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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」13.好きよ、デイビス



(誤解だよ。最初に好きだって言ったのは、そっちだろ。今になって、俺を見捨てようとしないでくれ)



 自分が何をしたのかは分かっている。
 どれほど惨めだと笑われようが、今さらどうでもいい。
 ただ、捻じ曲げられたまま理解されて、終わりになるのだけは、堪えられなかった。

(あんなのは本心なんかじゃない。お前は賢明で、自立していて、俺には勿体ないほど素晴らしい女性だよ。俺の言うことが信じられないのか?)

 彼女は彼を振り返り、我慢のならないかのように素早く首を振った。

(あなたのような人間は、信用も尊敬もできない)

 記憶に懐かしいその声は、今は冷淡さに閉ざされ、耳を貸そうともしなかった。ふと、過ぎてゆく風が低い呻き声を響かせた。それが何の音かは分からない。周囲が、逃げられない監獄のように感じた。果たして自分たちは今、どこで会話をしているのだろうか。
 デイビスは立ち尽くしたまま、理解できない場所に取り残されてゆく。白くて、空っぽで、人の気配の感じられない地点。ゆっくりと痺れてゆく感覚も、景色が何も頭に入らない様相も、虚構の世界と紙一重のようだった。

(いつも言い訳ばかり。もううんざりよ。誤解なんかじゃないわ、それが本当のことなんでしょう? あなたは自分が傷つきたくないばかりに、あなたのそばにいる人たちを無差別に傷つけるの。私が泣くたびに反省した素振りを見せて、何度も何度も同じことを繰り返す。あなたは他人の痛みを理解できない、自分本位の、残酷で薄弱な人間よ)

 それは鋭利で、率直で、何よりも正しいと分かっているはずなのに、何もかもが複雑で、何も理解ができなかった。その言葉が胸に刻まれるのを、血を流すように感じ入るしかない。そして、理解できないからには、何も言葉を返すことができなかった。

 残酷で薄弱な人間————

 そう思うのが、普通の感覚なのかもしれない。
 自分と関わり合えば、あらゆる人間がそうして、疎ましく思うのかもしれない。
 だって、同じことは、同じ時間を過ごした何人もの人々にも言われた。彼の心に踏み込み、最も深い関係になった人間が、みな苛ついた表情で、それを言うのだ。どんなに忘れ去ろうとしても、人と関係するたび、これからもその言葉は繰り返し投げつけられるのだと思い知らされたから。

(あなたは、一度も私に本物の愛をそそいでくれたことなんてなかった。私のこと、同じ人間だなんて思っていない。あなたが私の中に見ているのは、鏡に映った自分だけでしかない。どうせ、虚しさを埋めたくて私の気持ちを利用しただけなんでしょう? 愛していないんだったら、今日のことだって、何も響いてくれないわけよね)

(なんだよ、本物って。お前に、俺の何が分かるんだよ! どうしてそうやっていつもいつも、俺の言うことを本気にしてくれないんだ!)

(それはあなたが私にやっていることよ! 寂しいのは私も同じ! それなのにあなたが何度も何度も、私の心を試すから!)

 自分は決定的に観念が食い違っていて、目の前の人間の心ひとつ読み取れない。それがなぜなのかも、自分では分からない。なのに、他の人間はすべてが分かっていて、自分の心を言葉にできるのだ。

(———愛していなかったのは、どっちだよ。俺の全部を受け入れるって言ったのは、そっちじゃなかったのか? 結局、全部嘘だったんだろ。俺に約束したことを、何ひとつ守ろうともしなかったんだろ? 嘘つきなのは、そっちの方だろ)

 彼女が振り返った瞬間、この世の重要なことがすべて掻き消えるような感覚がした。その眼差しには、やはり見覚えがあったが、それでも、目にするたびに死にそうに心臓が凍った。彼女の眼には、恋人を傷つけまいという躊躇いが残りつつも、しかしそれを上回る鬱憤と生理的な侮蔑が、彼の心に最も突き刺さる言葉を選択させていた。



(あなたといると、心が潰れそうになる。どんなに愛をそそいだって、まともな愛を返す気なんかないんだって分かって、虚しいの)






……

 嫌な汗が、背中のシャツに貼りついていた。見たことのない石造りの天井に、一瞬、ここはどこだろうと硬直したが、やがてすぐに、ああそうだ、まだ自分たちは魔宮の中にいたのだ、と思い直す。身を起こすと、服についた砂の剥がれ落ちて、ぱらぱらと墜下する震動が響く。それと同時に暗闇の中から、神殿内に置かれた石像や瓦礫が、ぼんやりと浮かびあがってきた。

 なんつー夢を見てるんだよ、俺は。こんな時に。

 髪を掻きあげながら、デイビスは深く俯き、溜め息をついた。カメリアはすやすやと、気持ちよさそうに彼のそばで眠っていた。寝顔はあどけなくて、いつもよりさらに幼く、十代に見える。口に入りそうだった鳶色の髪を耳にかけてやると、白い頬に貼られたぺったんと絆創膏が、妙に痛々しく感ぜられた。

「やあ、起きたのか」

 あの低く落ち着いた声色で、背後から男が声を掛けた。振り向くと、ジョーンズはすでに身支度を整え終わって、ランプで手元を照らしながら、壁の装飾を手記へと写生していたところだった。

「おはようございます。……という時間なのか、分かりませんが」

「ああ、この神殿内では、時計が止まるからね。
朝食を食べなさい。それから、悪いがね、ここの部屋だけ少し調査させて欲しいんだ。いくつか石像やレリーフのスケッチと、染料の採取を」

 朝食の缶詰に手を伸ばしかけたが、昨日、あれほど神殿内を歩き回ったにも関わらず、食欲が湧かなかった。なぜだろう? 何もかもが色褪せて見える気がする。ろくに光を見ていないせいで、生命力が減退しているのだろうか。

 いや———

 ちらりと目を配る。ジョーンズは、昨日と同様、特に疲れや意気消沈した様子もなく、さらさらと鉛筆を動かしている。自分の仕事に集中すれば良いものを、ジョーンズと二人きりという事実は気を散らし、デイビスの心をやるせなくさせた。

「俺、カメリアが起きる前に、煙草を吸ってきます」

 デイビスは懐にライターと煙草の箱を突っ込み、立ちあがった。ジョーンズはふと、それまで深く下げられていたフェドーラ帽のつばをあげて、

「神殿内での喫煙はだめだな。クリスタル・スカルを怒らせるかもしれないから」

「ええ、ですから、昨日見かけた偽の出口で。外に出るような真似はしませんから」

「道順は、分かるかね? 少しでも知らない場所に行くと、また罠が——」

「大丈夫です、自分で何とかなるので。そのまま、調査を続けていてください」

 ジョーンズは気分を害した様子もなく、そうかね、気をつけてと軽く呟いて送り出した。そういった物言いが、自分よりも遙かに大人なのだろうと思った。危険な可能性を拭い切れないようなことでも、裏の感情を汲み取り、相手の能力と自由を尊重して託す。呼吸するようにそれをできるという事実が、デイビスの心を揺さぶった。

 暗い神殿内を歩きながら、考え続ける。すでに膨大な現実の情報量に押されて、消えかかりつつある今朝の夢は、思い出してもほとんどあの痛切さを帯びなかった。
 もう、蘇らせようとしても戻らない感覚。けれども、ああして喧嘩できただけでも、まだましだったな、と思った。末期には、ほとんど口をきく気もしなかった。きっと、九割九分相手を憎悪しながら、残りの一分で、互いに愛していた。しかしそれは、肺腑を抉るようなやりとりを長引かせただけで、何の役にも立たなかった。もっと早く嫌いになれていたのなら、かつて好きだった人間が、自分を傷つける怪物のように見えることもなく済んだ。

 自分には、なぜこれほどまでに敵が多いのだろう。異性だけではない。ドクター・コミネ、スメルディング、それに……そう、あの全然馴れてくれない隼も。けれども、ジョーンズは彼らとは違う、根本的な危機感を煽ってくる。彼に敵意はなく、自分にもない。それなのになぜ、これほどまでに彼の存在を堪え難く感じてしまうのか。

 ジョーンズは物穏やかな、それでいて逞ましく、ひとりで生きていける強さを持った人間だった。その絶対的な安定感は、スコットに似ているようで、少しばかり違う。スコットは家庭を大切にしている。しかしジョーンズは、犀の角のように自身の道を研ぎ澄まし、限りない自由をその芯に据えていた。家族はないのか、という問いにも、軽く肩をすくめさせ、私の周囲は、不思議と早死の人間が多くてね、と意味深長に答えるばかりだった。彼の左手にも、やはり結婚指輪は光っていない。

 ジョーンズが独身だという事実は、より一層、デイビスの心を脅えさせるものがあった。自由と責任。その二つをたったひとりで抱えて、気ままに生きてゆく、自立した男。伴侶がいないという点で、彼とは立場が同じであっても、自分にはそれが到底できている気がしなかった。ただ、日々を漫然と積み重ねて、時間を無駄にしているだけ。自分の方が、ずっと彼よりも年若いに違いないのに、なぜ教授の方こそ行動力があり、快活さに満ち溢れているのだろう?

 やがて、回廊の先に、外光の射してくる隧道を見出すと、彼はその端に乱暴に腰を下ろして、頭を深く膝の中に埋ずめた。半日振りの、外の世界の光だ。すぐそばの密林からは、青臭い香りと雨の音が漂ってきて、彼の魂を無理やりに外へ引きずり出すようだった。肺が引き絞られるように苦しく、吐き気がしてきた。誰のそばにもいたくなくて、ここまできたのに、少しも一人になれた気がしなかった。

 堪えられない。なぜこれほどまでにあの男に恐怖するのか。なぜ死にたくなるほど、自分の焦燥感を煽られるのか。スコットがいれば、自分はこの先も、何とかやっていけるだろうと思った。けれども、彼がこの世で一番大切にしているのは家庭であって、たかが歳下の部下に過ぎない自分ではない。いつまでもおんぶに抱っこでもいられないし、自分の真の拠り所を見つけなければならないのだと分かっている。そう心の底で己に言い聞かせていた時に、目の前に現れたのが、あの男だ。ジョーンズは、そうであるべき自分であって、しかも、すでに・・・そうなっているべき自分だった。彼の姿が突きつけられるたび、まだ、何も変わっていないのか、と自分に責められている思いがする。ジョーンズは俺と関係ない。そう叫んでも、石のように冷たく重い、この呵責からは逃れられない。

 大学教授。
 つまりは社会に認められた、学問の世界の人間で。それは知性も、努力も、それに社会的なステータスも、すべてを兼ね備えた刻印のように見える。

 振り返って、自分はどうだ。
 未知の扉を開いてゆく頼もしさも、深い経験と研究に基づいた知識も、誰もから羨望を集める人格もない。せっかくストームライダーのパイロットになれたのに、けしてスコットには追いつかず、周りからは期待もされていない。ミッションを成功させても、謹慎を喰らって、ベースにもスコットにも叱られ、同僚たちに嗤われるばかり。考えるのは、いつだって惨めな自分のこと。不安感も、羞恥心も、劣等感も、ぼんやりとした魂の穴の中からそれらが染み込んでくるように、くだらない自意識が人生を蝕んで、毒して、腐食させてゆく。

 結局、自分には誰もいないのではないか?
 窮地の時に叫んでも、自業自得だ、ふざけているだけだと思われて、誰も彼を助けず、見つけてくれすらもしないのではないか?

 そんな底なしの恐怖感が、彼の背中を取り憑いて消えはしなかった。誰か、無償の愛を捧げてくれる人間に隣にいてほしい。けれども、そんな誰かに、何を返せる? 自分の下手な愛情表現なんか、誰も求めてくれはしない。最初はどんなに熱烈な愛を囁かれても、本性を理解してゆくに従って、みんな唾棄し、軽蔑し、離れてゆくようになる。その時になって知る、結局懸想されたのは顔だけで、その容姿ですら、一度愛想を尽かされれば、二度と愛情をそそがれることはないのだと。

 この魔宮を出れば、自分はふたたび、ポート・ディスカバリーの夜に繰り出して、月明かりの中で誰かに笑いかけるだろう。しばらくはそんなことも途絶えていたのに、ジョーンズに会ってからは、独りでいることに堪えられそうにもない。そうして、茶番の中で愛を切り売りして、一時的な忘我に溺れて、朝、目が覚めたなら、少しずつ、自己嫌悪と堕落が積み重なってゆく。

 俺は、何が欲しいんだ?
 何を期待している?
 どうしたら、この焦燥から抜け出せる?

 何度考えても、答えなど出てこない。そのうちに吐き気がしてきて、だんだん馬鹿馬鹿しく思えて、笑えてきた。変わらない、何ひとつ。どんなに時が流れても、変わることなどできない。

 空っぽな人間。
 見せかけだけの、軽佻な人間。

 自分の中には、他人に選ばれるようなものなんか、何もないと思った。






……

 十五分ほど経って、静かに目を覚ましたカメリアは、目を開けるなり、彼のいないことに気づいた。アレッタは腿の合間に挟まれるようにして、彼女の膝の上で眠っていた。そっと抱きあげて地面に置くと、少し目が覚めたようだったが、ふたたび、彼女に身を寄せる手前で限界を迎えたらしく、そのままゆっくりと佇んで、目を閉じてしまった。

「あの、ジョーンズさん。デイビスは……」

 カメリアの呼びかけに振り返ったジョーンズは、軽く肩をすくめると、煙草の煙を吐く真似をしてみせた。納得したように、カメリアは頷く。

「彼、ひとりになりたいって、言っていましたか?」

「いや、そんなことは口にしていなかったね。単なる朝の一服だろう」

「それじゃ、私、彼を探してきます。ジョーンズさんはここにいてください」

「君だけでかい? しかし危ないだろう、彼と行き違いになりでもしたら、——」

「大丈夫です。見当はついていますし、昨日通った道順もすべて、覚えていますから」

 何気なく口にされた言葉の意味に気づいて、ジョーンズは慄然としたが、その時にはもう、カメリアは身を翻して、思い当たりのある場所へと向かっていた。

 暗闇の中を、ランプもなしに進んでゆく。昨日、ここも一歩外へ踏み出たら、罠に引っ掛かるだろうね、とジョーンズが密林へと通じる短い隧道を、よく確認もせずに通り過ぎた時に、一瞬、彼の眼差しが物惜しげに長引いたことから、煙草を喫いたいのだろう、という心情が容易に察せられた。彼は喫煙の欲が高まると、自分の口許を抑えたり、顎を支えることが多くなる。煙草の蓄えが切れたところなど、数回しか見かけたことはなかったのに、口寂しそうに唇を押さえつける姿を見て、分かりやすい人間なのだと、印象深く記憶していた。

 あの、隧道。どこをどう戻ればいいかは分かっている。昨日のうちに、通り道の罠は全部ジョーンズが解除したから、復路で捕まる心配もなかった。焦る気持ちのままに足を早めると、あまりに大きく足音が響くので、硬いブーツの底を浮かせ、やや爪先立ちになって探し回る。すると、それだけで反響はなりを潜めて、地面を踏み躙る瑣末な雑音だけが、じりり、と足の下に立った。

 黙りこくったような薄暗い神殿は、遙か昔年に構築され、恐ろしい年月を蓄積した迷宮。世界はひとつだという概念もなく、文明はそれぞれの大陸に孤立し、その内部でのみ、延々と熟成を繰り返してきた。多くの神が。多くの戦争が。多くの生贄が。太陽と玉蜀黍の神話の中で生きて、汗を流し、物を食べ、そして語り合っていたはずだ。ここは、そんなかつての時代には、もう二度と戻れない異次元だ。もしも、この地に征服者が訪れず、歴史が今のように分岐していなかったら、この高度な技術を擁した文明が、世界をみちびく頂点となっていたのかもしれない。けれどもそれは、単なる仮定に過ぎない。もはや、生きた人々はここを調査対象とするだけで、昔年のような崇拝を捧げることもない。冷たく埃っぽい空気も、あちこちに転がる財宝や残骸も、かつて築きあげてきた栄光の終焉を証明しているかのように見える。

 ここは、打ち捨てられた場所。
 歴史のほんの些末なきっかけで滅ぼされ、葬られた夢。
 礼拝する者もなく、血を流す者も途絶えて。かつてここを崇めていた人々の魂は、どこへ行ってしまったのだろう?

 歩いているうちに、徐々に回廊が明るくなってゆく。虚ろながらも、どこからか外の光が反射してきているようだ。そしてその出所は、すぐに彼女の目にも、まばゆく見出せた。

 回廊から枝分かれしてゆく短い隧道に、白い光が差してきて、柔らかな円状に広がっていた。彼女はそのうちのひとつを覗いた。雨に濡れる密林が、隧道の出口から鮮やいでいる。そして、その光に溢れる世界を切り取る薄黒いシルエットが、胸を衝かれるほど美しかった。生きている人間は、それほどまでに貴重だったのだ。この廃墟の中では、もう二度と会えないような錯覚すらあった。彼は片膝を立てて座り込み、茫然とした横顔で煙草を吸いながら、外の景色を眺めていた。近くの青葉はしとどに濡れて、硬い音を反射させている。その前を、蒼白い煙が、無気味にうねるように渦巻き、消えていった。

 つまらなそうなわけでも、興味深そうなわけでもない。ただ、目に映るものをそのままに、気を張ることに疲れたような表情で、眼差しを放擲している男。その光の中に忘れ去られた横顔は、鼻筋も線も極めて繊細に造られている一方で、天使のように冷酷な甘やかさが見えた。不思議に、なぜかその姿は絵のようだと思った。見つめている彼女の気配に気づくと、彼は煙草を口から離し、よぉ、とだけ語りかけた。

 カメリアはそばへ歩み寄った。デイビスは遠くに眼差しを向けたまま、彼女の響かせる靴音が聞こえないかのように、シャツに包んだ身を壁に預けさせ、物思いに沈んでいた。

「寒くないの? こんな雨のそばで」

 カメリアは立ったまま、外の光を見て座っている彼に囁く。デイビスは彼女に視線を移さず、唇だけで笑みを引いて、

「元々、体温が高いんでね」

「……濡れているわ」

「はは。水も滴るいい男だろ」

 いつものように巫山戯た物言いでなく、投げやりに言葉を放って、デイビスは虚ろな笑い声をこぼした。

「俺の方に、来ていいのか」

「どうして?」

「……いや。アレッタは?」

「眠っていたみたいだから、置いてきちゃった」

 悪戯そうに肩をすくめるカメリア。彼女がアレッタを連れていないのは珍しい。おかげで、いつも隼を載せていた肩が、不思議とすっきりとして見える。

「博士は——未だに調査中か。飽きねえよな、本当に」

「壁画を読み解いているみたいだったけど。私にはよく分からなかったな」

「へえ、あんたはそういうの、興奮する性質だと思っていたけど。好きじゃないのか」

「好きよ」

 デイビスは、不安そうにカメリアを見あげた。

「でも、外の空気を吸いたくなったの」

 デイビスは、しばらく彼女のことを見ていたが、どうぞご勝手に、と呟いて、また雨の方を向いてしまった。

 カメリアは、そんなデイビスの向かい側に立ち、壁にもたれるように寄り掛かった。二人とも、その鼻筋を境に、顔の半分を覆い尽くす影が躍り、どこか観照的な気怠さを漂わせていた。そんな彼らのすぐそばを、大粒の雨滴がしたたってゆく。

「雨を見ていたの?」

「ああ」

「いいわよね。私も、雨を見ているのは好きなの」

 デイビスは、答えるどころか、彼女の方を見ようともしない。けれどもよく観察すれば、その口許には薄っすらとした、非常に微かな笑みが透けて見えぬこともなく、その飾り気のない言葉を、彼なりの仕方で受け止めているようだった。カメリアはその沈黙に、気分を削がれた様子もなく、外へと向かって片手を差し出した。糠雨に、その指先が濡れてゆく。

「あなたは、あの人と馬が合わないみたいね」

 と、何気なく呟くカメリア。ふと、デイビスの切れ長の目が動き、雨音に消えそうな彼女の唇の動きを追った。

「あんな奴、ただのオッサンだろ。歴史なんて過去ばっか見てどうするんだよ。大事なのは未来だ、未来」

「未来は、過去から生まれるものでしょう?」

「詭弁だね。未来のために過去があるんだって、そっくり逆のことも言えるだろ。ま、コーコガクに興味のない俺には、あんたたちがどれほど過去に熱狂しようと、関係のねえ話だけど」

 口許を覆うように煙を味わっているデイビスからは、削りたての樹皮の香りがした。険のある口調で語りながらも、雨滴にはじけ散る灰色の光を吸い込み、その眼はぼんやりと虚空を仰いでいた。

 カメリアは首を傾げて、何気なく問うた。

「デイビス。もしかして、妬いてるの?」

 デイビスは唖然としてカメリアを見あげた。ぽろっと口許から落ちた吸い殻が、雨に揺れる水溜まりに吸い寄せられて、小さな炎を掻き消してゆく。あ、もったいない、とカメリアは思った。それは先ほど、箱から引き出したばかりのものだったから。

「ばっ、ばっ、ばっ、馬鹿野郎ッ、そんなわけあるかよ! 誰がそんな子どもじみた真似ッ——」

「だって実際、子どもじみたことばかりしているじゃない。カッコつけて煙草を吸ってみたって、精神年齢は何も変わらないと思うけど」

「なんで俺が、あんたのせいで妬かなくちゃいけないんだよ!」

「違うの?」

「違ェよ!」

 力一杯叫んだせいで、声が枯れた。まだエコーが残る回廊で、軽く咳払いをしていがらっぽい喉の調子を整えるデイビスに、カメリアは告げる。

「大丈夫。私は、デイビス一筋だから」

 にっこーーーと輝くばかりの笑顔を向けられて、デイビスの口許はひくりと引き攣った。だから何なんだよ、その台詞の意味は。

「あなたって、今まで誰かを好きになったことはあるの?」

 雨に濡れた吸殻を引き上げながら眉根を寄せて、あーあー、と愚痴りながら水気を切るデイビスに、カメリアは興味本位で訊ねてみた。いつ訪問しても、仕事以外にまるきり予定のなさそうな彼だが、その天使のような風貌では、人々からの注目を集めやすいだろう。自分が知らなかっただけで、もしかすれば、遠方に恋人でもいるのかもしれない。

 ……と、そこまで考えて、自分が場にそぐわない質問をしたことに気づく。異性が二人きりでいる際に、そういった類いの内容は、配慮に欠けている話題だったのではないか、と。ところがデイビスの方は、

「さあねえ。あんまりねえかもな」

興味なさげに、あっさりと吐露したので、カメリアは新鮮な印象を抱いた。突然の問いにまた慌てふためくか、過去を指折り数えるか、どちらかの反応だろうと予想していたのだが、実際のところは極めて淡白にすぎる回答。特段、感傷に浸るでもなく、羞恥心を引き出されるでもなく。凝り固まった首を鳴らしていた彼は、ふとカメリアの方に流眄を送った。

「なんだよ。そんなの聞いて、面白いのか?」

「いえ。てっきり、華やかな経歴が飛び出してくるかと思っただけ」

「まあ、何人かとは付き合ったけど。くだらねえ思い出しかなかったよ」

 ずり落ちた体勢を戻すために身動ぎしたせいで、艶めいた髪が滑り落ちる。そうして、傷病兵の如く壁に寄りかかりながら、彼は長い指先で、コツコツ、と音を立てて地面の石材を叩いた。

「……自分以外の人間からどんなに好きって言われても、どこに熱をあげてんだか、さっぱりピンとこねえだろ。何、ろくでもねえ男を庇ってるんだって……そいつごと、冷めるだけ。俺のことを持て囃す人間なんて、どいつもこいつも信用できやしねえよ」

 消え入りそうに呟かれる、厭世観に満ちた言葉。
 明朗な雰囲気を放散している容姿とは裏腹の、毒のように染みついた自虐の口調に、カメリアは思わず顔を痙攣らせた。

「……へ、へえ。それはまた随分……」

「幻滅したか? 正直に言えよ」

 自嘲気味に笑って、デイビスは眼だけでカメリアを煽った。奇妙に挑発的な——いや、退廃的と言ってもいいその眼差しには、相手の本心を値踏みするような猜疑心があった。不自然な動きを見逃すことなく、冷徹に暴こうとする狡猾さが、その瞳の奥底に蠢いている。

「えーと、その。……そういう自己評価だと、生きるのが大変そう、よね」

 というわけで、カメリアも正直に本音を口にする。ボロを出すまいと飾って信頼を損なうよりは、本当のことを言って嫌われた方がずっといい。

 それがデイビスの目にどう映ったかは分からないが、彼は軽く俯いた。別に……大変だったことなんてねえよ、と囁きながら、雨に落ちてしまった吸いさしを拾い、親指で弄んでいる。水溜まりに浸けたせいで濡れている彼の指先には、ちいさな落ち葉の屑と数粒の灰が、いまだ付着したままでいた。

 柔らかな雨は、烟るように彼の髪に湿り気を吸わせてゆく。水分のせいで、微かに癖が出てきて、大型犬のような髪質になっていた。背の高い彼を見下ろす、ということは、今まであまりない経験だったが、幾つか、跳ね飛んだ雨露が髪に細く光っているし、壁に押しつけたせいなのか、少しばかり跳ねてしまっている髪もある。デイビスは何も言わぬまま、じっと下を向き、静謐な呼吸を繰り返していた。まるで濃霧に光が射して、その薄明るい眩しさが、彼の醒めた両眼を、無益に照らし出しているかのようだった。

「落ち込んでるの?」

 突然、驚くほど深い声をかけたカメリアに、デイビスは俯いていた顔を微かにあげて、長い前髪の下から彼女の方を見あげた。その仰角のせいか、彼の瞳は鬱屈として、奥底に剣呑な敵愾心を閃かせて見える。
 カメリアの両眼は、その陰鬱さを吸い取った。彩度はそれほど鮮やかでないのに、なぜか際立つように澄んだその眼。怯むこともなく、かといって立ち向かうわけでも、包み込むわけでもなく、ただ、醇乎たる自然のままに、彼のことを見ていた。デイビスは、ハッと我慢のならぬように吐息を吐くと、外光と薄闇の両方に侵されている双眸を、潰し玉のように忌々しげに歪ませた。

「いつまで立ってんだよ」

「え?」

「座ったら。そこに」

「……はぁ」

 言われた通りずるずると腰を下ろすと、ちょうど足先が、彼のふくらはぎの付近へ当たりそうになる。それを避けるために、軽く膝を抱え、壁に背を押しつけて座り込んだ。二人の大人が座るには狭い領域だったが、デイビスは特に気に介していないようだった。ただ彼女のドレスの裾を汚さないように、ほんの少しだけ、足の置き場をずらして、彼女へと譲ってやった。

 ふたたび煙草を箱から引き抜き、じっと俯いたまま、彼はライターで火を点じた。苦い紙の味を噛み締めている目の前で、その穂先が身をくねらせて、灰塵と化してゆく。その黄金の圏に網膜を灼かれぬよう、切れ長の眼を眇め、最初の煙を吐き出した頃に、曖昧だった焦点を僅かばかり奥へと結び合わせると、それまで朧げに視野に浮いていた色彩が、靴へ、ドレスへ、鳶色の巻き髪へと、その見慣れた像を浮かびあがらせた。

 何も言わず、何も身動ぎせぬままに、彼はぬめるような目線を、その軀の輪郭へと這わせていった。無音で煙草の匂いを肺まで染み込ませつつ、徐々に紫煙の眩むような筋とともに、その薄闇で覆われた肢体をなぞりあげてゆき、足から腹へ、鳩尾から胸へとのぼりつめながら、その瞳は次第に、夢うつつの気配を湛えてゆくようだった。灼熱の齧るような静謐な音が、煙草の先をじりつかせ、焼け終わった灰の些末が、蒼白い煙のなかを墜落してゆく。その眼差しが、細い首元へ差し掛かったあたりで、一瞬、躊躇するような素振りを見せると、不意にその長い睫毛を震わせて、一挙にカメリアの瞳へと辿り着く。

 彼女も、彼の眼を見ていた。雨に閉ざされた外界の光を吸って、その鳶色の瞳は、いつもより十倍も薄く、そして複雑に揺らめいて見えた。彼は、挑みかかるように、彼女の瞳を見据えた。彼女は、どこか眩しそうに、彼の眼を見つめていた。音にもならない互いの呼吸が、狭い隧道を満たし、そして雨の中に消えてゆく。しばらくはその静謐な鳶色の瞳を、頑なな緑の眼が深淵のように捉えていたが、やがて諦めたように溜め息をつくと、ゆっくりと視線を外した。

「止まないね」

 ぽつり、とカメリアが言う。そうだな、と薄い煙の向こうから、デイビスが答えた。降りしきる雨の中から、時折り、何かが草を踏み締めるような音や、短く印象的に繰り返される鳥の鳴き声が響いてくる。それはどこか幻影のようで、雨垂れる音に耳を傾け、少しも身動かずに流れ去る時間は、その空漠を受け止めるに足るだけの静けさがあった。

「あんたと二人になるのは、久しぶりだ」

 やがて、落ち葉でも拾いあげるようなさりげなさで、デイビスがぼそりと囁いた。

「え? だいたい二人きりじゃない?」

「いつもは、あのクソ生意気な鳥がいるだろ」

「ああ。動物も人数に数えるのね」

「あの鳥、俺のことばかり威嚇して、いつまで経っても馴れやしねえ。主人のお目付役のつもりなのかね。俺は何も手を出したりしねえっつうのに」

 苛々と奥歯を噛み締めながら、煙草を挟んだ手とは反対の手で、湿った前髪を掻きあげる。今さら猛禽類の習性に何を言うのか、とカメリアは自らの友人を弁護して、

「アレッタは、人の心を見透かすからね。心に邪なところがあると、たちまち牙を剥くわ」

「はっ。結局、全部俺のせいかよ」

「そりゃ、相性というのもあるかもしれないけど。……何か、思い当たる節でもあるの?」

「いや……」

 彼は、何かの音でも聞くように、その語尾を密林の底に掻き消して、沈黙してしまった。言おうかどうか考えて、結局取りやめたのだとカメリアは考える。


 雨———


 それは確かに、人の心を落ち着かせる効果があるのかもしれない。地面を打ちつける雨粒を見ていると、自分の精神があの落ち葉と泥にまみれて、冷たい水滴に何万回と打たれるのを待っている気がする。色素の薄い髪のせいで、デイビスの周囲は光を湛えて、明るく透き通るガラス細工のようだった。その反射の中に身を凭れさせながら、自分を卑下することに倒錯した愉悦を覚えるかのように、雨しだきの中で薄く笑うと、唇からそっと煙草をもぎ取り、屈折した口調で囁いた。

「……あんたみたいな温室育ちには、免疫なんてないかもしれねえけどな。世の中には、こんな野郎もいるんだよ。外ヅラだけチヤホヤされて、世渡りばかり無駄に長けてて、中身は空っぽみたいな人間が。
 あんたも、よく俺なんかと一緒にいられるよな。良いことなんざ、何もねえだろ。今だって、あんたがフライヤーをタダで使わせてくれなかったら、きっと俺はあんたのそばになんかいなかったよ」

 落ち葉に滴る雨が響く中で、彼は抑制の効いた手で煙草の灰を落とし、そう自嘲した。淀みなく口をつく静かな攻撃性と、罅割れるように乾いた諦観が、隧道のうちに微かに響いた。
 カメリアが、何の邪心も含まれない目を張って、しんしんとした静寂の中でその言葉に聞き入っているのは、素直な子どものように見えた。しかしやがて、僅かばかり首を傾げたかと思うと、

「……えっと。デイビスがどう感じるかはともかく、私としてはフライヤーを本来の意図で使ってくれて、満足なんだけれど」

「あ?」

 邪魔な髪を耳にかけて聞き直す彼に向かって、ずい、とカメリアの顔が迫る。その目は販促の使命に打ち震える営業マンのように燃え、きらきらと彼の瞳孔の底を見つめていた。

「だって、フライヤーって、空を飛べるんだよ。そんな夢の装置があるって知ったら、誰だって興奮して、黄色い声をあげて、喜びのうちに失神するはずよ! そんな発明品をお蔵入りにしておくなんて、神への冒瀆だと思わない?」

「い、いや。さすがにそこまでは、俺は」

「どんどん活用してちょうだい。色んな国を見て、たくさん思い出をつくって、人生を豊かにしてほしいわ。ビバ、ファンタスティック・フライト、ってところね」

「は、はぁ……そりゃどうも」

 彼の手を握り締め、太陽のようにぱーーっと後光を発散してにこにことするカメリアに気圧されて、思わず壁に背中を押しつけながら、デイビスは粗雑な相槌を打った。

 この、強引さだ。いつもこれに丸め込まれるのだ。そして気付いた時には、自分が何に悩んでいたのかも忘れている。カメリアのけろっとした明るさは、いつだって、粘つくように渦巻く彼の内面を、実に単直な方向へと押し戻してしまう——だから心の準備も予想もできなくて、咄嗟に、本心に近い部分で会話してしまっているのだ。口に出してしまった時にはもう、取り返しがつかない段階なのだが、それでもカメリアはヘラヘラとしたままなので、特に気にする様子もない。ある意味、最強の浄化装置とも言えた。

 彼は立てた片膝の上に肘をついて、しめやかな顔で彼女の姿を偸み見た。いつものシニョンを解いて、柔らかく跳ねる癖っ毛を片側に流し、寛いでいる様子のカメリア。静かに冷えた呼吸を繰り返している姿は、透き通ったレースのカーテンが、潮風にもてあそばれて揺らぐ様に似ていた。

「……あんたさ。一見すると破天荒だけど、そのくせ全っ然自分を持っていないよな」

 きょとん、とカメリアは目を瞬かせた。

「透明っつーか、掴み所がないっつーか。いっつも、妙な肩透かしを喰らいながら話しかけてる気がしてるんだよな。……なんでかね」

「なんででしょう?」

「いや、こっちが訊いてるんだよ」

 デイビスはかくっ——と肩を落とした。

「飛行のことばっか考えて、他にさしたる欲もねえし、未来にやってきて、俺とアホなことばっかしていやがる。
 フライヤーだって、あの時代にあれだけ飛べたら、一儲けできるだろ。ポート・ディスカバリーの創設者にも言ってやりたいことだがな、科学だのなんだのより、もっと自分の利益を上げるために費やせよ。あんたは、大金を掴むチャンスを溝に捨ててるんだぜ」

 カメリアは、彼のひとつひとつの言葉の意味を噛み締めようとしたが、どうも表面上の意味しか理解できず、せいぜい結論づけられた事実といえば、いやに噛みついてくる男だな、ということだけだった。どーせ、自己のうちで何かこじらせて考えているんだろうけど。カメリアは試しに、ゆっくりと彼の反応を引き出してみることにして、

「突然、変なことを言い始めるのね。お金儲けについてなんて、今まで言及したことなかったでしょう?」

「口に出さなかっただけだよ。俺は最初からずっと、自分に利益を約束してくれるものだけにしか興味ねえよ」

「あらあら。海底レースで貯金をスッた人の台詞とは思えないわね」

「……よ、余計なことはいいんだよ」

「それに……」



 ————あなたは私に、所持金を全部はたいて金糸雀のブローチを買ってくれたじゃない。忘れちゃったの?



 心の中の呟きを押し殺して、彼女は、胸のそばでちいさく拳を握り締めた。そして軽く肩をすくめると、心に燻るそれとは別のことを語り始める。

「特にお金に執着したことはないわ。元々、裕福な家に生まれたし。お金に困ったことがない分、欲も少ないんだろうね」

「はっ、羨ましい限りだな。一生遊んで暮らせるだけの金があるんだろ。いいよな、オジョーサマに生まれついた人間は」

 デイビスは冷笑混じりに皮肉を言い、煙草を口元から外して、雨中へと逃すように息を吹いた。紙の焦げつく匂いとともに、乳のような紫煙が立ち籠める。

「……まあ、やっぱり、普通の人はそう思うよね。身分の差があるなんて、おかしいんだよ。結局私は、貴族の恩恵に縋って、今日まで生きてしまったけれど」

 彼女は、微かに寂しげではあったが、それでも唇を緩め、そっと膝を抱える。鳶色の睫毛が、その顔に陰翳を添えた。

「もともと、フライヤーは特許を取らずに、世界中の人々に公開するつもりだったの。私の名は忘れられても、技術が継承されて、人々の空を飛ぶ土台になるならいい。というより——あんまり私の名前が称賛されると、そっちの方が照れてしまうでしょう。まあ、どこかの本に一行くらい名前が残ってくれれば、嬉しいけれど。でも……それよりも、フライヤーをみんなのために残して死ねた方が、科学者としては幸せでしょうね」

 いきなり、デイビスは立ちあがった。自分が座っているだけに、カメリアからすれば、巨人とも思えるほどにその影は大きく覆い被さってくる。
 彼は苛立たしく、ほとんど憎んでいるのではないかというほど悪意の渦巻く眼で、彼女を睥睨していた。何が琴線に触れたのかは分からないが、その緑の瞳は、本物の怒りによる気迫を宿している。

「本気で、そんなことを言えるのかよ」

 どすの効いた声だった。誤ってドレスの裾を踏まれないように足を引っ込めながら、戸惑ったようにカメリアは彼を見あげた。 

「あ、あら。私ったら、随分信用されていないのね」

「歴史に名を残せなかったら、あんたは最初からいなかったも同然なんだぞ。努力も汗も何も払わない後世の連中に、成果だけ食い潰されて、あんたはこの世から消滅するんだよ。満足か? 知らない奴らのために汗水垂らして、報われもせずに、塵になってよ」

「……また、偏った考え方を」

「俺の言うことは、間違っているか? なら、お得意のロジックで反論してくれよ」

 なんだこいつ? カメリアは徐々に面倒くさくなってきて、不毛なやりとりに苛々してきた。しかし当人はといえば、どこか品定めするように醒めた面持ちで、こちらを漫然と眺めている。その冷たい目線を受け流しつつも、

「合っている間違っているというよりも、それがあなたの価値観なのでしょう? 私はフライヤーさえ残せれば、死後の名声なんてどうだっていいの。いずれ消え去るものに意味などないというのなら、あなたはその考えのままで良いじゃない。私とあなたが、同じことを考える必要なんてないんだから」

 それが嘘のない中での彼女なりの譲歩で、それで論議は終わりになるはずだった。しかしデイビスは、なぜか片苦しい顔つきに変わって、

「……そんなことを言ったら、俺とあんたが会話する意味がなくなる」

とぽつりと漏らす。

「そんなことないわ、いくらだって好きにお話すれば良いでしょう。とりあえず、座ったら?」

「嫌だね」

「どうしてよ。まさか私を見下ろしていれば、精神的優位に立てるとか思い込んでいるんじゃないでしょうね」

「……」

 無言で、じり、と後退するデイビス。
 いや、当たりなんかい。カメリアは呆れ返った。

「ねえ、さっきからあなたがよく分からない口論をふっかけてくるのは、私に叱られたい変態願望があるからなの?」

「別に。叱られたくはねえよ」

「じゃあ何のために、わざわざそんなことをするのよ?」

 デイビスは鼻で嗤いをこぼすと、簡潔に答えた。

「あんたがどこで怒るか、探っているんだよ。沸点も分からねえ人間は、うかうかと信用すらもできねえからな」

 カメリアは、今度こそ唖然として、彼の顔を見つめ返すしかなかった。マインスイーパーばりの綿密さを発揮して、人の地雷原を探索することが、人間間のコミュニケーションの第一歩だとでも思っているのだろうか?

「デ、デイビス……あなた、今まで苦労してきたのね」

「何が?」

 がっくりと項垂れるカメリアを前に、デイビスは、自身のやっていることの意味が本気で分からぬようで、首を傾げていた。

「うーむ。このひねくれ方を……どうしたもんかしら」

「どうもこうも、あんたが俺の性格に口出しする必要ねえだろ」

「デイビス。ちょっと、こっち来なさい」

 おいでおいでと手招きするカメリアを不審に思いながらも、仕方なく煙草を咥えると、デイビスは自分の膝に手をついて、彼女の前に顔を近づけた。それに対して、ぴん、と人差し指を真っ直ぐに彼の前に立てながら。

「今からあなたに、もっと人に素直になれる魔法をかけてあげます」

「はぁ? なんだよそれ」

「静かに。よーく、私の目を見つめて」

 煙草の白煙に揉まれながら、彼女の間近でじっとその瞳を覗き込むデイビス。目を合わせるということは、人の重圧を直接、瞳孔にねじ込まれるようで、あまり好きな行為ではなかったが、ゆっくりとした瞬きをする彼女の瞳を見ているうちに、ああ、これはただ見つめ合うことだけに意味を置く眼差しだ、と気づいてからは、まんじりと眺めるのも怖くなくなった。長い鳶色の睫毛に縁取られた、形の良い眼。吸い込まれそうな虹彩は、薄っすらとした琥珀色や秋色、蜂蜜色、葡萄色など、くすみのない色合いが射して、波紋のように豊饒に揺らめいている。しばらくそうして、相手の瞳の奥底に見惚れているうちに、いきなりカメリアは、ぱっちん、と星の飛び散るウインクを飛ばした。そしてその瞬間から、今までとはいささか違った静寂が訪れる。

「…………」

「あ、あれ? 予定では、これで私に首ったけになって、愛の言葉を囁いてくれるはずだったんだけど」

「……あんた、よく馬鹿だと言われないか?」

 戸惑うカメリアに対して限りない脱力に襲われながらも、口に咥えた煙草の吸殻を、ポロリと落とさなかったことだけは、誰かに褒めてほしい、とデイビスは思った。

「どーーーーーーーーーして毎回毎回、あんたはくだらないことしか思いつかないんだ?」

「えええええ!? 私的には、これ以上セクシーでファビュラスでチャーミングな魔法はないと思ってるんだけど」

「セクシーも何も、くだらなすぎてボーゼンとしているんだよ!」

「そんなデイビスのツンツン言葉も、私にとっては大切な宝物よ」

「俺には、あんたのどんな言葉も、アホの戯れ言にしか聞こえねえけどな」

「あらあら。私たち、相思相愛ね」

「なぜ、赤面する?」

 デイビスは、際限もなく続くこのやりとりに愛想が尽きて、土偶の如くシラケた眼差しを送っていたが、困ったように微笑んだ彼女が、

「やっぱり、駆け落ちしてくれないんだなぁ」

と苦笑する何気ない言葉に、ふと、胸の奥底が痛んだ。ちょうどカメリアは、自分の足元に蟻を見つけて、興味深そうに首を伸ばしているところだった。そして、抱えていた膝を崩して、徐々に外へと向かってゆくその蟻を追いかけ、のどかに虫の観察をしている。その姿を見守っていても、どこに本意があるかなど、デイビスにはさっぱりわからない。

「俺なんかとどこかに逃げたいって、本気で思っているのかよ?」

「いやー? ワンチャンあるんじゃないかって言ってみるだけだよ、あなたが故郷を捨てるはずないし。本気だって言われたら、そっちの方がびっくりするかな」

「……なんなんだよ、いったい」

「冷静に考えなくても、私みたいな人間に、そんなこと持ちかけるのっておかしいじゃない?」

「い、いーか、ちゃんと第五話を読み直せ、駆け落ちって言葉を出してきたのはあんただぞ。それにあんな歯の浮くような妄言、本気にする方が——」

「うんうん。ま、普通、そうだよねえ。大丈夫、分かってるから、へーきへーき」

 蟻が出口に近づくにつれて、ヘラヘラと軽薄に笑っているカメリアの体も、ぼんやりとした白光に包まれていった。密林はすぐそばに広がっていて、出口は目の前にあるのに、きっと一歩、その地面へ足を踏み出したら、罠に八つ裂きにされてしまう。
 そうして、彼女を置いて霧雨の中へと出ていってしまった蟻を見送り、人形のように座り込んでいる後ろ姿のままで、カメリアはちいさく呟いた。


「馬鹿なんだよ、私。全部信じちゃうんだよ。何を言われたって」


 デイビスは、頬を打たれた少年のように睫毛をわななかせた。カメリアはそれ以上、何も言わなかったし、返事を求めてもいないようだった。理由は分からないのに、その時ふと、安堵感と自己嫌悪で、涙が込みあげそうになった。

 彼は、瞳を揺らめかせて彼女の背中を見つめていたが、しばらくして、薄明るい外光にふっと目を細め、それから数度瞬きをした。奇妙になまめかしく透き通る眼球の光とともに、極めて利己的な、薄暗い笑いが浮かんでくる。

「……悪かったよ。あんたは何言っても怒らないし、反撃してくる心配もない。だからこっちは、つい試してみたり、悪態をついてみたくなる。でもそんなの……あんたにとっちゃ、何の得もねえよ。あんた、馬鹿にされてるんだよ、俺によ」

 ずり、と壁に背を凭れさせながら、デイビスは独り言のように低い声で話しかけた。その言葉で、ようやく彼女も振り返って彼を見る。苦しげに嗤いながら、深く俯いて、唾棄するように囁くデイビス。

「不愉快だろ。こんな風に……俺なんかに、好き勝手言われるのってさ」

 カメリアはしばらくのあいだ、幼子のように目を離さずに、俯いたままの彼の美しい顔を仰ぎ見ていた。柔らかな瞬きも、微睡みそうなほど薄い新緑の瞳も、細い線を描く頬も、どれもが光に照らし出されて、ふっと消えてしまいそうだった。
 息苦しいほどの静寂に辺りは侵されていたが、やがてカメリアはにこっと、満面の笑顔を浮かべた。



「好きよ、デイビス」



「ふっ……」

 それを聞いていたデイビスの両肩が震え、顔が一気に赤く染めあがる。

「ふざけるなよ! あんたはいきなりそんなことを言い始めるキャラじゃないだろッ!! というか聞いていたのかよ、人の話をよッ!!」

「あらあら、だって、辛そうな顔をしていたんだもの。緊張を和らげてあげようと思って」

「お前、なあ……!」

 にこにこと無邪気に言うカメリアに、デイビスは開いた口が塞がらないまま、へなへなと崩れ落ちた。

 ひょっとしたら、こいつは心の底からアホなのかもしれない。
 俺は、こいつの突拍子もない言動に慌てふためいて、何も理解していなかっただけなのかもしれない。

 そう思うと、馬鹿馬鹿しさが突き抜けて、急に何もかもどうでもよくなった。要は、洞窟に映った自分の影を相手に、一人で不格好なダンスを踊っていたというだけだ。

「なんとなく分かったよ、あんたがどういう人間か。お育ちが良すぎて、ポンポン思ったことを吐きまくる、無自覚の空気砲みたいな奴だ」

「酷いわ、そんなの」

「うるせえな。だいたい、あんたが俺のことを好きになる道理なんかないだろ。なのに訳の分からない言葉をポンポン口にして、そういうところが人にむかつかれるんだよ」

 カメリアの抗議の声を棄却し、思うがままを叫んだデイビスは、ふと、自分の言葉が鋭すぎる領域にまで踏み込んでいることを自覚した。

 また、無意識に人を傷つけた——どれほど親しい仲でも、ぴしりと亀裂が走りそうなその発言に、焦げつくような自責と後悔の念を覚える。そして、血の気の引いてゆく頭が、すでに相手からの冷たい感情を予測して、ぎゅっと防御するように縮こまっているのを感じた。

 彼女は、極めて厳かに彼を見ていた。沈黙が壁に染み入るほどに、深い眼差しは恬澹としている。
 やがて、どこか儀式のように瞬きをすると、



「————それが、あなたの"本当"なの?」



 風の底から響くような低い声で、そう問うた。
 その意外な言葉に、デイビスは思わず、そばにいる彼女を仰いだ。そして緑の眼は、かちあう。

 雨の降りそそぐ中、
 静けさに満ちた、
 なぜか遠く広大な砂漠を思わせるような、

 王者の如くこちらを見つめ続けている、彼女の黄金の眼と。

 その眼は、あらゆる時間を瞳の中へ繋ぎ止める。一瞬一瞬が、陽炎の粒子のように動きを止められて、金の光の中へと曝け出されてゆく。
 カメリアの双眸は、光を湛えた薄い砂煙のようだった。その砂塵の揺らめきを、彼女の瞳は昂然と結晶させていた。風に立ち昇りながらその正体を変えてゆく、物静かな自然の摂理のように。

 無表情でいるのか、笑っているのかすらも分からなかった。ただ、吸い寄せられている。強靭な瞳が、視界いっぱいに広がって、けして目が離せなかった。そして、低く、深い声が、その葡萄色の唇から零れ出る。


「あなたは、私が今まで出会った中で、誰よりも優しい人よ。目に見えるものに気を取られているだけで、自分では気づくことのできない、とても美しい心をもっているわ。それに——

 あなたのように深い情愛を宿した人は、神に愛されているのだと思う」


 デイビスは、猜疑心を忘れた様子で、少しばかり目を見開いた。濡れた前髪の奥で、その眼は我を失ったようにカメリアに吸い込まれていた。

 粛然と砂色の眼差しを細くして、彼を見つめ続けるカメリア。もはや、意思もなく、感情もなく、その眼差しだけが、魂のすべてだった。デイビスは静かに彼女の薄い瞳を見つめ返していたが、やがて黙って目を逸らすと、苦しそうに地面に眼差しを落としてしまった。

 彼女の言葉に、心が楽になる——わけではない。むしろ、激しく傷ついたように顔を歪め、双眸を開き切っている。その瞳は、恐怖と飢餓に襲われたように乾いて、ひたすらに地面を見据えていた。
 それは、ぎらつく水晶の洞窟のような眼だった。底無しに暗く、吐き気のする輝きに研ぎ澄まされて——身動ぎしただけで、鋭利な群晶に激しく血が噴きあがる。それを歪めながら、デイビスは一瞬、酷く浅ましい顔をした。しかしやがて、くしゃ、と緑色の眼を細めて、吐き捨てるように肩だけで嗤うと、ホント、根性悪いよな、あんたって、と蚊の鳴くような声で呟いた。

 カメリアはそれでも、静かに座り込んだまま、何も言わなかった。ただ、毅然とした彫刻のように彼を見下ろしていたが、長い鳶色の睫毛に彩られたその瞳には、僅かに傷ついたような色が漂っていた。
 デイビスはお手上げとでもいうように両手を広げて、立ちあがった。

「……まあ、いーや。あんたみたいなお嬢様は、俺みたいな奴を相手にする訳じゃないしな。実質、あんたにとっちゃ何の縁もない存在だ」

「相手にするって?」

「寝る相手だよ」

「……んっ?」

「はっ。下卑たジョークにも、慣れてるはずがねえよな」

 一瞬、虚をつかれて問い返す彼女に皮肉を返すと、くしゃ、と携帯灰皿で煙草を揉み消して、終わりにした。

「おら、もう帰るぞ。コーコガクのお偉いオッサンが、あんたのことを待っているからな」

 そう言いながら、カメリアを助け起こし、濡れて土のついた手を払いながら踵を返すデイビス。カメリアは不満そうだったが、やがて何かに会得したようにハッと身震いすると、満足げにたっぷりと溜め息をついた。

「ハァー、なるほどー、やっぱりやきもちだったのかぁ。いやー、モテる女は罪だなあ。恋泥棒すぎて、生きるのが辛いわ」

「ばっ、馬鹿なこと言ってんじゃねえよ、まだ言ってんのかよあんたはッ!!」

「あらあら。シャイな殿方って、口説き文句も知らなくて大変ね」

「あんたがモテないのって、ほんっっっっっっっっっと、そういうところだからな?」

「可愛いところ?」

「アホなところだよッ!!」

 こいつホント、なんなんだよ、と肩透かしを喰らうデイビスの背後で、とりとめもなく芒洋とするカメリアの目は、今はもう、先ほどの輝きを潜めて、空疎な思索にたゆたっていた。

 薄暗い方向へと吸い込まれてゆくデイビスの後ろ姿は、どこか冷えて、寂しく思える。まるで、ふっと消えてしまいそうな。そしてそれを、静かに心の奥深くで受け止めているような虚無感だった。

「ねえ、デイビス」

 彼女が話しかけると、彼は線の細い顔を無表情に放擲したまま、暗鬱に振り向いた。

「どうして……自分のことを、そんな風に思うようになったの?」

 デイビスは静かに彼女の目を見つめていたが、諦めたように、一瞬疲弊した顔をさらけだすと。

「……さあ。どうしてだろうな?」

 肩をすくめて、笑った。





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