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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」21.空の上の物語


"And thou, all-shaking thunder,
Smite flat the thick rotundity o' the world!
Crack nature's moulds, all germens spill at once,
That make ingrateful man!

さあ、万物を揺るがす稲妻よ、
地球を鉄板の如く打ち潰せ!
森羅の範を打ち砕け、忘恩の徒を造る種子なぞ、
一切吹き散らしてしまうが良い!"

 ————From "King Lear" by Shakespeare.





「ストームの目は、すでに排他的経済水域に入っている。最悪、現段階で発進させても、諸外国に対して申し訳は立つ」

「それが通常の航空機の類いであればそうですが、ストームディフューザーの存在が——無駄な火種を生まないよう、慎重に対処しなければなりません。やはり、すでに合意の取れている発進決意範囲までは待つべきかと」

「今のところ、移動速度は11km/hか。……遅すぎる」

「上陸後は通過に時間がかかり、相当な被害が考えられよう。だが、真っ直ぐにポート・ディスカバリーにくるかは分からない。現段階では、逸れる可能性も」

「逸れると言ったって、ポート・ディスカバリー以外の都市には上陸するんだろう?」

「どう軌道を描くかです。レーダーではこのまま、フローティングシティに向かうと考えられていますが……」

「もしも南に逸れれば、トゥモローランドに被害の及ぶことになるな」

「あそこはまずいです。都市開発計画が、ストームを念頭に置かれていません。予想される被害の大きさは、ポート・ディスカバリー以上です」

 口々に語る会議の中で、飛び交う意見は、なにひとつまとまらない。ポート・ディスカバリーは常に学問、およびそれを推進させる経済を中心軸として政治を推し進めてきた。それゆえに、その二つの牙城の崩壊に値することになるこの巨大ストームは、まさしくこの街の急所を突いていた。ストームライダーの限界を念頭に置いたこのミーティングで、今さら彼らが、何を主軸として策を語れるであろう。

 ポート・ディスカバリーにおいて、科学神話とは、否定し難い誇りである。無論、事故も数え切れぬほどに経験してきた。そしてその失敗を、積極的な邁進の糧として、このマリーナは発展を続けてきたのである。改善、改良、修正。だがしかし、その根本的な瓦解は、マリーナ史上初めて経験する事態であった。科学技術の粋、ストームライダーに胡座をかき、まさにそのストームライダーの挫折によって、街は転覆する。これは何か、出来の悪い夢なのではないだろうか、とベースは思った。目が覚めたらすべては悪夢で、今までと同じ、美しく平和なポート・ディスカバリーが広がっていて。けれどもそんな妄想は、何の意味も持たない。

 何より。自分が現実逃避するわけにはいかない。CWCの創立者ベースとして、その責任を一挙に担う彼女は、この混乱の最中の、ほとんど最後の防波堤であった。

「CWCが泊まり込みで監視します。恐らく、明日の十八時前後には、ストームは発進決意範囲にまで侵入するでしょう。侵入後、直ちに発進できるよう、すでにミッションメンバーたちが動き始めています」

 ベースは会議室に向かって、静かにそう言い渡した。自分のいないCWCで——見えないながらも、人々は努力し続けている。今は、それを信じるしかない。

「アイリス・サッカレー。前回のミーティング以降、超大型ストームの準備は、CWC内で進めてきたはずだね」

「はい、若干の未完の部分は残しながらも、制度の整備や基本計画の策定、ストームライダーの対雷サージ等の改良は終えていました。もうすぐ、CWC職員にも通告できるはずだったのですが……致し方ありません」

「いや、この短期間でよくやってくれた。それでミッションの成功率は、どのくらいなのだね」

 ————きた、とベースは身を縮こませた。先ほど、ドクター・コミネはゼロだと断言した——自分はそうは思わない——だが、まだシミュレーションもしていない中で確率など語って、何の意味があるのか。知っている、せいぜい数語の答えが、この先の政策のすべての根拠とされると。だからこそ、答えない限り、先には進めない。

 少しの沈黙を置いて、自らその静寂に堪え切れなくなったように、ベースはのろのろと舌を動かした。

「成功率は——十パーセント以下。今はそれだけしか、言えません」

「何を——」

「君! それは、本気で言っているのか!」

 ベースは、大人に張り倒される少女のように目を閉じながらも、この情報を曲げるわけにはいかない、と必死で拳を握る。

「ええ、常に本気です。科学は、百パーセントを確約することはできない。十以下。現段階で言えるのは、それだけです」

「ここはポート・ディスカバリーだぞ! 世界一の科学技術を誇るマリーナだ。市民たちに、そんな絶望的な情報を語れと言うのか!?」

「では、何を語って欲しいのです? 虚実を語れば満足ですか? それで私たちの未来の、いったい何が変わるというのですか!」

「では我々の街は、何のために科学を研究してきた!?」

「今までに我々が、どれほどの資金をストームライダーにつぎ込んだと——!」

 唾を飛ばす勢いで啖呵を切る参加者に向かって、ベースは挑みかかるように目をあげた。

「人間は、何のために科学を学ぶのか?」

 静かに復唱する声が、室内の空気を凍らせる。そして、そそがれる無数の眼差しを突き破るように、いきなり、火の玉のように激しく燃え盛る言葉が、ゆっくりと彼女の口から絞り出された。

「生きるためです。これからも生きるため。明日も、明後日も生きるため。神の力でなく、自分の力で生きるため。自らの運命を掌握するため。何者にも邪魔されず、何者にも妨げられず、自らの道を突き進むため」

 まるで一陣の青い焰のよう———その語り口は、会議室を圧倒させるほどに物凄まじく、何人かは気まずそうに口をつぐんだ。

「すでにミッション最高指揮官に、キャプテン・デイビスを指名しています。今頃は、発進準備を進行してくれているはず」

 その人間の名は、すでに前回の会議でも挙げられていたものである。

 ポート・ディスカバリー出身、男性。
 年齢、たった二十六。

 このタイミングでの指揮官が、どれほど酷なことかを、誰もがよく分かっているはずである。ただでさえ、指揮官の経験は一度もない。通常であれば、その初舞台というだけでも手が震えるほどなのに、この土壇場で、そのような若年者に依存するしかないのか、と隔靴掻痒の感が拭えない。

 溜まりかねたように、一人の参加者が声を荒げた。

「本当に、この人選でCWCは——!」

「分かっています。部外者が簡単に口出ししないでください! CWC職員が、最もそのことを分かっている!」

 ベースは鋭く言い放つと、恐ろしい勢いで書類をデスクに叩きつけた。

「この若さです、彼に望んで付き従う者はいません。けれども、飛んでもらわなくては——! 彼ほどの天才パイロットは、この世界のどこを探しても、他にいません。これ以上の手札は、もうないのです。これが最後。私たちに残された、最後の道なのです」

 悲鳴をあげるような彼女の言葉に、代案を出せる者など、誰もいなかった。そしてその沈黙の中で、初めて、人間の情を露わにしたような声が宙に滑り出た。

「サッカレー。苦しいな」

 この会議室で、最も老獪で、最も柔和な者。アンドリュー大学の院で長年に渡って教鞭を取り、掌中の珠のようにして彼女を指導してきた気象学の恩師である。専門家として参集されたはずだが、この会議において、彼はそれまで一言も口を挟まなかった。それがようやく——険しい巌の動くようにして、厳かな声を発した。

「諸君、これほどのストームが西海岸を襲うなど、誰も予想などできていなかったはずだ。彼女を徒らに責めても、何の意味もない。この結果は、個人ではない、現在のポート・ディスカバリーの科学力の限界として、目の前にあるのだ。

 苦しい状況なのは分かる。しかし決断するのは、我々だ。この闘いが、人類と自然との対決を象徴するものなら——せめても、人の手で、それを始めるしかない」

「……教授」

「私は、君のストームライダー構想を推した。その街の光になると思った。君は偉大な夢を見た、そして結果がどうであれ、その偉大さは誰にも傷つけられるものではない。どれほど不利であろうとも、醜いことは何もない。堂々と闘うべきだ。……だが、覚悟は必要だな」

 ゆっくりと、滲み出るように、その老教授は呟いた。

「私を、愚かだと思うかね?」

「いいえ。……けれどもこの構想は、一人で描けるものではありません。多くの登場人物を必要とする。そのために、CWC職員全員を、この物語の中につぎ込んだ。私は、彼らに——最悪の役を、申し渡した」

「サッカレー、嘆くのはまだ早い。何も、君のシナリオの瓦解が決定した訳ではない」

「はい……はい」

 ベースは拳を握り締めながら、力なく呟いた。

「もはや私たちには、祈る以外に何もできません。我々は凡人。人々を救えるのは天才。——そういうことです」






 一方のキャプテン・デイビスは、大会議室で要人を参集させ、ストームの迎撃体制を整え始めていた。部屋中に響き渡る声は、淡々と低く、それでいて張り詰めている。強い光と、隈の如く濃い影——ホログラムの放つ妖しい光芒の中、微細な氷の粒のように浮かぶ埃を漂わせ、一切の感情を剥奪して語る彼の横顔はどこか厳粛に、死者と対面するかのような美しさを放っていた。静かに物を語る唇が、蒼白い偏光を滑らせて、水晶の如く色を変じた。

 沈黙のうちに、周囲の慇懃な態度が、水のように立ち並ぶ。CWCに到着早々、最高指揮官に任命したという言付けを眉一つ動かさずに受けたこの青年を、彼らは明瞭なまでに集中して眺めていた。空気の氷結した中、その一言一言に値踏みの視線が注がれ、数々の目が開かれて、紛れもなく、デイビスのみを映し取っていた。

「ストームライダーIIメイン、ストームライダーIバックアップ。キャプテン・スコット、副官は君だ」

了解ラジャー、キャプテン・デイビス」

「プレフライトクルーの責任者には、誰が?」

「私が参ります、指揮官」

「ありがとう。……頼んだぞ」

 気怠げに垂れた前髪の合間から、青葉のようにすっと長く切れあがった眼が、灼けつく眼差しで見つめてくる。その瞳に見つめられていると、なぜか雑念の蒸発してゆく感覚と、背筋の凍るような思いが、同時に湧き起こった。

 いつものように軽薄な笑みも、無分別に放たれる冗語もなく、ただ共同体に追い詰められた者の緊迫感が、そこにある。会議室中が、その不気味さに呑まれた。彼はまるで、千の観客の前に立たされた指揮者のよう。絞首台とも紛う指揮台の上に君臨し——これから、自己のうちに眠る決意の一々を、作戦という一個の藝術品へと組み変えてゆかねばならない。

 ホログラムの光は、七色のかけらのように光を飛ばしながら、周囲全員の顔を皓々と照らし出す。

「いいか、今回のミッションは連携が重要だ。一刻の猶予もない。だがけして、独断で動くな。最優先は、ストームディフューザーの耐性チェック、ストームライダーの整備状況のチェック。通常のミッションよりも三名、体制を増やして実施。検証項目書はすべて指揮官に提出しろ。次に優先度が高いのが、トゥモローランドへの観測データ共有依頼だ。必要があれば、対緊急災害権限を使って、市長を動かす。ブリーフィング終了次第、直ちに連絡を取ってくれ」

 最初に忙殺されるのは、いつだって任命と概要の伝達。
 しかしデイビスは熟知していた。キャッチアップを怠れば、必ず足並みが乱れ、罅が入る。罅は、この嵐で、奈落の底に通じるまでに広がる。まずはその亀裂を埋めるのに、細心の注意を払うこと。
 その場にいる二十名前後の職員に、それぞれのフェーズごとの計画を説明しながら、最終的な道筋までを描いた。

 発進は、明日の夜。これが、揺るぎようのないリミット。

 ———これ以上遅れては、上陸を許す可能性が高い。そして上陸すれば当然の如く、ポート・ディスカバリーが壊滅的な被害を受けるであろう。

「一時間後に再度、ブリーフィングを行う。各自、万全の体制を整えろ」

「キャプテン。もうすぐ、市内の全住民の避難が始まりますが——」

「ああ——もうそんな時間か」

 デイビスは臍を噛んだ。チッ、行政ももう動き出しているのか。予想通り、全くと言って良いほど足並みが揃っていない。小さく舌打ちを残すと、片腕を一閃させて、それに応える。

「非番の者を呼び戻せ。CWC職員は全員だ。逃げ出した者を追う必要はない。だが、故意に見逃すことは許さない」

「緊急電話を?」

「この状況だ、仕方がない。渋ったら俺の名前を出してくれ。それで歯切れが悪ければ、そいつは切り捨てろ。……ああ、もう抜けていいぞ。君の場合は、それが最優先事項だからな」

 デイビスは軽く手を振って、下がるように指示した。

 見落とされがちだが、ストームライダーの正式パイロットに選出された彼は、機体の操縦技術のみでなく、この知能も買われていた。元々、アメリカでもトップクラスの大学を飛び級で修めており、その無頼漢の印象に関わらず、実は頭脳派に属するのである。ストームライダーの操縦も、ただ感覚に任せているように見えて、フライト前に周到にデータや過去資料にあたっている。いささかワーカホリックの気質が否めず、休日にも読書や情報収集は欠かさない。彼の操縦テクニックは、こうした飛行機構造含む、膨大な知識と勉強量に支えられていた。

 当然、欠点も多かった。この歳であるから、マネジメント能力には期待できない。上司に突っかかる傾向あり。精神状態も不安定。責任を過剰に抱え込みがちで、どちらかと言えば一匹狼。それがCWC上層部からの彼に対する評価だった。資質としてはあまりにもアンバランスなところだが、あらゆる点が基準を満たしている安定型のスコットに対して、一点特化型のデイビス、と言ったところか。それゆえ、スコットの下に就かせ、時間をかけて育成するつもりだった——この巨大ストームにより、すべての予定が狂うまでは。

「フライト計画の策定は、未着手ですか」

「ああ、まあな。この風速じゃ、まともなフライト計画にはならないだろうが、ベストを尽くす。それが俺の仕事だから」

「恐れながら、指揮官。あなたの仕事は、まともでないものを、まともなものに立て直すことなのでは?」

 ぴくりと、デイビスはデスクの上に載せた手を震わせた。

 ————舐められている。

 言葉に出さず、彼はそう解釈する。

「まだ少しも、フライトのシミュレーションをしていないんでね。が——満塁逆転ホームランを約束できるような計画は、あまり期待できそうにないな。パイロットにできるのは、飛んで、データを蓄積して、ディフューザーを撃ち込む、それだけ。そこに奇跡も秘策もない。ただ淡々と、計画を遂行するだけだ」

「要するに、やれることだけのことをやる、ということですか?」

「無論」

「そんなことでは困るんですよ。私には、あなたがなぜそんなにも飄々と語れるのか分からない。成功も失敗も、あなたに懸かっているんです。本当に起死回生の策は思いつかないんですか!?」

 突如として声を荒げ始めたその職員に、デイビスは片眉をあげた。早速、パニックか。見たところ、日頃の鬱憤とも混同させているようだが、これが他の職員らに伝染するのはいかんとも避けたい。何せここにいる全員が、錯乱状態に陥ってもおかしくない状況に晒されているのだから。

 既にストームの最大瞬間風速は、現段階で119m/sを計測している。数字だけ見ても、ピンとくる人間の方が少なかろうが、文字通り、従来とは桁が違う。
 おおよそストームの勢力と被害は、風の強さに比例しているのであって、それを念頭に置いた場合に、この観測値は想像を絶すること甚だしい。例えば比較用に、極東の島々を襲う台風を引き合いに出すと——

 「強い」勢力に分類されるのは、最大風速33m/s以上、44メートル/秒未満。仮にこれを瞬間風速として上陸時の被害を想定した場合、人間は何かに掴まっていないと立っていられない。屋根瓦や屋根葺材が飛散、固定されていないプレハブ小屋が移動、転倒。ビニールハウスの被覆材が広範囲に破れる。
 「非常に強い」に分類されるのは、風速44m/s以上、54m/s未満。この時点で人間が立っているのは不可能、屋外での行動は極めて危険。走行中のトラックが横転し、多くの樹木、電柱、街灯、ブロック塀で倒壊するものが出てくる。
 「猛烈」が、それ以上。住家で倒壊するものが出始め、鉄骨構造物で変形するものも現れる、となる。

 上記は日本の状況に照らし合わせて策定された内容なので、もう一点、例を挙げよう。

 拡張藤田スケール(Enhanced Fujita scale。基礎となった藤田スケールに改良を重ねた尺度)と呼ばれる、風速と被害状況のおおよその結びつきをEF0からEF5に定義したスケールに当てはめるならば、今回のストームは風速90m/s以上の階級、EF5に該当する(このスケールは、CWC内では俗に「レベル」と称される。レベル5ファイブと言った場合には、EF5に属する勢力のことを指している)。被害内容としては、強固な建築物が基礎からさらわれる、自動車規模の物体がミサイルの如く上空を百メートル以上飛来する、高層建築物の構造が大きく変形する等。上記仔細を一言にまとめて、あり得ないほどの激甚な被害、として定義される。

 "絶望"。
 その言葉を、誰も言わなかった。近づいてみれば、それは匙でたっぷりと掬えそうなほどに濃密で、悪趣味で、人を簡単に酔わしめるもの。
 その絶望に、溺れることすら許されない。
 おぞましい泥濘の底で、人々は錯乱の手前まで追い詰められながらも、抗い続けなければならない。

 それはデイビスとて例外ではない——いや寧ろ、その意味を一挙に引き受けることになるのはパイロットなのだと、この組織内の誰もが知っていた。恐怖に耐えかね、泣き出したり、嘔吐する職員も出始める中、彼は哀れにも状況に縫い止められ、絶望的な事態を示すだけのデータと向き合うしかない。

 ————だが、その事実を重々承知しているのは、他ならぬデイビスであった。

諸君・・らは、パイロットの役割を勘違いしているな」

 冷たい声で、慇懃な口調で語りかけながら、ゆっくりと辺りを見回す。

「もう一度言おう。パイロットに可能なのは、計画の完遂、そしてその計画を、データに基づいて策定するだけ。必要なのは、諸要素の信頼性だ。石が崩れれば、城全体の崩落に繋がる。だからこそ、ここで全員の結束を仰いでいる」

「指揮官が立てるべき計画は、ストームを消滅させる計画です。これで、本当にストームを消せますか? みんなの前で、それを誓えるんですか」

 男の声からは、泡立つ海から突き出る岩の如く、積年の怨恨が見え隠れしていた。
 ああ、こいつ、俺のことが嫌いなのか。それもずっと前から。それでようやく——合点がいった。

 デイビスは肩をすくめ、芝居がかった身振りで笑いをこぼしてみせた。

「こいつは、参ったね。この俺が、ストーム消滅を視野に入れない、無意味なフライトを計画するとでも思ったか? 言ったはずだ、ベストを尽くすと」

「いえ、ただそのように中途半端を良しとする精神で、メンバーの生死を握られては困ります。我々CWC職員も、風力発電所研究員も、避難することすら許されずに、あなたに命運を託しているんです。その責任を、充分に分かっていますか? 普段のようにへらへらと肩の力を抜いて事態に取り掛かられたら、我々はみんな、死ぬしかありません」
 
「ルイス」

 瞋恚の炎を滾らせた眼で、スコットは人一倍、低く響く声を絞り出した。

「指揮官の命令を聞けないミッションメンバーは、いらない」

 デイビスは何も言わずに、ただ静かに、凍るような沈黙の中でメンバーに眼差しを向けた。元よりスコットは、指揮官に反抗するメンバーを見咎め、デイビスに助け舟を出しただけだ。しかし結局その行為は、信頼のない彼の状況を、同胞たちに再認識させるに通じる。何が解決された訳もなく、自分はただ、指揮官として認められるような器じゃないと、沈黙のさなかで痛感するだけ。

 ———だが、そこで足搔くのも馬鹿馬鹿しい。
 認めさせたいのなら、能力で示せ。
 自分の闘うべき敵を、目の前に見出すな。

 ゆっくりと、長い前髪の奥から睥睨しながら、彼は辺りを見回した。

「どうやら諸君は、この場に超人的なヒーローがいることを想像しているようだが、それは筋違いではないのか。俺がなぜここで、諸君らの士気を向上させるような、感動的な演説を披露しないか。過剰な期待を恐れているからだ。ではなぜ、期待を退けるのか? 組織全体が、無責任な妄想へと逃避してゆくのを避けたいからだ。諸君が見つめるべきは幻想じゃない、この現実だ。堪え難いのは分かっている、どれほど現実との対峙が諸君に苦痛を与えるか。
 しかしそれでも、諸君が今この場で夢を求めるなら、俺はこう言い切ろう、それは途方もなく甘ったれた、センチメンタルな妄想だと」

 突然、大きな音を立ててテーブルに手をつきながら、デイビスはメンバー全員を睥睨した。おぞましいほどに力の込められた一瞥が、魂の底を覗き込むように、その場にいる人間たちの眼を刺し貫いてゆく。

「大丈夫だ、安心してくれ、全部俺に任せろなどと。口だけで嘯くことは簡単だ。だが根拠なくしてそう語ることを、俺は断じて許さない。こうした事態に陥った時こそ、俺たちはより緊密に連携して、批判精神を失わずに検分する必要がある。

 諸君がこのミッションに不安を覚えているのは知っている。不安、と言ったが、もっと包み隠さずに言えば、間近まで迫った死の予兆に脅えているのだろう。だが生憎俺は、確実なことだけしか語らない。諸君も科学者であれば、希望的観測が、どれほど事実をねじ曲げるかを知っているだろう。そうやって少しずつ、幻想に腐り落ち、組織全体が狂ってゆく。ストームにやられる以前にな。例え一人になったとしても、諸君を懐柔する手法を取るより、俺はその信念の方に服従する。これが今回のミッションに対する、俺からの誓約だ。

 諸君の抱えている恐怖は、ストームが消え去る最後の一瞬まで、けして払拭されることはないだろう。だがそれこそが、このミッションに求められる基本的姿勢なのだと、頭に叩き込め。平和を勝ち得る前から、安寧に甘えたがるメンバーなど、指揮官は欲していない。ここまで言えば、分かったか?

 ———俺の指揮に従えない者は、出ていってくれ。説得する時間が無駄だ。今は一刻も早く、フィックスした体制図が欲しい」

 最後はほとんど、切り捨てるような言い方だった。
 意図的にショックの強い言葉を織り交ぜながら、挑むように、盤上に手札を並べてみせる。さあ、反抗的な人間は、前に出ろ。その反感を、正面から買ってやる、と。

 しかし、誰も、何も言わなかった。ただただ、氷のような沈黙が満ちてゆく。

 デイビスは、それが、彼らからの意思表示なのだと受け取った。

「一時間後にブリーフィング。一分たりとも遅れるな」

了解ラジャー、キャプテン・デイビス」

 命令を下した後に広がるのは、空虚だけ。上着の裾を翻して靴音を鳴らす背後で、押し殺すように苦々しい声が漏れ聞こえた。

「なんであんな若造に、俺たちの生死を握られなきゃならないんだ……」

 執務室への道を戻りながら、そうだろうな、とデイビスは思った。そして、自分の言ったことも正しい。パイロットにできるのは、立てた計画を遂行するだけ。淡々と。機械の如く。

 このストームの知らせにより、すでにCWCにも暗雲が渦巻いている。ストームライダーの発進には、多大な情報とリソースがいる。それゆえに、CWC職員は避難の道さえ塞がれた。そしてその結果は、彼に対する憎悪となって渦巻いてゆく。いや、憎悪で収まるならまだましだ。それは自らを死へと導いてゆくことへの集団的な怨嗟であり、恐怖であり、呪詛である。デイビスは歯噛みした。いっそ全員が、自分を戦犯へと祀りあげるなら、まだ統率が取りやすい。問題は、彼に根拠のない希望をかける臆病者も混じっていること。ここでメンバー同士で対立しても、何の益にもならない。それゆえに彼は先手を切って、期待を跳ね除け、その幻想を叩き潰したのだった。

 元より、自分には何の信頼もなく、何の実績もない。自分にかける希望とて、それもほとんどが憐憫に過ぎないだろう。そして憐憫などは、己れにも火の粉が降りかかるのだと知れば、たちまち敵意へと変貌する。ミッションの途中で転向されるくらいなら、最初から怨嗟を貫いてくれる方が、よほど駒として役に立つ。統率、統率、統率。今はそれだけに集中しなければ、余計なところで足を掬われる。誰かが指揮を執り、誰かが飛ばなければならず、そしてその役者は、この俺だ。ベースも、スコットも、彼に最高権限を付与し、その威光に服従することで、最大限に自分を守ろうとしてくれているのは分かっている。けれども、人望だけはどうにもならない。正式パイロットに選抜された時でさえ、あれほど叩かれ、嗤われたのだ。この窮地で、この歳でミッション最高指揮官など、誰も納得するはずがないだろう。
 だが、反感は、それ自体が力にもなる。負の感情で人の心を染めあげ、それを掌握することもできる。吐き気のするような手法だが、それを採択した。綺麗事に目を晦まされて全滅するよりは、どんなに自分のやっていることが汚くても、それが一番合理的だ。結果的には、ミッションを成功に漕ぎつけられれば良い。……それだけだ。

 ふと、何が何だか分からない哀しみが、心を突き刺した。頬を指でなぞると、泣いていた。乱暴に袖で拭い、執務室の自動ドアを通って、自らのデスクにつく。すでに多くの書類が、その上に散らばっていた。

 つん、と酸っぱい臭いがCWCに漂い始める。
 この変化が何によるものか、誰も知悉していない。
 ただ、乾いた音を立てて、常識が崩れ落ちて。何もかもが狂ってゆく。何も、元には戻らない。

 時が経てば経つほど、部屋中に漂う緊迫感は張り詰めてゆき、多くの者が精神を蝕まれていった。時々、発作的に泣く声が室内に響いた。ひりつくような沈黙の中で、嗚咽それ自体が、何かの槍玉に挙げられているかのようだった。席を立って、トイレに駆け込む人間たち、そしてその他は、何を憚っているのか、ぼそぼそと密談する会話のみ。

 その只中で————

 デイビスは、異常なまでに飛行計画の策定に集中していた。気の狂うような速度で、緻密な計算を行い、すぐにその案を棄却する。その捨て方とて、一切の感情が窺えない。

 彼に話しかけられると、その大半が、ぞくり、と総毛立たせた。話し方は寧ろ、普段より落ち着き払って、冷静なほどである。しかし、その瞳にちらつく薄暗い意思に覗かれれば、その思案はたちまち凍結する。
 今まで、どこに隠していたのか、と思うほど身の竦むような殺気。異様な冷気に気圧されて、まるで蛇に睨まれた蛙のよう。本来であれば、真の恐怖に震えるべきは、彼の方なのだが。しかし、その一切を水面上には出さず、脅えた気配すらもなく。穏やかな態度を崩さずにいるのが、不思議なくらいだった。

 確かに彼だけ、危険性は頭ひとつ抜けている。何より恐ろしいのは、街の存亡——という測り知れぬ責任を負わされ、あたかも故郷を人質を取られたかの如く。逃げ場はどこにも用意されてはおらず、生還できる可能性も、ほぼゼロだ。
 しかし、感傷に浸る猶予すらもなかった。自らの生還を諦めれば、この地獄から解放されるのではない。掻き集めて掻き集めて、砂粒ほどもない"救済"の希望を見続けて、それを酸素のように吸って足掻き続けなければ、容易に死ぬことも許されない。彼の命運は、自然現象によって、CWCの決定によって、故郷の人間たちの期待によって、完全に掌握されていた


「———捨て駒だろう。生贄なんだよ、キャプテン・デイビスは。発進したら最後、あいつはもう二度とCWCには戻ってこれねえよ」


 デイビスは、血の凍るような感覚とともに、そばで交わされる密談を聞いていた。

「こんなストーム、何をどうやったって消せるわけがない。でもストームライダーがある以上、体面的には発進しない訳にはいかない。CWCは、全力を尽くしたという実績が欲しいんだ。だからキャプテン・デイビスを身代わりにして、本命のキャプテン・スコットは守ったまま、最小限の犠牲で食い止めるつもりなんだよ。あいつは、CWCに殺されるんだ」

「そんな、……キャプテン・スコットを温存しているにしても、さすがにキャプテン・デイビスの生還は祈っているはずだろ」

「逆だよ、CWCが一番困るのは、キャプテン・デイビスが生きて還ってくることだろう。ストームを消せないくらいなら、奴には生還されたくないはずだ。一番責任を負うべき奴が死んでいれば、全部パイロットのせいにして、CWC自体はバッシングを浴びずに済むからな」

「そんな馬鹿なこと、あり得ない」

「それなら、どうしていきなりあいつを指揮官になんか任命したんだ?」

 密やかな声が、ひたひたと、沈黙の底を侵してゆく。

「急に指揮官に任命されても、初めてのミッションを成功させられるはずがない。本当にキャプテン・デイビスの腕が確かなら、前回のミッションで副官になんかしなかったはずだろ」

「元々、正式パイロットに選ばれた時から、何かがおかしかったんだがな。少なくともあの時は、絶対、裏の力が働いていたんだ」

「選抜も、こういったことになる事態を見越していたんだろう。だとしたら、CWCの上層部の判断は大正解だな」

 もう充分だ。元より、他人の話を盗み聞きする趣味もない。デイビスは立ちあがって、コーヒーを取りに足早に廊下へ出た。

 自動販売機からそそがれる、黒い、毒のように苦い液体が溜まるのを待って、ぐっ、と飲み干し、紙コップを握り潰す。揺れる水面に映った自分は、嗤えるほどに歪んだ顔をしていた。そんな薄弱さが——今は、白けるほどに醜く思える。

 心を動かされるな、と己れに命じる。
 絶望を前にして、パニックに陥る精神も、陰謀論で精神を紛らわせたい心理も、自然なものだと理解している。それでも自分は、闘わなくてはいけない側の人間であり、それが上から課せられた使命であった。

 廊下を茫々たる青い光で彩るディスプレイに目を向けると、ポート・ディスカバリーの南西部、海を中心とした、一帯のレーダースクリーンが映し出されていた。そして、その真っ青な背景を濁らせる、巨大な雲の渦。衛星による気象観測データは、その勢力を鵜呑みにすることはできないが、しかし移動速度の計測は確実である。じりじりと気の狂うような時間をかけて、ストームが確かに、故郷に近づいてくる。

(遅すぎるな。……なんでこんな、のろのろと)

 一秒、一秒と勢力を増してゆくそれは、凄まじい風速に反して、移動速度は通常の二分の一、ないしは三分の一を記録している。初夏のこの時期に発生したせいで、季節風の影響を受けないためか。早くマリーナへ辿り着いてくれれば、その分、比較的小さな勢力のままで消滅させることができる。が——それも期待できそうにない。くだらねえな、と嘲笑したくなった。あれほどの啖呵を切っておきながら、自分の心の奥底にも、慰めの幻想が根を張っている。上陸前にはもっと衰退しているんじゃないか。観測データは何かの間違いなんじゃないか——しかし祈るようなそれらの願望も、どうせ後になれば、粉々に砕け散るばかりだろう。

 このミッションの中には、自分の意志など、どこにもない。雁字搦めになって、誰も自分の意志など、聞きはしない。まるで——漂白された空虚。くっくっくっ、と喉で笑いながら壁にもたれかかると、その冷たさが、背筋を芯から痺れさせてゆくようだった。

(……誰、か)

 呼びかける。その先は、もはや誰でも良い。神でも、悪魔でも、何でも良い。

(気づいてくれよ。俺だって、何も感じない人間なんかじゃ、ねえんだよ)

 しかし、返ってくるのは、やはり虚しいまでに響きを掻き消す、沈黙のみ。
 何度呼びかけても現実は少しも変わらなくて、時は同じ速度で針を回し、進み続ける。例え血の涙を流そうとも、ここにいる全員が、見なかったものとして黙殺するのかもしれない。



「———なんで、誰もいねえんだよッ……!」



 めくれあがるように悲痛な声が、廊下いっぱいに響き渡った。無、無、無。それだけで塗り潰されて、自分には何も許されない。何かがおかしい。どうして——なぜ、こんなことになってしまったのだと。

 ———ポート・ディスカバリーは、俺の故郷だ。壊滅なんてするはずがない。そんなことが許されるはずがない。
 ———こんな異常なストームを、消滅できるわけがない。誰がどれほどシミュレーションしたって、分かるのは絶望的な状況だということだけ。これに人間が立ち向かって、どうしろというんだ。このフライトに、何の意味がある?

 ———カメリアは、もう俺のことなんて助けにきちゃくれない。俺の心配をしてくれる奴なんて、誰もいない。あいつだけが、俺の無事を祈ってくれる最後の人間だったかもしれないのに、すべて、すべて俺が破綻させたんだ。




 ————誰か、死なないでって俺に言ってくれよ。誰か————




 そんな彼の思いを嘲笑うかのように、事態は不吉な風を伴いながら深刻さを増していった。スコットがデイビスの肩を叩き、弾かれたように顔をあげると、その黒橡のように澄んだ瞳と、眼差しがかち合う。

「デイビス、ご家族に連絡を取ってこい」

「……それは」

「身辺整理もだ。今は、ミッションの気を散らせる全てのことを潰しておくべきだろう。その間、私がデータをまとめておく」

 その宣告が、どれほど彼の心に罅を入れるかを知りながらも、避けては通れぬことを認識して、スコットは慮るように言った。

「指揮官は、私じゃなくて、お前なんだ。誰もお前の肩代わりはできないし、残された家族に言葉を伝えてやれない。……分かるか、この事実の重さが」

 デイビスは、それ以上は何も反論する気もなく、ただ無言で頷きを返した。スコットが、慮るように彼の顔を覗き込もうとしたが、首を振って、その表情を見られないようにした。

 彼の家族の家は、プロメテウス火山の反対側にあるため、往復するだけで、半日は潰れた。おまけに、ストームの騒ぎで、交通網は混乱している。この短時間では、会いに行くこともできない。

 仕方なしに、父母と妹に電話をかけた。彼らはまだ避難前だったが、じきに家を出て避難場所に赴くらしい。分かっている、報道を見た時からお前が発進すると思っていた、CWCからも先に連絡があった、と告げられた上で——父親は、静かな声で、感情が彼を繋ぎ止めようとするのを堪えるように言った。

「無事に帰還してくれ。私たちには、なによりも、お前の身が大切なんだ。ストームなんか、消せなくたって構わない」

 短い通話で、現実感も伴わなかったが、自分は今、家族との別れを経験しているのだとぼんやり思った。電話という儀式によって、家族にまで、退路を断ち切られた気がした。この先は、ただひたすら、絶望に向かって進むしかない。

(慣れているだろ?)

 心の声が言った。

(独りで全部背負おうとして、どう考えても先の見えないどつぼ・・・にはまり込んで。
 これまでの生き様に相応しいじゃないか。これが俺の人生の、集大成だよ)

 冷酷な内容が、妙に冴えて、頭に染み込んでいった。

 そう、なのかもしれない。
 俺の人生は、そんなものなのかもしれない。

 目の前には、ただただ、真っ白で、空虚な思いが広がっているだけ。誰もそばにいてくれない、空っぽのこの廊下こそが、自分の生涯を象徴しているように思える。

 二十六年間、この世で生きてきて、誰にも愛されず、誰にも心を許さず、誰もまともに愛せたことなんかない。
 生まれも、育ちも、不幸な訳ではない。機会は、何度も与えられたはずだった。けれども全部無駄にして、切り捨ててきて。他の人間のことなど、何も分かりはしなかった。


 ———それこそ自分は、人の皮を被って擬態していた、怪物、だったのではなかろうか。


 廊下は、墓場のように静まり返っている。執務室に帰る直前で——もう一度、ディスプレイ内のレーダースクリーンを振り返った。

 誰のために光っているのかも分からないそれ——そこには微かに、発進予定時刻、十九時、と。まるで予定された死亡時刻のように、彼自身の決定した時間が、白い文字で書き添えられていた。





 午後十一時半。
 異様に張り詰めた空気の中、CWCは雨に包まれた深夜を迎える。

 泊まり込み、とは言っても、交代でストームの観測を続ける中、デイビスはひとり、執務室でフライト計画の策定を続けていた。通常であれば、副官も同時に策定補助に回る。というより、副官は発進後、バックアップとして待機する以外はほぼ任務を持たないがゆえに、その業務はむしろ、発進前のフライト準備補助にこそ重きが置かれているのである。

 だが、副官と分担して策定するのを今回は拒否して、全面的に指揮官のみで請け負った。すべてのシミュレーションに、目を通したい。フライト計画は、パイロットの生命線ともいえる情報だ。地獄のような可能性と鼻を突き合わせてでも、それを知りたい。ジリ貧の確率を重ねることには、胃がきりきりと痛んだが、それでも、この仕事を、誰にも譲る気はなかった。

 風速——これが何よりの障礙である。強すぎる。どれほど上空へ逃げても、ストームの目の中へ降りる段階で、十中八九、障害物に激突する。

 最悪、パイロットが死んでもいい。ストームディフューザーさえ発射できれば、ストームは消え去る。保身を捨て去れば、ある程度、選択肢は広がるはずなのだ。
 それを前提としたシミュレーションも行なった。けれども途中で、時間の無駄だと投げた。その成功パターンは、完全に皆無だった。何が何でもストームの中央部まで辿り着かなければ、暴風に煽られて犬死にどころか、それ自体が飛翔する凶器にもなる。ストームライダーは、一機で終わりなのではない。ロストすれば、次は、ストームライダーIの発進が待っている。その成功確率まで削るのは、馬鹿げた話でしかなかった。

 過去のストームの観測資料と照応させながら、ストームライダーの重量に基づいたシミュレーションを行っていると、ふと、彼の上から影を落とす人間に気づいた。仰がなくても分かる。この気配、この感覚。

「何の用だ、キャプテン・スコット」

 視線を動かさぬままに、冷たくそう問うた。感情など、とうに切り捨てている物言いだった。

「デイビス、あまり気を張るな。少し休め」

「まだ全然、終わっていなくてね。指揮に手を取られて、フライト計画の方がまるで進まない」

「何のために副官がいると思っている。すべて背負う必要はないだろう。もっと私を頼れ」

「悪いが、今回のミッションにあんたの出る幕はないさ。俺が全部引き受けるからな」

 言い放ちながら、手元の紙に、計算結果を殴り書きした。スコットは、微かに眉根を寄せたようだった。

「……どういう意味だ」

「あんたには家庭があるだろ、スコット。クレアは可愛い盛りだし、もうすぐ二人目も生まれるだろ?
 でも俺は、一生結婚するつもりがないからさ。独り身の方が、気楽でいい」

「だからなんだ。家族の存在が、隠れ蓑の言い訳にでもなるとでもいうのか? そんなことは発進には関係ない。人命は、みな平等だ」

 デイビスはその時初めて、少し微笑みながら、スコットを見つめ返した。この男の、泥臭いまでの真っ直ぐさが好きだった。それは自分には一番足りていないものだと、分かっていたから。

「俺だって、ポート・ディスカバリーを最優先に考えてる。あんたを守って、代わりにマリーナを危険に晒そうだなんて、微塵も考えちゃいないよ。その上で出した結論だ。あんたはここにいろ。ストームライダーIIだけで発進、これがベストだ」

「デイビス、本当のことを言え! 私をくだらない同情で庇うつもりか!? パイロットは自分の意志で選んだ道だ! お前は私を馬鹿にしているのか!」

 スコットは怒鳴り声をあげると、デイビスを立ちあがらせてその胸倉を掴み、背後の壁に思い切り叩きつけた。骨ごと叩き折られるような背中の痛みに息がひゅっと詰まり、思わず顔を顰める。一気に鼻先まで詰め寄ってくるスコットの、その底無しに焰を滾らせた眼を、デイビスはどこか遠い出来事のように見つめていた。

 ——————本当のこと、か……

 いつだって、こうして誰かを怒らせてきた。相手が何を望んでいるか分からず、何を踏み躙ってはいけないのかも分からず。そうして彼に激情を叩きつけるのは、いつだって彼が愛してきた、誇り高く誠実な人たちばかりだった。ああ、また見捨てられるんだな、とぼんやり思った。それまでずっと寛大な態度を示し続けてくれたのに、自分の言動が引き金で、愛想を尽かされて。ひょっとしたら、人として何か重要な部分が欠けているのかもしれない。そういう意味では、鏡に立つたびに映し出される、自分の切れ長の眼も嫌いだった。さぞかし、相手を見下している眼差しに見えるのだろう。そのガラスのような目つきを見たなら、自分の胸のうちなど、誰も心配してくれるはずがなかった。

 手加減なく込められたスコットの力を感じながら、デイビスは一切抗わずに、罵倒や殴打が降りそそぐのを待っていた。けれどもスコットはひたすらに、彼の本音を切望し続けるかのような眼差しをそそいでいた。

 やがてデイビスは、諦めたように俯き、重い口を開いた。


「————無理なんだよ、スコット。あんたの操縦スタイルじゃ無理だ。こんな風速では、あんたには、分が悪すぎる」


 スコットはデイビスの言葉を、痺れるような哀しみとともに受け止めた。その声は、薄暗い部屋の中で、氷のように冷酷にわだかまった。

「もう、いいだろ? ……離してくれ」

 命じられるがままに、スコットはのろのろと手を離したが、先ほどまでの覇気が嘘のように、その顔からは表情が消え失せていた。

「私にもっと力があれば、お前を助けられた」

「助けられたいなんて、思っちゃいないさ」

「お前に謝らなければならない。すべて私の力不足だ。お前に全部の責任を押しつけるために、ストームライダーに乗っていたわけじゃ——」

「やめてくれ、スコット! あんたにそう思われるのが一番嫌だ。もう、充分なんだよ! 俺だって、自分の意志で、この道を選んだんだ!」

 悲痛な色で叫び返すと、自責の炎に彩られるスコットの、虐められた子どものように弱々しい顔が、目に飛び込んでくる。

「確かに、何もかもが俺が夢見たのと同じわけじゃない。それでもあんたは、俺を相棒と呼んだ。右腕と呼んだ。それだけで、俺は嬉しかったんだ。短い間だったが、あんたと仕事ができて、よかったよ。あんたが、それを否定しないでくれ……」

 消えかかりそうな声で、デイビスが小さく呟く。スコットは、何かを言いさして——哀しげに口をつぐむと、隣のデスクに置いていた幾つかの包みを、乱雑にデイビスのデスクの上に投げ出した。

「何か食うか。お前の好きなピーナッツを持ってきた」

「ありがとう。でも後で吐いてしまいそうだから、いい」

「甘いものだけでも腹に入れておけ。体調管理もパイロットの仕事だ。どんなものだって、ガス欠は、一番に避けるべき事態だろう」

「…………」

 デイビスは無表情にスコットの置いたドーナツの箱を見つめていたが、彼の気遣いを慮って、じゃあ、一口頂こうかな、と囁いた。

 頬張る、というよりも口に押し込み、静かに咀嚼しているデイビスを見つめながら、スコットはゆっくりと隣の椅子を引いて腰掛けた。デイビスの眼は虚ろだったが、まだまばゆい光を放つモニターの計算結果にそそがれていた。あの会議の時、デイビスの名を出すのではなかった、とスコットは思った。しかし、彼以外に誰がいる? 自分は適任ではない、実力不足だと分かっているものの——これほどに若い人間に重責をなすりつけ、自分は何をしているのだ? そんな、焼き鏝を押し当てるような罪悪感が、じわじわと胸に染み込んでゆく。

 力がないゆえに、自分は生き残る。才能があるゆえに、この若者は絶望的な任務を免れない。ひょっとしたら、彼を生贄にすればいいとそそのかし、彼に死ねと命じたのは、自分なのかもしれない。彼の本来の生きる場所を奪い、ストームに殺されるまで帰ってくるなと言い放ったのは、自分なのかもしれない。そんな焼きつくような痛みを覚え、スコットはまともにデイビスの眼を見ていられなかった。けれども恐らく、誰一人声もかけられない状態で、デイビスを休ませることができるのは、彼の信頼を得ている自分だけだ。

「ありがとう。美味かった」

 デイビスは少し笑って、粉糖のついた手を払い、スコットに声を掛けた。

「あんたのおかげで、もうひと頑張りできるよ。気を遣ってもらって、すまなかった」

「……コーヒーは」

「さっき飲んだ。大丈夫だよ、何でもかんでも世話を焼いてもらわなくたって」

 デイビスは、長い前髪の下に疲れた目を隠して、静かに微笑んでいる。

「俺は、独りでもやれる。独りの方が気楽なんだ。自分の扱い方は、慣れているから」

 微笑している割には、感情の伴わない声。その目は、まるで硝子玉のように、この世の何も頼みにしてはいなかった。

 ああ、初めて出会った時も、こいつはそうだったな——そう、スコットは思い返した。慎重に握手を交わし、一見すれば社交的な笑みを浮かべながらも、獣のように自分を見つめてくる瞳。すべてを見透かそうとするような、それでいて少しも温度の乗らない、その双眸。

 まるで、鏡に映った昔の自分・・・・を見ているようで。
 だからこそ、助けてやりたかった。そうまで、他人を拒絶するな、と。徐々に心の防御を解いてゆくのを感じながらも、焦らずに、ただ隣にい続ける間、デイビスは何も語らず、じっとスコットを見つめ返すだけ。けれども、お前には味方がいるのだと教えるだけでは、到底足りなかった。

 その奥底に染み渡る、果てしなく潔癖な、凍りつくほどの自己への嫌悪感。
 一朝一夕で滲み出るものではなく、恐らくは長年に渡って蓄積されてきたものなのだろう。それが今や、彼のほぼ全ての行動原理までを支配している。あまりに繊細すぎたデイビスの、それが、自身に下した答えだった。

 ———デイビス。お前を一番傷つける人間は、いつだって、お前自身だったな、とスコットの心は語りかける。

 お前が軽薄に振る舞い続けたのも、周囲に反抗し続けたのも、せめて自分の居場所を守りたくて、必死にメッセージを送っていたのだと分かっている。お前の行動は、いつでも目を引いた。けれどもそれは目くらましで、本当は失望されることに脅え、常に他人を恐れていた。

 近寄れない距離を挟んで、いつも助けを求めるように私を見ていた、お前との関係は何だったのか。そしてその狂おしい眼差しを浴びるたび、かつて私の中にすら渦巻いていた感情のことも、お前は知らないのだろうな、と思う。

 スコットは、空気を噛み締めるように、ゆっくりと呟いた。

「大丈夫だ。お前はすでに、私の技量を遙かに超えている」

「スコット。今はそんな空世辞、……」

「空世辞だと思うか?
 言っただろう、お前が選ばれると思っていたと。お前は、私より遠い位置にいる。計り知れぬほど遠くにだ。私はずっと、お前のことが羨ましかった。歳上で、上官で、長年のフライト経験もあるのに、お前のように若い天才に追いつけない自分が、悔しくて悔しくて、堪らなかった」

 ———訥々と吐露されるそれは、彼のためではなく、スコット自身のための告白。ほとんど、贖罪を求める告解者のようですらあった。

 デイビスの才能への怨嗟は、自分の中にもあった。
 無駄、無駄、無駄。自分のやってきた全てのことが、呆気なく否定されたようで。この青年は、誰かの遣わした悪魔なのではないかとすら思った。十も歳下の若者との間に、立ちはだかるのは、圧倒的な実力差。嫉妬など、浅ましい下劣な人間の抱くものだ、とそれまでずっと軽蔑していた感情が、初めて、自分の中に立ちのぼってきた。

 お前の払ってきた十数年の努力は、ゴミと一緒だった、と突きつけられるようで。
 彼の存在は、自分を、自己卑下の地獄へと叩き落とす。

 気づいていないのか?
 誰もが私に、笑いながら、お前の手綱を取る役割を期待している。だが私は、お前のような"問題児"の"教育係"なんかじゃない。
 一人の、誇りも名もあるパイロット。この世で初めて、ストームライダーを乗りこなす栄誉を与えられた人間。自分の前に、一人も先駆者などいなかった。

 それなのに——後からやってきたこの若者に、すべてを打ち砕かれた。

 もはや自負など、微塵も残っていない。敗北感、自己嫌悪、それだけならまだ良い。口にはとても出せないどす黒い念さえ浮かんで、そんな己れに戦慄したこともある。

(俺は、あんたには勝てない)

 そうデイビスが呟くのを聞いた一瞬、殴り飛ばそうかと思った。あまりの認識の溝に、目が眩んだ。何を根拠に、そんなことが言えるのだ。無責任な同僚たちの評価に、惑わされるな、と。

 それでも、デイビスからそそがれる眼差しには、一点の曇りも交わらない。初日にバーで交わした会話を経て、この上官は味方をしてくれるのだと、完全にスコットのことを信用したようだった。そして、自分の胸のうちの薄暗い感情も知らず、徐々に彼が心を開いてゆき、無防備な弱味までもを見せ始めた時、スコットはようやく、認識を改める。デイビスが発する人懐っこさの裏側の、心の脆さにも、底無しの孤独にも、初めて気づくことができたのだった。

 同じ人間など、ひとりもいはしない。
 互いに、すべてを持っている人間だと羨みながら、自分の限界を憎み、叶わぬ理想像に身を焦がしている。

 そう悟った時、嫉妬の焔は消えた。
 自分はこの若者のために、何を残せるだろう——そう考えるようになったのは、歳を重ねたせいではない。デイビスと心を通い合わせる中で、彼を救いたいと思ったからだ。彼の年長者として、相棒として、彼の支払い続けた労苦を、けして無駄にさせはしない。

「お前は、私の背中を必死に見ていた。私から技術の全てを盗もうと。だから私も必死になって、お前に全てを教えようとした。私たちは、互いに情熱を磨き合う関係になれると思ったからだ。唯一無二の——夢に向かって切磋琢磨できる、戦友のように。

 それに、初めてなんかじゃない。この前の、ゲストを乗せた対レベル5ファイブのフライト。あれは事実上、お前のデビュー戦のようなものだったろ?」

「スコット、あんた」

とデイビスは、震える声で呟いた。

「あのフライトの、落雷による撤退……らしくないと思っていたが、まさか……」

 スコットはそれを聞くと、にやっと笑って、デイビスを振り返った。

「ストームライダーのパイロットの行動原理は、『良心と市の奉仕精神に従って』、なんだろう? 私の相棒であるお前なら、その意味を存分に理解しているよな」

「……ははっ。あんたって、本当にめちゃくちゃな上官だな。ベースには黙っていてやってもいいぜ」

「そっちこそ、派手にダイビングして周囲の目を逸らし、私の墜落を庇おうとしたことは、他言無用にしてやってもいい」

 そう言って立ちあがるスコットの顔を、デイビスは静かな眼差しで仰いだ。時が止まったように、その眼は動かない。やがて彼の唇は、わななきながら、あまりにか細い声を紡ぎ出した。

「どうして、あんたには俺の考えが分かるんだ。他の奴らは、誰も分からなかった。分かろうとすらしてくれなかった。誰一人として」

 スコットは、その黒曜石のように汚れのない瞳でデイビスの眼を覗き込むと、ふっと口角を緩めて微笑んだ。


「————それは、本当か? キャプテン・デイビス」


 静かに向けられた問いかけ。
 デイビスは、それに答えることができない。いつだってそうだ。真実は何なのだろうと考えるたびに、体が強張って、言うことを聞かない。だって、他人の心など、自分には何も分からないから。


 ———本当のことって、なんだ?
 ———それじゃあ一体、何が本当のことなんだ。
 ———どうしたら、それを理解できるというんだ。


「CWCで、お前の帰還を待っているぞ。デイビス」

 スコットはゆっくりと背を向け、踵を返した。そしてその言葉以外、もう彼にかけられる励ましの言葉は、誰からも、何もなかった。





 仮眠や軽食、あらゆるデータの二次チェック、ブリーフィング、過去資料の収集、専門家との議論を挟みながらも、ようやく飛行計画ができた頃には、発進予定日当日の夕方になっていた。司令室のドアを叩くと、疲弊した様子で、ベースが迎え入れる。ストーム発生以来、ろくに休眠を取っていないのだろう。デイビスが飛行計画を提出すると、ベースは一度眼鏡を取って、疲れの溜まった目を軽く擦った。

「結構です。こちらでも検証し直してみますが——おそらくは、これで受理します」

「頼む。何かあったら、遠慮なく指摘してくれ」

「いえ、きっとこれが、唯一です」

 軽く内容に目を通しながら、ベースが静かに呟く。ミッション、および実行の総責任者がデイビスならば、ストーム観測、およびストームライダー指示については、彼女の管轄となる。

 普段なら、無茶苦茶な計画だと一瞬で突っぱねられる内容だった。この暴風の中で、すべてのFODの可能性は存在しないことになっている。衝突もなし。すべてパイロットが避けることが前提である。

 最も異常なのは、その飛行計画の肝となる部分だった。ストームの目の中にい続けること。一番に回避すべきなのは、計算の狂いにより、ストームディフューザーの威力がストームを下回ることだ。ストームライダー発進前の勢力観測は、ドボラック法Dvorak methodによって気象衛星の雲画像データを利用しているが、これは実質、人間のパターン認識能力に依存した値(実際は推定値となる)の計測方法であるため、実態とは大きな誤差が生じる恐れを秘めており、平均ではドロップゾンデ法による実測値と比較して、13hPa程度の差があるという旨の論文も発表されている。近年になってからは、900hPaを切る熱帯低気圧がほとんど発生しないのも、この方法が根本的に内在させている、系統的な偏りが原因である可能性が非常に高い。そのため、ベース・コントロール側では、実測値と衛星画像解析の双方に補正をかけ、最終的な必要エネルギーの演算結果を叩き出す。この時、計算に必要な観測量が足りず、許容範囲を超えたブレが発生すれば、当然ストームは消滅できない。無論、CWCに引き返してストームディフューザーを積み直すことはできるが、その時間の消費は、ストームの上陸を許すことに繋がる。今回のストームにおいては、ドボラック法のパターン計測には適さない未曾有の規模感にも達していることから、特に実測量の不足事態が憂慮された。

 そのため、比較的安全な目の上部から、底部まで降下し、ストームの中心気圧を直接観測、実測データの蓄積が確実に必要量を超えるまで、飛行し続ける。通常、サブ機はメイン機がロストした場合のバックアップとして同時発進するが、今回はストームに巻き込まれた場合、メイン機のミッションの障害となるため、ストームに最も近い格納庫にて待機。メイン機ロスト段階で初めて発進を許可し、メイン機の観測データを元に追加観測を行う。そして、最も風速の高い地点にストームディフューザーを発射し、巨大なストーム全体にディフューザーの威力を巻き込ませて消滅。ここまでが、今回の飛行計画の概要となる。

 ストームディフューザーの耐性——これが最も怖い。理論上、ストームの威力は幾らでも高く計算できるが、その計算結果にハード面が耐えられるかが分からない。実測値がどうなるかは分からないが、最低でも前回のミッションの、ざっと四倍程度のエネルギー負荷がかかるだろう。すでにシステム上に提出されている検証項目書に目を通すと、現状のストームの勢力のままという前提であれば、ぎりぎり——合格している。けれども実際、この通りにいくだろうか。発進時に、よりストームが発達していたら? 推定値と実測値の誤差が大き過ぎたら? エネルギー充填時、電圧に耐えられなかったら? それだけで、敗北は決定づけられる。必要なのは、パイロットの操縦技術だけではなかった。ストームライダー自体も、この未曾有の自然現象を前にして、耐久力を試されることになる。検証はひとつの推論の材料ではあったが、それでも、万事上手くいくという根拠には到底足りない。

 そして、サブ機を待機させていることからも察せられる通り——メイン機がロスト、またはストーム消滅に失敗した時点で、ミッションはほぼ終わりだ。それほどのリスクを背負ってまで、メイン機一つに賭けた。成功確率を分散させる余裕などない。なけなしの可能性を、すべて発射一度きりに費やして掻き集めた、それが彼の提示できる、惨めな最善策だった。

 この規模のストームであれば、観測値がベース・コントロールに蓄積されるまで、数時間を費やすだろう。自らの生還できる可能性を祈りながら、パイロットは極度の緊張感を保ちつつ、滞空時間を耐えなくてはない。苛酷というにはとても足りない、拷問のようなフライトが待ち受けていることは明白だった。精神的にも、肉体的にも苦痛を極める。何より、ミッション成功のために要求される操縦技術の高さは、桁外れのはずだった。

「発進予定時刻は、七時だったな」

「ええ。あと二時間ですね」

 デイビスは、自身のパイロット・ウォッチを無造作に眺めると、蹌踉として、司令室の出口に向かった。

「煙草、吸ってくる」

 屋根のついた外の喫煙所へ出ると、凄まじい雨だった。まだ皐月の頃合いで、太陽は落ち切ってはいないだろう時間帯なのに、外は完全な闇に包まれて、道路灯に照らし出された足元だけが、破裂する黄金の粒が叩きつけられているようだった。微かに折れかかった煙草が、微かに風に合わせて、その燻りを点滅させる。いつもの焦げつくような煙たい香りを吸うと、大きく息を吐き出した。

 ようやく一人になれて、ほっとした。同時に、訳のわからない純粋な哀しみが、じわりと全身をむしばんでくるかのようだった。干上がるような冷気が流れる土砂降りの外を見上げながら、雨の少しばかり散って、冷たくなった壁に凭れかかり、空を仰ぎ見る。

 ひょっとしたら、こうして一服するのも、何も破壊されていないポート・ディスカバリーを見るのも、これが最後かもしれない。よく目に焼きつけておけ、と自分に言い聞かせながら、デイビスは冷たい息を吸った。生まれ故郷であるマリーナの未来は、自分一人の手にかかっている。しかし、どこまでそれを信頼できるかは、自分自身にとってすらも闇の中である。

 整備明けのストームライダーに乗るのは、初めてだ。うまく操れるだろうか——組みあげた飛行計画を振り返り、穴がないか見直しているうちに、ふと、寒いな、と辺りを浸している外気の冷たさに気づく。季節は初夏のはずなのに、煙を吐き出していないはずの息まで白かった。

 もっと静かで秘めやかな雨の時、煙草を吸っていると、そばに寄り添ってくる奴がいた。今度は一人だ。何も哀しくはない。あいつと出会う前の、最初の頃に戻っただけ。致命的な何かを失った訳じゃない。

 失望されるのは、いつものことだ。分かっていたじゃないか、遅かれ早かれ、掌を返したように唾棄されるって。そう唱えてみても、痺れるような鳩尾の痛みは、何も軽くなることはなかった。傷つけられるだけなら、いつか、時の流れの中で、その古傷の痛みを薄れさせることができる。けれども、傷つけた、という後悔だけは、何をしても消し去ることは不可能だ。あんなエゴイズムに満ちた、醜悪な台詞——それでも昨日の精神状態であれば、あの剣山のような言葉以外に、何も吐けるはずもなかった。

 堪えられない。
 あいつとの未来だけは、堪えられない。

 ほんの一時にしかすぎない信頼も、いつかやってくる崩壊も、糾弾も、落胆も。あいつと迎えるそれらだけは、心が堪え切れるはずがない。
 同じ関係になるのが怖くて、同じ末路を辿るのが怖くて、何も考えることなどできなかった。いったいどうしたら、この恐怖から抜け出せたというのだろう。

 好きかどうかなんて、この際どうでもいい。今まで通りの、ぬるま湯につかった関係——それで十分だったのかもしれない。素知らぬ顔で戯れ言をいなし続け、突拍子もない行動に呆れ返り、時々、苦しんでいる顔を見いだした際には、恩を売るように慰めてやる。だがそれは、相手の弱みにつけ込んでいるだけで、何の信頼も返せている訳じゃないと、誰よりも理解しているのは自分だった。それでじわじわと明るさを搾取して、卑怯な立場を続けるのも堪えられない。その気になれば、心にない言葉なんていくらでも軽薄に吐けたはずだ。なのにいざ目の前にすると、なぜかできない。どうして、そんな歯の浮くような台詞で、煙に巻くことすらできなかったのだろう。

 毎回、今度ばかりは、と期待するのにも疲れ果てた。醒めて残るものは、いつも後悔と自分への幻滅。凍てついた星の海のように凄絶な空虚が、デイビスの胸を吹きさらった。

 疲れた。
 もう、何も考えたくない。
 心が麻痺して、冷たく硬い、石のようになって。何をしでかしても、死に直面しても、もう何も感じなくなればいい、と思った。





 雨を数滴、廊下に滴らせながら、どうしよう、とデイビスは迷う。独りになるのは嫌だし、スコットにも会いたくない。最高指揮官、という立場に就いている割には、どこにも自分の行き場所などなかった。

 結局、司令室のドアを小さく叩いて、ふたたび、彼女に開けてもらうのを待った。

「お帰りなさい」

 ふと、その言葉の暖かさに驚いた。まるで目の前に、静かに、湯気を立てるスープ皿を置かれたような。デイビスは返事に詰まったが、やがて小さな声で、ただいま、と言った。

「何か、忘れ物?」

「いや? 発進まで暇でね。あんたの仕事を、邪魔しにきただけだよ」

「そう。……それじゃあ、そこに座っていなさい。今、タオルを持ってきますから」

 軽率に司令室に入ってくるデイビスを、いつものように叱ることもせず、ベースはふたたび彼を迎え入れた。家出してきた幼子を受け入れるように、それがさも、当たり前のことであるかのように。怒られることを期待していたのに、そのように扱われると、どう反応したら良いか分からない。

 所在に迷ったデイビスは、前髪から水滴を垂らし、ぼんやりとしながら、デスクに寄り掛かっていた。どこか魂を置き去りにし、放心したような眼差しだった。何も考えることなく床に影を落としていると、ふわ、と薄いタオルが被せられ、その上から、優しく髪を掻き回された。

「濡れていますね」

「……うん」

「いけませんよ、風邪を引きますから。しっかり拭いておきなさい」

 布地と髪の擦れ合う音を聞きながら、デイビスは口答えせずに、じっと、彼女の手つきに身を委ねた。

 母さんみたいだ、と思った。
 いつも厳粛な顔をして彼を叱咤する、この女性のことを。初めて、そんな風に思った。

 デイビスはされるがままになりながら、小さな声で訊ねた。

「俺のフライト計画は、どうだった」

「先ほど、承認しました。これを——ストームライダーIIの、エンジンキーです。どうか、無事で飛んでください」

 ベースは、銀色の小さな鍵を、デイビスの手の中に滑らせた。ずっと彼女が握り締めていたのか、澄んだ光を放つそれは、まだほのかに暖かい。

「あなたの方も、やり残したことはありませんか」

「うん。思い残すことは、何もない」

 渡された鍵を弄びながら、デイビスはぽつんと呟いた。

「これで心置きなく、命を賭けることができる」

 それは特に深い意味を持たずに発せられた言葉だったが、ベースの不自然な沈黙に気づき、ふと顔をあげて笑った。

「どうしたんだよ、そんな顔して?」

「…………」

「なに考えているんだよ。そんな深刻な顔、するもんじゃないぜ。大丈夫、さくっと消滅させて、いつも通り、笑いながら帰ってくるさ」

 薄い微笑を浮かべながら、ベースの顔を見つめるデイビス。けれども、彼女の表情は変わらずに、息子を送り出すような目をそそぐだけだった。

「雨が、激しくなってきましたね」

「ああ」

「そろそろ、パイロット・スーツに着替えなくては。もうすぐ発進準備が、始まりますから」

「……そう、だな」

 積乱雲が落とす薄暗さに眼差しを吸われながら、二人とも、ぼんやりと短い言葉を交わした。会話——というにはあまりにも拙く、感情の交流も伴わない、不器用なやりとり。
 雨がこれほど無性に、孤独を掻き立てることはない。まるで体中に虚ろな罅を入れてゆくように、その音の凄味はいや増してゆく。

「あの人に——」

とベースは小さく言った。



「カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコに、会ったのですか」



 ———————一瞬、時が止まった。



 遅れて、窓の外を雷が落ちる。叩き割るような雷鳴とともに、彼の横顔が強烈に照らし出され、雷光の如く白んだ。

 降りしきる雨の中で、きぃん——と甲高い音を撒き散らし、ストームライダーのエンジンキーが、硬い床に落ちて跳ねる。その何よりも絶望的な音は、彼の空っぽの心に響き渡るかのようだった。

「……なんで、あんたがそれを知っているんだ」

 今、その名前を聞くなどとは思わなかった。胃液が迫りあがるように、雨の冷気が滲んでくるように、じわじわと悪寒が肌を昇り詰めてゆく。
 冷や汗を浮かべながら、デイビスは振り絞る力で、喉を鳴らした。

「ドリームフライヤーには、昔から、時空を超えるという噂がありましたから」

「でもそれだけじゃ……あいつに会ったかなんて、俺に訊くはずねえだろ」

「…………」

 震える声で尋ねるデイビスに、ベースは言いにくそうに言葉を切ると、少し間を置いて——






「昨日、あなたたちが痴話喧嘩しているところを見たものですから」

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 両手で顔を覆ってうずくまるデイビス。今まで殺してきた感情が一気に反動を迎えたのか、煮え滾る羞恥心で地面を溶かして、マントルまで突き抜けてしまいそうだった。

「で、でも。まさか会話の内容までは聞こえて——」

「いえ、その。あなたは、声が大きいから」

いっそ、殺してくれッ!!!!

 いったい何の拷問なんだ。ていうか、まさかベースとそういう話をするとは思わなかった。と——どうでもいいことをぐるぐる考えながら、デイビスは果てしない熱にくずおれていった。

「ま、まあ、CWCの血気盛んな若者にはよくあることですので。青春だな——と感じていました」

「ちっとも慰めになってねえよ。その感想は」

「というか、生きているカメリア・ファルコを見られたので、感激してしまって。あなたのことは正直、蝿がブンブン唸っているな、程度にしか」

「言っていいことと悪いことがあるだろ!!」

「あなた、随分荒れていましたね。いつもあんなことを交際相手に言って、別れてきたんですか。さすがに擁護できませんよ」

「ああああああああああああああああああああああああああああんもおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 なんかもう、結局俺は、三枚目にしかなれないキャラなのかもしんない。この土壇場で、空気の抜けた風船のように、力が消えてゆく。ベースも、そのへなへなに萎れた人間を見てドン引きしたものの、妙な納得感を得てもいた。

 宿舎の管理者から、最近は妙に門限を破ることがなくなったとは耳にしていたが——なるほど、こういうことか。事情は若干、フクザツそうではあるが。
 ベースは溜め息をついて、うずくまったまま赤面している若者に声をかけた。

「しかしあなたも、とんでもない人と関係を持ってしまったものですね」

「ああ。たぶんあんたの考えているのとは違うが、色んな意味でとんでもない奴だったぞ、あいつは」

「……そ、そこのところを詳しく。彼女の何がどう、とんでもないって?」

「ベース。もしやあんた、カメリア・ギークなのか?」

「熱心な研究者と呼んでください」

 どこからともなくメモを取り出したベースに、呆れ返るデイビス。意外にもカメリアは、未来にしっかりとファンを獲得しているようだ。

 あいつのどこを知ってオタクになんてなったのだろう、と考え、日頃のカメリアの姿を頭に思い描くと、なんだか気が抜けてきて、デイビスは限りなく脱力した。なるほど、こういう効力もあるのだな、と思い直す。いつもなら何もかもどうでも良くなるところだが、今ばかりは、束の間のあいだ、重い緊張から解放されるようだった。

「あのなー。あいつは、いつも突拍子がなくて」

「はい」

「すぐ、くるくる踊り出すし。興味あることは、我を忘れて熱中するし。酒を飲むと、酔っ払って寝るし」

「はい」

「ど、どこまで本気なのか分からないし。なのに犬みたいに擦り寄ってきて。何を考えてるのか、俺には全然」

「はい」

「…………」

「なるほど。よく分かりました」

「ま、まだ何も言っていねえんだけど」

「最後の沈黙が、一番雄弁でしたので」

 それにしても、デイビスのこんな一面は見たことがなかった、とベースは考える。部下のプライベートに立ち入るつもりはなかったが、一時期は、随分荒れているのだとの噂がCWC内に流れていたこともある。若くしてストームライダーのパイロットに選ばれた、そのストレスや重圧が原因なのだと思っていた——けれども、こうして年齢に似つかわしい悩みを抱えて赤面している姿を見ると、パイロットに付き纏う勇壮なイメージとは真逆なようで、どこか愛おしくすら感じられた。

 ベースは繊細な内容に触れることを恐れるような口調で、彼に語りかけた。

「最後に、会わなくていいのですか」

「……会えねえんだよ。きっともう、会ってくれない。でも、その方がいいんだ。俺みたいな屑なんかには、会わない方が」

 毒を全部絞り出すように、デイビスはぽつぽつと声を放つ。

「あいつを知っているなら、分かるだろ。一緒にいるのは楽しかったけど、イライラしてた。あんな間近で、何の曇りもない姿を見せつけられて。……同じ飛行士でも、俺は、あんな風に真っ直ぐにはなれなかった」

 ベースは溜め息をついて、窓の外の雨に目をやった。徐々に猛威を奮い出した勢いへと変わり、稲妻の光が点滅して、その紫に濁った雲の稜線を際立たせていた。今頃は、ポート・ディスカバリー中の全員が避難している——取り残されたのは、CWCと、風力発電所の人間だけだ。

「時々、思うのです。カメリア・ファルコは、その生涯の大部分を孤独に過ごしましたが——その一番の理由は、政治的な部分にあるわけじゃない。彼女の純粋さは、現実を生き抜く人々にとって、あまりに疎ましく感じられたのではないかと」

 微かに濡れている前髪を掻きあげながら、デイビスは、静かに紡がれるその言葉を聞いていた。

「澄明すぎる水に、魚が棲まないのと同じこと。彼女はひとり、世間から遊離して、別次元を生きていたような人間です。一緒にいると、捌け口のない感情ばかり刺激されて、ただただ自己嫌悪と苛立ちが胸に募ってゆく。
 誰もが彼女を疎んじ、その原因を彼女になすりつけ、しくじればいいのにと願う。それでも彼女は、生涯に渡って、自分の夢を手離さずに生き続けた。なぜ?

 ……私は、それが知りたかった」

 デイビスは、気怠げに瞬きをした。初めて、別の人間から見た彼女の人格について、これほど深い見解を聞いたのかもしれなかった。

 二人で、色んな人と出会って、またすぐに別れて。その間、ずっと一貫して彼女のことを見つめ続けていたのは、自分だけしかいなかった。だからこそ、自分にしか見せない顔も知っている。無遠慮な話だって、何度も交わしている。自分以外の人間が、彼女とどんな関係を結ぶのかなど——考えてみたこともなかった。

「人間は、命だけで生きているわけではありません。どうしようもなく光に飢えて、苦しみのあまり死んでしまいそうになる時がある。少なくとも私は、あの人の滑稽なまでの真っ直ぐさを知って——救われました。人間は、このように生きることもできるのだと。それまで、私は涙に濡れた日々を送っていた。でも彼女と出会うことで、人生は変わったのです。彼女のおかげで、人生は私の手元に帰ってきた。私が、人生の主人公になった」

 ベースは、ゆっくりとデイビスに向かい合い、語りかけた。

「あなたも彼女の夢に魅せられたのでしょう、デイビス。嫌になるほど、自分の小ささと過ちを思い知らされて——その一方で、どうしようもなく胸が疼き、夢を掻き立てられたのではありませんか?」

 その言葉に対して、胸が熱くなり、何も返せない。

 共感は、あった。嫉妬もあった。憎しみも、蔑みも、苛立ちも、それに——否定し難い、羨望さえも。
 でも今、胸に渦巻くのは、それらとはまったく別の感情だ。

 どうして。
 どうして、ベースとあいつが、似ているだなんて思うんだよ。
 どうして今さら、こんな身勝手な理由で、後悔なんかするんだ。

 傷つけたなんて、思い出すな。
 あいつは、俺を追ってくるつもりなどさらさらない。そんな人間は、必要ない。俺だけを愛して救ってくれる奴が、この世には掃いて捨てるほど存在する。

 俺は、俺のことを地獄の底まで追ってくる人間がほしい。エゴも醜さもむきだしにして、互いに利己的な欲望を貪り合って、俺と同じ腹の内を持った人間でなければ、信用できない。信用できない人間など、絶対に愛せない。


 ————けれどもカメリアは、そんな人間じゃない。


 分からない、何を一番求めているのかも、どうやったら幸せになれるのかも。

 だから、そばになどいたくなかったんだ。

「……あんたの方が、よほどあいつのことを理解しているじゃないか。
 俺はあいつと一緒にいても、苦しいだけだった。あいつはいつだって、俺のことしか考えていなくて、俺はそれが綺麗事にしか見えなくて。俺自身が、それに堪えられなくなった」

「……ええ」

「笑っちまうよな、それだけの感情しか持てなかったんだぜ。
 あいつがこの先、どんな奴と出会うのかは知らないけど——でも、きっと——俺よりはもっと、ましな人間と……」

 口に出してみると、他人のことは考えたことがないのではなく、そんなことははなから考えたくないのだと思った。
 彼女が別の誰かと笑っているところなんて、想像もしたくない。彼女がその誰かのせいで泣いているなど、もっと嫌だ。少し思い浮かべるだけでも、どす黒い感情が胸に渦巻き、心が捩じ切れてしまいそうだった。

 自分は卑怯だ。彼女には何も伝えずに、ただ勝手な感情を抱き続けるだけ。なぜ、他の人間のように、何かを素直に伝えられる人間にはなれないのだろうか?



「——————本当に、それだけですか?」



 デイビスは、顔をあげて、ベースの目を見つめた。
 眼鏡の下の、鋭い瞳。青い深海のような眼は、全く違う色彩であるにも関わらず、なぜか彼女の瞳を思わせる。

「そんな感情だけで、本当にあの人の前に対峙することができますか?」

「だって……俺は、俺なんかじゃ、相手に何もしてやれなくて。所詮俺は、自分のことだけしか、」

「デイビス。カメリアはその生涯を懸けて、世界中の人々と対話したのですよ。故国は確かに、彼女を受け入れなかったけれども、海を超えて出会ってきた人々は、彼女と話すと、風が吹いたように心が変わった。

 それは、あなただって————」

「やめてくれよ、そんなこと!」

 耳を塞ぐ。これ以上、ベースの言葉を聞きたくなかった。

「変わらねえよ。何も変わらなかったんだ。最初にあいつと出会う前と同じ、俺はひとつも———」

 それを言いかける前に、凄まじい抵抗感が彼の胸を貫き、奪われたように声が立ち消えた。言ったら、彼女が大切にしていた何かを踏み躙る気がして、少しも声が出せなかった。

 カメリアは———
 自分にとって、何なのだろう?
 自分は結局、彼女の何が堪えられなかったのだろうか?


(あなたのきおくには、いつだってそらがあるから、そんなにもおおらかなこころをしていて、やさしいのね)


 あれを聞いた瞬間から、彼女が理解できない人間に思えた。はっきりと分かった。彼女は俺じゃない、俺は彼女になれない。こんな風に笑って、子どものように人を肯定することなんかできないと。

 カメリアは、俺の機嫌を取るためにそんなことを言ったんじゃない。
 心の空隙を埋める、都合の良い存在なわけでもない。
 ずっと、俺にはできないやり方で、世界を見つめてきた人間。そうして、劣等感でぐちゃぐちゃの俺に向かって、美しい心をもっていると呟いた。何をどうやったらそんな言葉が出てくるのか、さっぱり分からなかった。

 目に映るものすべてを讃美し、その存在に驚嘆するカメリア。そんな真っ直ぐな感情を目にし続けながら、同時に無闇に否定し続けた。それはきっと、鏡のように跳ね返ってくる冷酷な反射を恐れたからだ。掘り返せば、見たくなかった願望がどんどん出てくる。それは彼女が今まで自分に夢を見てきた姿じゃなくて、コンプレックスの渦巻く自分自身だ。

 満たされたい。
 誰かに、大切だと言われたい。
 未来永劫、見捨てられたくない。
 愛されたい、愛されたい、愛されたい。

 独りになんかなりたくない。空っぽな俺の全てを受け入れて、死ぬほど心配して、全部一緒に背負って欲しい。あんたに、その覚悟はあるのかよ、と。

 きっと彼女は狼狽するだろう。屑の自分に湧き起こるのは、独善に満ちた、自分を優先させる要求ばかり。それが無様で、惨めで、結局自分は、吐き気のするような人間にしかなれないのだと思っていた。

 けれども————



(大丈夫。私は、デイビス一筋だから)



 彼女は、俺の中に何を見ていたのだろう?

 どうして他の奴らを見ないんだ。
 どうして俺だけを見る?


(デイビスは、きっと幸せになれるよ!)


 あの真っ直ぐな鳶色の瞳が、こちらだけを見ている瞬間、すべての思考は止まる。
 自分はちっぽけで何の暗部もない男で、彼女は人間——それも、俺の心を見抜いてくれる、たったひとりの人間なのだとしか思えなくなる。
 彼女は問うてくる。何も言わずに、その佇まいだけで。

 それがあなたの本当なの? と。

 その目に見つめられて、ふと、涙が滲みそうになったことも、一度や二度ではない。彼女はきっと、自分を理解しようとしてくれるのだという安堵感。これから先、どんなことがあっても、同じ眼差しをそそいでくれるだろうという微かな希望。それらが綯交ぜになって、自虐に堕そうとする心を、包み込んでくれる気がした。

 今まで信じ込んできた、自分の醜さの数々。
 それすら、鬱屈とした自意識でねじ曲げられてはいなかっただろうか?


 彼女のそばにいて、その声を聞いている間、ずっと心に浮かんでいたのは————


(なに考えていたんだよ。そんな深刻な顔して)

 元気を出してほしい、とか。

(ああ、もう。面倒な奴だな。どうしてウロチョロしたがるんだよ)

 危ないことをするな、とか。

(次はちゃんと観に行こうぜ。今度は、ブロードウェイのチケットを買ってな)

 喜んでいる顔が見たい、とか。

(ホント、根性悪いよな、あんたって)

 どうして、好きだと言ってくれたんだ、とか。


 もっと水のように溢れる、純粋な思いでいっぱいだったはずだ。それらは一度も口にしたことはなかったけれども、彼女は何も言わずに拾いあげて——きっと、それが本質なのだと信じ続けてくれた。だからロストリバー・デルタの雨の中で、彼女はあんなことを言ったのではないか? それが真実だとしか思えないような眼差しで。


(あなたは、私が今まで出会った中で、誰よりも優しい人よ。目に見えるものに気を取られているだけで、自分では気づくことのできない、とても美しい心をもっているわ。それに——

 あなたのように深い情愛を宿した人は、神に愛されているのだと思う)


 彼女は一度も、俺のことを傷つけたいとは思わなかった。残酷だとも、冷たいとも、人の心が分からない人間だとも言わなかった。いつも深く心を見つめて、俺と交わすどんな会話も、宝物のように大切にしてくれた。それは本当に、自分の頭では理解し切れないことだったのだ。
 試すような真似も、なじるような行為も、見下すような言動もした。好きだと言ってくれる人間を傷つけて、何が欲しかったのだろう。自己愛? 実感? 裏切られない証明? 違う。心の底では、その意味も理由も分かっていた。

 誰も信じたくなかった。信じたいと思いながら、まともな感情表現すら示せず、他人に見捨てられる自分に絶望したくなかった。彼女の言葉をまともに取る意味などない、と言い訳を重ねていただけで、自分の中にも、好きになってほしいという欲望があったのだ。いつも素直に笑いかけてくれる彼女の方が、本当は自分の心よりも、ずっと大切だった。それを認めたら二度とひとりで生きていけない気がして、否定し続けていただけ。

 自分を愛することができない、だから彼女とも向きあうことができない。ただただ疑って、献身だけ搾取して、保身することしか考えない卑怯者。カメリアは誰よりも俺の幸せを優先してくれたのに、結局、俺が彼女にしてやれたことって———


「デイビス。あなたは……」


 ぽた——と足元の床に数滴の涙が滴ってゆくのに気づいて、ベースは思わず彼に呼びかけた。

 彼は俯き、悔しげに震える唇を噛み締めながら、潤んでゆく眼を見張っていた。職場では泣いているところを見せまいという、彼なりの精一杯の気概だったのかもしれない。黙り込んだまま自責に暮れているその顔は、親友と喧嘩別れをした、幼い少年の姿に似ていた。

「急いで拭いなさい。涙で前方が見えなくなっては、危険ですから」

「……ああ。分かってる」

「帰ってきた暁には、彼女に本当のことを言いなさい。きっと理解してくれるはずよ」

「ああ……」

 乱暴に袖で頬を拭うデイビス。それが青年らしい年相応の仕草のようで、ベースは胸を締めつけられた。

「ごめん、ベース。今だけひとりにしてくれないか。ここはあんたの部屋だし、発進まで時間がないのも分かってる。

 でも。

 他にどこにも、行くところがなくて……」

「———分かりました。ごめんなさい、思い出させてしまって」

「……いや。たぶん、思い出した方がよかったんだ」

 ベースは黙ってノートパソコンをまとめ、司令室を後にした。扉を閉める直前、ベースの目に映ったのは、発進を控えるパイロットの、勇猛果敢な姿ではない。
 ちいさくうずくまり、声を押し殺して泣き腫らしている、デイビスの姿だった。






 そして、発進予定まで、残り三十分。時刻は、十八時半を迎える。

 ゆっくりとドアを叩き、司令室内に入ると——ベースの真向かいには、すでにパイロット・スーツに着替えたデイビスが、窓ガラスに横顔を映したまま、物思いに耽るように外を眺めていた。常はこの時間なら灯火が入っているはずだが、今は宵闇に覆われ、微かな建造物の輪郭しか見えない。しかしそれでも彼は、長い間外を眺め続けていたらしい。まるでこの世で見られる最後の故郷の姿をその目に留めようとしているかのように、ぼんやりとした眼差しを浮かばせていた。

 目許は赤かったが、すっかり頬は乾いていた。ベースに気づくと、もう大丈夫だ、と短く呟いて、他に何も言わなかった。網膜に滲みるような白のグローブは、指を通すことなく、さながら喪中の人間がハンカチを携えるように、柔らかに片手に握られていた。

「行きましょうか」

 彼は頷いた。発進準備を終えて——もうすぐ、出発だ。振り切るように首を振って、司令室を出た。

 廊下に出た段階で、すでに雨音がおぞましいほどこのセンターを包み込んでいることが感じられた。ぞく、と鳥肌が立つが、もう心を乱してはならない。この空白の時間のあいだ、自分にできる限りで、精神面を整えてきたはずだ。大丈夫、搭乗はできる。未練といえば、結局、カメリアとも喧嘩別れで終わったことくらいか。

 それについても、もう諦めはついている。廊下に靴音を響かせながら、デイビスは思考した。相手の方からこの時代にやってこない限り、自分からは連絡など取れはしない。だからそもそも物理的に、それは不可能なのだ。どんなに願っても、もう彼女とは、話すことすら———


 そこまで考えて——デイビスは何かに憑かれたかのように、立ち止まった。

「デイビス? どうしましたか」

 背後の足音が途絶えたのに気づき、ベースは振り向いた。しかしデイビスは、ほとんど彼女の声など耳に入っていなかった。今はただ、わななくように——脳裏を過ぎったその閃きに、凄まじい意識をそそいでいた。



 フローティングシティのフェスティバルで買った、彼女との対の無線機————




 それは単なる無線機に過ぎない。通常なら、時代を超えて繋がるはずなど、万に一つもあり得はしない。

 けれどもあの無線機は、自分では理解できないことをたびたび引き起こしてきた。そして最初にそれに出くわした時の、どこか懐かしいオクターブの鼻声が、彼の胸によみがえってくる。


 ————デイビス、君はどうしても忘れたくない人を、心の中に持ってる?————


 あの瞬間、混線なのか、それとも未知の力なのかは分からないが、確かに別世界の声が、彼に語りかけてきた。そしてその声は、彼に重要な助言を残して、想像もつかないような魔法を繰り広げたのだ。

 どくん、と心臓が鼓動した。それは戸棚の奥に忘れかけていたものを発見して、手が止まるような思い。けれども、震える心が、明らかな可能性——期待——を持って、それに縋りつこうとしているのを、抑えることができない。


(私はずっと、デイビス一筋だから。世界で一番大好きなのは、あなただけだよ)


 ————信じられるか?
 彼女がそれを、心の底から語っていたのだと。
 自分がどれほど馬鹿なことをしでかしたとしても、彼女だけは見捨てずに、自分が立ち直るまで待っていてくれるのだと。

 そう、信じられるか?
 信じたい・・・・と、自分は思っているのか?
 いや、例え彼女が本気でなくてもいい。自分が、その未来の恐怖を呑み込むほどに——



 ————誰かのすべてを信じてみようと、本気でそう願っているか?



「————ベース!」

 デイビスは勢い良く顔を上げると、目の前のベースの両肩を掴み、急いで、頭に思い浮かんだことを伝達した。

「ベース、頼む、俺の上着の中にある無線機を持ってきてくれないか。九四番のロッカー、黒のジャケット、暗証番号は0415だ」

「ど——どうしたの? 指定の通信機器以外は、機内には持っていけませんよ」

 脂汗の滲む中、デイビスの眼は澄み渡る焰のような静寂を帯びて底光っていた。

「カメリアと話をさせてくれ。———これが、最後かもしれないから」

 短いが素早い息に乗せて、デイビスは一気に言葉を紡いだ。緊迫と紙一重の昂ぶりが、妖しく内臓を打つ。

 ベースは一瞬躊躇し、デイビスと見つめ合った。しかし素早く腕時計を見て、すぐに彼の手首を掴むと、

「来なさい」

と叫んで、そばの小会議室に押し込んだ。誰もいないそのがらんどうの部屋。それは発進前に身を寄せるにはあまりに淋しい空間だが、確かに彼らの会話を、他の人間から隔離してくれるものだった。
 ベースはただちに彼のジャケットを取りに行き、急いで目的の上着を見つけると、薄暗い部屋の中で待つデイビスに手渡した。すぐにそれを漁った。硬い感覚が、ポケットを探る手に触れた。引き出した瞬間、恐ろしく心臓が脈打ち始めているのを感じた。

「時間がないわ、搭乗準備完了まであと三分よ。すぐに彼女と話をなさい」

 電源を入れ、でたらめのチャネルへ回して、通話スイッチを押し込む。その親指が、震えていた。耳鳴りがして、息苦しい緊張が頭に響き返るようだった。

 ノイズが一気に、彼の鼓膜を塗り潰す。通常はクリアな音なのに、その時は酷かった。激しい動悸がする。胸が真っ白になってゆく感覚が怖くて、必死に、椅子の背に縋りついた。

 何を言えばいい?
 分からない。でもとにかく、話さなくてはならない。ずっと心の底で考えていたことを、今度こそ、言葉にして伝えるんだ。

「……カメリア、聞こえるか? 俺だ、デイビスだ。頼む、答えてくれよ——カメリア!」

 悲鳴をあげるように、彼は話しかけた。けれども何も答えは返ってこない。凍りつくようなノイズはすべてを呑み込むようで、自然と足元が竦んだ。誰かの声がしなければ、世界中で、たった独りになってしまった気がした。

 怖い。
 嫌だ。
 助けてくれ。
 死にたくない。

 指揮官たる人間が口にするにはあまりに惨めな言葉が、唇から飛び出しそうになる。屠られるのを待つ死刑囚のように、ただボロボロと、崩れ落ちそうな虚勢を必死に掻き集めることもできず、恐怖を前に泣き喚くしかないかのように。

 だけど、もしもこれが最後の会話なら。あいつに伝えたいのは、そんなことじゃない。

 それは、弱音を吐いてはならない、という義務感ではなく。彼女は、いつも笑って俺と接してくれたから。俺も同じように、一人の「人間」として、彼女の言葉に向き合いたい。

 ざあざあと冷酷な豪雨のように勢いを増してゆく砂嵐に向かって、デイビスは狂ったように引き攣れた声で叫び続けた。

「カメリア! このまま、あんたと喧嘩したままで終わりたくないんだ。俺を嫌いになってもいいから、今だけは返事してくれ。カメリア!」

 気づいていないか、話したくないのか、あるいはそもそも通じてすらいないのか——歯を食いしばった瞬間、突如として耳をつんざく不協和音が入る。息を詰めて耳を澄ませていると、波打つような雑音の向こう側から、それまで涙に暮れていたような、弱々しく掠れた声が応答した。



《…………デイビス?》



 ぞくり、と全身が震えた。繋がった——何もかも消え失せるような安堵感で、その場に崩れ落ちそうだった。目の前に垂れ下がった、その一縷の希望の糸を手放さぬよう、デイビスはただひとつの名を叫ぶ。

「カメリア? カメリアなのか!?」

《ええ——どうしたの。何か、困ったことでもあったの》

 その言葉の最後に、雑音が入り混じった。嵐のせいか、酷く通信状態が悪い。いつ途絶えてもおかしくない、そう思い知ることに恐怖を覚え、彼は無線機を握り締めた。時空を超えた彼女との会話は、このか細い一本の通話にかかっている。もし通信が切れたら、それが最後だ。

 激しい暴風雨のさなかで、デイビスは声を張り上げ、心に浮かんだことをそのまま語り始めた。

「ごめん、カメリア。あの時はあんたに失望されたくなくて——あんたに嫌われるのが怖くて、思っていることと正反対のことを口にしたんだ。もう、俺はあんたにごまかしたりしない。今度こそ、本当のことを言うよ。

 カメリア、俺はあんたに憧れていた。初めて会った日から、ずっと、ずっとだ。いつだってあんたは、俺の理想のヒーローとして、進むべき道を歩き続けていた。そうやって、あんたに追いつきたいと望んでいるうちに——いつのまにか、ほかに何も考えられなくなった。カメリア、本当は、あんたみたいになりたかったんだ。あんたがまぶしくて、あんたみたいに真っ直ぐに夢を見たくて、あんな人間みたいになって生きてゆけたらって、ずっとずっと、そう願っていたんだ」

《……あ、あの。大事な話なら、私がそっちに——》

「だめだ、ここには来るな!」

 身を竦ませるほどの叫び声に、部屋が震えた。無線越しに、カメリアの戸惑ったような空気が伝わってくる。
 デイビスは、手に湿っている汗を握りながら、確実にすり減ってゆく時間を意識しつつ、伝えるべきことを速やかに口にした。

「ストームが近づいてきている。危険なんだ。もしあんたが暴風に巻き込まれたら、生きて帰れるか分からない。それに俺だって——あんたにもう一度会えるかどうか——」

「デイビス、搭乗時間が迫ってきています。急いで」

 ベースが緊迫した声でデイビスに声をかける。彼は腕時計を見た。残された時間は、あと一分しかない。

「これから俺はストームライダーに搭乗して、ストームを消滅させに行く。カメリア、だから絶対に俺には会いにくるな。あんたはこの時代の脅威とは関係ないんだ。だからもう、こっちに来ちゃだめだ」

《でも私、あなたに伝えなきゃいけないことが——!》

「だめったらだめなんだ。言うことを聞け!」

《デイビス、あなたはこれからストームに向かうのね? あなたはそこに行くのね?》

「ああ、それが俺の夢だったからだ。俺の生まれ育ったポート・ディスカバリーを守りたい。でも、それが終わった暁には——」

 言いさしたデイビスは、ふっと、縋りつくような眼差しを、薄暗い隅に向ける。

 虚しい、空っぽの、孤独な部屋。

 けれども、目の前に、彼女がいるような気がした。時を超えて、同じ夢を持つ者が、自分のそばにいてくれるような気がした。



「————もう一度、世界を見に行こう、カメリア。一緒に空を飛んで、冒険しよう。この世の果てまで、ずっとずっと一緒に」



 それが、彼女に伝えられる精一杯だった。ちょうど秒針が、三周目の終わりを指した。

「……じゃあな」

 ブツ、と切り上げる音を残して、無線機をデスクの上に置く。後は、凍るような沈黙が部屋を侵してゆく。



「キャプテン・デイビス。時間です。指揮を執ってください」



 いつまでも俯いたままでいる彼に、ベースが慮ったように、声を掛けた。

 今、この時代に彼女はいない。
 けれども————


 彼女のように、夢を追うことはできる。


 デイビスは、拳を握り締め、顔をあげた。

 これは、俺が始めた空の上の物語だ。
 主人公は彼女じゃない。俺だ。
 だから俺は、彼女がいなくとも、俺の力で嵐を疾駆し、空を目指さねばならない。

 人類愛? 世界平和?
 ああ、確かにかつての自分は、それを虚妄だと嘲笑うような人間だった。数多の人々が、荒唐無稽なその夢を叶えるために、限りない想像力を膨らませてきた。人類史の大半は、野望に明け暮れた歴史が広がっている。しかしその影で脈々と、糸のように細い何条もの人々の願いが紡がれて——その果てしない螺旋階段の先に、俺のいる時代が幕を開け、今、この瞬間に繋がっている。

 雨を突き抜け、雲を打ち払い、ふたたび、自身の生まれ育った地に、太陽の光を輝かせるために。


 グローブを、嵌める。
 マイクセットを装着し。

 胸には、鷹のピン・ブローチを。


 ————パイロット・スーツを翻したキャプテン・デイビスは、大きく一歩を踏み出すと、ストームライダーへと繋がる、光に溢れた扉をくぐり抜けた。


「燃料ライン、フロースルースタンバイ! プレフライトクルー、各位置にて待機。グランドクルー、予備検査準備に移れ!」

 どれほどの熱が込められていたのか——想像するだにおこがましい裂帛が口から迸り、マイクの彼方に指示を飛ばした。発せられた彼の声は、彼自身の鼓膜を境に、質を変じたかの如くぐにゃり——とねじ曲がった。おかしい、水中を通したかのように——得体の知れない、ナニカを纏っている。

 凄まじい覇気——いや、ここまでくると瘴気、なのだろうか?
 おぞましい気魄を湛えてぎらつく瞳の中に、焰の躍動が射してくる。目の前の絶望を塗り替えてゆく、凄まじい熱気。果たして地の上に生きる人間が、ここまでの代物を身ぬちに宿せたものだろうか? 莫大な責任を負わされ、死ぬまで闘うことを命じられた青年の、それゆえにこれは、汚辱に塗れた最後の物語となるだろう。

 その眼光はまるで、虚無を呑み干そうとする毒沼のよう。武者震いを抑えつけようとする息遣いの中で、一閃——微かながらも、彼に応答する声が聞こえてきた。

 それは、遠いどこかに回帰してゆくような。造作もなく響き渡るそれが、陽炎の彼方から、忘れかけていた何かを蘇らせてゆくような。

 不思議だった。
 自分は今から、そこに行くのだという気がした。
 遠くはなく、不可能な道のりでもない。
 必ずそこに辿り着けるのだという、絶対的な自負があった。



————"She should have died hereafter;
There would have been a time for such a word."



 拳を開いて、白いグローブに包まれた手の中に目を落とす。握り締めていたエンジンキーは、ただひとつのよすがのように、熱い。次の瞬間、あまりにも強烈な反射が、その金属のカケラから発せられた。まさしく、信じ難い不可思議な現象。だがそれを天啓ではなく、至極当然のこと・・・・・・・として、彼の理性が受け止めた。火傷しそうな、銀色に滑る光。それはうねり、滾り、灼熱となって虚空を揺らめかせてゆく。この世に存在するあらゆるものから、彼一人が隔絶され。その暴虐的な輝きに、脳が書き換えられてゆく。



"Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow,
Creeps in this petty pace from day to day,"



 鼻先まで押し迫る死の予兆を前にして、眼を射るばかりにまばゆいそれは、聴き慣れない共鳴の奥底から、激しい何かを語りかけてくる。デイビスはすべてを忘れて、その声の懐かしさに身を委ねた。

 ———そうか。
 ———待っていてくれたんだな、俺のこと。

 胸に燻るのは、愛おしさ、に近い何か。触れれば蒸発しそうなほどの激情に当てられ、近づいたものすべてが熔け落ちてしまうような錯覚。微かな熱風に、髪が浮き立つようにすら感じる。雨の一粒一粒すら聞き分けられるその世界には、自分と、自分を呼ばうその声だけしか存在していない気がした。
 たった、ふたりきり。それがどれほど甘美な独占欲を掻き立てることか。

 闇をつんざく雷鳴のさなかで、ゆっくりと開かれてゆく瞳に、徐々に理解の色が、次いで人間の感情が、漲ってゆく。
 砂漠に落とした一滴が、瞬く間に水を吸い尽くすのも同じ。自らを待ち受けるものが、克明に見えてくる。

 ————デイビスは、静かに目を見開いた。



"To the last syllable of recorded time;"



 確信し始めたそれが、気づいてみれば、あまりにも当然の内容で。薄っすらと、デイビスの顔には笑みすら射してきた。辺りを圧倒して鬼気迫るその微笑は、雨に酔い痴れるかの如く蕩然として。美しい——誰もがそう呟き、魂を吸い込まれたであろう。ただ一点、彼の胸を毒のように蝕んでゆく、狂人じみた執念に気づかなければ。


 ————ああ、そうか。
 ————最初から分かっていたんだ。飛ぶことは、俺の本能だから。俺の中に燃え広がる情熱を、この世の誰も消し去ることはできない。そう、だって俺は、



 ————この地獄へと足を踏み入れることを、俺自身・・・が、どうしようもなく熱望している。



 全身を無限に駆けめぐる、性欲にも似た昂奮。
 魂の奥底に眠っていた、狂気とも見紛う熱情。破滅的——と言っても良いのかもしれない、けして止まらない、異常な対流を起こしながら揺らぎ続ける焰。
 その情熱のすべてを、注ぎ込め。激突しろ。自分の限りを叩きつけろ、と。脳裏にまで激しく脈搏つその心臓が、残酷な命令を告げている。髪の一本、指の爪に至るまで、慟哭めいた死の匂いに包まれながら、それでも彼の瞳は、吹き荒れる威圧に照らし出され、遠い空の先を射抜いていた。

 徐々にその全身は、力強い威厳を湛え始め。
 血潮ののぼる唇を嫣然と和らげ、ふたたび、あの妖艶な笑みを引く。
 髪が流れ、曝け出されるのは、異様なまでに光り輝く双眸。それが、凄まじい情熱を糧に、極限まで高められた閃光を辺りに噴き散らしてゆくかのよう。
 掻き毟るような切望に浸り切り、研ぎ澄まされ。どこか現実離れした美貌をもつ青年は、その凄絶な表情を露わにしていた。



"And all yesterdays have
our lighted fools;"



 誰の真似事でもなく、追従でも、鏡でもない。
 降りしきる豪雨の中、彼の五感を塗り潰していたのは、きっと————



「……そうか、そうだったな。忘れていたよ、この世の誰も、俺たちの情熱を消し去ることはできないってこと。
 あいつのそばにはいつも、あいつの夢見たドリームフライヤーがあったように。

 ————俺が事切れるその瞬間まで、俺とお前は、ずっと一緒なんだ」



 ————自分ならば・・・・・、ストームライダーを支配できる、という絶対的な確信。全世界の沈黙に閉ざされた闇の底で、孤独に呼び合い、惹かれ合うように。あの鋼鉄の塊が、己れを求めている。恍惚としていた。魂が炙られてゆくのも、マグマのうねるように感じるのも、あの規格外の歓喜が、ざわめく熱とともに甦ってきたから。焦がれて焦がれて止まない、あの焰のような自分を求める感覚が、あまりにも陶然と彼の魂に取り憑き、そして一体となる。愛しい、恋しい、それだけにはとても収まるはずもない、耳いっぱいに聞こえてくるのは、自分の半身のような比翼の声だ。眩暈がする。ストームライダーが、俺を求めている。見えぬ糸に引かれ、圧倒的な動悸とともに、ただ、求めるものの方向へと歩み寄ってゆく。



"The way to dusty death."



 もう、何もかもがどうでもいい。
 何を捨てたって構わない。

 ストームライダーが、ほしい。
 俺がこの世に生まれた意味を、今さら誰に明け渡せるというのか。

 脳が麻痺して、他に何も考えられない。どれほど体を痛めつけられても、何も感じないかもしれない。全部が、頭から消え果てていた。
 もはや、街の存亡も、自らの死さえもが、どうでもいい。すべてが、この瞬間へと導いている。道は、すでに決していた。
 だから、進むだけ。何もかもが滅裂な光を放ちながら、火の粉のように熱く、羽毛のように軽く、彼の肌を滑り撫でてゆく。きっと、死ぬほど焦がれるとは、このことを言うのだろう。

 まるでそれは、熱烈に求め合う恋人たちのよう、灼け落ちるほどに張り詰めた高揚感に炙られ、デイビスは、よろめくように前へ進み出る。薄明かりの中で呼び交わすのは、自らを地獄へと導く、悪魔の声だったのかもしれない。けれども、それさえも、もはやどうでもよかった。自らを、あれほどまでに執着した飛行機へと導いてくれるなら。いっそ悪魔であろうと、その魂を売り渡し、呼び声を掴もうとしていたのだろう。


(キャプテン・デイビス。あなたは——)


 ベースは遅れて理解し始めた。

 この青年はまだ、諦めていない。
 いや、それどころか——
 絶望の淵で、なおも夢を見続けている。

「ベース——」

「……は、はい」

「時間だ。ベース・コントロールへ行ってくれ。俺はこのまま、ストームライダーへと向かう」

 まるで、嵐の先に広がる星空でも見あげるかのように。長い睫毛に縁取られたその眼は、闇の底で、異様な昂りを孕んでいた。

「俺は小さい頃から、ずっと空を飛びたかった。たぶん、理由なんてないんだと思う。でも、たまらなく空が好きで、なんとか自由になりたくて。太陽の光でいっぱいの世界に行きたくて——そこに到達するために、随分遠回りをしてしまった。

 ありがとな。
 俺の道は、間違っていなかった。そう分かるためには、一度、すべてを失わなければならなかったんだ。

 誰に否定されても、目の前にストームライダーがあるなら——夢は、けして消えることなんてない。俺が俺のことを信じる限り、あの大好きな空に、何度だって飛べるんだ。だって俺の夢は、この先に、待っていてくれるんだから」

 そう言って振り返った彼は、あまりにも——無邪気・・・。いつものように快活な、あの人懐こい微笑。だが緑の瞳は太陽をも超えるように輝き、螺子の外れた意志をぎらつかせ、ほとんど常軌を逸していた。いや、本当にそれは、人間のものなのだろうか? 異常異常異常異常、すべてを燃やし尽くす絶望的な歓喜が迸るのを目にした瞬間、全力で精神が、警鐘を掻き鳴らしている。ストームライダーに乗るためなら、この青年は、世界に火を放つことも厭わないであろう。赤々と照らされ、焰の中で微笑む。それだけの覇気が、彼の肉体を包み込んでいた。



「ストームライダーは、生きている・・・・・。さあ、見てろよ、みんな。ここからが、俺たちの冒険の始まりだぜ」



 デイビスは、ワラう。大胆不敵に。挑戦的に。
 その澄み渡った瞳は、この世の何も映し出してはいない。

 そしてその時、ベースの胸を染めた感情は、ただひとつ。



 —————未知のものを目の当たりにした、純然たる恐怖・・、そのものであった。




"It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing."



 さあ、始めよう。
 これは、二人の天才が邂逅し、二つの飛行機に導かれ、未来の戯曲を変えてゆく物語。

 これから幕を開けるのは、この大空の嵐の面を司る、一機の飛行機をめぐる英雄譚。
 賢明な読者諸君ならばお分かりであろう、それが誰を主人公とし、誰の夢を掴むまでを描くのか。

 そして、後に《航空史上最高の飛行士》と謳われ、数々の書物にその生涯を綴られることになる孤高の偉人——キャプテン・デイビスの伝説は、まさに今、この瞬間から始まることになる。


 ————一歩、
  ————また一歩、
   ————這い進むように、

     ————彼はそこへ近づいてゆく。


 それはあたかも、全てを薙ぎ伏せる王者の如く。踊れ、踊れ、と命じる舞台の拘束に抗うかのように。欲望の限りを尽くし、敵に首を斬り落とされるまで、邪魔なものすべてが、情熱の下に灼き払われてゆく。

 途方もない科学技術と巨万の富を費やされ、この世に生まれた白銀の怪物を服従させることができるのは、まさしくストームライダーに選ばれた者、ただ一人。彼の横顔を照らし出すのは、激しい雷雨。

 一際鮮やかな稲妻の駆ける、その一瞬。


 運命の浴びせる言葉と、
 彼の囁きかけた言葉が、


おぞましいまでの光を叩きつけて交錯する。



"Out, out, brief candle!
消えろ、消えろ、たまゆらの蠟燭!
Life's but a walking shadow, a poor player,
命は歩き回る影、侘しい役者だ、
That struts and frets his hour upon the stage,
舞台の上の傲りも嘆きも、
And then is heard no more.
その後は何も聞こえない"————


 ————ストームライダー、俺を連れて行ってくれ。この情熱の燃えあがる、激しい嵐の彼方へと。



 隙間もなく聴覚を埋めてゆく、甚大な雨の音。
 ほんのつかのまの一時、その音響が、薄明かりのうちに蒸発した気がした。遅れて、激しい迅雷が、天地を引きちぎるように轟いた。しかし靴音の反響は鳴り止まなかった。休むことなく前進し続け、道を切り開くのはたったひとり。何かの錯誤のように、何かの間違いのように、その全身からは、膨大な光の奔流が解き放たれていた。

 靴音が止む。
 黎明を織り成したかの如く燃える髪。
 見えない風が、彼の体をなで切り、覆い尽くす。

 豪雨の叩きつける中、一人の青年の放った裂帛が、雷鳴の如き激しさで宙を切り裂き、虚空を轟かせた。


「CWC総員に告ぐ! こちらミッション最高指揮官、キャプテン・デイビス。これより、ストームライダーIIへの搭乗を開始する! 現在時刻、一八ワンエイト三七ツリーセブン三二ツリーツー、発進開始予定時刻、一九ワンナイツ〇〇ゼロゼロ〇〇ゼロゼロ。総員、各ポジションにつき、発進準備を開始せよ!

 本ストームは人類気象観測史上最大の勢力である。各自、持てる力の全てをそそいで責務を果たせ。怯懦は切り捨てろ、歔欷など不要。臆するな、各人の使命にのみ集中しろ。任務を軽んじる者は去れ、絶望なんぞに身を費やすな。泣き言を吐く臆病者など、必要ない。

 全ての者が、勝利への道を考えよ。各々の働きが、このストームから降りそそぐ雨を払い、嵐を消滅させる礎となることを自覚せよ。諸君の生きる街は、我々人類の打ち樹てた、誇り高き科学の理想郷である。その故郷に対して、何ができるのかを己れに問え。もしも明日、このマリーナに人々の笑い声がさざめき、波の音が満ち満ちて、ふたたび、あのまばゆい朝の光を浴びることを望むのならば、我々全員の持つ力を結集させ、一丸となって、嵐の彼方へと進んでゆかねばならない。指揮官は、ここにいる人間すべての精神を率いて飛ぶ。諸君は、このマリーナに生まれた矜持を胸に、嵐の中でともに闘えるか。誰の前でもない、ただ己れの胸に、この故郷を愛していると宣誓できるのか。ならば今ここで、常に前進し続けることを誓え、恐怖は不要、任務に必要なもの以外のすべてを振るい落とせ。憂虞に惑わされるな、指揮官が下すあらゆる命令に従い、その実現に最大限の努力を払え。我々の求める可能性を掴み取るのは、明日も生きたいと欲する人間の拳だけだ。これが人類と自然との闘争を担うものならば、俺は諸君に命じる、最後まで人間・・たれ! 立ちあがれ、屈するな、目の前を灼き尽くせ。けして絶望するな———人間の矜持を示せ! 人間として歯を食いしばれ、人間として生きよ! 怯むな、立ち止まるな、CWCの全員に命じる、前進せよ、けして退くな、人間たれ・・・・

 CWC総員に告ぐ! これより我々は、未曾有の嵐の中に突入してゆく。いかなる対決にも怖気付くな、前進しろ、指揮官の言葉に命を賭けよ。今この瞬間、指揮官に信念を託せない者は去れ! ストームは必ず、我々の手で消滅させる。この言葉を血潮とともに刻み、共闘を掲げられる人間のみ、このストームライダーの任務に参加せよ!」


 それは、人類として生まれついた者の覚悟か、慟哭か。
 CWC中に殷々と響くその声に秘められた、凄まじい焰に気圧されて、全職員が、言葉を失った。燃え盛る血潮が、その主人の心臓を素手で切り裂き、噴きこぼれるそれを、各々の胸に浴びせたかのようであった。

 熾烈な——ともすれば、冷酷な至上命令とも聞こえる、開戦予告。空虚に満ちたCWCに響き返る、その威令が消え果てる間もなく、新たな稲妻が降りそそいだ。しかし大気が震えたのは、けして雷によってのみではない。
 それまで嵐の中を彷徨うように道を見失っていた人々の意思が、初めてその言葉の先に収斂してゆく。何かが形を取り、生まれ始める。その中心には、激しい光を双眸に宿して人間たちを率いる、一人の英雄の姿があった。

 それは逃げ場をなくし、退路を絶たれ、立ち向かうしか術がない人間たちの、惨めな悪足掻き。——そう捉えることも、できるはずだった。

 人々の世界は、神の手の上。
 記述された文字列の先。結末は、けして動かない。
 遅々たる速度で這い進んでゆく、塵まみれの死への道。供犠役を担わされた青年は、薄暗い舞台の上で、哀れにも躍り続ける。

 しかし、物語は、それで終わりだろうか?
 彼の口から語られる言葉は、屠られる者の語りにしか過ぎないのだろうか?

 未だ闇の中を彷徨う生者たちは、彼の呼吸に耳を傾けるだろう。
 街という街に、たまゆらの蠟燭が張り巡らされるように。命という光が、ひとつ、またひとつと、塵の底を照らしてゆき、微かな灯火にも満たぬその輝きは、夜の底を吹き払い、やがて黎明に連なる、巨大な一連の物語を織り成してゆく。

 その運動を、闇の中で震える者が張った、末期の虚勢だと笑えるだろうか。
 生きたいと切望する生命が描いた、あまりにも確証のない幻だと、一蹴することができるだろうか?



 ————否、よしんばそうだとしても、その宣告が、彼の精神に何の揺らぎを齎らすだろうか。



 何者も、何者もその青年が率いる強靭な光を穢すことはできないだろう。
 そう、これは神の記述する歴史ではない。
 彼の手が紡ぎ続ける、たったひとつの物語なのだから。


《ベース・コントロールより、CWC総員に告ぐ! ストームの最新情報を取得。瞬間最大風速は最高速度を更新しています》

「全ホログラム、およびディスプレイ表示を、レーダースクリーンへ! ミッションメンバー全員に、直ちに情報共有を!」

《Attention、ベース・コントロールより、CWC総員へ、ストーム追跡レポートを報告。全職員、アナウンスに傾聴せよ》

 ベース・コントロールからの声とともに、ヴン——と音がして、CWCに設置されたすべてのディスプレイから、生命の灯火が途絶えるように、一斉に映像が掻き消えた。

 誰もいない、ミッション・コントロールルーム。闇の淵に沈んだその部屋は、たった一人のそれを除いて、生き物の落ちる影が一つもない。
 かつて、ここはゲストに溢れた、科学技術の希望を語る部屋だった。それが——今やご覧の通り。見る影もない、と冗談めかして語るには、あまりにも薄暗い密室。人の身動ぎはなく、人の声もなく、ストームライダーの模型が、吊り下がるライトの微かな反射をちらつかせるばかり。

 その中心で————

 キャプテン・デイビスひとりが、ストームディフューザーを据えたその壇上を見あげている。まるで昔日の、甘美な幻を映し出すかのように。

(革新的なのは、ヘリコプターのようにストームの上空まで上がってから、ゆっくりと穏やかな目の中へと降りていけるところです。安全性は完璧です。安全だからこそ、皆さんにも体験してもらえるんです)

 そう誇らしげに語るプレフライトクルーの声が、今も耳に蘇るかの如く。誰もがストームライダーの力を疑わず、喝采を沸かせ、そして夢を抱いた。

 だが今は、氷のような眼を細めた彼が、何も映されていない巨大なディスプレイを見つめるだけ。皮肉なものだ。最後を気取るにしては、なんと芝居がかって、滑稽で、道化じみた観客であることか。

 そこへ突如、凄まじい音ともに、通信を荒らされた映像が八つ裂きになる。一瞬、吐き気のするほどに醜悪なモザイク状の断片が映し出された後、粉々に砕け散ったその画像が拾い集められ、虚しい電子の努力が、辛うじて情報を伝えようとする。朧ろではあるがその見慣れた影を、フローティングシティ周辺の地図だと認識した彼は、一歩、間合いを詰めた。さらに注意深く目を凝らし、真理を見定めようと試みる。

 沈黙。そして、静寂。
 時が凍りついた、と形容するに相応しい。

 貫くように、前だけを見据えるデイビス。散り散りに乱れたブルーライトに照らし出されるその眉間には、激しい光と翳が寄り、その下に嵌め込まれた眼は、何か険しい、厖大な思考を孕んでいた。
 いかなる抽象や普遍の声にも惑わされず、刹那的な思想に抗うかの如く。

 ただ、破滅的な状況を告げる声を、聞き続ける。


《Attention。ストーム追跡レポートでは、中心気圧は864hPa。中心付近の最大風速は96m/s、瞬間最大風速は131m/s。フローティングシティ南南東から、十一時方向に北上中》


 格納庫の外壁には、激しい雨が叩きつけられ、トタン板を突き破るような轟音を立てていた。その虚ろなCWCの全域に、無線の音声が響く。ざあざあと身の凍るような膨大な雨の矢がガラスを揺さぶり、今にも窓を叩き割りそうだった。その奥底で、ストームライダーの影は無言で身を横たえ、静かに発進の時を待つ。デイビスは独り、薄闇の中から投げかけられるディスプレイの光芒に目を細めていたが、やがて外の雨を寂しげに一瞥すると、硬い靴音とともに、ゆっくりと通り過ぎてゆく。

 彼とストームライダーを結びつける途上には、あらゆるものが、照らし抜かれるのを待っていた。鋼鉄の壁は、彼と外界を隔絶し、海面は発狂するばかりに眩ゆい稲光に照らされ、そして濃密な死の沈黙は、足下に干涸びて、転がっている。

 生きるか、死ぬか。
 墜ちるか、そこへ辿り着けるか。

 目も眩むばかりの高揚感が押し包む。もはや、それだけの岐路を目の前にしても、何もない。深く深く浮かんできた笑みの下で、吹き荒れる情熱が、彼を熱く打ち震わせるだけ。


 ———ああ、そうだ。俺には、ストームライダーがいる。

 ———何をしてでも、あの飛行機のパイロットになりたかった。今が、その夢の叶う時なんだ。


 視界を射る、白銀の、光。
 やっと会えた、とでも言うように。デイビスは薄い笑みを引いた。幼子が破顔するにしても、これほどに無垢な嬉しさは零れるまい。細胞のひとつひとつがざわめいて、歓喜の声をわななかせている。


 雨音は依然として、止むことはない。
 闇に包まれた格納庫。



     その、奥深くに—————



 叩きつける豪雨の中で、彼は自らの愛用機、ストームライダーIIと対峙し合った。全長約三九・五メートル、全幅四五・八メートル、全高一九・五メートル。六階建てのビルにも匹敵するその鮮やかな巨体は、前面をプラチナの如く光らせながら、いつもと同じように堂々たる姿で、彼を迎え入れた。

 流線で描かれた翼は、完璧な角度を保っている。
 染みひとつない機体。
 ビューポートシールドの蒼い反射が、窓ガラスを滴る雨までもを映し込みながら、角度を変えるたびに滑り落ちる。溜め息の出るような高潔さだった。

 美、窮極そのもの。
 鋼鉄の作品として、これ以上に完全なものはない。
 拝跪したくなるような感さえ携えて、キャプテン・デイビスは、その穢れなき姿に魅入った。

 そこにあるだけで存在感が漂い、辺り一帯を、白銀へと染めあげてゆく。これほどに雰囲気を支配するものは、世に二つとありえないであろう。全てが圧巻、全てが魁偉。その鋼鉄の輝きは、尋常の範囲を軽々と超えていた。

 この飛行機に込められた理想は、一度も、人の手によって穢されたりはしなかった。
 数多の人間の夢、それは生きること。
 苦悩しながらも前へと歩き続ける、あの永遠の道のりの上を、ストームライダーは昂然として飛び続ける。

 彼はその艶やかな機体を見あげ、愛おしげに語りかけた。



「————行くぜ、ストームライダーII。今度こそ俺が、誰よりも自由に、お前を飛ばしてやる」



 それは、初めてストームライダーと出会った時から描き続けてきた、最大の夢。

 薄暗い格納庫の中、雷撃を映し込んで、痺れるような反射が走る。遅れて、激しい轟音が鳴り響いた。ばらばらに砕けた枝の飛び散る音がして、凄まじい紫電が発光し、呆気なく、あまりに呆気なく、外の世界を粉砕してゆく。嵐の中心では、同等の稲光が幾百にも荒れ狂っていることであろう。

 きっとこれだけが、自分の描ける、空の上の物語。

 激しい稲妻が宙を駆け抜け、彼の底知れぬ笑みを照らし出す。

 その姿は————




 巨大な翼を整え終わり、今まさに飛び立とうとする、ファルコンの化身のように見えた。









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