくだらないことも、すべて後方に消え去る。

 自分は、空を飛べるのだという自負。
 そしてそれを支える、あの圧倒的な飛行の感覚。

 それは、あの幼い日の夜から遠く経った今でも、デイビスの胸の奥深くに、星の如く輝き続けているのだった。






……

「……というのが、俺の最初のフライト経験かな」

「ふふふ、それはとっても変わった夢ね。そんなに不思議な内容なら、私も小さい頃に見てみたかったわ」

 ジョーンズと別れ、クリスタル・スカルの魔宮を後にしたデイビスは、歩きながら、そんな幼少期の他愛ない話を聞かせていた。カメリアは手を合わせると、うっとりとその物語に没入し、素晴らしい空想の翼を羽ばたかせるかのようだった。

「空を飛ぶ象、妖精を連れた少年、それに小さな宇宙防衛隊だなんて。どれも信じられないくらいロマンティックだわ。ひょっとしたら、本当にあったことかもしれないわね」

「まさか。それ以来、一度だって彼らに会えたことはないよ」

「でも、空を飛ぶ夢は見続けているのでしょう?」

「ああ。あの時に、飛び方を教わったからなんだと思う。それからずっと、夢の中では落ちる気がしないんだ」

 言いながら、デイビスはちらとカメリアを偸み見た。
 彼の口調に誘われて、私の場合はね、と自分の体験を語り出すかと思ったが、そんな気配もなく、ただデイビスの話にのみ、熱心に胸をときめかせているようである。

 大概、他人の夢の話ほど興味のないものはないと思うのだが、彼女に限っては大層目をキラキラさせて、おとぎ話にでも耳を傾けるように、もっともっととせがむ。その反応は嬉しくはあるが、カメリアは自分の話をしたくないのだろうか、と、ふとそんな気持ちが胸を掠めた。

「さーて、ジョーンズ教授も助け出したし。なんだかんだで、休暇が余っちまったなあ」

「あら。それじゃ、もう少しここで遊んでく?」

 またデイビスに遊んでもらえる、と思って嬉しかったのか、カメリアはワクワクと飛び跳ねて誘いかけた。そのあまりの無邪気さに、分かりやすいなあ、とデイビスも苦笑せざるを得ない。

「どこか行きたいところがあるのか?」

「特にないけど、これで帰ってしまうのは寂しいんだもの」

「それじゃあフライヤーで、また別のエリアに移ろうか? 魔宮の口直しをしたいよな」

「うん。デイビスと一緒なら、どこだって大歓迎よ」

 にこにことしてデイビスの顔を覗き込むカメリアにほだされ、彼も幾つか頭に浮かんだ案を出してみる。

「そうだなー。それじゃ、アラビアン・コーストで、アグラバーの市場を覗いたり。あとはマーメイド・ラグーンで、コンサートを聞きに行ったりとか——」

 言いながら、デイビスははたと足を止めた。カメリアは不思議そうに彼の顔を見あげている。

「どうしたの?」

「なあ、カメリア。あれって、フライヤーを置いてある、ハンガーの方角だろ? 火事でも起きてるのかな?」

 デイビスの目線の先を追ったカメリアは、すっと頭が白く冷え切ってゆくのを感じた。そこには、立ちのぼる黒い煙。それとともに、微かに、焦げ臭い匂いが漂ってきていた。


「—————————何、あれ」


 呆然としてカメリアは呟いた。その、すべての感情が剥がれ落ちたかのような枯れた声に、デイビスの背筋を戦慄が走る。それは、ただならぬ事態を予期させる前兆のように聞こえたのだ。

「カメリア、行こう」

「……嫌、だ」

「おい、……大丈夫か?」

「嫌だ! ……またあいつらが、フライヤーを燃やしにきたんだ。フライヤーは私のだ。誰も触るな! お前たちのじゃない。私のだ。あれは私のフライヤーなんだ!」

 カメリアは突然その場に崩れ落ちて、堰を切ったように泣き始め、激しく耳を塞いだ。しかし、そのしぐさはほとんど無意味なもので、実際、彼女の耳にはほとんど何も入ってこなかったのだ。ただ崖の上に立たされたような絶望感と、それに抗おうとする、微々たるものにしかならない怒りが、目も眩むばかりに足下を凍りつかせた。その激しい剣幕に、デイビスは動揺を隠せなかった。ほとんど鬼気迫るとも称せるその激越さは、彼女の普段の温厚さとはかけ離れて、狂気じみた迫力があったのである。

「カメリア、どうしたんだよ!?」

「お前たちは、何もしていない! フライヤーは、私の命なんだ。お前たちなんかに絶対触らせるもんか。お前たちは卑劣なことしかできないくせに! フライヤーは、私のだ、私のだ、私のだ!」

 叫ぶごとに、刃のように鋭いが無益な言葉が滑り落ちて、熱い頬を流れ落ちていった。デイビスはカメリアの両肩を抱いて、涙に濡れているその顔を、無理に自分の方へと向かせた。

「落ち着けよ、泣いている暇なんかない。何が起こったか分からないけど、今ならまだ、フライヤーを守れるかもしれないだろ」

「い、いや。見たくない……」

「見たくないなら、見なくて良いから。一緒に行こう」

 そう言って、縋りついてくるカメリアを立ちあがらせたが、彼女はずっと震えが収まらず、繋いだ手も、握り返す力すら入らないようだった。ほとんど夢遊病に近い状態の彼女を、手を引いてハンガーの方へと連れ出すのだが、まるで火刑台に遺族を引きずるよう、何か見せてはいけない、残酷なことをこれから見せつけようとしている、そんな感覚が拭い去れなかった。

 今は廃墟と化してしまった、かつてのピラニア航空の格納庫。その敷地が近づくと、木の弾ける音が耳に跳ねて、カメリアはさっと血色を失った。そして、目の前に広がるその光景は、今度こそ、彼女の魂の息の根を止めた。格納庫の前の焚火。赤と黒を交わらせて、轟々と唸るその悪辣な炎の中に、自分の長年の研究の結晶が炙られて、地獄の如く燃えているのが見えた。熱せられて汗を掻きそうなほどに揺らめく空気は、その奥の色合いすらも模糊として溶かし、激しく燃え盛るというよりは、ただ火炙りによる苦しみの時間を長引かせるように、虚空に赤い光をちらつかせながら、じっくりと焦がし続けているのだった。

 火の粉を撒いて、それが昼間にも関わらず、夜を照らす金粉のように眼に残り、残像は尽きることもなく幾千幾万もの閃光を散らして、その明度の均衡を突き破った。近くに立つだけでめらめらと顔に熱を浴びせるそれは、デイビスとカメリアの二人の眼に、悪夢のような色を閃かせている。フライヤーの主な素材である生木は、水分を多く含むだけに燃えづらかったらしく、そのために無残にも足で蹴折られ、その尖った繊維が剥き出しになり、足跡がくっきりと残っていた。まるで私刑を受け、肉を食い破り、全身の骨を折られたような無惨さで、見ている間にも、他のごみがどんどんと同じ火の中に投じられてゆく。座席や庇の皮だけは、何とか焼却を免れていたが、それは焚火の前に積み重ねられており、順番が回ってくれば瞬く間に火を点けられるだろう。

 フライヤー。それは単なる作品なのではなく、彼女が十年以上の時間を費やした、その集大成だった。墜落して怪我をしたことも、凡庸な失敗で、容易く半壊させてしまったこともある。それでも、歯を食い縛って研鑽に研鑽を重ね、ようやく搭乗できるまでにこぎつけたのである。目覚めている間はずっとフライヤーのことを考え続けてきた。それゆえに、まさしくそれは、ヴァイオリニストにとってのヴァイオリン、小説家にとっての原稿、画家にとって入魂の絵画であり、彼女の命を吹き込まれた分身だった。だからこそ、と言うべきか、フライヤーの燃える様は、もはや、彼女自身が被るはずだった罰の身代わりとなり、自分がこうなるべきだった姿を代わりに引き受けて、まさしく自分の愚行を原因として、変わり果ててゆくかのようであった。一瞬、駆け寄って炎を消し去ろうかとも思ったが、しかしこれほどまでに柱を折られ、無残に砕かれた状態にあって、火を払ったとしても何になろう。

「すみません。これは、何ですか」

 棒立ちで立ちすくんでいるカメリアの代わりに、デイビスが近くにいた男に話しかけると、彼は胡散臭そうに振り返って、乱暴な早口で語った。

「Pronto haremos un nuevo show en este hangar, así que estamos reconstruyendo para eso.」

 返ってきたのは紛れもないスペイン語で、デイビスは一瞬、虚を突かれた。どちらも、互いの母国語を理解できないのだろう。ただし、un nuevo show、reconstruyendo、という単語から、辛うじて、ショーのための改築作業をしているのだ、ということが察せられた。仕方なしに、燃えているフライヤーを指差し、何が起こったのか、と身振りで交流を試みると、

「Incineramos todos los artículos innecesarios.」

と答えが返ってくる。innecesarios——恐らくは不要品のことを言っているのだろう。それを焼却する、ということだ。光景から推測はできていたが、それでもデイビスも、冷や汗が落ちてゆくのを抑え切れなかった。フライヤーは、ポート・ディスカバリーに帰る唯一の移動手段だ。それを呆気なく焼き払われたとすれば、ではどうやって、自分たちは故郷に帰れば良い?

「Questo non è un articolo non necessario. È il mio tesoro!」

 同じイタリック語派に所属し、単語も文法もよく似ているスペイン語を把握したらしいカメリアが、悲痛なイタリア語で叫び返すと、

「¿Hay algún idiota que ponga el tesoro en ese lugar?」

 ぴしゃりと論を突きつけられて、カメリアは怯んだように言葉を呑み込んだ。その間も、炎の塊はフライヤーだったものを舐め尽くし、彼女の顔にあかあかと照りつける高温を投げた。暴虐と蹂躙を表すように燃え盛るそれは、かつて藝術的だったものの残骸すらも、その業火の檻から逃そうとはしなかった。

 別の男が、カメリアのあまりに魂を失ったような姿に同情したのか、その肩を慰めるように叩いて、

「Puede tomar lo que no se ha quemado.」

と囁いた。聞こえているのか、いないのか、カメリアはただその瞳の底に、自らの魂のかけらが燃え落ちるのを映し込むだけだった。

 まもなく、本日の作業を終えたらしい工員たちは、みな気まずそうにその場を引き取り、ハンガーの前に彼らだけを残して立ち去った。残されたカメリアは、茫然自失とした顔で地面にへたり込んで、風に飛んできた僅かばかりの炭を、遅々として震える手で掻き集めていた。

「カメリア……」

「———ごめん、デイビス。フライヤー以外の帰る手段を、見つけなきゃ」

 カメリアは、まだショックに打ちひしがれている様子だったが、悲しみに溺れるより、もっと重要な問題を考えなければならないと、無理に意識を切り替えようとしているようだった。

「フライヤーは……たぶんもう、使えない。だから別の方法で、ポート・ディスカバリーに戻らないと」

 デイビスは携帯機を取り出し、CWCに連絡を、と思ったが、密林の奥地にいるからなのか、通信圏外だった。いや、連絡を取れたところで、どうなる? いかに巨大な機関とはいえ、CWCは単なる一企業に過ぎない——誰も、自分を助けることはできない。

 ほとんど、失神間近になりそうなほど、血が引いてゆくのを感じた。アメリカ国内なら、どうとでもなる。しかしここは中南米、しかもジャングルに覆われた土地で、ポート・ディスカバリーとは国境で隔てられているのだ。真っ白に冷えている彼の全身を、ただ心臓の音だけが、無造作に叩いていた。

「……帰れない、かもな」

 ぼそりと呟くデイビスに、カメリアは胸を刺されたような衝撃を覚えながらも、何とか枯れた声を絞り出した。

「……でもここは、あなたの生活している時代と、同じ時代なんだもの。私は帰れなくても、あなただけは何とか——」

「ごめん、カメリア。俺、パスポートを持ってきていないんだ」

 聞き慣れない単語に、カメリアは茫然と目を見開いたまま、小さな声で尋ね返した。

「パスポート……?」

「国から国へと移動するには、パスポートっていうのが必要で。それのない人間は、国境を越えられない」

 デイビスはつくづく、出発前の自分を恨んだ。あの時、確かに荷造りの点で、持ってゆくべきではないかと迷いはした。しかし、自室のどこにあるか分からないそれを、すでにカメリアを待たせている状態で探し出すのは気が引けた。それに、万が一神殿のさなかで紛失してしまえば、再発行が手間になりそうだと判断して、そのまま放置してしまったのだ。

 いや、パスポートがなくても、アメリカ大使館へ駆け込めば、何とかなる。入国記録が残っていないため、不法入国等の嫌疑がかけられるだろうが、それは所持していようとも同じことだ。その罪過で、ひょっとしたらCWCから解雇処分を受けるかもしれない——しかしそれでもデイビス自身は、ポート・ディスカバリーに辿り着くことはできる。

 だが、カメリアはどうなる? 国どころか、時代そのものが違うのだ。そもそも、試作品だという彼女の警告を無理に押し通して、フライヤーを貸し出して貰ったのは、彼からの依頼だったのである。それを切り捨てて、ここに一人で置いてゆくわけにはいかない。

 二人は目を合わせ、その僅かな眼差しの交わし合いによって、現実的な解決策が何も思い浮かばないことを悟ったようだった。ひりひりとした沈黙が、互いの肌をさらった。

「…………帰れない、の?」

 デイビスは緩慢に頷いた。本当は、彼一人なら帰れるはずだが、それは彼女を慮って、伝達事項から潰した。伝えれば、彼女は必ずそれを優先させようとするに決まっている。

 カメリアは絶望に彩られた表情で、何か縋るものはないかと、無益に視線を彷徨わせていた。けれども、何も残されていなかった。ただ時折り、焦げた炭が風に乗って、彼らの服を煤けさせるだけだった。

「ごめん……あの時私が、フライヤーを格納庫の中に入れておいたから」

「いや、どこに置いていたって同じだ。このハンガーの近くにある限り、廃棄させられていたよ」

「フライヤー……」

 カメリアはぼんやりとした声で呟いた。

「ごめんなさい。こんなことにはなるなんて思っていなかった。こんな……取り返しがつかない……まさか、こんなことになる、なんて」

 デイビスは、慰めの言葉を探して——何も、見つからなかった。唇を噛み締める。元より、感受性の強い性格であるがゆえに、今回のことが、どれほど重圧になるのか分からない。

 項垂れているカメリアに、デイビスは静かな声で語りかけた。

「俺はいいよ。あんたと、ここに住んでも」

「でも。言葉なんて通じないし、家も、お金も」

「だから、いいんだよ、それも含めて」

 ようやく、カメリアが緩慢に顔をあげて、彼を見た。その涙を溜めた眼に映り込んでいる、自分をじっと見つめる緑の眼の青年が、彼女に向かって囁いた。



「…………駆け落ちだって、最初に言っただろ」




……

 デイビスはハンガーを離れて、カメリアを川沿いのベンチに座らせた。アレッタは彼ら二人から離れて、高く飛翔し、獲物を狙っている。ハンガーから漂ってくる、焚き火の焦げ臭さを疎んだのだろう。

 肩を貸してやろうとしたが、彼女は遠慮がちに頭を凭れさせるだけで、けして完全に体重を預けはしなかった。
 相手に心を許していないのは、自分だけでなく、カメリアも同じだったのだな、と初めて気づく。それは、自分に心を委ねるのを拒んでいるのではなく、委ねるための糸口がない。要するに、分かち合うにはあまりに重すぎるがゆえの沈黙であった。

「あのさ。そんなに落ち込むなよ」

 自分の置かれている立場を深く意識しながら、デイビスはゆっくりと口を動かす。

「……うん」

「あんたに責任があることじゃない。確かに予想外のことではあったけど、俺からしたら自分で播いた種だ。無理にフライヤーを借りていたんだし、試作品だったから、他に幾らでもリスクはあった。自業自得でしかない」

「…………」

「俺としちゃ、あんたの方が心配なんだ。あんた、自分のことは何も話さないじゃないか。フライヤーだって、大切にしていたものなんだろ? なのに、ずっと黙ったままでいるから」

「そう……ね。ありがとう、心配してくれて。あなたはいつもそうやって、私を励ましてくれるのね」

 カメリアは笑って、その続きを、ぽつりと呟いた。


「デイビスは、最初から私のことなんてどうでもよかったから。私が身の上話なんかしても、聞き流すだけだろうなと思っていたの」

「————え?」


 デイビスは氷のように背筋を凍てつかせた。駆け落ちだのプロポーズだのと、戯れ言ばかり口にしていたカメリアが、まさかそこまで冷徹に自分の胸中を踏んでいるとは思いもしなかった。

 隠す気はない。確かに、自分は恋愛対象として彼女を愛してはいないし、根掘り葉掘り質問して、彼女を知ろうとする情熱もない。喜んで彼女の話に相槌を打てる自信があるか、と問われれば、答えはノーに近いだろう。

 それでも、初めて——かもしれないほど久方ぶりで、自分は自分なりに、人と向き合おうとしているのかもしれない。

 デイビスは、ふう、と溜め息をついて、カメリアの方も見ずに、汗ばんだ自分の髪を撫でつけた。

「……ま、確かに俺は、他人のことなんて、別にどーでも良い性格なんだけどさ。
 表面上はにこにこして人の話を聞いてるけど、実際は長ったらしい他人の囀りなんて、苦痛で仕方がなかったし。くだらねえ不幸自慢なんぞ、こっちから願い下げだ」

「……うん」

「——でも」

 デイビスは自分の組んだ膝の上に頬杖をついたまま、低い声で言った。


「ふざけるなよ。何の根拠があって、あんたにそんなこと言えるんだよ。他人から勝手に俺の反応を決めつけられても、迷惑だ」


 体温が、数度下がった気がした。
 頰を打たれたように眩暈がし、一瞬で胸が罅割れる。

 その叱責が、おそらく彼女にとっての、転換点だったのだろう。びくり、と肩を震わせた彼女は、その言葉によって氷結が解かれ始めたように、静かに心を取り戻してゆく。
 けれどもそれは、真っ白に漂白した胸の中に、ふたたび痛みを蘇らせる契機でしかなかった。握り締めようとした手が震える。カメリアは少しの間口を噤むと、乾いた喉を鳴らして、途切れ途切れに呟いた。

「……フライヤー、には……確かに、思い出がいっぱいある。大抵は、良くない、思い出が」

「ああ」

「でも……今それを話しても、何の解決にも……」

「そうじゃないだろ?」

「…………」

「吐き出したいなら、言えよ。辛いことを一人で抱え込むのは、あんたの良くない癖だぞ」

 きっぱりと断言して、逃げ道を塞ぐデイビス。カメリアは迷いながらも、遠慮がちに言い直す。

「……聞いて、くれる? どうしてフライヤーを作ったのか」

「ああ……」

「どうして——」



「————どうして、私はいつも、変人にしかなれないのかなあ?」



 その言葉とともに、眼の奥で枯れかかっていた雫が、ぽたたっ、とふたたび膝の上にしたたり始める。隣で、デイビスが驚いたように目を見開いているのが分かった。

「カメリア……」

「いっつも、いっつも、笑われて、道化役にされて、とち狂ってるって言われるばかりで。どうしていつも、空を飛びたいって言うと、頭のおかしい人間だとしか思われないのかなあ?」

 言葉を返し切れないデイビスの肩に、そっと顔を埋ずめた。嫌がられるかと思ったけれど、彼は拒絶しなかった。ただ、静かに手を伸ばして、二の腕をさすってくれた。煙草の匂いの漂うシャツに、自分の涙が染み込んでゆく。

「私、悪いことしたわけじゃない。誰かを傷つけたわけでもない。ただ、飛びたいって思っただけ。それだけなのに」

「ああ……」

「なのにどうして、こんなにみんなから嫌われるの? フライヤーは——フライヤーは、みんなの夢を叶えるために作ったのに。あの人たちに喜ばれたことなんて、一度もない」

 デイビスは、そのしたたる涙の熱を受け止めるように、無言で、耳を傾けていた。

 カメリアは、ぽつり、ぽつりと独白し始めた。


「物心ついた時から、空を飛びたいと思ってた。アレッタがずっと、私のそばにいたからかもしれない。あんな風に翼を広げて、青空を自由に飛んで行けたらって。
 でも実際の私は、とてもそんなことを言う資格のない、醜い鳥のようで。愚図で、間抜けで、ずれた発言をする奴だと、みんなから見下され続けていた。私は何かがずれていて、決定的に、みんなと違っていた。

 それは、大人からすれば、ほんのちいさなことだったのかもしれない。でも、どんな子も、私が登った樹の高さを恐れて、後に続こうとしなかった。隠れんぼしていても、誰も私の姿を見つけられなかった。だから私は、木登りはみんなといる時はやらないようにしたし、隠れんぼではわざと簡単なところに潜んで、隠れるのが下手な振りをした。それで馬鹿にされたこともあったけど、何も言わないか、にこにこしてた。みんなが私を嘲笑することで、楽しそうな顔をしているのが、とても嬉しかった。

『カメリアは、もう少しまともに遊べるようにならないとね』

 彼らの言葉が、呪いみたいに頭に残ってる。

『仲間に入れてもらえるのを、感謝しないと』

 彼らの言う通り、私は地面に這いつくばるようにして、彼らに感謝した。世が世なら、お前みたいな馬鹿な貴族は絞首刑ものだ、とよくからかわれたわ。ギロチン、ギロチンとみんなに囲まれて、合唱されたこともある。私はヘラヘラ笑って、傷ついていないような振りをしていたけど、それが本当に私の未来を暗示した言葉だなんて、その頃は思いもしなかった。

 ある日——それまで、どうしても登れないと思っていた樹に、新しく枝が生えてきていたことが分かって。そこに足を引っ掛けると、最初の枝に手が届いた。後はもう、梢まで行くのに、いくらもかからなかった。

 今まで封印していた欲が湧いた。こんな高い樹のてっぺんまで登ったら、今度こそみんなから尊敬を集めて、一日くらい、女王様のように崇められるかもしれない。そんな空想をしたら、止まらなくなって。隠れんぼで隠れる際に、初めて、そこに登ることにしたの。

 ぐんぐん大空が近くなって、このまま落ちてしまうんじゃないかと思うほど、ときめきが止まらなかった。樹のてっぺんからは、メディテレーニアン・ハーバーが見渡せた。計り知れないほど、壮大な眺め。蒼穹の中で、神の息吹のような黄金の雲が、本当に頭いっぱいに広がっていて。国も、イタリア半島も、ヨーロッパさえも越えて、大空はひとつに繋がっていた。どんな王様も、どんな皇帝も、かつてこれほど広大な領土など見たことない。私だけが、この景色を知っている。それは私の自尊心を慰めて、自分は素晴らしい宝物の持ち主なのだと、そう得意にさせた。

 でも、どんなに待っても誰もこなかった。下の方では相変わらず笑い声が聞こえていたけれど、誰も私を見つける声はなかったし、名前を呼びかけるような声すらなかった。
 不安がどんどん大きくなって仕方がなかったけれど、もう少しだから、もう少しだから、と自分に言い聞かせた。そしてじりじりと、気の遠くなるような時間をかけて、日は落ちて。夜になっても、誰もやってこなかった。お父様が心配して、私を迎えに来てくれた。そんなところで、ひとりで、何をしているんだいって。そしてその時、私は気づいたの。私は——最初から、ひとりぼっちだったんだって。

 私がどんなに一番だと思うことをやり遂げたとしても、みんなにとってはどうでもいいこと。いいえ、それ以下だったわ。気づいてもくれない。探そうとも思わない。私は他の人たちとは別の生き物で、誰とも同じ気持ちなんて、分かち合えなかった。

 何が違うの?
 どうしたら良いの?

 自分が、他の人と違うのは分かってる。それはもう生まれつきのもので、どんなに努力しても、どうやったって治しようがなくて。何を語るにも、何を考えるにも、彼らの頭の回転には追いつかない。彼らの目に見えている世界は、私の見ている世界とは、全然違ったものに思えた。

 空を飛ぶというのは、私の中で、一番秘かな夢だった。これだけは誰にも穢されたくなくて、他の誰にも、けして打ち明けないようにしていた。亡くなったお祖父様からたくさんの科学書を譲り受けて、いつか飛行機を作れないかしらと、ひとりで空想を重ねていただけ。私室でそれを読み耽るのは、例えようもなく贅沢な時間だった。

 でも、お父様が教えてくれたの。人は誰しも、空を飛びたがっている。私の一番根幹の部分は、古今東西の人類の憧れと、繋がっているんだって。そして世界には、空に関する数多くの伝説や伝承が残っているって聞いたわ。それらは少し滑稽で、どこか切なくて、突飛で、奇妙で、魂の憧憬とも言える物語。私たち人類は、遠い昔からずっと、空を飛びたいと願い続けてきた。いつの時代においても、人々にとって、空を飛ぶということは、夢のひとつであり、イマジネーションを膨らませる大事なものだった、と。

 世界中の人が、私たちと同じ夢を見ているというのは、とても不思議な感じがした。だって私は、いつだってはみ出し者だったから。君の考えは私たちとは違うね、と笑われるのが、私の日常だった。でも、世界のどこでも、いつの時代の人も、みんな空を飛びたいって、心の底では願っているのかもしれない。窓の外から、紙飛行機に夢中になっている遊び仲間の笑い声を聞きながら、そう考えた。

 本当なのかもしれない。
 みんな、私と同じように、空を飛びたがっているのかもしれない。

 遠くから、笑い声が聞こえる。私は、あの子たちの夢を叶えたかった。叶えて……本当は、みんなに受け入れられたかった。どれだけ努力しても、遊び仲間は、きっと樹のてっぺんにいる私のことは思い出してはくれないだろうけれど。でも、私の夢がみんなの役に立てたら、きっと私のことを意識してくれなくても、それでいい。いいえ——そうでなければならなかった。世界中のもっと多くの人たちと、夢を通じて交流したい。私は自分の夢を媒介として、時空を超えて、多くの人たちと思いを分かち合いたい。信じたい、私も彼らと同じ、人間なんだって。

 膨大な数の書籍に目を通したわ。本が相手なら、おどおどと心を読んだり、下手な冗談で失敗したりする必要もなく、私の考えのさらに先のことを教えてくれる。やがて、ずっと検討していた意見や疑問点を纏めて、本の著者たちに、何枚かの手紙を送ってみたの。最初は科学者だけだったけど、次第に藝術家たちとも文通をして、私の館にも訪問してくれるようになった。まもなく私の館は、科学者や藝術家たちの社交場として扱われるようになった。彼らは素晴らしい知識の小宇宙を持っていたわ。遊び仲間との隔絶感も、彼らが忘れさせてくれた。一見突飛に思えるけれど、実は綿密な理論に基づく仮説を話し合いながら、ああだこうだと次の飛行実験を練るの。あの時はとにかく彼らと会話したり、実験したりするのが楽しくて、想像力が溢れて溢れて仕方がなかった。

 当時の私は十歳。ルッカの神童だと祀りあげられていた。すでに多くの飛行実験をして、論文を執筆し、模型を五十は作り直していたわ。そしてその噂が——彼の耳に入ったのね。妹である大公妃を通じて、ある皇帝が、私に興味を抱いたの。

 当時の彼は、絶大な権力を誇っていた。ヨーロッパはほとんど、彼の覇権の下にあった。彼はイタリアの貴族やブルジョアに、次々と官僚の門戸を開いたわ。今やその絶頂期も過ぎて、彼の祖国の困窮が続き、斜陽に差し掛かってきていたけれど、まだまだその力は完全には衰えていなかった。ブランシャール夫人という友人の気球操縦士が、彼と私との間に入り、フランスの宮殿の会食に招かれた。貴族とはいえ、片田舎の旧家にしか過ぎないファルコ家には、破格の栄光と言えるわね。なるべく余計なことを言わないようにしていたけれど、彼の下した結論は、及第点——ということだったらしいわ。

 公式の気球操縦士、および気球大臣補佐。それが、彼の提案してきた私の役職名だった。
 勿体ぶった長々しいフランス語で、随分と色々書かれていたわね。役職としては、気球大臣であるブランシャール夫人の下に就くが、実質ほぼ同じ待遇にする、とか何とか。相当焦っているのだな、ということが一目で見て取れたわ。何せ、すでに北方との戦争を控え、復興を目論んでいた身ですもの。

 私は、その申し出を断った。提示された役職は、その皇帝が喉から手が出るほど欲しかった、イギリスの密偵の役も担うことが、透けて見えていた。彼は、陸上戦に関しては天才的だったけど、海上戦は苦手だったから、空からの偵察や攻撃に活路を見出したのでしょう。私の立場は、戦争を見据えて提案されたものにすぎなかった。実際、ブランシャール夫人は、気球による英国侵攻のプランを策定していたわ。徐々にあの人は、彼に影響されて変わってしまった。私は彼女とも袂を絶って、今後、この件で話し合うことは何もないと宣告した。彼女は、それは間違っている、と説得しようとしてきた。あなたは陛下を誤解している、そしてそれは、あなたの可能性に溢れた将来を、大きく損なうことになるでしょう、と。

 私は何を間違えていたのかしら?
 それならどうしたら、何が正しいことなのか、判断できたのかしら?

 お父様は、お前がその道を選ぶなら、それでいいとだけ言った。そしてフランスに、彼からの申し出の辞退の手紙をしたため、私からの書状を添えて送った。

 そこから、逆上した彼の弾圧が始まった。ファルコ家の名声は、地に落ちたわ。あの娘が属する一派は、若者を堕落させ、墜落死に導く呪われた機械を作ろうとしている、とね。研究の一部が、異端とされている進化論について通じていたのも、風向きが悪かった。保守的な社交界から締め出され、交友していた科学者たちは離れていった。彼らは口に出さないだけで、本当はあの皇帝に平服していたんだと、初めて気づいた。お父様もお母様も、何も言わなかった。でも私には、分かっていた。誰のせいでこうなったのかということが。全部私のせい。お父様もお母様も、愚かな娘のわがままを聞いてくれただけ。

 特にお父様への誹謗中傷には、凄まじいものがあったわ。なぜあのような娘を育てたのか、と。神の反逆者として疑われ、人の意志で羽を生やすことを夢見ている、悪魔の娘の父親だと囁かれた。

 お父様には夢があった。私がちょうど皇帝を拒絶した頃に、その建築は始まることになっていた。けれどもそれは、一度入れば、二度と地を踏めない悪魔の館なのだと噂された。お父様は異常者で、死神とさえ呼ばれたわ。その背景には、皇帝に掌握された貴族たちの裏工作があった。知りたくなかったのは、かつての仲間であった科学者ですら、その中に混じっていた人がいるのだということ。勿論、沈黙を守り抜いていた人もいるけれど、私には絶対に近づこうともしなかった。家族の他に、私たちが信じられる人は誰もいなかった。全員が敵で、全員が、私たちを憎んでいた。

 でもお父様は、諦めなかった。どんな不満も外に出さぬまま、淡々と、建設を進めていって。私が十四歳の時に、ようやくそれが完成したの。真っ白な美しい外観に、ひとつだけ、地中海の空のように抜ける青いドーム。開所式の時には、多くの地元の人々が集まったけど、その目には敵意を湛えて、笑顔を向ける人は誰もいなかった。

 お父様はその前日に、私を案内してくれた。私の手を引いて、まだ目を開いちゃ駄目だよ、と語りかけて。お母様はそんな私を、初めて雛鳥が歩き出しているかのように、後ろから静かに見守っていただけだった。人間は他に、誰もいなくて、その場所にいるのは、ファルコ家の家族だけ。三人の足音だけが、ゆっくりと館内にこだましていった。

 さあ、目蓋を開けて、とお父様の声がした。そして光に包み込まれた時、私の目を奪ったのは、ロタンダに描かれた、過去の色とりどりの絵画。

 そこには————

 そこには、夢があった。私の心が描いていた世界。どこかおかしくって、荒唐無稽で、一心に空を飛ぶことだけを夢見ていた、過去の人々の物語。それらが、高い壁いっぱいに描かれていた。古代エジプトの太陽の舟、空を飛ぶ雑技団、風車に乗るドン・キホーテの風刺画、追手から飛び去りながら逃れる忍者、嵐に浮かぶバイキング、色鮮やかな雷の神。それだけじゃないわ。もっともっと、私の想像のつかない、未知のもので溢れていた。始祖鳥や、飛魚の化石、植物の飛翔する種。気球に乗った動物たち、天狗の噂、空からのピザのデリバリー、ヘリコプターの模型、風力の実験、魔女の箒や、魔法の絨毯の切れ端、それに……それに、たくさんの無名の人々と、偉大なる先人たち。

 笑われたことも、馬鹿にされたこともあるのでしょう。実際に、墜落して死んでしまった人もあるはずだわ。でも彼らは、そんなことはちっとも気に介さないように、ただ大空を目指して、目を輝かせて。私よりももっと明るく、もっと壮大な夢を見ている人々の魂が、そこに集められて、今もなお空を求めていたの。それが、お父様の描きたかった夢。この大地に刻みつけることを望んだ、一番美しい夢なのよ。

 大泣きしたわ。私と同じ人たちが、かつて生きていたんだって。この広い世界の古今東西で、自分たちの限界を忘れてしまったかのように、限りない想像力と憧れのうちに、精一杯挑戦し続ける人々がいたんだって。そしてその時、思い知ったの。私の運命の行き先は、この時代じゃない。まだこの世にはない時代を目指していて、そしてもうそれは決定づけられてしまったんだって。

 どんなに後悔しても、恐ろしくても、寂しくても、私は歩み始めたその道を変えられない。もう何もかもが遅くて、進むしかないんだって。そしてそれはもはや、私の意志とは関係なく、永遠に広がっているんだと感じたの。

 お父様は、泣きじゃくる私をロタンダの椅子に座らせて、私にこう訊いたわ。


 ————君の夢はなんだい、カメリア・ファルコ、って。


 私は、お父様の夢を守りたい、この夢の建物を守る人間になりたい。誰にも、お父様の夢を穢させはしない、と言った。お父様は何も言わずに、私をじっと見下ろしていた。

 もう一度、みんなと一緒に、飛行の研究をしたい、あの頃に戻って、また研究を再開したいと言った。それでもお父様は、何も言わなかった。

 フライヤーを作りたい、と言った時、初めてお父様が微笑んだ。お父様は私の手を握って、たった一言、私にこう言っただけだった。——仲間とともに作りなさい、と。

 たったそれだけ。その言葉が、何を意図していたのかも分からない。仲間になってくれる人なんている訳ない。お父様がいったい何を伝えたいのか、私には分からなかった。だって、お父様はひとりで闘ってきた。私のせいで。私がいなければ、きっと多くの人に、その功績を祝福されたに違いないのに。

 私は、他の人間たちに何を言われようとも、そんなことはどうでも良い。
 お前だけ。お前のために闘ったんだよ、カメリア。

 お父様は私にそう囁いた。そしてその時、私を抱き締めるお父様の目にも、ちいさな涙が光っているのが見えた。

 夕暮れの自室に、ひとりぼっちで帰って。窓の向こうを見あげて。館の外から、子どもたちの笑い声が聞こえていた。海の匂いの先に、私の知らない国があるように思った。何かのために夢を叶えなきゃいけない、その本当の思いを、見つけにいかなければならない気がした。

 机に向かって、白紙を一枚広げた。フライヤーは、私にとって、未知の何かだった。研究のすべては、それを作ることに充てられていた。でも、飛行には様々な基礎実験が必要で。まだ、その設計にまでは着手できていなかった。

 ゆっくりと、全体図を描いた。アレッタのように、大きく翼を広げて。隼が滑空する時と同じように、羽ばたきを捨てた。動力をなくした代わりに、風をよく集めるようにして。それを青空の中に持ちあげてみると、紙を透かしてフライヤーが浮きあがり、本当に飛べるような気がした。遠く、誰も知らない世界へ。ここではない場所、ここではない時代のどこかへ。

 あの限りない大空を舞って、自由に、飛んでゆきたいところへ。

 私は、そんな憧れていた空に、たったひとりで行くのかしら?
 誰かと思いを分かち合いたくて、開発し続けたはずなのに。
 私の仲間は、どこに行けば会えるのかしら?

 ずっと心のどこかで、私に共鳴してくれる誰かを探し求めていた。でも、誰ひとりいなかった。空を飛びたいと願う奴なんか、異常者で、気が狂っていて、頭のおかしな変人だと思われるだけだった。

 友達が、ほしい。

 私の目を見て。私の言葉を理解してくれて。変人扱いせずに、私と同じ夢を分かち合ってくれる、本当の友達がほしい。そのためなら、どんなに時代や空間を超えたって構わない。
 
 他人のため、というお題目を取っ払ったら、それが私の一番の欲望。蓋を開けてみれば結局、自分のため。どうして、こうもちっぽけなんだろう、と自分が嫌になるばかりだったけれど。でも、綺麗事だけで開発し続けようとしても、きっと心が折れてしまうから。

 フライヤーは私自身だった。どこまでも飛んでいける、と盲信する裏側で、落ちるに違いない、どうせ失敗するに決まってる、という声がどこからか聞こえてきた。私一人じゃ、堪えられない。でもどこかで、きっと仲間が待っているはずだから。その人に会うために、フライヤーを完成させるんだって。

 そして、あの雲ひとつない空の下で、すべてが始まった。私は生まれて初めて、同じ夢を分かち合う人に出会ったの————」








Mi scusi. Come si chiama questa città?失礼。ここは、何と呼ばれている街かしら?








 ————その街の名は、ポート・ディスカバリー。
 時空を超えた、未来のマリーナ。

 凄まじいストームが溢れんばかりに流れ、気象や水しぶきが訪れる者の息を奪う場所。
 その街で生きる一人の青年が、目に映るすべてを変えてくれた。


『どうも。俺はデイビスだ』

『嘘をつけー。絶対に理解していただろ、今のはッ!!』
 
『えっと、えっと。ああ、今日も青空が綺麗だなぁ、まるで君の輝く瞳のようだ。さあ一緒に連れ立って、ちょっと港の方まで出てみようじゃないか——』




「あなたは、時空を超えてやってきた、なんて荒唐無稽な私の話を信じてくれて。

 私の目を見つめてくれて。
 他の人と同じように、異常者扱いせずに。

 私を、未来の空に飛び立たせてくれた」




『どうやら、俺もあんたも、相当な不良らしいね』

『まさか。本当に高所恐怖症なのは、地上にいる可哀そうな連中だけだよ』


 あの日の出会い。そして、彼の見せてくれた大空の光景は————

 未来なんて真っ暗だと思っていた自分の、運命を揺り動かした。
 闇は打ち払われ、夜明けのように力強く光が射して、何もかもが前を向いて。未来は、明るく、夢に溢れて、こんなにも美しい。めくるめく祝祭のなか、色とりどりに移り変わる海沿いの未来の都市の光景は、夢でも見ているようで、けれども握り締めた手は、どこまでも暖かく、自分をその街へと繋ぎ止めてくれた。

 目が離せない、と思った。
 これほどに輝いて生きる未来の人々から。

 空も、大地も、海も、神に祝福されたようにまぶしくて。
 どうして、こんな世界が存在するんだろう。
 どうして、こんな風に生きていけるんだろう。



『行くぜ、カメリア。準備はできているよな』



 奮い立つように吹き荒れる潮風の中から、威風堂々と手を差し伸べるその青年。
 問題児で、無一文で、面倒事ばかり引き起こすけれど。
 その真っ直ぐな青葉の瞳。純粋なことでいっぱいで、少年のように悪戯そうに輝いていた。

 この人は、未来を切り開く人だと思った。
 見えない嵐を乗り越えて、輝く大空へと舞いあがる。
 そんな限りない確信を背負って、その意志は翼のように、どこまでも彼を無限の彼方へと導いていた。そしてその光は、自分の足下までもを照らし、未来で生きる彼へと辿り着く、遠い軌跡を浮きあがらせたのだった。


「何かが変わったんだ、とはっきり分かった。あなたの笑顔を見て、この人のように生きたい、と望むようになった。私が今生きている時代の、何が合っていて、何が間違っているのか、どんどん分からなくなって。でも、あなたの生きる世界こそがきっと、正しい道なんだ、と信じたかった。だってあなたは、街の人々を守りたいと語って、あんなにも綺麗に笑っていたから。誰にも否定できない。嘘だなんて言わせない、あんなにも美しい笑顔を。

 だから————

 抱いてはいけない欲が、また込み上げてきたの。あなたが、フライヤーに乗りたい、と切り出した時、私は、心の中の忠告も何もかも忘れて、自分の欲に従った。私は、フライヤーを通じて——あなたに受け入れられたかった。こんな私でも、人のためにできることはあるんだって、自分の価値を信じたくて。ううん、もっと醜い気持ちだったのかもしれない。あなたに嫌われたくなくて、あなたの役に立ちたくて、あなたの顔色をうかがっていただけなのかもしれない。そうしたら——友達として私を受け入れてくれるかもしれないって。でも本当は、そんな利己的な考えよりも、もっともっと、守るべきことがあったのに。

 あなただけは、あなただけは、私の失敗に巻き込んではいけない人だった。だから何を言われても、あなたをフライヤーに乗せてはならなかった。ごめんなさい……間違えてはいけないことを間違えた。科学者失格よ。全部、私が引き起こしたことなの。いつかこうなるって、分かっていたはずなのに」

 長い独白が終わっても、デイビスは何も言わずに、ただ地面を見つめていた。怒っているのだろうか。それとも、ずっと表には出さなかったこんな思いをぶつけられて、気持ち悪がられただろうか、とカメリアは急速な恐怖に陥る。

 すると不意に、ばさり、と無造作に彼の上着が頭から被せられる。狼狽して、濡れた眼で彼の方を見あげると、

「泣けよ」

とデイビスが短く言った。側から聞けば、怒っていると思えるほどぶっきらぼうだったが、カメリアは不思議と脅えることなく、彼を見つめていた。

「あんたって、すぐに泣くよな。俺と会った初日ですら、ハンカチを貸してやったし」

「ご、ごめん。元々、涙腺が弱くて」

「ああ。すっきりするまで、泣いたら」

 そう言われて、ジャケットに埋もれた上から、力強く背中をさすられる。その手つきから伝わる熱に、カメリアはだんだんと深く俯いていった。

 彼といると、いつも憧れと嬉しさで胸がいっぱいになり、心がぐちゃぐちゃになるような気がした。その中から、いつも一番明るい自分が躍り出て、彼とふざけた会話を交わした。
 演じていたのだろうか? いや、それは、確かに自分の一部であり、そして彼の言動に傷つかないための予防線だったのだろう。彼がいつか、自分に愛想をつかせて離れていった時でも、笑って受け入れられるように。その心の準備をして、自分は傷つくはずのない人間なのだと、そう思い込むために笑顔を浮かべ、やり過ごそうとしていたに違いない。

 知られたくない、時代のはみ出し者でしかない、本当の自分など。
 故郷の恥晒しとして嘲罵を集める自分など、彼には絶対に悟られたくない。

 そんなカメリアの葛藤している様子を見つめながら、デイビスは静かに話しかけた。

「うん、そうだな。例えば、俺の故郷でよく知られている伝承に、こんな話があるんだが——」

「お話?」

「昔々、ある廃坑となっていた山で、夢を諦め切れなかった一人の爺さんが、とうに枯渇したと思われていた金鉱を見つけた。一夜にして、億万長者だ。彼はその大金を、何に使ったと思う?」

「……えっと。孤児院とか、学校とか。何かの施設?」

 デイビスは微笑し、さらりと首を振った。

「うん、その人はな。新しい世界を作ったんだよ」

 彼の口調はまるで、自分の宝物を打ち明けるかのようで。ゆっくりと、その昔話を舌に載せてゆく。

「正確には、今までになかった価値観に基づく、まったく新しい街を作った。それが俺の住む、ポート・ディスカバリーだ。他のエリアとは何もかも一線を画して、自然との調和を掲げた、理想郷のような未来都市だった。

 でも彼がやったことは、それだけじゃない。誰にも描けない青写真を——夢を描いて。その途方もなく巨大なプロジェクトに、金が全然追いついていなかったんだよ。マリーナの人間はあまり語りたがらないことだがな、爺さんは、当時自分の持っている金額を水増しして、周囲に喧伝していたんだ」

「え?」

「足りるわけないんだよ。個人の豪邸を建てる、とか、店の品物を買い占める、とかなら充分すぎる金だとしても、街ひとつ作るのに、どうして賄えるはずがある? だからこそ、自分についてくる人々を不安がらせないように、足りる、足りると適当なホラを吹いて、肝心の資金調達のことを、まったく考えていなかったんだ。

 しかもな。その爺さん、セドナ・サムっていうんだが、そいつは計画を立てるだけ立てた段階で、ぽっくり死んじまったんだ。後に残された奴らは、ボーゼンだよ。蓋を開けてみれば、期待しただけの金もなく、主導者もいない。残されたのは、馬鹿みたいな都市計画のみ。必要な経費は、故人の遺産の、ざっと、千倍だ。そんな中で、どうして誰も見たことのないような街を、誰もやったことのないやり方で創造することができる?」

 そんな、ことは。
 とてもできないと思った。そんな、何も頼るもののない状態で、大事業に取り掛かるなどと。

 人々は、熱狂的な夢から一瞬で醒めて。世紀の詐欺に引っかかったのだと、瞬く間に萎んでゆくだろう。目の前に広がっている地雷を、どうしてわざわざ、好きこのんで踏み抜こうと思うだろうか?

「ところが、だ。世間からはあまり注目されることがないんだが、セドナ・サムには強力な助っ人がいたんだ。そして、彼の功績に触れなければ、ポート・ディスカバリーを語ることはできない。

 その時立ちあがったのが、爺さんの兄弟の、チャーリー・サムって男だ。セドナ・サムってのは、本当に昔からとんでもない男で、いつも大言壮語ばかり語って、現実的なことなんか考えちゃいない。しかも理想が高くて、自身が納得するまでは金をバンバン使い続ける完璧主義者だ。けれども、とめどもなくあふれ続けるイマジネーションは、他のどんな人間も追いつくことができなかった。

 この天才を支えることを自分の使命だと感じたチャーリー・サムは、兄弟とは正反対。黄金による一攫千金を夢見て家を飛び出したセドナ・サムと違って、元々、ミズーリのミシシッピ川沿いで、平和に暮らしていた男だからな、慎重で、落ち着いていて、穏やかな性格だった。彼はアメリカ中を飛び回って、金を掻き集め、この都市計画の金策を担当した。そして夢を見るだけで、ついに果たせなかった兄弟の遺志を引き継ぎ、その巨大な計画を実行に移したんだ。

 銀行に張りつき、業界関係者を回り、資金繰りに奔走して。亡くなったセドナ・サムのヴィジョンに共鳴した資産家からも、個人的に出資を募るようになって。自転車操業で、大量の金を調達して。ポート・ディスカバリーは夢の都市なんて言われていたけれど、実際は借金だらけのスタートだ。それでも、彼のおかげで、亡き兄弟の夢は受け継がれた。夢は、この世に花開いたんだよ。ポート・ディスカバリーは、初めて産声をあげたんだ」

 カメリアはじっとデイビスの目を見つめて、その言葉に聞き入っていた。
 彼は——この話を語ることで、自分に何を伝えようとしているのだろう?

「天才だったんだ、その兄弟はな。互いの胸の内を、誰よりも深く理解し合っていた」

 どくん、と心臓が高鳴った。

「一人は夢を描いて、魔法を語り、ひたすら自由に理想を追い続けた。そしてもう一人は、彼の才能を信じ、裏方に徹して、その夢を現実のものにしたんだ。

 鏡のように正反対な二人だが——どちらが欠けても、きっとポート・ディスカバリーはできなかったんだと思う。その兄弟は、紛れもなく、二人の天才だった。

 俺は思うんだが、天才っていうのは、同じ想いを分かち合う誰かがいなければ、力を発揮できないんじゃないのか? どんなに現実と闘う気力を持っていたって、それを支える人がいなければ、いつか壊れてしまう。でも、同じ夢に共鳴し合う人間がいれば————

 けして、折れるはずがないんだ。夢は終わらない。永遠に続いて、誰かが引き継いでゆく。……だからあんたの親父さんは、仲間とともに作れ、って言ったんだと思う」

 天才。それはかつて、あらゆる故郷の人間たちから、彼女に浴びせられた言葉だった。今では見る影もないほど、落ちぶれて——そのせいで、自分はただの役立たずなのだと、思い知らざるを得なかった。

 けれどもそれは、本当のことだったのか?
 自分を何よりも大空へと導くのは、そんな暗く冷たい自意識よりも、もっともっと明るい、光のような想いではなかったか?

 デイビスは、カメリアの横顔を見つめながら、先を続けた。

「俺は、ちっとも後悔なんてしちゃいない。飛行士に憧れたことも、ストームライダーのパイロットになったことも。

 つまらねえことだって、数え切れないほど降ってきたけどな。でも、何を引き替えにしたって、空を飛ぶことに比べたら、どうだって良いんだ。

 例え死んでも。死んでもだ。空を飛ぶことは、俺にとって、生きることそのものだから。だからフライトを奪われたら、そこで心は死ぬんだ。

 俺は、俺を殺そうとする奴らを絶対に許さない。死んだまま生きるより、心から生きて、死ぬ方がよっぽどいい。……俺にとってはな」

 彼はベンチから立ちあがると、川沿いの石をひろいあげ、El río perdidoに投げた。滔々と流れる川は、僅かな水飛沫を上げてそれを呑み込みながら、ゆるりと波紋を広げつつ、その青緑色の水面に映るものを歪めてゆく。

「俺もきっと、あんたと同じ類いの人間だよ。あんたの孤独に対して何もできないし、軽くしてやることもできない。でも、本当に望んでいることだったら。それは、痛いほど分かるから」

 肩が震える。顔を見られないようにしながら、伏せながら、カメリアはゆっくりと、彼に問いかけた。

「デイビス。あの……あの、ね」

「どうした?」

「あのね。……あなたはまだ、空を飛びたいって、思ってる?」

 その時、振り向いたデイビスが、ベンチの上に座っているカメリアの前に膝をつくと、静かに彼女の被っているジャケットを持ちあげて、俯いていたカメリアの顔を、晴天の下にさらけ出した。そして、彼女と目を合わせると、デイビスは緑の瞳を光の中に滲ませるように微笑み、驚くほど優しい声で語りかける。

「ずっと、空を飛びたかった。これからだって、ずっとそうだ。よかったよ。俺の最高の友達と、一緒に空を飛ぶことができて」

 彼女の罪悪感が堪えられたのは、そこまでだったらしい。カメリアは両手で顔を覆い、しゃくりあげて泣き始めた。ジャケットに包まれているその肩を抱き締めて、優しく叩いてやり、存分に嗚咽を出させてやる。ごめんなさい、ごめんなさい、と憑かれたように呟いている姿を見つめながら、可哀そうだな、とぼんやり思う。自分の何よりも大切なものが無残に破壊されて、その事実を嘆くよりもまず、彼に謝罪しなければならないのだと信じ切っていることに。だから、弁護や慰めよりもまず、落ち着くのを静かに待っていてやることにした。カメリアは声を詰まらせて、口にしたいことが何も言えないようだった。分かっているよ、という風に、彼女の背中を叩き続けた。








 そして、数分後。
 ようやく落ち着いてきた頃合いを見計らって、デイビスはそっと話しかけた。

「カメリア。言いづらいんだけどな」

「?」

「あのー。……若干、この体勢、キツくて」

「……あ」

 そこで気づいた。膝をついたまま、ベンチに座っている人間を抱き締めるというのは、主に関節周りの力を駆使することで、よく見るとその脚は生まれたての小鹿のようにプルプルとしていた。慌てて、彼から身を引き剥がす。

「ご、ごめんなさい」

「いや。落ち着いたようで、良かったよ」

 デイビスは息をついて立ちあがると、カメリアの肩に手を置いた。

「ありがとな、フライヤーを貸してくれて。あんたと色んな国をめぐったのは、俺にとっても、良い思い出だ。今でもちゃんと動いたなら、もっともっと世界を飛び回ってみたかったんだがな。まあ、仕方ねえよな」

 何気なく呟いた言葉だったが、それは彼女の何かの琴線に触れたらしい。カメリアは少し驚いたように目を開いて、彼を見あげた。

「———好き、だったの?」

「何が?」

「フライヤーの、こと」

 震えるような声で問うと、何を今さら、とデイビスは首を傾げた。

「そりゃそうだろ。フライヤーで舞いあがる瞬間は、あれでしか味わえないくらい、気持ちよかったし。まさか、嫌々乗っているとでも思っていたのか?」

 今さら何を、とでも言いたげなデイビス。しかしカメリアは、微かに息を呑んだように目を見開いて、その瞳の底に、水のような青空を揺らめかせていた。それまで陰っていた表情から、まるで憑物が落ちたかの如く澄んだ眼差しで、身動ぎもせぬままに彼の言葉を反芻していたのだった。

 穴の開くほど彼を見つめているカメリアの目線に、ふとデイビスは赤面して、顔を背ける。

 さっきから、何を変なことを言っているんだ、俺は? 今さらながら、めっちゃ照れるな。

「さ、さーて、どうするかな。まずは、身を寄せる場所を探さねえと」

 ぱっと彼女から手を離して、デイビスはわざとらしく大きな声をあげた。

「一日や二日くらい、頼み込めば、どこかの住民の家で泊めてくれるだろ。その間に、軽く調査のバイトかなんかでもして、衣食住をまかなう準備をして。この先のことを、ゆっくり考えようぜ」

 煙草に火をつけ、ゆっくりと咥えながら、デイビスは遠くの空を見つめた。

 下手したら、ロストリバー・デルタに永住——なのだろうか? でもまあ、なるようにしかならねえだろ、とデイビスは胸のうちで考えた。ここにはアメリカからの多くの調査隊員がいるし、数日分は食糧の備えもある。ジョーンズを味方にしても良い。そうやって手当たり次第にできることをやって、なんとかポート・ディスカバリーに帰り着く方法を考えなければ。

 しかしカメリアは、身動きひとつもせずに、どこか一点を見据えたままだった。

「デイビス。あの……私」

 やがて、カメリアは切り出した。

「もう一度、挑戦してみてもいい?」

 デイビスは微かに目を見開き、煙草を二本指に挟んで、口元から離した。

「挑戦、って。……まさかゼロから、フライヤーを作り直すつもりなのか?」

「設計図は、全部頭に入ってる……と思う。正確な定規があれば……いえ、それも柱を主軸とした比率で割り出せるわ。水平器……鋸と、鉋。木材は、ここに山ほどあるし、皮も座席も再利用すれば良い。地元の人に工具さえ借りられれば、フライヤーはもう一度、構築できる」

 何かが、みるみるうちに彼女の地盤を支え、強く鼓動させるようだった。それは、真理に近づいてゆく時の、あの吸い寄せられるような感覚。大きく追い風に押し出されて、そちらの方角に歩かざるを得ないかのような圧倒性。それに今は、頭が冴え渡るようにはっきりと分かる。見える、自分の脳に刻印してきた、研究の何もかもが。

 試しに、彼女はしゃがみ込んで石を拾いあげ、地面に思考を描き出してみた。それは数十枚にも渡って書き綴られたフライヤーの設計図の、ほんの一部。目で追うのも難しい速度で描き出されてゆくそれは、あまりに複雑なそれぞれの寸法も、組み方も、迷いなく彼女の手から記憶を吹き込まれ、目の前に蘇っていった。それどころか、設計図のほんの染み、自分の書いた文字の揺らぎ、涙を落とした時の痕跡までもが、まざまざと脳裏に浮かびあがる。現物を前にした時でさえ、これほどまでにピントが合っているような感覚はない。

「できるわ」

 震える声で、自分でもそれほどの確信を得たことに驚いたように、カメリアは囁いた。そして、自らの中に眠っている、それまで気づかなかった、偉大な味方の存在に気づいたのだった。それは何よりも、彼女の今まで積み重ねてきた膨大な知識と経験、そして人類史を貫くに余りある、天性の才能だった。幼少の頃から、多くの著名な科学者に囲まれていたせいで、自らの力量を見誤っていたのかもしれない。そして実際、自然界から賜った彼女の才分が花開くのは、まさにこの瞬間からだったのである。

 ゆっくりと立ちあがった彼女は、河風に髪を揺さぶられ、静かな叡智にその身を支えられていた。しかし瞳には、激しい理知が躍るようだった。見えぬ炎の情熱が、彼女の眼の中で、精神と知性を照らし返していた。その目まぐるしい思惟の躍動には、徐々にもっと壮大な原理を理解し始め、この世を見据えるよりも遙かに透徹した強さを伴って見える。
 そして露わになるのは、自分は確かに科学者なのだという、鉄のように強靭な誇り。芯まで存在を開示し、全身を貫くような。熱い陽炎のうちに自らの結晶を残そうとする、一人の人間の姿がそこにあった。その鳶色の瞳は、もはやこの世界も、この時代も突き抜けて、遙か遠くまで見透す導火線として、己れの火種を握っていたのである。

 その自信はまるで、被造物から創造主に対する、挑戦状のようだった。いや——実際にそうなのかもしれない。人は翼を持って生まれてはこない。それゆえにイカロスの如く挑み続け、古今東西の人類の歴史を背負って。今、その挑戦の意志が、はっきりと双眸に漲っていた。

「デイビス。あなた、分の悪い賭博は好き?」

 カメリアは静かに問うた。

「当たったら丸儲け、くらいの気持ちで良いんだけど。……そうね、もう一度だけ、私のフライヤーに賭けてみるっていうのはどう?」

 一羽の隼が、大きな翼を広げて、彼女の伸ばした腕に降り立った。まるで鷹狩りをする王者のようだと思った。デイビスは、ふっと艶やかに笑うと、軽く肩をすくめ、白い煙を吐き出してから、煙草の火を揉み消した。

「なあ、カメリア? 俺たちって、ポート・ディスカバリーで出会ってから、ネモ船長の秘密基地やら、ホテル・ハイタワーやら、クリスタル・スカルの魔宮も探検して。世界中を飛び回って、さんざん、アホなことをしでかしてきた」

「うん。本当にたくさん——お互いに、馬鹿なことばかりし合って。酔っ払ったり、車を壊しかけたり、大岩に押し潰されたり」

「それなら、お互いがどんな奴かって、俺たちはよくよく知っているよな?」

「あなたは、ポート・ディスカバリーの天才飛行士で」

「あんたは、メディテレーニアン・ハーバーの天才科学者なんだろ?」



 ————それは、マリーナ史上最高のパイロットと、ハーバー史上最大の発明家の邂逅。
 華々しい航空史の裏に秘やかな痕跡を残すことになる、彼らの空の上の物語の始まりだった。



 この七つの海に生まれ落ちた者は、冒険心とイマジネーションの二つの本能を秘めて、やがて世界を見るために飛び出してゆくだろう。

 その魂はどちらの胸にも、今や燃えるように吹き荒れていて。
 帆をあげ、出航してゆく船の如く、風を切り裂いて走り出すのを止められない。

 彼女の永遠を思わせる鳶色の瞳や、蒼穹に絡むばかりの巻き毛は、彼の若々しい緑の瞳や、川風に弄ばれるばかりの真っ直ぐな髪と、対照的でありながら、しかしなぜか、互いの姿を鏡に映し出すかのよう。
 そしてそれは、外見だけではなく、魂においても同じことだったのだ。

「何の因果か分からねえけど、二人の天才がここにいるんだ。百人力だろ? 一緒にいれば——」

「きっと、なんだってできるはず」

「ああ。なんだって」

 そう言うと、デイビスは、雨あがりの空のように快活な笑みを浮かべて、カメリアへと手を差し出した。いつだって握手は、彼らの挨拶だった。それは同じ空に魅せられた、挑戦の意志を宿す者たちの、絆を表すものだったのかもしれない。

 そしてその表情は、カメリアが初めて彼と出会った日に目にした、あの自信たっぷりの、傲岸不遜と言えるまでに挑戦的な笑み。けれどもその笑顔には、あの時にはなかった、陽だまりのような優しさがその上に射してきていた。

「俺も、あんたと一緒に作るよ。フライヤーを」

「……デイビス、私、」

「仲間が欲しかったんだろ? 協力するぜ。キャプテン・デイビスが、あんたの仲間の第一号だ」

 デイビスの宣言に、それまで毅然と張っていたカメリアの眼から、ふたたび、一縷の涙が伝い始めた。
 陽の光の中で、水晶のように輝くそれを袖で拭ってやりながら、デイビスはそっと囁きかける。

「ほんと、あんたって泣き虫なのな。やるべきことを、見つけたんだろ? なら、笑っていろよ」

「……う……うん、」

「あんたは、前だけを向いていれば良い。失敗したって、良いんだよ。俺にはそんなことよりも、あんたが楽しそうに夢を語っている方が、よっぽど大事なんだ」

 デイビスは、光のように明るい声で言いながら、自分の胸が、酷く醒めた感情に占められてゆくのを感じた。ああ——大した空言だ。彼女に信用させて、依存させようと仕向けている。まるで詐欺師の手口だな、と嗤うしかない。

 それを悪いことだとは思わない。彼女の心は、きっと今が一番、支えを必要としているはずだから。けれどもいつかこの信頼も、友情も、ガラスのように壊れる時がやってくるだろう。今はそれを見ないようにと願うだけ。自分はこんな形でしか、他者と関係を結べないのだから。

 そして思い出すのは、あの夜、初めてのフライトを経験した少年の彼に、スペース・レンジャーが告げたこと。



 ————その時が来たなら、今度は君が、夢を授ける存在になるんだ。今夜の私たちのように。



 自分は、本当にそんな人間になれる資格があるんだろうか?
 彼女を無責任にも自分の届かない場所へと焚きつけ、残酷な夢へと駆り立てるような、そんな卑劣な大人になっていやしないだろうか?

 果てしない虚無に取り憑かれそうな手前で、デイビスは目を閉じて、静かに思いをめぐらせる。

(————いや、それでも……カメリアなら、)

 叶えるだろう、彼女なら。
 どんな無謀な夢でも、毅然として前を向いて。そしていつか、新たな仲間を見つけ、元の時代の空へと飛び去ってしまうだろう。だって彼女は、苦境の中でも、これほどまでに狂おしく夢を見ている。

 その時がくれば、自分は笑って祝福して、彼女を送り出すしかない。彼女の人生は、彼女のものなのだから。自分にできることはただ、彼女がひとりで泣いている時に、支えになるだけ。


「カメリア、飛びたいんだろ。飛ぼうぜ、一緒に。一人では厳しくても、二人なら、絶対にできるさ」


 晴れ渡る空の下、デイビスは、握り締めた手に力を込めながら、もう一人の仲間に語りかけた。
 カメリアは、涙で潤んだ目を拭うと、それが自分の生まれ落ちた使命であるかのように、強く頷いた。

「う……うん」

「いいんだよ、何度壊されても。あんた言ったじゃないか、俺たちは、俺たちの情熱を消し去ることはできないって。ずっと夢だったんだろ、空を飛ぶのが」

「うん……」

 ぎゅう、とデイビスの手に縋りつくように、なけなしの力を込める。

「俺は、あんたが世界で一番、空に近い天才だって信じてる。人間は、空を飛べるんだよ。それを証明できるのは、世界でたった一人しかいない。あんたはどうなんだ、カメリア・ファルコ?」



「————飛びたい。もう一度、空を飛びたい。何もかも忘れて、あの自由の彼方へ」



 それは、あの時父親が投げかけた問いに対する、自分への誓いだった。フライヤーの導く、さらにその先。青い青い彼方に、自分の夢はあった。

 いつか、罪悪感に堪え切れなくなって、父の胸に泣きついたことがある。ごめんなさい、あの申し出を断るのではなかった、私が甘受すればよかった、と。その時に言われた言葉を、今でもよく覚えている。涙を伝わせる彼女の頬を撫でたまま、父、チェッリーノは、彼女と同じ色の瞳で見つめ、ゆっくりと語りかけたのだ。


 ————いいかい、私たちが求めているのは、ファルコ家の名誉でも、君が成功を収めることでもない。君が人間として正しい選択をし、正しい道を歩むことなんだ。私たちが恐ろしいのは、君が苦しみに負けて、自らに背を向け、不正義の道を進むことだ。けれども君は、そのような生き方を望まなかった。それだけで私たちは、君がこうも立派に成長したことを、誇りに思うんだ。
 この世界で生きてゆくのに、何が美しくて、何が重要なのかを、君はもう知っているはずだよ。君は、君の人生を生きるんだ。私たちが生んだ命は、私たちのものじゃない、君のものだ。

 それでも、もしも君が、己の命を捧げたいと思うのなら————

 それは、君が一番大切だと思う人のために、とっておきなさい。その時がきたら、惜しみなく使えるように。




 君は、君自身のために、空を飛ぶんだ———

 ———私は、空を飛ぶ。私自身のために。




 
 空は突き抜けるように青く、無限の光を携えて、二人がふたたび飛翔する瞬間を待っているようだった。その滲みるような青を瞳に映しながら、カメリアは誓いを風に乗せる。


「デイビス——あなたのことは、私が、絶対に帰すわ。時空を超えて、未来のマリーナへ」


 デイビスはニッと微笑して、その緑の瞳を少年の如く輝かせた。頼りにしてる、と呟く彼は、吹き荒れるような風の中に髪を靡かせながら、その眼差しをどこまでも遠くへと飛翔させてゆく。



 ————そしてこの瞬間、歴史は動き出す。



 ページはめくられ、新しい見開きを示して。
 誰も見たことのない記述が、その白紙を満たしてゆく。

 ペンの滑る音とともに、一瞬ごとに、夥しく溢れ返るこの世のすべての出来事が書き込まれてゆくそれ。いかなる物語も、いかなる伝説も、その歴史書は記録し続ける。

 そして、窓から吹き込む溢れんばかりの風は、ひとりでに文字を綴り、そこに描かれていた白黒の絵を生き生きと動かして、口笛混じりに、正史の裏側に、ひそやかに刻みつけるだろう。


(I only hope that we don’t lose sight of one thing – that it was all started by a mouse.

 —— Walt Disney)





 夢と魔法に導かれた、二人の天才の物語を。







NEXT→https://note.com/gegegeno6/n/ne517450faeeb

一覧→https://note.com/gegegeno6/m/mb715c13ba408



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?