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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」0.Prologue(読み飛ばしてもOK)

10 luglio
 曇りのち晴れ。
 停戦の報せ届く。
 ジュリアナが上機嫌でいる。

12 luglio
 終日曇り。
 停戦協定成立の報せ。

16 luglio
 霧雨。延期。
 庭師からの報告を受ける。注文済み。

(チェッリーノ・ファルコの日記より抜粋、1809年)

・椿 三株
・薔薇(黄) 二十株
・薔薇(赤〜オレンジ) 十株
 以上、よろしく調達のこと。

(庭師の書きつけ、推定1809年)

19 luglio
 晴れ。
 ブランシャール夫人より手紙来たる。
「フィレンツェは何もかもが美しく、酔ったように旅をしてしまいました。ええ、もうじき南部に下ります。途中の景色を眺めながらの旅路も、存分に楽しめそうですわ。
 もちろん、当初の予定は忘れておりません。延期になったのは残念ですが、ここしばらくは晴れそうですし、次回こそ問題ないでしょう。
 それでは、今週の日曜日に。

 S.B.」

(チェッリーノ・ファルコの日記より抜粋、1809年)

 ……あの日以来、お嬢様ときたら、まるで悪魔に取り憑かれたみたいに、自室に閉じこもりがちなの。

(メイドの私信より抜粋、推定1809年)

 もうすぐ帰ってきた暁に、それは君に渡そう。
 僕は今、アレクサンドリアにいるんだ。
 ここでは、何もかもが美しいよ。

(科学者と思われる匿名の手紙より抜粋、1809年)

 ……あそこの父親が、天性の風来坊だとは知っていたが、娘も劣らず変人だ。
 ファルコ家も長くはもつまい。片田舎の旧家だから、残念だとも思わんがね。

(とある伯爵の手紙より抜粋、1809年)

 ……本当に、あの子ときたら、お見事でございました! フランスの社交界でも、聡明な一人の少女については、話題が持ちきりですのよ。ボナパルト閣下は、帰還するなり、頻りに彼女のことを知りたがり、私に当日の様子を詳しく報告することを求めておいででしたの。
 しかし実際にお会いしてみて、私が感じましたことは、何よりその聡明さを支える想像力、そして人類の身分や国籍に関係なく、魂の根幹を信じるという、素晴らしい博愛精神でした。父親であるあなたもよくご存じの通り、あの子は、自立した気質をお持ちです。学問にのみ働く頭脳を享けた場合と比しても、それはゆくゆく、彼女の選んだ道において、大層心強い効力を発揮することでしょう。
 そうそう、御所望の本について、主人の書斎から幾つか選別したものをお送りいたします。幼いながらにして、このように難解な物理学に関心を持つなんて、本当に将来が楽しみですわね。たった一言、老婆心ながら申し添えさせていただきますと、何もあの子を輝かせる方向性が、私のような気球乗りになる道ばかりであるとは限りませんの。あの子は、鳥のように自由に飛び回ることを夢見ているようですし、充分な資金や、理解者にも恵まれております。先人の切り開いた道をたどるのではなく、いっそ、新しい航空技術を開発するのも、一つの手かもしれませんわね。……

(マリー・マドレーヌ=ソフィー・ブランシャールの手紙より抜粋、1809年)

……

 あの松の木を、裏庭に植え替える必要はないんじゃないかしら?

 長い豊かな巻き髪を上げながら、ぽつりとそう漏らした娘に、私は怪訝な眼差しを向けた。彼女が言及しているのは、潮風を防ぐために、館の正面に植えていた松についてだった。それは私が子どもの頃から愛していた木で、陽を浴びてよく育ち、優に五メートルを超えるほどの大樹となっていたのだが、問題は、秋になると、しきりに頭上から松毬を降らしてくるからで、客の大切な鬘を守るために、移植の話が持ちあがっていたところだった。詳しく訊いてみると、松が自らあそこにいることを望んでいる、というのだ。どうしてそんなことが分かるんだい、お前は、部屋からあの木を見下ろしているだけなんだろう?

「私ね、昨夜、あの松の木のてっぺんに登ってみたの」と娘、
「高いところって、なんて素晴らしいのかしら! 庭の壁に立てかけてある鍬や車輪が、ちっちゃな点のように見えたわ。真夜中だったから、丘の向こうに煌めく星を反射している夜の海が、見事なまでに一望できたの。Porto Mediterraneo の街は、無数の光に包まれて、それぞれの家の黄金色の明かりが、切ないくらいに滲んで、音楽の中で光るのよ。あれらひとつひとつに、人間の営みが息づいているかと考えると、いてもたってもいられなくなるわ。パパ、あの松の木は、海を見下ろせる場所に植えておくべきよ! 松だって、周囲を壁にした囲まれてしまっては、可哀想でしょう?」

 口をぽかんと開けた父親の顔を見て、幼い娘は、自分が興奮のあまり失言を冒したことを悟ったのか、自分が木登りしている姿は、もちろんアレッタしか見ていないから、社交界の誰にもこの家のことを笑われたり、馬鹿にされたりはしない、と付け足した。

 こうして娘の言動に呆れ返る折々には、一昨年の末に亡くなった、私の父を思い出す。娘は亡き父に大層懐いていて、父もまた孫を可愛がったのだが、それが平和な日々を約束してくれるかというと、そうもいかなかった。私が仕事の旅に出ている間、娘のお相手は謹んで父が承ってくれたのだが、この惑星のしきたりにまだ慣れていないと見える幼い生き物は、父をひたすら質問攻めにするか、気付くと姿が見えなくなり、数時間後にはとんでもない場所から発見されるかで、片時もじっとしていられなかったのだ。私が旅から帰ってきた時には、数年歳を取ったのかと思うほど疲れ果てた老人が、雑巾のように肘掛け椅子に寄り伏して、ブランデーを舐めていた。

「あれは、大成の気質だな」と父、「お前に輪をかけて、大胆不敵だ。きちんと手綱を取らないと、どこに行くか分からないよ」

 今では、この地球上での年月を重ねるにつれて、さすがに娘にも分別がついてきたと見える。といっても、危険を冒さないというよりは、その反対で、叱られるのを避けようと弁明を展開する方にだが! すらすらと根拠を並べて瞬く間に人を納得させてしまう彼女の手腕は、なるほど、親の私からしても舌を巻くほどだ。といっても、けして人を丸め込んだり、欺いたりといった意図では弁舌を振るわないし、それに他人思いの気立てについては、人一倍強い。それほど楽しそうな悪戯をやっているなら、私も遊び仲間に入れて欲しかった、と伝えると、娘はにっこり笑い、両手に革の手袋を嵌めながら——「あら、ベートーヴェンみたいに立派なお父様の巻き毛に、松ぼっくりの髪飾りがくっついてでもいたら、変わり者だらけのファルコ家なんて噂されてしまうのが落ちだわ。あの木に登っても許されるのは、私だけなのよ」

 最後の身なりの点検を終え、似合う? とくるくる回って小躍りする娘は、できたての防寒服に身を包み、そのせいで少しばかり、山羊の匂いを漂わせていた。まだこの世に生まれて十年と経っていないはずだったが、汗ばむほどの厚着を身につけ、ぱたぱたと手で風を送る横顔は、なるほど、奇妙にも大人びた雰囲気を醸し出している。浅黒い肌、ファルコ家特有の、上にきゅっと引き締まった唇、少し鼻翼の広がった鼻、勝気で、好奇心と驚きに満ちた瞳、それに私そっくりの、豊かなオーク色の巻き髪を、今はシニョンに結い上げ、こざっぱりとさせている。この不思議な才気を授けられた甘えたがりの少女に関して、このようにまとまった記述を残せる機会を得たことを、まずは慈悲深き神に感謝しよう。というのも、初夏の麗かな陽射しの中で、彼女の幼少期について書き残したとすれば、後世の人間にとって、もしかすると大変に貴重な資料になるのではないか、と不意に思いつくことは、やはり神もまた我が娘に対して、かけがえのない愛情を注いでいる証のように思われるからだ。

 彼女について記述したいことは、山ほどある。どこから手をつけようか、とファルコ家の館を見回したところ、彼女が最も出入りしている、ガラス張りの南の外れの部屋に逢着した。あの不思議な私室、彼女の憧れのすべてが詰め込まれた書斎について紹介することは、彼女の内面を語ることとほとんど等しいのではないか? 父親である私がそう感じるのは、奇妙なことではない。朝の光の中で食事を終えた後、安寧に支配されているあの小さな知の殿堂へと閉じこもるのが、娘の日課だったのだから。

 その書斎は、彼女の安息の場所であり、壮麗さに満ちた大伽藍、敬服すべき聖域(サンクチュアリ)である。彼女の勉強時間が終わるまでの間、いつもはドアノブに手をかけることはせず、望む限り集中させるようにしているのだが、今日は少し失礼して、彼女の小さな足音と一緒に、同じ扉の向こうへと身をくぐらせてみようか。初めてそこに足を踏み入れた者は、かつての諸侯の間で称讃されていた、あの素晴らしいルドルフ二世の驚異の部屋ではないかと驚くだろう。ガラス張りの天から燦々と陽の射してくるあちこちに、彼女の美しい蒐集作品が飾られ、所狭しと展示している様は、博物館さながらの様相を呈しているのだから。太陽を反射するそれらひとつひとつ、小さな歯車や螺旋を巧みに組み合わせ、翼を羽ばたかせたり、本当に動いたりする作品が、彼女の精妙に作った実験作品だということは、それぞれの下に提示されている金のラベルを見れば、すぐにお分かりいただけるはずだ。陽の当たらない壁面には、書棚を配置し、背表紙の文字が蚤のように見えるほどにぎっしりと敷き詰め、幼い彼女でも手の届くように梯子がかけられている具合は、まるでアルチンボルドの細密画か、さもなくば、巨大なバベルの塔だった。何より印象的なのは、自室に囲む壁の上から下まで、隙間なく並べられた肖像画の存在だ。彼らの生き生きとした、あたかも動き出しそうな表情に見守られ、ようやく彼女は霊感を授かり、勉強に浸ることができるのだった。彼女が書斎にいる間、多くは分厚い書物を抜き出したり、新しい実験作品をいじったりしているのだが、それにも飽きた時などは、取り憑かれたように偉人たちの姿を見つめ続け、時には肖像画に駆け寄り、神秘的な質問を問いかけることもあった。楽しそうに偉人たちと語り合うこの子どもの目には、何が見えていたのだろうか? 額縁の中のその絵姿に、偉大なる魂が宿り、彼女に向かって口をきいたとでもいうのか? 興味深いことに、彼女は、どの肖像画にも平等に語りかけるということはなく、統計的に見てみると、明らかな偏りが覗いていた。子どもらしい無邪気な残酷さで、歴史上の人物の格付けでもしていたのかもしれないが——いずれにせよ、”お気に入り”の人物は決まっていた。バルトロメウ・デ・グスマン。フランチェスコ・ペトラルカ。ピコ・デラ・ミランデラ。ガリレオ・ガリレイ。そして最も敬愛する人物、レオナルド・ダ・ヴィンチ。

 思えば彼女は、父親である私以上に、この偉大なる肖像画たちから教えを受けて、成長したのかもしれない。古物の仕入れに出かける私の後ろで、扉が閉じられる前の、寂しそうな顔を見るたび、罪悪感ではちきれそうになったものだが、今は外国で手に入れた本を送ってやるごとに、彼女が嬉々として魂の師に教わっている様子を、遠い彼方からでも容易に思い浮かべることができる。旅をしている間、私は安心して肖像画の人物たちに娘を託すようになったのだ。何も心配はいらなかった。彼女の成長を、すべての過去の偉人たちが庇護してくれた……それに、私からの書物を待つ間は、アレッタが、彼女の無聊を慰めていることだろう。

 そう、アレッタ! 娘について、何か意味のある内容を書こうとする時、アレッタの存在を省いたままで済ませることはできない。アレッタは、彼女の厳かな没入を破ることのできる、ただひとりの誇り高い友人だった。その美しいフォルム、冴え渡る羽毛と、黒曜石のような瞳は、我が娘の寵愛を一身に受けるのに充分だった。それに、あの宇宙の如き黒い両眼の周囲に、ぐるりと浮かびあがる瞑想的な青の隈取り——彼女が言うには、これこそが他の隼とアレッタとを隔てているものらしい——には、人を熱中させる異国的な魅惑があった。娘はたちまち、この美しい鳥が、古代の神の使いなのだと陶酔して、熱心に世話をした。高慢とも言えるほどに気位の高いアレッタも、彼女とは馬が合ったのか、やがて歴戦の騎士の如く娘の腕に留まり、彼女の身辺を警護するようになったのである。

 このアレッタは、情熱を孕んだ彼女とは対照に、いつでも静かに娘のそばに控え、時々向けられるくすくす笑いや、愛しさの溢れ出るようなキスにも、黙って付き従ってやっていた。以前は私が世話を引き受けていたのだが、元来があの通り神経質な鳥なので、互いに無用な干渉はせず、それゆえに強固な信頼関係を築けていたのだった。しかし娘との間には、また別の形の友情を育んだらしく……そう、あれを何と言ったら良いのか……終生に渡るパートナーのように、彼らが特別な関係に思えるのだ。アレッタは、彼女と何を会話したのだろう? ふたりは互いにとって、一体どんな存在なのか? 娘が生まれたばかりの時分、産着に包まれた、柔らかい天使のような赤子を、熱心に物珍しげな顔で覗き込んでいた覚えがあるから、あるいはひょっとして、アレッタの方こそ、この雛鳥のように脆い生き物を庇護しなければ、という使命感を持ち続けていたのかもしれない。いずれにせよ、家族の一員であるこの美しい鳥は、自らを侮る者にはけして容赦せず、激しく鳴き喚く一方で、一度心を許した人間には、どこまでも誠実でいた。目の前で紡がれる人間の営みに、淡々と、判事の如く透徹した瞳を向け——しかしアレッタは確かに、カメリアのことを愛していたのだ。

 「アレッタは、大切にしなくてはなりませんわ」ある日、ジュリアナが紅茶を飲みながら言った。
「あれはきっと、ファルコ家の守り神なのでしょう。アレッタの存在なしに、私たちの娘は、ここまで分別のつく人間になったものかしら」

 守り神という呼称はともかく、私は妻の意見に賛成した。

「あれが人の心を見抜くというのは、確かだよ。一度、あまりに騒ぐから、雇うのを断念した使用人がいるんだが、そいつの経歴を仔細に調べてみると、過去に窃盗を働いたことがあるというのさ。俄かには信じ難いが、あれは、鳥の世界の法官だよ。どんな人間も、心を誤魔化せないよ」

 ジュリアナは深く納得し、アレッタを、もうひとりの私たちの子ども、と呼んでいた。ところが実際、手のかかる度合いといえば、人間の娘の方によほど軍配が上がったのだが。

 話題を肖像画の方に戻すとしよう。賢明な後世の皆さんは、彼女のお気に入りの人物が、とりわけルネサンス時代の生まれに集中していることに、すでにお気づきかもしれない。然り、彼女が最も多大な関心を寄せているのは、新しい風が吹き、人間が人間の意志に目醒め、幾つもの発見や発明、冒険、ロマンスを繰り広げた、まさにこの時代だったのだ。

「見て、この色遣い。この遠近法。人々が、世界の存在に気づき始めている」

 たびたび、初期ルネサンス時代の名画の写し絵を見つめながら、娘はアレッタに語りかけた。

「空が涼しく、薄く晴れてきて、雲が古びた黄金に霞んでいるでしょう。これは、イタリアの空だわ。葡萄畑の彼方にしらじらと昇ってくる、四百年前に広がっていたこの土地の空だわ。彼らはこの下で、世界に充満する未知の気風を悟ったんだわ。
 彼らの胸いっぱいに震える期待が、やがて、新しい天文学や、音楽や、自然科学、人文学、それに素晴らしい藝術へと繋がってゆくのよ。ああ! 彼らに本当に会えて、幾らでも私の思っていることを質問できたとしたら、どれほど素晴らしいことでしょう!」

 アレッタは、ただ一声鳴いて、甘えるように嘴を擦り寄せた。まるで、今語られた内容はよく分かる、とでも言っているようだった。聡明なこの鳥は、古代ローマとイスラムの気風を吸った先駆者たちが、曇り切った空の下に、清新な海の香りを嗅ぎ、やがて少しずつ、生きた智が彼らの魂のうちに吹き渡り始めるのを、熱烈な娘の語り口より想像していたのだろう。

 そうだ、娘もアレッタも知っていたのだ、あらゆる時代に生きた幾万、幾億の人々が、羽ペンを動かして長い長い文字の滴りをなしてゆくこと、見たこともないものに昂揚し、古いものに脅え、光と影の中を登ってゆく、あの先人たちの足音を。ああ、そうだ。あの時代、少しずつ、少しずつ海の匂いに人類の土壌は呑み込まれ、やがて哲理の鐘が鳴り、智の振り子が振るい、グーテンベルクの歯車を噛み締め、天才たちが群れをなし、あの再生(ルネサンス)の運動へと駆り立てていったのだ。かくして智の殿堂が造りあげられ、あらゆる学問は焼き締められ、そして最後に、海風が、要塞の如く育まれたこの人類の精神に穴を開け、潮まみれの冒険心とともに、外の世界へと誘ったのである。帆を広げて遙かな大海原へと旅立つ、ルネサンス時代の探検家たちの姿は、幼い彼女を新世界へと奮い立たせたのには十分だった。しかしながら、偉人たちと彼女とを分け隔てる事柄が、ただひとつある。新世界——十九世紀に生まれた彼女にとって、その舞台とは、未知の大陸ではなかった。それは、頭上に高く広がる、青い青い大空だったのである。

 物心がついた頃からカメリアは、鳥のように自由に空を飛ぶことを夢見ていた。最初に飛ばした紙飛行機が、空高く舞い上がった時、空を飛びたいという自分の夢を、多くの人と分かち合いたいと思ったのだ。

 パパ、この遊戯を考えたのは、どこの誰なの?

 遠く、目に染みるほど高く蒼穹に映える白紙を見ながら、娘がぽつりと尋ねたのは、一年前の春のことだった。Porto Mediterraneo を見晴らせる高台の花畑は、私たちの秘密の遊び場だった。ファルコ家の館のそばの子どもたちは、たびたびそこへやってきて、陽が落ちるまでの宝石のような時間を満喫したのだ。スイセンや、ヒナゲシや、瀟洒なマーガレットが、風に漂う生ぬるい土の匂いとともに、その花びらを静かに湧かせ、一面に、音のない海をさざめかせていた。その潮騒から紙飛行機を拾いあげながら、彼女は私に訊ねた。周りでは、甲高い子どもの叫び声が、多くの笑い声とともに近づき、消えていった。誰の紙飛行機が最も高く飛ぶのか、みんなで競争をしていたのだ。

「みんな同じ折り方をしているのに、高く飛んだり、飛ばなかったりするのは、なぜかしら?」彼女はしきりに首をひねった。

「空気抵抗が関係しているんだろう」と私。

「この折り方が、一番潮風に乗りやすい形なのかしら?」と娘。

「誰がこれを考えたのかしら? それに、高く飛ぶと、みんながそろって喜ぶのはなぜ? 不思議だわ。みんなそれぞれ、好きな遊びも、性格も違うのに、紙飛行機だけは、なぜみんな夢中になってしまうの?」

 私は娘の手を取り、彼女が幼い頃から愛用してきた、セピア色の地球儀の前に連れていった。まだ窓辺には静かな陽が落ちて、時折り、絹のように柔らかな海風が吹いた。低地で栽培している葡萄の香りが、鼻腔に響いた。さっきの子どもたちの笑い声は、これほど遠くにおいても、微かに聞こえていた。彼女は厳粛に椅子の上に座った。物憂い自然界の静寂の中、ひさひさと、窓の外の椋鳥が飛んでいった時、薄い錫色の影が彼女の横顔に落ちて、それがはっとするほど美しかったのが、妙に心に残っている。

 ねえ、パパの言っていた、ジャポン(・・・・)はどこ?

 娘は私の袖を引き、待ち切れないように知識をせがんだ。私は地球儀をめぐらせ、海の上に浮かぶ、独特な形の島国を指し示した。

 ——この長い島国が、ジャポンだよ。イタリアはここ。
 ——とても遠いわ。
 ——そうだね。この島国のことは、いまだに誰もよく分かっていないんだ。
 ——でも、彼らは空飛ぶ紙を作ったのね。古代ギリシアの、アルキタスのようだわ。
 ——そうだね。アルキタスと日本人が志していたものは、きっと同じだったんだろう。そして私たちが知らない土地の、知らない名前の、無数の人々も。

 空を飛ぶという夢は、人間にとって、普遍的な憧れなんだよ。私たち人類は、遠い昔からずっと、空を飛びたいと願い続けてきたんだ。いつの時代においても、人々にとって、空を飛ぶということは、夢のひとつであり、イマジネーションを膨らませる大事なものだったのさ。

「本当?」

 彼女は目を丸くし、感銘に打たれたように、そっと地球儀に指を触れさせた。その表情は、いつになく切なく、希望が込められていた。遠くで、子どもたちの駆けてゆく声が、雲のように湧き立った。

「世界中の人が、私たちと同じ夢を見ているの? 世界のどこでも、いつの時代の人も、みんな空を飛びたいって、願っているの?」

 私は、この幼い娘を膝の上に座らせ、止まり木でうたた寝をしているアレッタのそばで、午後の気怠い黄金の光に包まれながら、ゆっくりと語り始めた。私が彼女くらいの年齢だった頃に父親から語り継がれた、様々に繰り広げられる物語……それは、青い青い天空に向かって繰り広げられる、想像と挑戦の物語だった。空飛ぶ絨毯に乗った貧しい青年、バグダッドの船乗りが、巨鳥に捕まって飛行する冒険、翔けるペガスス、羽ばたく錠前師、空からのピッツァのデリバリー。飛翔する象、雷の鳥の歌、フライングマシーンや、馬鹿げた鳥の仮装のコンテスト、アポロンの神話、箒に跨がる魔女、古代の天空を舞っていた始祖鳥、石板に刻まれた謎の機械と翼竜、そして死と生を巡る、巨大な太陽の舟。

 古今東西に散らばった、どこか荒唐無稽な、魂の憧憬とも言えるこれらの鮮やかな物語は、夢に向かって挑み続ける、数多の高潔な精神とともに、先駆者たちが空を飛ぶという未来に果敢に挑戦し、誓いを立てる姿を、私たちに想像させることができるのだ。

 それから? それからどうなるの?

 娘が瞳を輝かせて、続きをせがんだ。かつて、胸いっぱいに夢を抱いていた幼い頃の私が、目の前によみがえってくるようだった。亡くなった父も、このように愛おしげに私を見つめていたのだろうか。そして彼女もまた、いつかは愛する者に、同じ夢を語り継いでゆくのだろうか。花畑を駆けているあの少年少女たちも、この子ども時代の儚くまぶしい夢を、永久に忘れぬまま大人になってゆくのだろうか。

 この偉大なる物語の輪廻は、夢を実現するまで、いや、実現した後でさえも、螺旋階段の如く永遠に続き、人類の想像力と発展の歴史を、過ぎゆく時代のうちに刻みつけるのだろう。我々もその運動の中にいる。そして期待に胸を膨らませ、どきどきしたり、空想に耽ったりしながら、切ないほどに膨らんだ人類の夢や希求を、最も超越した眼差しで上空から見つめた時、これらの物語は、素晴らしい軽快さで羽ばたき始めるはずだ。私の愛しいカメリア、お前はけしてお前の夢を忘れてはならない。人類がいかに崇高な想像力の軌跡を築いてきたのか、立ち止まって、想いを馳せてみなさい。そうすれば、お前の精神もまた、自由を獲得し、飛翔することができるはずだ。偉大なる人類の発展に寄与する一員として、いつもお前の頭上に広がっている、あの大空に。

 彼女は黙ったまま、観想に耽るような深沈とした目を上げて、陽光の躍っている彼女の私室の世界を見つめた。そして、様々な偉人たちの顔を彷徨う眼差しの先に、ふと、ダ・ヴィンチの肖像画を据えた。この人物もまた、空を飛ぶ夢を描き、叶わぬままに露と果てた先人であるはずだった。今まで一度も、自らの魂の師をそのような目で見つめたことはなかった。幾千、幾万もの苦闘の歴史が、人工の翼の羽ばたく音を立てて巡った。そしてそれらは、ふわりと舞い上がり、子どもたちの遊び回る声とともに、ひとりでに頁をめくり続けるかのように、彼女の魂を占め始めた。彼女の中で、どのような革命があったのか、私には分からない。しかし、まさしくその日、彼女のルネサンスが幕を開け、生涯を賭けた探求が、始まったのだ。

 素晴らしい北半球の星座が、しらじらと海の彼方に呑み込まれてしまうと、夜が明ける。太陽の昇る前から、知性のランプを片手に、学問の迷宮へ姿を晦ましてしまう彼女は、陽がすっかり地球の裏側へと踵を返す夕方、私がその小さな肩を叩くまで、けして振り向くことも、中断することもしなかった。さらさらと羽ペンの躍る音以外は、彼女の私室は、厳粛な静寂に支配され、どんな虫も、どんな鼠も、その圧倒的な世界では物音を潜めてしまうように思われた。彼女は、もはや肖像画に声をかけなかった。ただじっと厳かな視線をやり、その不思議な目だけの会話を終えるまで、一度も瞬きをしないのだった。何か恐るべき変化が彼女の魂に齎されたことに、屋敷中の誰も、気づかぬ者はいなかった。社交界ですら、彼女の熱狂振りは噂された。小さな貴婦人が、世界中の科学者や藝術家たちと手紙を交わし、意見を交換しているんだと。へえ、物好きな奴がいたもんだ。貴族の、しかも女性がねえ。

 彼女にもう、現実の声は聞こえなかった。耳に飛び込んでくるのは、空を飛べ、空想せよという未来からの声だけ。胸には、鮮やかな潮風が吹き、そして手足は、最大の太陽の光を捕まえようとして、激しくわなないている。凄まじい量のアルファベットが、彼女の脳内を通り過ぎ、数式や、過去例や、実験結果となって蓄積されてゆく。妻は、娘が集中できる環境を作るのに、最大の努力をそそぎ、私は外国に出るたび、物理や歴史に関する本を買い漁り、自宅に送った。返事はすべて、彼女の元に到着してから、一日以内に書かれていた。

「自然は果てしなき理法に満ちている」
「藝術の科学と、科学の藝術を研究せよ」

 万能の天才が残した、三百年前から響いてくるこれらの金言は、彼女の激しい探究心を正しい方向に導くのに、最も役立ったものの一つである。科学と藝術を学ぶこと。二つのアプローチ方法で、自然を見つめること。いつの間に親交を結んだのか、何人もの学者が、帽子を取って敬礼し、彼女の部屋の扉を叩いた。こうなると、アレッタも、ただの愛らしい鳥の親友だけではなくなった。隼は、彼女の探究のパートナーであり、自然の造形した藝術作品であり、また素晴らしい崇拝の的となった。アレッタは心ゆくまで、自身の翼を研究に貸した。

 学問に傾倒する一方で、彼女の陶酔癖は、日を追うごとにますます酷くなり、もはや誰も手の届かない雲の上まで到達してしまうのではないかと思われた。そよ風が軽く地球儀を回しただけで、感動にぶるぶると打ち震え、家庭教師の叱る声などはもう、まったく耳に入らないのだった。たんぽぽの綿毛たちが、青く愛らしい蝶と戯れている時などには、その目はひたと奔放な動きに吸いついたまま、何時間でも追うことができた。いつもどこか遠くを夢見ているようで、そのふくらかな頬は、フレスコ画に描かれた早熟の果実のように、そして私の愛してやまない鳶色の瞳は、(美人とは言えないまでも)魂の窓として、自らの進む道を照らし続けていたのだ。この叡智に溢れた我が子を、例え暗闇にひとり置き去りにしたとしても、乾いた砂が一滴の水を一瞬間で吸い干すように、その目はあかあかと輝き、暗がりでも蝋燭などいらぬほどに無限の夢を見続けたことだろう。

 やがて、季節が一巡もした頃に、滅多になくもじもじとしながら、彼女が手紙を持ってきた。その差出人に書かれた名前とは、彼女が現代で最も崇拝する女性、ブランシャール夫人だった。私は素早く手紙に目を通した。後ろから見守る娘は、スパニエル犬のようにうろうろとして、私からの反応を待った。

「それで」と彼女は言った、「許してくださる?」
「お前は生まれた頃から、本当に危険を愛しているんだね」
「危険だから好きなんじゃないのよ」と娘、「ただ私の知りたいことが、その方向にあったというだけ」
「私の買ってやる書物では、不十分だと言うのかい」
「ああ、パパ、そんな意地悪を言わないで」と娘。

 私は娘の頬を撫で、強く抱きしめた。それですべてが事足りた。私はブランシャール夫人と連絡を取り、指示された通りの細々とした品物を、当日がくる前に揃えた。予定日は雨だったので、予備日に延期し、決行となった。

 その時までは、来たるべき一日が、私自身の幼い頃の夢を叶える機会だとも気付かずに、この悪戯な小鳥が落ちてしまわないように、しっかりと尻尾を捕まえておかなければと、本気でそう思い込んでいたのだ。私とて、空を飛んでみたいという、わななくような子どもらしい夢を持っていないわけではなかった。しかし今は、飛行に纏わる歴史的史料や、そこから読み取れる数々の魂の変遷の方にこそ心を動かされ、それらを展示しようと、博物館の建設計画を進めていた。考えてみるに、私と娘との重大な分岐点は、その一点に尽きた。私は過去を保護しようとした。娘は未来を創り上げることを欲した。どちらが欠けても、おそらく何も完成しなかったのではないか? 私たちが永久の螺旋階段を登っていること——そしてまた、その途上にあるということ——それを気付かせる二つの視点の、どちらかが欠けていたならば。父親たる私と、娘たる彼女、どちらか一人が、欠けていたならば。

……

 花畑は、すでに遠く、その草の根の細かさを見失っていた。
 世界の色が滲み、溶け込み、水底から浮かびあがるように蕩然と、その存在感を真下に手放していった。

「松の木に登った時より、もっと高いわ」

 娘は、感心したように言った。しかしみるみるうちに気球の影が儚くなってゆくと、さすがに恐怖を覚えたと見え、私の腕にしがみついた。ブランシャール夫人は、冷静に高度計を見据え続けた。耳許を唸る炎は鼓膜に貼りつき、しばらくは地上に戻っても幻聴のように取り憑いていることだろう。

 独特の浮遊感が、私たちを包み込んでいたが、それ以外は、まったく不快なことはなかった——揺れることさえ。夫人は、空高く舞い上がるこの瞬間に慣れていると見え、飛行計器に集中している。

「バランスを崩さぬように。気球の外に落ちてしまえば、ナポレオン閣下でさえ助けることはできません」
淡々と言った。

 しかしその声も、頭上を圧している炎の燃焼音によって焼き切れてしまい、届くか、届かないかのくらいの音量にしかならなかった。バーナーの勢いは物凄いものだった。この炎は、ふいに球皮へと瞬く間に燃え移り、逃げ場もないままに焼き殺してしまうのではないか、あるいは操縦士の制御を離れ、凍えるほど極寒の、誰も見たことのない世界へ連れていってしまうのではないか。熱気球に乗った誰しもが、そう思うだろう。背反する二重の恐怖に圧し潰されそうになりながら、娘はじっと、堪えるように、私の手を握り締めていた。まだ幼いからやむを得ないかとは思ったが、その態度に感じ入ったのは、私よりもむしろ、ブランシャール夫人の方だった。「堂々としたものです。これなら、よいでしょう」と夫人は言った。彼女曰く、燃え盛る炎に混乱して、怒鳴りつけたり、訳の分からぬことを言い始める輩もいるらしい。

「存分に学びなさい。学術研究のためなら、喜んでご協力しましょう」

と言って、夫人はにっこりと微笑みかけた。自らの家庭では母の役割も演じるこの女性は、私の娘に対して、特別な恩寵を手向けているように見えた。

 それにしても、気球操縦士の類稀な仕事振りを見ているのは面白い。ブランシャール夫人は風を読む技術に長けていて、見えないものに仔細に目をそそぎ、よく気球を操った。おかげで気球は、安全に高度を上げ、ゴンドラには少しの揺らぎもなかった。夫人が一言、「まもなく、大きな風が来ます」と告げると、まったくその通りに気球が吹き流されるのだった。始めのうちは私も驚いていたが、次第に、ああ、そうか、と納得するようになった。見えないものこそ見えるのだ、この天空では。地上に戻れば、この夫人は、細身の哀しい寡婦としか思われないだろう。しかし実際には、彼女は危険を顧みない誰よりも勇気ある女性で、生きる場所を探し求め、他の人々には理解されなくとも、自分だけに見えるものを探しに飛んでいたのだ。それが彼女の選んだ仕事であり、彼女が活躍できる最高の舞台だった。そして彼女の手際の良さは、それらすべてを守るために懸命に磨かれたものだったのだ。

 だが、そうした夫人の素晴らしい技術に目を奪われているのも、雲の高さを越える前までだった。蒼穹が視界の半分以上を圧するくらいになると、私たちは我を忘れた。嘘のように呆気なく、目の前には、数十年間地上から見つめていた領域が口を開けているのだった。一面が、青と白の世界。執拗にシアンを深めた、あの群青色の、過透明の、転落してしまいそうなほど深淵を空けている天頂は、速やかな階調を通じて、すぐに巨万の蒼へ、蕩けるような青へとその姿を変じ、懐かしく滲む光芒を曝露しながら、やがてはその酸素の快活さを、無限大の中空のうちに雲散させてゆくのだった。夫人は悪戯そうに笑い、どう、と自慢したげに私たちを見た。彼女の誇らしい気持ちが、我々には染みるほどに分かる——そこには、筆舌に尽くし難い、不思議な世界が広がっていた。

 明るい。

 光に誘い出されたように、私たちは頭上を見上げた。脳を透き通るように、まばゆい太陽が目に滲みた。燦然と蒼穹を支配するそれは、私たちの眼球の裏まで照り返すようだった。そして清らかな大気、風のない、いや風が満ち溢れているからこそ、地上のすべてが拭い去られたその大気は、私たちの肌を滑らかな雪のように冷やし、すべり、洗い流し、その見境のない動きで遊んでいるかのようだった。我々は言葉を失った。

 浮いている(Floating) 。
 舞い上がる(Soaring)。
 飛んでいる(Flighting)。

 これら三つの要素を兼ね備えた空中散歩は、愉快という言葉では少しも足りない快楽があった。胸や首筋を洗う風が吹き抜けただけで、心がどよめくように躍る。見えない風の赴くがままに、ふわりと浮遊し、舞いあがり、翻弄され、すべては自由で、歎くことも、涙することもなく、何よりも昂揚していた。そして私たちは、存分に光を浴びた。翳りもなく、活き活きと、重力から解放された世界さながらに、太陽は輝いていた。初めて外界の光に与ったかのように、娘の表情は無邪気さの一色に浸かっていた。私たちは、何か冗談を言って、笑い転げたい、子どものようにはしゃぎ回りたい、それでいて、明るさに纏わる偉大なヴィジョンが、私たちの精神を本格的な透明さに清めてゆくのにつれて、永久に目を開けたまま、鳥のように、どこまでも翔け抜けてしまいたかった。多くのことが、突然に理解できた。ああ、樹々は生え、草は生い茂るはずだ。これほどに豊かな光が、この地上を満たしているのなら!

 そうだ、私は間違いなく、このように偉大な空を描画できた者が、人類のうちで一人もいなかったと断言できる。無限のパレットを彩った小カナルですら、空がこのように深甚たる場所だとは、想像もつかなかったはずだ。身も心も、本当に青空を高く飛翔しなければ、この奇妙な天空の世界を理解できるはずがない。

 娘は、そわそわとブランシャール夫人の仕事の手つきを見ていた。何か手伝いをしたいという思いでいっぱいだったらしい。そうでなければ、何かお話をして、と仔犬のようにねだるのだ。この小さな学者のこぼした子どもらしさに、ブランシャール夫人はふっと微笑んだ。絶えず風を読みながら、彼女が朴訥と語るには、だいたいこんなことだった——

 私の求めるものは、いつだって、人の求めるそれと同じではない。そう気付くのに、大した時間はかからなかった。子ども時代は、人に隠れるようにして生きてきた。自分の言葉は、誰にも理解されず、人々のお喋りを邪魔するものにしかならないから。
 転機は、思わぬところからやってきた。夫は私に、空の世界を与えてくれた。夫が死んでからも、私は気球に乗り、大空を冒険した。夫がそこにいるような気がしたし、もっと大勢の、過去の人間たちが、そこにいることを夢見ているような気がしたから。そして、重力に縛られた肉体から解放された世界で、彼らは、ヨーロッパの片隅で生を営む私たちのことを、見守ってくれているのではないかと感じた。
 そこでようやく私は、子どもの頃からの夢を思い出したのだ。私はフランスの片田舎に生まれた。ぼうぼうと波打つ草原を見ていると、その草たちが、空を目指しているように思われた。何も草だけではなかった。秋には綿毛が飛び、夜には蛙が鳴いた。蛍は虚ろに光りながら、宙を飛んでいた。海は飛沫を上げて、空に手を伸ばした。農婦たちは、腰を折り続ける作業に疲れた時、仕事の手を休め、ふと透き通るように青い空を仰いだ。誰の上にも、大空はあった。生ける万物が、そこを夢見ていた。そして最も高い地点に到達できるのは、そう、美しい歌を奏でる鳥だけだった。
 空は孤独であると同時に、愛の場所だ。風という風が、溢れんばかりに私を誘って、そこへ行くことを命じているのが分かる。生きている人々の声よりも、もっとはっきりと、簡素に、強く、単直に。それは、数多くの空を夢見てきた人々、すべての生命の、切なる願いだ。人間は、地に縛りつけられた不自由な存在だと、誰もがみんな思っている。でも、そうね、その一方で、私たちは夢を見ることをやめられない。昆虫も、鳥も、蝙蝠も、ムササビも、魚だって、烏賊だって、蛙だって、空を飛べるのに——どうして私たち人間が、それをできないことがあるでしょう? どうしたら、諦められるというのかしら?
 だからこそ私たちは、様々に研究を重ねるのではなくって? それを証明できると知っているからこそ、情熱をそそぐのではなくって? この一世紀で、様々な空を飛ぶ技術が発達したわ。それぞれの技術に纏わる苦闘を見る限り、私の見解は、間違いではなかったようね。あなたがたにも、空を求める私の気持ちが分かるでしょう? 空を飛んでいる間は、胸がいっぱいになるの。自分がさっきまで、地面を歩いているだけの人間だったということは、忘れてしまうの。太陽や、風や、鳥の声——それに見渡す限りの、青く、深く、涼しく、高い大空が、私たちの魂のずっと憧れている場所を、目の前に広げてくれるんだわ。そして、すべてがくっきりと現れ出るの、僅かな雲の下に、遙かな自然や、歴史の痕跡や、人間たちの営む物語が、鮮やかにくり広がるの。私たちは、その時初めて、私たちが生きてきた世界を、本当の意味で理解することができるでしょう。そうよ、魂だけとなった人々が、私たちを見下ろすのと同じ眼差しで、私たちはこの世を愛することができるんだわ。

 ブランシャール夫人は、そこまで語ると、「あなたにも、私と同じ情熱があるはずよ、愛しいカメリア」と言って、娘のちいさな額にキスをした。彼女は、夫人の語った言葉を、まだよく理解できていないようだった。しかし目を持たない石も、太陽の光によって温められるように、彼女の精神にも、確かな啓蒙の光がそそがれたのだろう。過去の人たち? と彼女は首を傾げた。亡くなったお爺様も、ここにいるのかしら——それに、もっと古いご先祖様も、あの敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチも? みんな、空の光の中で遊んでいるの?

 そう、ひとり残らず、ここ(・・)にいるわ。

 夫人は優しく、けれどもきっぱりと言って、娘を遠ざけた。「さあ、私の手つきばかり観察していて、どうするの? もうすぐ地中海に出るから、今度は海を見つめてご覧なさい。今まで信じていた世界が、ひっくり返るわよ」

 娘はふたたび、私の足下に戻った。しばらく、我々の聖母が住まっていそうな雲海の果てに、眼差しを送っていたのだが、やがて気球の中心に絶え間なく噴き上がる、青く透明な火柱を見つめ、それから高度計を見つめ、重しを見つめ、最後にドームの如く膨れている球皮を見つめた。私は、好奇心で引き結ばれている彼女の唇に、いつも傍らで私に愛をそそいでくれた、亡くなった父の面影を見た思いがした。

 パパ、人間は美しいの? と我が子は言った。

 茫茫と炎の燃え盛る音だけが、宙空に霧散する、膨大な存在の証跡を占めていた。

 しばらくして、ふたたび我が子は私の目を見つめた。

「パパ、人間って、素晴らしいの?」

 小さな羽を忙しなく動かす天使が、天空を支配する巨神と面するかのように、宇宙を突き抜けるほどの蒼穹の光線を背負い、自分を見守る父親の下で、それを仰ぐ我が子の顔に、やがて波紋が湧き、水明かりが広がるようにして、鮮やかな微笑みが滲み出した。

 なんて素敵なのかしら、と彼女は囁き、顔を赤らめた。なんて、なんて、なんて素敵なのかしら。ああ、なんて、なんて素晴らしいのかしら——……

 私は、我が子の脇に手を差し入れて、その驚くほど軽い体を抱きあげた。珍しくはしゃいでいるカメリアは、可愛い高い声を立てて笑った。ブランシャール夫人は、どこか哀しく、微笑ましく、羨ましそうに、娘の笑顔を見つめた。私は、娘をそっと気球の縁に座らせ、その手を握った。不安そうに私を見上げる娘に、私は眼下の光景を示した。落ちないように私の手を強く握り返しながらも、ふっと眼差しを遠くへ投げた、あの時の彼女の顔が、忘れられない。地上の何もかもから解放されて——完全に夢に魅せられているかのように——ああ、あの瞬間の彼女は、彼女こそが間違いなく、世界の頂点にいたのだ!

 握り返す手の力が、不意に緩んだことに、私は驚いた。身の毛のよだつほど遠い眼下を見つめ、足を揺らし、身を乗り出すほどに外へ行こうとするので、一瞬彼女が、鳥の生まれ変わりなのではないかと思ったほどだった。もはや彼女に、私の助けはいらなかった。横顔に瞬いている、子細まで検討し、明らかにしようとする挑戦的な目——我が家系に伝わる、あの大胆不敵な眼力は、果てしない絶頂を泳ぎ、心ゆくままにこの欲望を探究しようという決意に燃え盛るかのようである。そして彼女のおそるおそる伸ばした手は、この蒼穹のさなかに無尽蔵に満ちている虚空の、自由の、人類を湧き立たせる、あの切ないほどの空虚な膨大さに、確かに触れたのだった。遥かまで続く地平線を眺めていた私は、彼女の頬に、涙が伝っているのに気づいた。眼下には、我々イタリア半島の民の源流とも言える、地中海が見え始めていた。今はもうない、過去の蓄積——オデュッセイアから、ローマの賑やかな交易、十字軍の軌跡、海賊の蛮行、漁師たちの噂話に至るまで、数々の笑いと涙を飲んだ、ちっぽけな、尊厳に満ちる場所であった。今、その地中海は、過去とまったく同じ青さで、その舞台を私たちに示すのだった——冒険とイマジネーションの海を。そして、そうだ、その場所は、幼い頃の私も、いつか夢見たことがあったのだ——あの遙か遠い喜びが、体のすみずみまで蘇るようだった。私はそれを知っていた。それはずっと私たちとともに、別の歴史を伴って、この世の揺動を包摂し続けていたのだ!

 まるで一枚の巨大な蒼鉛の金属板全体が、僅かずつうねり、蠕き、輝く様は、この世で最も万斛であるものと、この世で最も過密なものが、たちの悪い冗談のように手を取り合い、そして蠢動しているのであって、私はそのあまりの懸隔に打ちひしがれ、またその懸隔を許容し、足の裏一枚を隔てて広がっている、無限大の空虚の存在に戦慄した。蒼鉛は、徐々に微かな弓形に張り詰めてゆき、その表層のたった一部が、この惑星の巨大な全容を、髣髴とさせるに足る正鵠を担っていた。地球上のすべてを把握することは、不可能だった。それゆえにこの巨大な部分(・・)が、精緻を極めて厚みを増せば増すほど、何百倍にも膨らんだ威力を伴って、腰を貫通する重みを発揮させ、そして見えぬ全体が、脳の遠い暗闇から、我々を驚愕させ、震え上がらせ、心から平伏させるのである。この徹底的な圧倒は、まだらに、強大に射してくる太陽の光線を照り返し、その底なしの海溝の襞のひとつひとつ、霞んで波間を飛翔する潮風の一陣一陣、無極の波に封じ込められた、眩ゆい太陽の、強烈な白光の数え切れぬ累々を解き放ち、悽絶に、「存在」、ただひとつの存在に向かって、地鳴りを起こしながら、球体の極致へと集約させてゆくのだった。

 気球は、僅かな影だった。海の細波のうちの、数粒の太陽の影をかき消せたとも限らぬほどに、海上からかけ離れた遥か上空に浮かび、よるべないその孤独な姿を、天地のあわいに放擲させていた。そして我が子は、あれほどの普段の集中が、眼下の景色と比べれば、塵の一粒にも等しいことを思い知り、その甚大な世界に見受けられる細密画(ミニアチュール)のように鮮やかな文化や、人間たちの織り成すドラマや、新しい伝説や、怒濤の革命を連れてくることを悟り、彼女自身もその人間の事業に参入して、ここで何かを為さねばならぬのだということを、自覚したようだった。娘は熱心に眼下を見つめた。いっそ何もかも——字義通り、何もかもだ——記憶し、刻印し、愛し抜こうとでもするように。酸欠を恐れて、アレッタは置いてきていた。しかしこれほどまでに、あの美しい金緑色の魂の友人を、この小さな探検家が、肩の上に呼び求めたことはなかったろう。彼女の精神を最もよく理解してくれるのは、地上に縛りつけられた人間などではなく、空を自由に飛び回り、天上を故郷としているアレッタだったのだから。

 ここからはすべてが視える。彼女よりも偉大なもの、彼女よりも叡智のあるもの、彼女を追い抜いて世界を経巡るもの、その大いなるすべてが。気球はますます上がった、高く、遠く、誰も知らない場所へ。突き抜けるような太陽の光が、私たちの頭上から、まっすぐに影を落とすようになってきた頃、ふと心細くなったかのように、カメリアが私の顔を見上げてきた。そのほんの振り返りに、何の意味が込められていたのだろう? 私の庇護を求める弱さか、それとも、徐々に過去の方向へと遅刻してゆく私を察した、一抹の寂しさだったのだろうか。私は微笑み、景色を見るように促したが、彼女は聞かなかった。まるで、隠れんぼで遊んでいるうちに、お気に入りの樹の上に取り残され、いつの間にかひとりぼっちになってしまった、あの根源的な恐怖を思い出したかのようだ。そう、あの時から彼女は、大胆な一方で、酷く孤独を恐れるようになった。彼女は泣いていた。私が夜の枝の合間に彼女を見つけるまで、Porto Mediterraneo に広がる星の光だけが、彼女の心を慰めていたのだ。そして私は、不意に理解した。なぜ彼女が、空を通じて人と繋がりたいと思うのか。なぜ彼女が、高台から見下ろす街の景色を、あれほどまでに愛しているのか。

 私には、彼女の悲願が、いずれ実現することが分かっていた。そしておそらく、彼女が完全にそこに到達する頃には、私はもうこの世にいないのだということも。これほどまでに幼くして、自らの進む道を悟ってしまった娘の前に、多くの苦難が立ち塞がった時、私はどのようにして彼女の精神を支えることはできるのだろうか。そう、アレッタと同じように、存在しない間も、常に思い出となってこの最愛の娘を励まし、彼女がふたたび立ち上がり、この大空に向かって、飛翔の翼を広げる礎となることは、可能なのだろうか?

 答えは簡単だった。私ができることはひとつだけ——残すこと、過去の完全な軌跡を残すことだ。いかなる経路で、いかなる複雑さで、人類の願いが培われてきたか、そしてそれはどんな情熱とともに、彼女が生を享ける以前に、努力が払われ続けていたのか。彼らの夢は、まだ星空に羽ばたいている。彼らの夢は、私たちの魂とともに、永遠に生き続けている。私は、それを表す記念碑(オベリスク)を建立し、未来の彼女に示し続けよう、空に魅せられた人間は、けして彼女ひとりではないということを。そして、そうだ、これは私自身の夢でもあった、私は彼女に奉仕するのではなく、私もまた、人類への貢献に挑戦するのである。この計画こそが、生きているうちに私が後世に残せる、人類への最後の贈り物となるだろう。そしてそれは、過去に生きた数々の先人たちの、震えるように豊かな結託を込めたものとなるだろう。私は見たい、私の夢が叶うところを。そして何もかも、彼女が独り立ちするのに必要な、何もかもを、これらの贈り物から伝えてやりたい。太陽の光にもけして溶けない、イカロスの智慧の翼を、どんな障害にも折られない、強いマルスの勇気を、誰に何を言われようとも、自分が他者のために心を砕くことは間違っていなかったのだと、孤独の境地に立たされたとしても、そう確信するに足るほどの愛を。この若さと可能性に満ちた才能が、ふたたび、魂の故郷である天空へと送り返され、偉大なる主の目の下に触れるように。そして過去も未来も現在も、ただ雄壮な虚空に結ぼれ、吹き飛ばされてゆく今、我が子の目醒めたばかりの好奇心は、昼下がりも、夕暮れも、黎明をも超えて、幾千、幾億もの蝶を引き連れ、さらに遙か彼方へと、あらゆる想像を、創意の爆発を孕みつつ、その真帆いっぱいの熱情に、孤独な鼓動をいよいよ逸らせてゆくのだろう——いつか、遥か未来におけるいつの日か。

 やがて彼女は見に行くだろう。貴族としての嗜みや、ファルコ家の歴史、イタリアの重厚な土壌を駆け抜けて、もっと多くの、怒濤のもの、視る真価のあるもの、もっと高きもの、息すべきものを、その瞳のうちに抱きとめ、服従し、鳩のように散らしてゆくだろう。私はそれまで、この愛しい小さな学者を守らなければならない。あらゆる困難も、苦しみを超えて、私の生涯が、海の如く続く限り。

 彼女の鳶色の瞳が、望遠鏡を覗いている。勝気な鼻や眉毛に、命が宿る。柔らかな栗色の巻毛が、数本、汐風で乾き始めたフォカッチャのような頬に、薄い影を創る。

 世界は、なんて広いのかしら。
 私行くわ、いつか、あの空の向こう側へ。

 私は、その掠れた独り言を、頭上に燃え盛る青い焔の燃焼音とともに聞いた。まだちいさなその生き物は、汗ばんだ私の胸に頰をすり寄せてきて、静かに、安寧の呼吸を繰り返していた。

 暖かいくつろぎと、瞬き続ける興奮の合間で、いずれやってくる蒼穹の光に向けて、ファルコンの翼を整えようとでもするかのように。

(チェッリーノ・ファルコの手記より、1809年、7月23日)


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