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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」11.物事には光と影がある

「デイビスさん、ちょっと助けてほしいんですが」

「うげ」

「あ。露骨に、嫌な顔をしましたね」

「だってお前からの頼み事なんて、悪い予感しかしねえんだもん。……あ」

 珍しくストームライダーの格納庫まで訪れたかと思ったら、邂逅早々、デイビスに依頼を持ちかけてきたペコ。その会話に気を取られて、ストームライダーにかけようとしていたホースの水が、手元が狂い、整備士のアンドレイの顔にぶちまけられた。

 すまんすまん、と慌てて謝罪するデイビス。アンドレイは涙目になってデイビスを睨んだ。

「最近、羽振りがいいですか? それとも貧乏ですかあ?」

「あー。言っとくけど、他人に貸せるほどの余裕はねえぞ」

「あ、いいんです。旅費は全部僕が出しますから」

「えっ。お前今、夢に向かって貯金してるんだろ?」

「それはいったん置いておいて。つまりですね、率直に言うと、金を稼ぎたいかということを聞いているんです」

 デイビスは、ほほう、と言いながら若干の距離を取った。このように怪しく持ちかけられて、得な話など聞いたことがない。

「先に言っておくと、ネズミ講じゃないですよ」

「あ、よかった。それじゃ、何の話だ?」

「ちょっと前に、ロストリバー・デルタに、大学教授がやってきたってことを言ったじゃないですか。あれがだんだん、大事になってきちゃって」

 ペコは、童顔の印象を与える自身の眉毛を、ハの字に下げて言った。いつもの語尾を伸ばす癖も、どことなくなりを潜めているように思える。

「僕の父は、例の大学教授の助手をやっていたんですが、しばらく調査に出かけた教授に無断で、神殿ツアーの商売を始めたみたいなんです。それが、教授失踪に関わるような容疑をかけられちゃって」

「素行はともかくとして、別に、犯罪を働いたわけじゃねえんだろ? なら、堂々としていろよ」

「それが、失踪した件の人が、アメリカのかなり有名な考古学者だったみたいで、二国間で騒ぎになってきちゃってるんですよお。濡れ衣を晴らさないと……」

「晴らさないと?」

「僕の父が、国際指名手配になるんです」

「えぇ……急に大それた話になってきたな」

 ひく、と口の端を痙攣らせるデイビス。不穏な単語が持ちあがってきて、なかなかにきな臭い依頼内容となりそうである。

「別に父が監獄にぶち込まれようが、それは僕の知ったことじゃないんですけどお。ただ、身内にそういった経歴を持つ人間がいると、僕のクラウドファンディングや水晶博物館の夢に、ヒビが入る可能性がある」

「お前ってそーいうとこ、とことんドライだよなあ」

「どうですか。旅費や報酬は出すので、教授を探し出してくれません? 当人の生死は問いませんから」

 まるで密命を受けたスパイの如く、物騒な言い回しを重ねるペコに、うーん、とデイビスは髪を掻きあげた。ロストリバー・デルタは、中央アメリカの地域である。往復と捜索を含めて換算すれば、とても週休に収まる期間ではないだろう。

「行ってやりたいけどな、もう俺の謹慎期間は終わったんだ。数日、南米に行って篭りきりなんて、しがない労働者にはそんな暇がねえんだよ」

「いえ。それだけだったら、デイビスさんになんか頼みません」

「オイ。なんかとは何だよ。なんかとは」

「この前の、ストーム消滅のミッション後の特別休暇。あれ結局、出勤扱いということで、振休の権利がそのままになっているみたいです」

「なんでお前がそんなことを知っているんだ?」

「早く使い切らないと、振休権は消滅しちゃうみたいなんで。あ、これはチャンスかなあと」

「はあ」

 俺に声をかけたのは、そういうことか。納得しながらも、いささかの拭いようのない不安も胸に残る。

「旅行気分で行くには、ちと荷が重い依頼だなあ。俺、スペイン語話せないし」

「カメリアさんと行けばいいじゃないですか。イタリア人は、話のニュアンスくらいなら、スペイン語でも何となく分かるって聞きますよ」

 と、ペコからの突然の指名。
 それまでまったく油断していたデイビスは、ぎくっ、と肩を震わせた。

「なんで、そこであいつの名前が出てくるんだよ?」

「いつも、CWCの裏手で会っていますよね? 丸見えですよ」

「あっ、あれはなあ。向こうが勝手に押しかけてくるから、相手してやっているだけで——」

「……まあ、なんでもいいですけどお」

 突っ込めばどこまでも墓穴を掘りそうなところを、さらりと受け流した。ペコはその辺がクールというか、あまり他人の私生活には興味がない。

 すると後ろから、つんつん、と軽い刺激が背中に当たった。

「デイビス、さんっ?」

「う」

 おっそろしく鬱陶しい奴が来た、とデイビスはなるべく振り返らないようにした。しかし先ほど、水を濡れ被った恨みを忘れてはいないのか、つんつんと刺してくる指は、その猛攻を止めることはない。

「婚前旅行ですか? ぼかァそんなふしだらなことは許しませんよ。このポート・ディスカバリーの女神、ミネルヴァへの冒瀆ですよね? えっ? 誓えますか、断じていやらしいことはしていないと? ストームライダーという聖域に入れるだけの、貞淑観念と童貞は持ち合わせていますかっ?」

「本当に面倒くさい人ですね」

「だから、こいつの前で世間話するのは嫌なんだよ」

 愛想を尽かした半目で、アンドレイを見つめる二人。遊び人であるデイビスもさることながら、天性の人心掌握術を備えたペコは、CWC随一で放蕩に精を出しているはずだが(異性からの貢ぎで生活しているとのことだ)、このグチグチと明後日の方向の訓戒を垂れる男とも友好を築けているのは、七大ミステリーのうちのひとつだった。なんでこいつら、反発し合わないんだろうなあ、とたまさかに不思議になる。

「ロストリバー・デルタかあ。鉄道だとキツイよな」

「やっぱり、飛行機ですねえ。小型飛行機なら、ピラニア航空のハンガー(注、飛行機の格納庫のこと)に停めて、すぐのところだったんですけどお」

「あー、そんな航空会社もあったなあ。あそこって、阿漕な商売をして、潰れたところだろ?」

「はい。父の粉飾会計がバレて、倒産しました」

「…………」

 沈黙するデイビス。あながち、教授失踪に関わっているっていうのも、嘘ではないんじゃねえの? という予感がよぎるが、友人の身内を証拠もなく疑うものではない。

 しかし、ハンガーか。ウインドライダーはさすがにそこまでの距離を飛行できる性能はないし、そもそもがCWCの管理下だ、私用で外国に持っていけるはずもない。そう考えをめぐらせていたデイビスは、近くにある存在を感じてふと顔をあげ、威風堂々とそそり立つ自らの愛用機を見つめた。

「なぁ、ストームライダーII。お前に乗ってロストリバーまで行けたら、一番良かったんだけどなあ」

 彼の愛おしげな呼びかけに対して、ストームライダーは何も語らない。しかしその冴え渡る銀の機体は、まぶしい太陽の光を反射して、神々しく輝いていた。

 その雄姿を見上げて、ほう、と三人とも惚れ惚れした。マーシャラー、整備士、パイロット、とそれぞれ職業は違うものの、揃って飛行機に魅せられた人間である、という点は同じだ。

 目の前に堂々たる姿で佇むその飛行艇は、物凄く乱暴にまとめれば、ヘリコプターと飛行機のちょうど中間、と言ったところだろうか。胴体部分はヘリコプターに似ているが、その上部に回転翼ローターはなく、代わりに風を切るための後退翼が、V字の形で大きく突き出ている。座席数全百二十二席、おおよそ小型機から中型機の合間に属する、CWCが開発した最新型のこの機体。機首正面および胴体フューサラージ前面部分からはアンテナが突き立っているが、これはそれぞれ、ストームの放つ電磁波の感受、CWCベースコントロールとの通信、とそれぞれ期待される役割が異なる。この二本のアンテナの合間、主翼の根幹に潜り込む形で、ストームディフューザーは格納されているのである。特徴は水陸両用モデルであるという点で、涙滴型の胴体下に、二つの浮舟双フロートを備えており、ほぼ海上にて対峙することになるストームの暴風によって、機体が墜落した場合の着水および再発進を想定されている。形状は高翼機であり、やや後方に後退角を持たせているのは、一般には臨界マッハ数を高め、音速またはそれ以上の速度に達した際の空気抵抗を減少させるためだが、このストームライダーにおいては、ストームディフューザー発射後の爆風の衝撃波を、両翼から逃すために採用されたものである。同様に、爆発の熱に耐えるよう、耐熱性、耐腐食性を兼ね備える鮮烈な白銀の塗装は、嵐のさなかというよりは寧ろ、ストーム消滅後に雲間から射し込む光線にこそ、プラチナの如く煥然と照り映える。
 飛行機マニアが最も垂涎するデザインは、コックピットを防御するビューポートであろうか——風防ウィンドシールド操縦室窓コックピット・ウィンドウを一面で実現させた、滑らかなドーム状の分厚い八枚層ガラスは、機能面ではそれほど特記する事項がないものの、しかし深い藍色の偏光フィルターによって降りそそぐ紫外線を低減させ、反射防止コートは、その表面をやや艶めかしい玉色に光らせる。まるで菫青石アイオライトのカボション ・カットのように窮極の無機物的な美を誇るそれは、しかし搭乗者にはけして傷一つ許さぬという底知れぬ意志の強さを漂わせ、しかもその半透明のビューポートの奥底には、世に類を見ないほど複雑な操縦技術を習得した、正式パイロットの勇姿が窺えるのである。このビューポートとは、奥深いストームライダーの世界への扉を開く、最初の入り口と言えるだろう。

 他、ストームライダーがファンたちを魅了するのは、目に見える部分ではなく、むしろシステムとその内部構造なのだが、ここでは深くは語らない。しかしいずれにしても、目にしただけで羨望を掻き立てるような、最新技術が詰まった飛行機であることに変わりはない。惜しむらくは、多大な燃料を消費するために、なかなか発進の機会を得られないということか——時々、嵐が来ない場合でも、慣らしや訓練のために発進させることがあるが、今年度予算の都合上、その予定回数も少なくなってしまった。というわけでデイビスの最近の仕事は、もっぱらストームライダーを横目に眺めつつ、シミュレーション・トレーニングをするか、整備を手伝うのみに留まっている。

 先のミッションで破損した箇所の修理も終わって、せっかく再会できたのに、もうお前とおさらばか、と考えると、少し寂しいような気もするが、背に腹は変えられない。

「どうでしょう。引き受けてくれますか?」

「仕方ねえか、お前の頼みだし。あー、だけど飛行機代はいらない。たぶんな」

「え、いいんですか? 使わないにしても、貰っておけばいいのに」

「二人分で往復となると、相当な額になるだろ。寝食とか、あっちに行った後での金は出してもらいたいけど。移動に関しては、一応の当てがあるから」

「ふーん?」

「だから、他の諸経費だけな。特に報酬もいらねえよ」

 腕の筋肉を伸ばすストレッチをしながら語るデイビスに、ペコはちょっと首を傾げて、

「そうやってすぐカッコつけたがるのが、貧乏の所以なんじゃないですかね」

「う、うるせえな。財布事情は関係ねえだろ」

 多少図星を突かれて、デイビスは狼狽した。確かに、無闇に虚勢を張りたがる傾向は否定し難い。詳細はパソコンに送ってくれ、と言い残して、本部へと去ってゆく彼の後ろ姿を、悟られないようにペコが指差し、

「……羽振り、良いんですか?」

「いや? この前も、ロビーのリフィル・サービスのコカ・コーラで、ちまちまと空腹を紛らわせていたよ」

 肩をすくめるアンドレイ。CWCのパイロットともあろうものが、困窮を誤魔化すやり方すら貧乏臭い、と心底情けなくなったものだ。ペコは顎に手を当てて、ふーんと考える。

「僕が請負人だったら、ファーストクラスの代金までせしめるところですけどお。デイビスさんってクズのくせに、妙に清廉潔白な部分がありますからねえ」

「無欲な人だよな、本当に」

 二人は顔を見合わせた。




……

「とゆーわけで、お土産何がいい? ソンブレロ? マラカス? 骸骨グッズ? ちっこいサボテン?」

「一切要らない。頼むから、旅行プランを練るのは自分の部屋でやってくれ」

 手許の集中を乱され、苛々と頭を抱えながら机に向かうスコット。背後にいる、宿舎の自室に備えつけられた彼のベッドを乗っ取り、ごろごろと寝転がりながら『地球の歩き方』を読み耽っているデイビスを見て、床に蹴り落としたい気分になった。
 ちなみに、スコットが先ほどから熱中しているのは、意外にもテラリウム作りである。元々手先が器用な彼は、工作系全般が趣味で、窓辺には歴代の名機や潜水艇のプラモデルなども飾ってある。
 ピンセットを操る手許をライトで照らし、最近は控えていたらしい煙草を咥え、ほの白い紫煙を立ちのぼらせながら、

「お前、本当にどうしたんだ? いきなり旅行の趣味にでも目覚めたのか?」

「なんだよ、結構楽しいぜ? そりゃ、住むのはポート・ディスカバリーが一番だけど、世界には色んな国があるんだなーって思ってさ」

 芋虫のように寝返りを打ちながら、デイビスは地元のレストランを紹介しているページに、ぺたりと付箋を貼りつけた。

「人助けの意味もあるし。何より、中南米なんて行ったことねえし」

「ロストリバー・デルタか。あそこは暑いぞ」

「だよなー、どうすっかな、神殿の中にバスルームなんてねえもんな。携帯用のシャワーを持ってかねえと」

「お前、クリスタル・スカルの神殿に行くのか?」

「そうそう。お化け屋敷みたいな神殿でさ、その中で迷子の教授を捜すんだとよ。ったく、大人ならちゃんと遠足から帰ってきてほしいよなー、人の手を煩わせないでさあ」

 うだうだと不満を口にするデイビスに、苛立ちを隠し切れない様子でスコットが言った。

「それで、私に何の用なんだ。他人がいると、手元に集中できないんだが」

「いや、俺の直属の上司はスコットじゃん。さくっと休暇申請承認してさ、ついでにマネージャー(注、ここではベース)にも掛け合ってくれよ。連続休暇の申請って、確か五日前までだろ?」

 なるほど、デイビスの告げてきた内容に、ようやくスコットも腑に落ちる。休暇申請の許可は、人事システム上でやりとりすれば済むものではあるが、プラスで直接口頭で説明しにきたということだろう。確かに、休暇までの日取りは近く、承認が間に合わなければ、予定が先延ばしになってしまう恐れがある。

 仕方なしに、スコットは溜め息をついて立ちあがり、壁にかかったカレンダーの前で、マジックペンのキャップを抜いた。

「いつからいつまでだったか。来週の月曜からで良いんだよな?」

「とりあえず、三泊四日かな? 場合によったら、ちょっと延長するかも」

「四日……」

 カレンダーを見つめたまま立ちすくみ、スコットはふと表情を陰らせた。

 思えば、謹慎処分を除けば、デイビスがこれほど長くCWCを空けるのは初めてのことだ。休日はおろか、バケーションのさなかであっても、自宅や実家に帰ることはほとんどなく、この宿舎で読書をしているか、自主的にトレーニングをしているかで時間を潰しているデイビス。ふらっと外出するにしても、大抵は夜遊びばかりで、そんな調子で、果たして本当に休息が取れているのかと、見ていて不安に取り憑かれることもあった。

 ベースの現在策定している、対大型ストームのプランについて、いつできあがってくるのか、先行きは見えない。デイビスにも伝達され次第、彼の就業制度は大幅な変更を迫られることになるだろう。しかし、せっかくワーカホリック気味の部下が申し出てきたのだ、上司としては、何としても休暇を取らせてやりたい。

 スコットは少しの間迷ったが、結局マジックで、月曜から木曜まで消えない矢印を引き、Davis is on vacation、とカレンダーに書き込んだ。

「休暇は許可するが、すぐに連絡だけは取れるようにしておいてくれ。海水温度が、今まで見たことのない温度の上がり方なんだ。最悪、とんぼ返りしてもらうかもしれない」

「りょーかい。緊急呼び出しを鳴らしてくれたら、すぐに出るよ」

 今回は時代を超えるわけではない——恐らくは、直ちに電話も取れるはずだ、と判断し、デイビスは同意を示すためにひらひらと片手を振る。そんな彼の背後で、軽い音を立ててマジックにキャップを被せつつ、それから、とスコットが言葉を続けた。

「くれぐれも危ないことをするな。お前は、たった二人しかいない正式パイロットのうちの一人なんだ。何かあったら、代えが利かない」

「ははっ、だーいじょうぶだよスコット、ポート・ディスカバリーは、あんたさえいれば安泰なんだ。俺なんかいなくなったって、誰も困ったりしないって」

 軽やかな笑い声を立てるデイビスを、スコットは哀しげに見つめた。

「前回のミッションはたまたま、俺がストームを消す羽目になったけどさ。本当は、あんたの手柄だったんだ。雷さえなければ、ゲストを危険に晒すこともなく、あんたが全部無事に終わらせたんだよ。みーんな、ストーム消滅で浮かれてるけどさ、マリーナの真の英雄は、あんただよ。俺だけが、本当のヒーローを知ってる」

「……私は」

「所詮、副官なんて指を咥えて見てるだけだからな。ベースも、あんたが墜落した瞬間に、ミッションは中止、なーんて慌てて言ってたし。——誰も、俺のことなんかいらねえよ」

 そう呟くと、寝返りを打つようにしてベッドから転がり落ち、床に立ちあがって軽くシーツの皺を直してから、スコットに背を向けた。

「じゃ、帰るわ」

「本当、何しに来たんだ、お前」

「嫌がらせ」

 端的に言い切ったデイビスだったが、むすっと仏頂面のスコットを見ると、ようやく気が晴れたようだった。明るく笑いながら伸びをし、自室に帰ろうとしたのだが、部屋の去り際になって、ぼそりと低い声で付け足した。

「だって、そうしないとスコット、俺のこと忘れちゃいそうだもんな」




……

 さて、この作品本編は、デイビスの謹慎期間から始まったのだが、すでにその二週間という期間は終了し、さらにそこからひと月近くが経ったわけで、もはや第一話に書いた春の花の香りは過ぎ去ってしまい、代わりに萌え出てきたのは、茎や葉の、見るも鮮やかな青さだった。元々、ポート・ディスカバリーの存在するアメリカ西海岸は、地中海性気候に属する場所だ、ストームが来ない限りは降水量も少なく、極めて温暖な頭上には、よく太陽が晴れ渡る。その光をぐんぐんと吸って、子どもが手折ったとしても、翌日には新しい枝を生やすほどの早さで、緑は豊かに茂って風に吹かれ、プロメテウス火山の高い岩場さえも、めぐんだばかりの若葉が揺れているのだった。

 そして肝心の、デイビスとカメリアの関係だが——

 ここ一ヶ月弱で、彼女の態度も大分軟化したと言えよう。やたらとはしゃぎがちと思える性格も、長く馴染んでいれば、やがては落ち着く。大体、その沈着に必要なのは、彼女の場合は一ヶ月程度だったようで、相変わらずくだらぬことは口にするものの、大きくデイビスをたじろがせるような発言は少なくなった。

 謹慎期間を終えて、めでたく勤務に復帰した、と告げると、彼女は喜んで祝福し、以来フライヤーをCWCの裏手にある、野原の広がった岬につけてくれた。いつもデイビスが相手できるとは限らないが、その際には発明の構想を練ったり、風の実験を行なったり、本を読んだりしているらしい。そんなに呑気にしていていいのかよ、と聞いたら、今、人類史上最大の発明を練っているの、と怒られる。彼女曰く、この街は良い風が吹く、風力発電所を建築したのは正解だ、とのこと。

 元々、煙草を吸いながらサボるには都合のよかったポイントなので、ずっと一人では暇だろうと、足を向けて遊びに行ってやった。彼女とは、特に何も話さない時間も増えてきたが、それはけして嫌なものではなかった。ともに無為を埋める中で、ひとりがぼんやりと煙草をふかし、ひとりが科学書のページをめくっている時などは、気を張ることのない距離感に、ああ、と居心地よさに呑まれることもある。もちろん、CWCでの笑い話や、今日もベースに叱られた、という愚痴や、スコットにこんなことを教わった、と他愛もない話題を披露することもあって、彼女はふむふむと親身になって傾聴しながらも、最後には決まって、なんだか変な研究所ね、と呟くのだった。

 いつも一緒にいるわけではない。彼とて、彼女とて、ひとりで過ごしていたい時はあり、彼が彼女の姿を認めながら、階段を登らない日もあれば、連続して彼女の足跡の残されていない日もある。しかし徐々に、約束をした覚えもないその岬で、落ち合う頻度は自然と密になってきていた。仕事中、たまにCWCの本部から覗くと、彼女がアレッタを遠く飛ばしていることがある。アレッタの白い腹が青空を吸って、まばゆい海の上を光りながら滑空してゆく。そんな時は、早く自分もフライトしたくて、ウインドライダーのエンジンをスタートさせた。本当はストームライダーの震えるような重厚さを味わいたいが、天気予報を見る限り、活躍の場は当面与えられそうになかった。

 彼女は、なぜいつもここにくるのだろう、と訝しんでいたが、もしかしたらそれは彼の思い違いで、この時代以外にもたくさんの時空を渡り歩いているのかもしれなかった。けれどもそれを尋ねる勇気もなく、ただ会いたい時にだけ高台にのぼって、そばに座った。健やかな寝息を立てて、暖かな陽だまりの中に昼寝している場面もあったが、そんな時には起こさぬように静かに腰掛け、ひとり黙念として海を眺めていた。何の警戒もなく吐息を漏らす人間を傍らに、遠くに光る波を見ているのは、悪い気分ではなかった。煙草の箱が空になるサイクルが、最近は、少しずつ早くなってきていると感じた。

 アレッタも、大分とデイビスへの警戒を解くようになった。信用できる人物と思っているわけではない——仲間でも、敵でもない。撫でてみようとすると、大きく羽を逆立てて嫌がるので、可愛くねー奴、と呟くのだが、それでもゆったりと流れる時間の中で、静かに関係性は変わっていった。アレッタとも——カメリアとも。

 しかしカメリアは、あまり元の時代のことは語らない。こうまで些末な話題を口にする、自分の方が例外なのかとすら思う。そういえば彼女は、「あなたって結構、お話好きよね」と語るから、もう少し口をつぐんだ方がいいのかと勘案したが、それは彼女に叱られた。言いたいことがあるなら、全部言え、というのが彼女の意見らしかった。誰かに、お話を聞いてもらいたいんでしょ? いいわよ、私で良ければいくらでも。

 そうなのだろうか? 彼には分からない。けれども確かに、ここまで恬澹とした交流を培って、友情を築いたのは初めてだったかもしれない。彼女は彼の話を聞いて、おもねることもなく笑い転げたり、抜けた返事をして呆れさせたり、かと思えば奇妙に冷静な発言で驚かせたりする。そこには、媚態や、腹の探り合いや、泣きながら闘わせる口論がない。彼の付き合いは、出会うなり、性急に距離を押し進めてしまうことがほとんどで、一夜限りの関係を重ねた時期もある。それと比べると、ようやく健全に人との距離を保てたのが、何やら世間に顔向けできるようで誇らしかったのだが、その一方で、何やらよく分からない状態が続いてるな、とふと疑問にも思った。

 そこへ、ペコの依頼が持ち込まれたのだ。いつ切り出そう、と考えている横で、カメリアはフライヤーの周囲を忙しなくうろつき、手記に様々なメモを残していた。季節は、若葉の時期に移っていた。清涼な風がいっそう草の匂いを強め、植物の吐く荒い息吹を繋いでいる。彼女が研究に打ち込んでいる時は、他の人間とは遊んでくれないので、手持ち無沙汰になる。仕方なしに、デイビスは彼女の後ろからひょいと覗き込んだ。

「なあ、ずっと何やってるんだよ?」

「フライヤーの設計を考え直してるの。もっと大きく風を集められるようにするには、どうしたらいいのかしら……」

「今だって時空を超えて、ここに来られるんだろ? 充分じゃねえか」

「いえ、逆で、失敗するとここに来てしまうのよ。もっと先にも行ってみたいのだけど、動力が足りない。根本的に形状を変えるべきなのかな?」

 むかっとして、別にいいだろ、俺の時代ばかりだって、と口答えしたくなったが、あなたが乗っている時は、不思議に動作することが多い、と何気なく呟かれ、たちまち得意になって口をつぐんだ。

「やっぱ俺の力かー。しようがないよなー、この俺が乗ってるんだからなー」

「ある程度積載量があった方がいいのかしら? 確かに、フライヤーのことばかり考えていたけれど、搭乗するゲストに注目したことはなかったな」

 デイビスの戯言を無視して、カメリアはぶつぶつと憑かれたように呻いていた。

「アレッタ、翼貸して」

 気難しいアレッタも、カメリアの頼みとあれば、実に素直に翼を貸す。彼女は念入りに、その完璧な均衡の翼を観察していたが、しかし藝術のような筋肉の機微が、筆舌に尽くし難い精妙さで張り巡らされているのを見ると、これは真似できない、と断念し、あっさりと投げ出すのだった。

「あー! 私も隼だったらなあ。こーんな面倒臭い発明なんて、しなくたって済むのに」

「荒れてんなあ。いいのかよ、ドレスが草だらけだぞ」

 寝転がるカメリアを落ちていた枝で突っつきながら、デイビスはのんびりと生返事をした。彼女が愚痴を零すなど、珍しい。ごろんごろんと草原を転がる様は、幼児が癇癪を起こして暴れているだけのようにも見えるが、こうも日々が同じ研究漬けでは、嫌気の差すこともあるのかもしれなかった。

「ちょっとは気分転換もしろよ。また、どこかへ出かけたりしないのか?」

「そうねー、しばらくは研究に専念しようと思っていたからなあ。ここのところは、随分と遊びに時間を使ってしまったし」

「俺とも?」

「……ん?」

 そこで初めて、カメリアは顔をあげて、上から覗き込んでいるデイビスを見あげた。また、駆け落ちだのなんだのとうるさく騒ぎ立てるかと思ったが、だんだん彼女も彼の思考を読めてきたのか、至極真面目な顔を崩さずに、

「どこか、行きたいところでもあるの?」

と問いかけた。

「えーとな、実は。かくかくしかじか」

 デイビスは、簡単にペコからの依頼を説明する。カメリアは呆れて、ものも言えない様子だった。

「それでまた、私にたかるってわけ?」

 腰に手を当てて、ため息をつくカメリア。そんな彼女の前には、正座したデイビスが、神妙な顔でこうべを垂れていた。

「貸すのはいいけど、試作品って言ってるじゃない。何かあっても、責任取れないんだよ」

「それは、今さらだろ。もう何回も飛んじまった後だし」

「そりゃそうだけど……」

 歯切れの悪い彼女の口調に、こりゃ駄目かな、ペコに飛行機代もせびるか、と決意しかけた時、

「それで、出発はいつにする?」

とカメリアが当たり前のように訊ねた。

「え、いいのか?」

「人助けなんでしょ? もちろん良いわよ。早く行かなくっちゃ」

 ケロリと言ってのけるカメリアに、ぽかんと口を開けたのは、むしろデイビスの方だった。

「だけど、最低でも数日はかかるぞ」

「あら、大丈夫よ。帰る日にちを調節すれば、ちょっとしたお出かけに見せかけられるもの」

 家族には宿泊を言付けない気マンマンであろうその台詞に、貴族の生まれのくせに、こいつ、結構ワイルドだよなー、と思いながら、約束を取りつけた。

「それじゃあ、五日後から休暇に入るから、準備よろしくな」

「任せとけー!」

 誇らしげに拳で胸を叩くカメリア。それ以降、ぱったりとポート・ディスカバリーに姿を見せなくなったので、おそらくは元の時代で支度を進めているのだろう。今頃、何してんだろ、と青空に浮かんでいる雲を眺めながら考えていると、横からスコットが声をかけてきて、

「また、空を見ていたのか?」

「うん」

「暇さえあれば、ずっと見ているよな。お前って、本当に鳥の生まれ変わりみたいだよ」

 デイビスは黙ったまま、スコットの言葉にも返事をせずに、掴まるもののないその世界へと眼差しを彷徨わせた。ここしばらく好晴が続いていて、柔らかな繊維のような絹雲は蒼穹高くに散らばっており、数ある雲の中でも地上から最も遠い、十キロほど隔たった、遙か対流圏の上部にしか漂っていなかった。ストームライダーを飛ばしてやりてえなあ、とデイビスは思った。埃っぽい格納庫の中でも、激しい嵐の中でもなく、このように目の覚めるような大空へ。じっと眼差しを向けていると、何もかもを忘れて、魂がすうっと上空に呑まれてゆく気がした。そして、あの切ないほどに抒情的な青と、何もかもが雄大な霞の向こうへ、身ひとつで飛び立ってゆければな、という叶わない欲望が込みあげた。



……

 当日、約束の時間に岬を訪れると、すっかり旅行の手筈を整えたカメリアが、アレッタを肩に乗せながら、

「デイビスー!」

と青空の下で手を振っていた。ドレスという点はいつもと変わらないものの、裾野の広がりにくい、体にぴったりとした活動的な格好で、革のブーツに、日射を避ける帽子も被り、その上には保護眼鏡。意図したものではないだろうが、スチームパンク風のファッションになっており、旅の準備は万端だった。それに手を振り返し、ゆっくりと階段を登ってくるデイビス。恐らくは着替えのドレスが嵩張るからなのか、カメリアは、でん、と大きなトランクケースをフライヤーに積んでいたが、その一方で彼は、よく見れば、片手に上着しか持っていない。やけに軽装な姿に、おや、とカメリアは片眉をあげた。

「ごめん、まだ荷物のまとめが終わってなくて」

「あら、そうなの? あとどのくらいかかりそう?」

「一時間くらいかな。部屋にあるものを詰めるだけだから」

「うん、それじゃ、待ってるわ。何を詰め込み終わっていないの?」

 首を傾げるカメリアに、デイビスは指を折って数え始めた。

「ええっと、保湿用の化粧水だろ、乳液だろ、クリームだろ、美容マスクと、アフターシェーブローションと、ボディウォーターと、フェイススチーマーと——」

「……それは、そんなに要るものなの?」

 疑惑の眼差しを向けるカメリア。恐らくは彼愛用のボディケア・グッズなのだろうが、いくら身だしなみに気を遣う人間とはいえ、今回は気楽な旅ではないのだ、できるだけ荷物は軽くしてゆきたい。

「知らない環境だからこそ、保湿は入念にしたいんだよ」

「まあ、必要だというのなら。また一時間後に、ここに戻ってきてくれるということで良いんだよね?」

「おー。待ってろ、超特急でまとめてくるな」

 と、踵を返しかけてから、思い直したデイビスは、改めてカメリアの方を振り返った。

「……暇だよな。あんたも、一緒にくるか?」

「えっ! いいの?」

 カメリアはワクワクとした表情をこぼした。デイビスの部屋がどんなものなのか、見てみたい。



「わー」

 というわけで通されたのは、八畳ほどのワンルーム。宿舎の一室なので、上等な設備が整っているというわけではないが、一人暮らしには充分だろう。キッチン、バスルームは共同で利用するので、それ以外の必要なものが、この部屋に詰め込まれていた。ダークグレーの絨毯の上に、本棚(備えつけの家具に巨大な本棚が含まれているのが、いかにも科学都市であるポート・ディスカバリーらしい)、ガラスのデスクとデュアル・モニター、観葉植物、黒いシーツを敷いたベッド、洒落たスタンドライト、などなど。

 インテリアにこだわった——のは、入所したばかりの最初だけと見えて、よく見ると乱雑に本が積まれていたり、ちり紙や飴玉の袋が放置されていたり、洗濯を終えたらしい服なども引っ掛けられているのだが、全体としてはクールモダンで、都会的な雰囲気を目指していたようだ。その中に、時代錯誤のドレスを着たカメリアが立っているのは、とてつもなく違和感を覚えるが、まあ良い。デイビスはケトルに水道水を入れて、湯を沸かした。

「凄ーい、本がいっぱい。随分たくさん読むんだね」

「ああ。趣味の本ばかりだけどな」

 大きな本棚を嬉々として見つめるカメリア。飛行機の写真集から、冒険小説から、雲のポートレート、男性向けファッション雑誌、意外なところでは、ずらりと並んだ科学の専門書。そのうちの一冊を、試しに引き抜いてみると、どのページにもびっしりと書き込みがされている——参考文献や、分からない箇所の?マーク、突然啓示を受けたらしい、長々と次のページまで続く計算式まで。彼の生真面目な一面を覗き見たようで、カメリアは嬉しくなって頬を綻ばせた。

「あなたは物理が好きなのね、デイビス」

「あー? それは学生時代の奴だよ。今は全然」

「また、勉強しないの?」

「どうだろうな。たまに引き出して読むくらいだけど、今はパイロットに集中したいかな」

 こともなげに言いながら、ソファが存在しないため、仕方なしにベッドの縁に腰掛けている彼女に、淹れたばかりの紅茶を渡した。

「素敵ね! このお部屋は、デイビスの宝箱なのね。あなたの好きって思うものが、たくさん詰まってるんだもの」

 猫舌のカメリアは、念入りに息を吹きながら、紅茶の入ったカップを傾けた。自分の顔まで立ちのぼってくる微かな湯気を、アレッタが興味深そうに眺めている。

「大げさだなー。お宝なんて貴重なモン、この部屋にはないぜ」

「そうなの?」

「だってこれとか、半額セールで買ったパーカーだし。この靴下、穴空いてるし」

「もう」

 洗濯物を片付けながら、よれた一枚一枚をだらしなく引き出してみせるデイビスに、カメリアは溜め息をついた。あなたの持ち物だから、宝物みたいだ、ってことなのに。

 その時、ドン、と隣室から壁を蹴る音が聞こえた。そして雷のように轟く怒鳴り声が、壁の奥からびりびりと伝わってくる。

「デイビス! 宿舎に女を連れ込んでんじゃねえぞ、この助平野郎がッ!!」

「やべっ——」

 それだけでなく、床を微かに揺るがす、苛立ったような足音までこちらへと移動してくる。慌てて、カメリアをベッドの下に押し込み、アレッタには置き物のポーズを取らせ、痕跡となる紅茶を一口で飲み干し、すざっとデスク前の椅子に腰を下ろしたところで、乱暴に彼の部屋のドアが開けられた。

「おい、お前、さっき誰かと会話してなかったか? どこ行った?」

「あー、あれだ、AVの音声だ。今、ちょうど流してたところだから」

「ふざけんなよ、休暇初日から満喫しやがって。おめでてー奴だな」

「あ、あはは……」

 あっぶねー、とドキドキする心臓を押さえるデイビス。ふたたび、遠慮のない様子でドアが閉じられた途端に、硬直を解いたアレッタが、ぱたぱたと不機嫌そうにはためく。と同時に、カメリアが、ひょこ、とベッドの下から顔を出した。

「もう平気?」

「ああ、出てこいよ」

 ずりずりと、芋虫のように這い出してくるカメリア。ちゃんと掃除していなかったのがたたって、埃が髪に絡み、コホコホと咳き込んでいた。

「悪いなあ、汚い部屋に上がってもらっちゃって」

「大丈夫だよ。それより、荷造りをしなくっちゃね」

「適当にその辺を見ていてくれ。すぐに終わるから」

と、埃っぽくなった部屋の窓を開けて換気をし、謹慎時の帰宅以来、使うことのなかったスーツケースを引っ張り出して、うっすら被さっていた塵をふっと息で吹き飛ばした。暇になったカメリアは、相変わらずの好奇心で部屋をウロチョロと見て回る。本のみならず、飛行機の模型がたくさん置いてあるのは、ちょっと私の部屋と似ているかも、とカメリアは親近感を覚えた。そして、部屋の隅にある棚段のひとつに目を向けたところで、彼女は足を止め、ちいさく目を見開いた。

 そこに映っているのは、幼い頃のデイビス。今と変わらぬ美しい翠緑の眼を細め、額縁の中の絵画を指差しながら、輝く白い歯をこぼし、とびきりの笑顔に満ち溢れていた。なっ、なんて幼気なっ、と感動するカメリア。すっかり成人した現在では考えられない純粋無垢さである。けれども彼女の目線はすぐに、少年の背後の壁にかけられた額縁へと吸い寄せられる。

 額縁に収められた絵画に描かれているのは、水彩絵の具で真っ青に塗り潰した、蒼穹。本物の空そっくりの、絶妙な配合をされた青色である。そしてその中をどこまで翔け抜けてゆく——見たことのない乗り物だった——斜め上へと飛行するそれから顔を出している乗客は全員笑顔で、パイロットは雲にも届くほどに帽子を高く振っている。極彩色で丁寧に描かれたその乗り物は、うねるように何枚もの羽を広げ、太陽に透き通る虹色。細密画のように実に緻密な描き込みがなされ、何度も何度も重ね塗りをされたのだろう。自身が頭の中で思い描く色に近づけようと、熱心に奮闘したような痕跡が伝わってくる。

(……本当に、好きなのね。飛行機が)

 カメリアは言葉を失い、その場に立ちすくんだ。きっとこの飛行機は、彼の心の中の最も明るく、素直で、ワクワクするような心を乗せて飛んでいる。いや、空を愛する限り輝きを失わない、彼の魂そのものとまで言えるのかもしれない。しばらく眺めていると、先ほどまで盛んに歩き回っていたのが、今は身動きひとつしない彼女を不審に思ったのか、何気なく後ろに立ってその眼差しを追ったデイビスも、ああ、とその心中を察して破顔した。

「へへ、ちっせえ頃の俺、超可愛いだろ? それはマリーナのアイディア・コンクールで、特別賞取ったやつ」

「面白いのね、こんな斬新な飛行機、見たことない。蜻蛉の翅……でも全体は、不死鳥みたい。こんな発想ができるなんて」

 感嘆しながらも、それが根本的に、彼女の今まで依拠してきた知識とは違う糧を燃やして描かれたことを理解する。まるで竜や、ペガススや、グリフォンの翔け回る世界——そんな美しい幻想を掻き立てるような、無限のイマジネーションに導かれた絵なのである。科学的な思考をベースとして飛行機を考案し続けてきたカメリアは、遮ることもなく広がるその自由なアイディアに、胸を打たれる思いだった。

 このような飛行機が飛び回る未来は、一体どんな世界なのだろう。最先端の科学技術がユートピアを支えて、たくさんの人が空を飛び回り、軽やかに帽子を振り、人々に挨拶して。青い青い空には、幾つもの塔が立ち並び、清潔な空中都市の窓辺には、見たこともない風変わりな植物や、鮮やかな壁画が溢れかえって。科学者も、藝術家も、労働者も、子どもも、朝の光も、大陸のような雲も、壮大な風も、すべてが遠い空の果てを目指して冒険するのだろうか。

 カメリアは吸い寄せられるようにその写真に見入りながら、気ままな筆遣いに込められた、この少年の素晴らしく繊細な感受性と、未来への希望が吹き込められた作品に想いを馳せた。しばらくそうして眺めているうちに、そばに立っているデイビスも、微かに頭の位置をずらして、同じ飛行機に目をそそいでいるようだった。

「あんまり、見るなよ。恥ずかしいから」

「そんなことないわ。これほど可能性を感じる絵、今までに見たことがない」

「まあな。……大きくなったら、もう、一度も賞を取れなくなったけど」

 デイビスは写真を見つめながら、遙か幼年時代に置いてきたものに触れるように、どこか遠い目をして言った。
 カメリアは、静かにその言葉に聞き入っていたが、やがてデイビスの方を振り向いて、

「ねえ。この飛行機は、いったいどんな風に空を飛ぶの?」

と訊ねた。

「どんな風に、って?」

「だって、素晴らしいインスピレーションなんだもの。構造は全部、ガラス張りなんでしょ? なのに全体は柔軟で、風の影響をよく受けるみたい。一度で良いから、乗ってみたいわ」

 そう答える彼女は、子どものアイディアだ、などと微笑ましく見守る段階を通り過ぎて、もう現実化を見据え、実際に創りあげることを考えているようだった。もしも本当に、この飛行機を実現できたのなら? ——デイビスは少し戸惑った顔をしていたが、やがて写真立てを手に取ると、ふと、瞳の奥底を揺らめかせ、小さな声で語り始めた。

「この飛行機はな。……搭乗している人たちが、自分の力で舞いあがるように感じるんだ。もちろん、飛行機の力で飛んでいるんだけれど、本当に自分に翼が生えて、飛んでいるみたいに感じるんだ」

 カメリアは、真っ直ぐな眼差しを写真にそそぎながら、彼の言葉に聞き入った。

「天井はガラス張りになっていて、頭上一面に、大空が見える。必要があれば、天井部分を開閉して、上空からの風を吹き入れることもできる。床は絶えず波打って、飛行機の上昇や下降の動きに合わせて、ゲストにドキドキするような浮遊感を与えるんだ。
 これは、何か目的のあるフライトをするんじゃなくて、純粋に飛ぶための飛行機なんだ。浮遊感と飛翔感でいっぱいで、爽やかな風に洗われて、ただいっぱいに空が見えて。……そんな飛行機だ」

 幼い頃に考案したアイディアとは思えない、躊躇いがちではあるが、しかしはっきりと口にしたいことは頭の中にあって、それを訥々と読みあげている様子のデイビス。それは本当は、絵画を描いてから数十年に渡って、何度となく練られ、反芻されたものなのかもしれない。理想に近づけるために、何年も何年も、古びた宝箱をこじ開けては、色を塗り直して。

 すると突然、カメリアの類稀な想像力は、広々とした三次元に浮かんでいる幻想を描き出した。靴底の下はどこまでも底を抜かして清しく、頭の上は成層圏を突き抜け、そのままオゾンへと吸い込まれたまま、臍の下が何もかも消えてなくなった。視界の端が朦朧とする中、本当に天頂だけは真摯なまでに紺碧で、それに情感が奪掠されると、すうっと眼尻までもが掻き消え、空の暈色に取り残されてゆくのが分かった。
 そして、消え失せた夢、伝説上の夢、二度と叶わない夢も含めた、多くの空を飛ぶ生き物や乗り物が、彼女の肌を掠めて、次々に翔け巡ってゆくように感じられた。それは薄明るい黎明を浴びて、雲を突き抜け、その軌跡にかけがえのない魔法を撒き散らしながら飛び去った。まるで海の中から数多くの命を見るように、彼女は空の中で、数多くの物語を見あげていた。

 多くの化石を発掘された蜻蛉、古代の天空を支配した始祖鳥、機械仕掛けで登場する神、手稿に残されたオーニソプター、幾つもの兄弟とともに空へ飛び立つ綿毛、燃える炎に身を焦がす不死鳥、水を噴出して飛び出す海上の烏賊、王の魂を運ぶ太陽の舟、箒に跨って哄笑する魔女、星の光を浴びる宇宙船、ムササビの如く夜空を舞う忍者、飛行島ラピュタ、美貌に涙と鱗を光らせるメリュジーヌ。屋上から飛び降りて羽ばたく錠前師、太陽に輝く翼を羽ばたかせるイカロス、秋深い大気を掻き乱す野鳥、薄い羽衣を纏った天女、白ウサギの穴に落ちてゆく少女、魔法の絨毯に乗って世界に感嘆する王子と姫君、熱気球から地上を見下ろすモンゴルフィエ兄弟、皓々と点滅する蛍、觔斗雲で旅をする孫悟空、橇に乗り込んだ聖ニコラウス。浮遊する神々の宮殿ヴィマナ、風船とともに飛ばされる熊のぬいぐるみ、雄大な影を落とす飛行船、雷のような翼を広げるサンダーバード、極楽の声を響かせる迦陵頻伽、宝石とともに巨鳥に掴まったシンドバッド、磁力で浮く空中船パッサローラ、それからまた無限の創造の分流が——

 それは、数多くの生き物が紡いできた、めくるめく物語の系譜。そしてその中の一つに、カメリアの発明したフライヤーも、デイビスの描いた拙い飛行機も、高々と舞いあがっているsoaringのだった。まるで自らの思いを遂げて、新しい夢へと生まれ変わる遍歴の途中のように。

「飛行機は、真っ直ぐ空の中を飛んでゆく。これに乗っている乗客は、みんな離陸の瞬間、歓声をあげるんだ。漣のような拍手が沸き起こって、目をキラキラさせる。子どもも大人も、関係ない。みんなワクワクして、はしゃぎ回るんだ。
 餓鬼の頃から、そんな風に空想していて。こんな作りじゃ飛べっこないけど——でも、とても思い入れのある飛行機で。俺の夢の、出発点なんだ」

 カメリアはじっと、彼の口から紡がれる、意気揚々たる言葉を聞いていた。やがて、夢から覚めたようにひとつ瞬きを残すと、懐から手稿を取り出して、すぐに何かを熱心に書き始め、しばらくしてからデイビスを隣に呼び寄せた。

「ほら」

 と、迅速に書き綴ったそれを提示し、デイビスと分かち合うカメリア。

 そこにあるのは、写真の中にある絵画と全く同じ飛行機だった。しかし、単なる模写ではない。本物の発明家の手によって、定規で測ったように狂いのない、正確にパースのとれた図面にまで昇華されている。まさしくそれは、夢へと至るための第一歩となる設計書、なのだった。
 在りし日の彼の絵画から、無駄な線を無くし、構造を正確に理解して清書しただけだったが、それだけでこれほどリアルに、もう創造に取り掛かっているようにすら思わせる立面図は、それ自体が藝術作品だと信じ込んでしまう美しさだった。完成すれば、その規模と見事さは類を見ないものとなろう。

 蜻蛉と、不死鳥。

 本来はありえないかけ合わせも、その図面の上なら、まるで新しい伝説の生き物を仔細に観察したように生き生きとして、この世に本当に生まれ落ちる瞬間を、今か今かと待っているように見えた。

 カメリアは、その一枚の紙を慎重に切り取ってみせると、そっと腕を伸ばして、開かれた窓の向こうに広がる蒼天へと透かしてみせた。半透明となった紙切れは、無限の可能性を湧きあげるような外光と戯れ、シンプルな線で描かれた飛行機は、そこで、背後に透過している蒼穹と溶け合った。深いサファイアが紙の表へと滲み、どこまでも深く蒼穹の果てへと吸い込んでゆくようで、その時初めて、白紙の上の夢は、現実の世界と交わる。染み入るほどにまぶしい臨場感が、そのたった一枚のページを浸してゆき、そしてその中で架空の飛行機は、全身をめぐりめぐって溢れる歓喜とともに、碧空を飛行しているのだった。

「ね。夢が叶ったでしょ?」

 無邪気な微笑みを向けるカメリア。デイビスは、静かにその目に染みるような図面を見ていた。そうして、彼女の肩越しに同じスケッチを眺めていたが、ゆくりなく、彼女が掲げているその設計図に腕を伸ばした。そして彼の大きな手が、彼女の手の近くに添えられると、一緒に掴んでいる紙を、ふわ、と少しばかり浮かせてみせた。それだけで、筋雲の合間を飛んでいたその飛行機は、めくるめく浮力を得たように、漾々とした蒼い虚空の高くへと浮かびあがった。ほんの少しばかりの動きだったが、けれどもカメリアは、全身でその浮遊感を捉えたように、みずみずしい感銘を受けた。そして、少し上を向いて彼の顔を見あげ、

「ねえ。今ちょっとだけ、体がふわっとしたみたい」

「本当か?」

「うん。もう一回やってみせて」

 カメリアは、ゆっくりと手を離して、その設計図の行き先をデイビスの意思に預けた。彼は、紙の透ける先の蒼穹に向けて、ゆっくりと、さらに高みへ持ちあげてゆき、その長い腕の先に、まばゆく光り輝く太陽を降りそそがせた。まるで彼自身が、その飛行機を操縦しているかのようだ。天頂へと解き放たれた飛行機は、吹き込んでくる風に乗って、その中に搭乗させているゲストを、見たこともない空の冒険へと連れ出しているように見える。

「ほら! 飛んでる感じがしたでしょ?」

「わっかんねーよ、そんなの」

「えー?」

 ちっとも話を合わせてくれないデイビスに、カメリアは鈴のような笑い声をこぼしていたが、やがて、少し寂しげに笑みを浮かべて俯くと、

「本当に飛んでる気がしたんだけどなぁ」

と独り言のように呟き、けれども飽かずに、その創造のエスキスを眺めていた。

 自分より背の低いその鳶色の頭が、すこし背伸びをしながら視界の底に入ってくるのを見つめ、デイビスはふと、滲むように目を細めた。

(……優しいよな。カメリアって)

 ずっと前から彼女の性格は分かっていたはずなのに、それを初めて、心の中で言葉にした気がした。相手に敬意を抱きながらも、彼らの奥底に秘めている大切なものを見出そうとする、彼女はそんな努力を自然に払える人物だった。

 デイビスは、カメリアの描いてくれた図面を、そっと写真の隣の棚に立てかけた。額縁のないせいで紙がぐにゃりと曲がり、見るも容易に棚から落ちそうだったが、しかしそれ以上は何とか崩れぬままに、幼い彼のそばに立ち続けた。まるで写真の中から抜け出して、正統な進化を遂げたように、その図面は夢の世界を露わにした。

「そこに置いてくれるの?」

「ああ。せっかくあんたが描いてくれたしな」

 簡単に飾っただけだが、それで構わなかったらしい。彼女は嬉しそうに笑って、自身の図面がそこにあることを、誇らしく感じたようだった。

「じゃ、行こうか」



……

「ロストリバー・デルタ。カリブ海沿岸の熱帯に属し、かつて鬱蒼としたジャングルに覆われていたこの地域は、探検家の聖地とも謳われるほどに古代文明の遺跡や伝説に富み、まだ解明されていないその謎の多さから、今、考古学者たちの最も熱い視線をそそがれている、ロマンあふれるエリアである。深い森の中から語りかけてくる、悠久の歴史の囁きに耳を傾けるもよし、明るく情熱的なムジカ・メヒカーナの歌声に溺れ、一晩中踊り明かすもよし。夕暮れ時には、神秘的な古代神殿を望む河沿いで、ちょっぴりスパイシーなパエリアやトルティーヤはいかが。特産物はフレッシュなフルーツ、サトウキビ、新鮮な川魚、驚くほど繊細なレボソや民芸品……へー、なんだか面白そうなところね」

 南へと突き進むフライヤーの前から、流れ込んでくる風にふわふわと髪を後ろに舞わせながら、カメリアは隣のデイビスに話しかけた。

 すでに湿度は高くなって、太陽の周りには日暈ができていた。眼下には熱帯雨林の深緑が広がり、微かな霧を呑むように湿気が強い。それまで、カラッと乾燥した空気を浴びていた彼らには、その重くぬかるむような大気の違いが、何かしらドキドキさせるものに感じる。恐らくは、まったく生態系が違う——真下の豊かな自然は、貴重な動植物の楽園となっているのだろう、時折り聞いたこともない声が響いてきて、葉を揺らす音と交わる。うだるような暑気のさなかから、美しい虫のさざめきが散らばるのも、期待感を煽るものだ。カメリアは、デイビスの私物である講談社(注、社員でもステマでもない)のガイドブックと鼻を突き合わせ、熱心に読み耽っている。

「おう、なにせここ数十年で、急激に注目を集めたエリアだからな。水書髑髏クリスタルスカルっていう、まあ有名なオーパーツの偽物があるんだけど、この付近を猛烈なハリケーンが通り過ぎた跡に、それを祀ってる神殿が河沿いに本当に見つかって、学界がひっくり返ったような騒ぎになっているらしい」

 と、ここ最近、時折りニュースで見かける内容を、デイビスは極簡潔にまとめた。

 そもそも、ロストリバー・デルタという通称の由来は、毎年カリブ海諸島からラテンアメリカを襲う大型ハリケーンによって、尽く倒壊した密林の樹木の陰から、ワニ、カエル、ティラピア、アロワナ、メキシコサンショウウオ(俗に言うウーパールーパーである)、コガネムシ、モルフォ蝶等、様々な新種を含んだ独自の生物を育む河川が発見され、この実り豊かなEl río perdido(注、失われた川の意味)について、アメリカの生物学者が英語名で呼んだことに依拠している。まさに生命の宝庫とも言えるEl río perdidoは、途中から二本に分かれており、その合間に挟まれて培われた三角州には、ハリケーンの直撃による破壊をも免れるほど、高度な技術で建造された謎の神殿、通称「クリスタル・スカルの魔宮Temple of Doom」が発見されて、大ニュースとなった。周囲にはこれほど堅牢な石は周囲の地層にはなく、おそらくはEl río perdidoを経由して、何十キロも離れた石切場から運んできたものであろうと推測されている。言うまでもないが、水の存在とは文明発展には重要な役割を果たし、古代四大文明はそれぞれ、ナイル川、チグリス・ユーフラテス川、インダス川、黄河・長江の付近で繁栄したことは世に膾炙された事実であるが、同じ古代文明にしても、マヤ文明は巧妙に設計した漆喰で雨水を貯蓄し、それを利用することで隆盛を誇った、大河流域に属さない極めて例外的な文明である。しかし今回、この密林を貫くように流れる河が発見されたことで、中南米のメソアメリカ文明のいずれとも異なる、独自の発展を遂げてきた異色の文明なのではないか、という新たな期待が持ちあがっている。

 そうなってくると気になるのが、度々この地を襲うハリケーンとの関係で、河川流域に文明を築くことは、食糧面、運輸面での恩恵に与るものの、その反面、洪水や氾濫などが頻繁に発生するため、居住には不適切なのではないか、という指摘もある。これらに対する有力な説はいまだ見つかっておらず、ひとつによれば、だからこそ神への信仰と精霊への拝跪が、この地に深く根づいたのだろう、ということだが、学術的に信頼の置ける研究はまだ発表されていなかった。要するに、すべてがこれからのエリアなのである。蒸し暑く、数百年に渡って人の足跡の絶えていたその地を訪れる者は、動植物の新種発見、古代遺跡の発掘、神話の伝承の解明、呪いの神殿の冒険、はたまた宝物探しで一獲千金と、それぞれが前人未到の功績を残そうと躍起になっている。探検家たちにとっては、これほどに血湧き肉躍る場所は存在しないだろう。

「ロストリバー・デルタには、そんなにハリケーンがやってくるの?」

「ああ、だからこそ神殿はわざわざ遠隔地から石を運んできて、強固な作りにしたんだろうっていうのが、専門家たちの見解だ。
 毎年、夏あたりにハリケーンの季節が訪れるんだ。海面水温は、暖流の留まりやすい地形のカリブ海のあたりが熱くなるだろ? そして空気が熱せられると、低気圧が発生しやすくなる」

「うん」

「だから西へと吹く貿易風に乗って、ハリケーンはロストリバー・デルタ方面に行くことが多いんだよ」

 カメリアの手記を借りて、簡単にアメリカ大陸の地図を書いてみせるデイビスに、なるほどー、と頷くカメリア。今までにまったくそんな話は持ちあがっていないが、もしもCWC支部が新たにできるとすれば、その最初のエリアはロストリバー・デルタの名が候補地として挙がるかもしれない。

「ちなみに、ポート・ディスカバリーは?」

「よー分からん。そもそも本来、西海岸にストームはやってこない」

「ま、ポート・ディスカバリーがアメリカ西海岸っていう設定も、この小説だけのものだしね」

 二人は、同じ方向に首を傾げた。

「それじゃ、この辺は天気が変わりやすいのかな?」

「どうだろう、ハリケーン以外の情報は知らねえな。熱帯雨林気候だから、雨は多そうだけど」

 そう言って、デイビスはフライヤーの庇から透ける天を仰ぎ見た。徐々に雲ゆきは怪しくなってきているようだった。ぎりぎり、乾季と雨季の変わり目に位置する月であるため、夕立に見舞われる可能性もある。鈴のように鳴り響く虫の声音は、雨になればどう変わるのだろうか。

 カメリアはといえば、先ほどから、ペコから共有された情報に従って、身を乗り出し、着地すべき地点を探し回っていた。

「河の近く、河の近く、ピラニア航空。んー。どれかなあ」

 恐らくはこれがEl río perdidoだろう、と思われる穏やかな川は視認できたものの、何せ鬱蒼としたジャングルに覆われて、なかなか着地点を発見できそうにない。

「El río perdidoの北側。二つの橋の間にある、四角い建物、か」

「それらしき建物はあるんだけど、確証がないんだよねえ」

 と、首が痛くなるほど下を見ているうちに、前方から軽やかな羽音が聞こえてきて、彼らはゆくりなく顔をあげた。

「わー、真っ黒な鳥だ。この辺りの固有種かしら」

「烏にしては、やけに眼が赤く光っていないか?」

 のんきに声をあげてはしゃぐカメリアに、ソボクな疑問を投げかけるデイビス。ところが近づいてくるにつれて、双方の脳裏に、嫌な予感がちらつき始めた。

 なんか遠近法がおかしいな?
 いや、明らかに奇妙だ。違和感しか覚えない。

 その小さな黒点が次第に近づいてくるにつれて、正体も掴めるようになり、二人ともゾッと鳥肌を立たせた。デカイどころではない、その体長はフライヤーと同等レベルである。それがバッサバッサと巨大な翼を羽ばたかせてこちらへ向かってくる姿は、本能的な恐怖を植えつけた。

「いやーっ! 聞いてないわよ、こんな巨大な鳥がいるなんて!!」

「カメリア、アレッタを呼び戻せ! あの怪鳥に喰われるぞ!!」

「アレッタ、帰っておいで! そっちに行っちゃだめ!」

 アレッタは困惑しながら(?)カメリアの声に応えようとして、その飛行ルートを大きく乱した。突然バックできないので、弧を描くような軌道になる。しかしそのせいで、フライヤーも主導役を見失い、震える手で書いた線のようにぐらぐらと揺らぎ始めた。

 すでに怪鳥は眼前にまで迫りきていた。異様な風姿で、ボロボロの翼に、化石の骨のようにすら見える長い首と胴体、それに慄然とするほど鋭い嘴のすべてが、漆黒一色に染められている。どう見ても餌を見つけた捕食者そのもので、それがギラリと獰猛な赤い眼を光らせ、真っ直ぐにこちらへと突っ込んでくる。

「いーやー! 食べられるっ! 襲われるー!」

 カメリアは咄嗟に、フライヤーに積んでいたトランクケースを掴んで振り回し、

「えーい!」

と応戦する。フライヤーが大きく揺すぶられ、慌ててデイビスは体重でバランスを取った。

 鈍くぶつかるような手応えとともに、怪鳥の首に叩きつけられたトランクケース。力の限り殴られた鳥は、僅かの間、羽ばたくこともできずに失墜を見せていたが、やがてよろよろと軌道を描き、何とか元の高度へと苦労して復帰しようとしている様子である。少しばかり罪悪感が生まれるが、かといって、何が何だか分からない怪鳥に生きたまま貪り喰われるよりは、何倍もましだ。

「や、やった。こいつ弱えぞ、カメリア!」

「デイビス、あなたも何でもいいから、武器を持っていない?」

「よしきた! 任せてくれ!」

 と言って、デイビスがスーツケースから取り出したのは、美顔スチーマー。スイッチを押すと、ぷしゅう〜と水蒸気が流れ出る。少しの間、二人に沈黙が訪れた。

 そうこうしている間に、怪鳥はふたたび、その嘴を剥き出しにしてフライヤーを襲ってくる。その攻撃は執拗で、やはりというべきか、搭乗者二人を狙い撃ちにしていた。デイビスは火事場の馬鹿力なのか、自分の重いスーツケースを盾代わりにして、丁々発止の攻防を繰り広げていたのだが、怪鳥につつかれるたびに表面にズボズボと穴が開き、スーツケースは見るも無残な凸凹を刻んでいた。ヒィィ、と怖気を振るうデイビス。防弾チョッキを着ていたとしても、容易く貫通するレベルである。

「なんでいきなり、アクション映画みたくなってんのよー!」

 隣で、空中にいる怪鳥をげしげしと蹴り落とそうとしながら、カメリアは泣き叫んだ。もはやドレスがめくれるのも構わず、太腿まで曝け出して怪鳥を踏んでいる。文字通り足蹴にされ続けた黒い鳥は、このままでは埒があかないと思ったのか、一度引いてフライヤーから距離を取ると、その翼を一気に大きくはためかせた。すると巻き起こる、突然の突風。局所的な竜巻に呑み込まれ、フライヤーは呆気なく急上昇して、制御不能に陥った。

「異常気象すぎるだろーっ!!」

「なんでこうなるのよーっ!!」

 瞬く間に強風に煽られるフライヤー。まるで洗濯機のようである。ぐるぐると上空へ舞い上げられて目を回すしかない状況は、わぁ、スリル満点ね、となるわけもなく。しかも深刻な被害を受けたのは、重量のあるフライヤーよりも、寧ろもっと軽い飛行物体の方であった。

「あ、アレッター!」

 哀れにも吹き飛ばされた隼は、ほとんど点となりながら、凄まじい勢いで竜巻の向こう側へ遠ざかってゆく。生き別れになった恋人よろしく、カメリアは精一杯腕を伸ばし、虚しくその名前を叫んだ。

「だめーっ! あっち行って!」

 それに気付いた怪鳥が、この暴風を物ともせずに隼の影を追ってゆくのを見て、カメリアは蒼ざめた。アレッタはだめだ。怪鳥への対抗手段を持っていない。思わず立ち上がろうとして、フライヤーから落ちそうになるカメリアを慌てて座席に引き戻したデイビスは、その時、視界の端にちらりと、何か金色の光が、美しい角をかたどったような気がした。

(鹿?)

 フライトで鍛えあげられた彼の動体視力は、振り回される強風の中でも、何とかその姿を拾いあげた。凜然と立つその牡鹿は、小高い崖の上に立ちながら、彼らの目の前に立ちはだかる黒い鳥を見つめているようだった。その引き締まった鯨偶蹄目の肢体からは、数え切れない黄金の粒子が零れ落ちている。それらは、まるで生ける火花のように絶えず弾け、地面に燐光を飛び散らせていた。

 変化は、いつ始まったとも知れなかった。素早く渦を巻きながら翔ける流星の尾のように、怪鳥の漆黒の影の中に、何かが光って見えた。ひとつ、またひとつと光が咲いてゆき、少しずつ、少しずつ、闇が溶けてゆく。それはすばしっこく、希望に満ちた鼠があちこちを遊ぶようで、駆け巡るたびに徐々に光は芽吹き出して、分岐し、その数はますます著しく増してゆく。

 そして最後に、キィン——と、氷結するような音が響いたかと思うと、その牡鹿の足元から一挙に金色の花が咲きこぼれ、黄金の蔦がうねりながら、測り知れぬ速度で伸びていった。無数の氷の華を散らしながら急速に結晶してゆく湖のように、とめどもなく黄金の花は溢れ返り、すべてを輝きの中へと塗り替えてゆく。それはまさに、光の洪水だった。次々と暖かい光の粒子が舞いあがり、光彩のアラベスクが奔流と化して、みるみるうちに光芒に洗われてゆき、瞬きが入り乱れ、煌めきが躍り、それらの無限の光明に照らし出されて、さすがの漆黒の巨鳥も、その光線の籠の中で支配力を失う。暴れ狂う空間が静止してゆき、荒ぶる風は凪いでゆく。光に覆われた箇所は、慰撫されたかのようにその動きを忘れ、完全に世界が覆い尽くされると、すべては物音ひとつしない、悠然たる静寂に包み込まれた。

 そしてまた、黄金の微粒子が浮かぶ中、全虚空が停止した時間。

 あれほどの強風は一時的に姿を消して、樹々はざわめかず、隣のカメリアも動きを止めたまま。誰かが魔法をかけたとしか思えない、そんな異次元の静謐さ。突然静まり返った世界は、彼の鼓膜に、うねるような耳鳴りをもたらしている。

 この状況にピンときたデイビスは、すぐにポケットの中に突っ込んでいた無線機を取り出し、ボタンを長押しして電源を入れた。と同時に、聞こえてきたのは、あのどこか聞き覚えのある、茶目っ気にあふれた、元気いっぱいの鼻声である。

《やあ、キャプテン・デイビス。こんにちは!》

「まーた、あんたか。そんでもってまたまた、例のシステム調整かよ?」

 無線の向こう側の声の主に対して、呆れた声を出してみせるデイビス。

《そうなんだ、今度は別のプロジェクション・マッピングが、そちらに紛れ込んでしまってね。今、昔の友だちに頼み込んで、魔法で封じ込めてもらったところなんだ。
 ずっと前に終わったショーなのに、どうして残っていたんだろう?》

「へえ、プロジェクション・マッピング? あの、大迫力の映像を、バーッと壁に投影するやつだろ?」

《そうそう、当時はこれが目玉として大々的に宣伝されてね。懐かしいなあ、あの頃の思い出がよみがえってくるみたいだ》

「それじゃあ、力が入った出来栄えなんだな? 面白そうだなあ、大スペクタクルじゃねえか。ワクワクするぜ」

《うん、でもこれは、君に見せる予定ではなかったよ》

 いつになく暗い口調のその声に、デイビスはむしろ興味をそそられた。

「なんで? 前回の、凄かったぜ。なんかキラキラした魔法に溢れててさ、楽しそーって思ったし」

《いや、物事には光と影がある。このショーは、深い闇を湛えているんだ。そして、そこから立ちあがるまでを描いた物語だ》

「立ちあがるなら、良いじゃん。ハッピーエンドってことだろ? どうせ大団円に終わるなら、子どもだって安心して見られるよ」

 声は、少しの間、のんきに言ってのけるデイビスの言葉を吟味していたようだが、やがて、

《本当に、見たい?》

と念押しして、彼に確認した。

「なんだよ、R-18指定なわけでもないんだろ?」

《東京ディズニーシーは、そういう内容を取り扱いません》

「なら良いじゃねえか。ケチケチするもんじゃないぜ」

 声の主は、しばらく間を開けて考え込んでいる様子だったが、自分で出した結論に納得したのか、そっと口を開いた。

《そうだね、君も明るい部分だけでなく、光と影の両面を見るべきなのかもしれないね。……それじゃあ、僕と一緒に、シャドウランドの世界へと出発しよう》

 その声とともに、静止した世界から、いきなり封じ込められていたはずの黒い巨鳥だけが、素早く羽ばたいてこちらへ向かってくる。避ける暇もなかった。その深い鳥の影に勢いよく飲み込まれ、ごう、と凄まじい風の音が轟くとともに、彼の視界はたちまち、寸分の隙もない闇で塗り潰された。何も見えない。何も聞こえない。喧騒が何もかも遠ざかって、一気に静寂に入り込んだような感覚。深い深い宇宙に潜るように、彼の精神は奥底へと連れ去られてゆく。

 気づくと彼は、異次元の地面に立っていた。暗い世界。暗黒の世界。頭上の星ばかりがいやに鮮やかで、手で触れられそうなほどにしんしんと瞬いている。先ほどの黄金の光の欠片は跡形もなく、ただ広がるのは、漆黒の色。目を閉じようが、閉じまいが、彼の目に映るのは同じ真っ暗な空間だけである。光と絶対的に絶縁されたそこに、ゆっくりと肌寒さが駆け抜けて、思わずデイビスは服を掻き寄せる。

「え。いきなり、夜なのか」

 先ほどの熱帯の暑気から一点、底冷えのするような空気に、戸惑いを隠せないデイビス。辛うじて、匂いだけが伝わってきた。鬱蒼とした密林の中なのだろう、夜露や、青い植物の香りが、土臭さとともに立ちのぼってくる。それに、鈴のように闇を繰る虫の声音も聞こえた。さて、どうしたもんだろう、と考えあぐねていると、

《デイビス。こっちこっち》

と、下の方から、先ほどと同じ、あの親しみやすい鼻声が聞こえた。

 そこに立っていたのは、彼の腰の辺りまでしかない、子どもくらいのひとつの影。真っ黒なその色彩は、容易く暗黒の中に紛れ込んでしまいそうだが、しかしまるで鋏で切り取られたように周囲の漆黒の闇から浮きあがり、異質の生命感を湛えている。
 大きな丸い頭についている、これまた大きく丸い、特徴的な両耳。鼻はくるんと前に突き出ているのか、横を向くと、ティーポットの注ぎ口のようなその形が露わになった。ドタ靴や、手袋を着用しているのかもしれないが、いかんせん影法師だ、立体感がないため、おそらくそうなのだろうとしか推測できない。尻から突き出ている尻尾は、ハツカネズミのように細長く伸びていて、彼の思案を示すように、くるくると気ままに動いていた。

「えーと。あんた、もしかしてミッキー・マウス?」

《シルエット・スタジオのおじさんに、僕の影を切り取ってもらったから。その影が、君を導いてくれるよ》

 声の指示に合わせるように、手袋をした影の人差し指が、ちょいちょい、とデイビスを手招きした。そこで大人しくついてゆくと、影の案内人は彼を先導しながら、わさわさと見えない密林を掻き分け、どんどんと奥へ入り込んでしまった。しかし闇に沈んだ景色は、歩いても何も変わらないため、デイビスとしては何も見るものがなく、はっきり言ってしまうと、退屈である。仕方なしに頭上の星を数えるにしても、数秒で飽きてしまって、しばらく影の案内人についてゆくうちに、本当に何か面白いものに出会えるのかと、気がかりになってきた。

「なーんか、ショーっていう割には、何も起こらないのな。真っ暗なだけじゃねえか」

《まだ、舞台まで辿り着いていないから》

「へええ、焦らすなあ」

 静けさに見舞われた闇を影に導かれるうちに、まもなく、目的の場所へと到着したようだった。最後の見えない草を掻き分けると、案内人は道を空けて、静かにその先を彼へと譲った。

《さあ》

 森の中の湖が発光するように、そこにだけ、神秘的な光芒が広がっていた。デイビスは、その光に惹かれるように、緩慢に近づいていった。コツリ、コツリ、と靴音が奇妙に虚ろに響く。彼の眼差しは、たったひとつのものに吸い寄せられた。

 薄い光の中には、一人の見知らぬ少女が座り込んでいた。柔らかな髪を流し、生白い肌。手足は痩せっぽちで、棒っきれのよう、生気を感じさせないその少女は、絶え間ない嗚咽をこぼしながら、延々と泣きじゃくっていた。周囲の圧倒的な闇に比べて、少女の体はあまりに心細く、矮小に過ぎた。

 そのぼんやりとした光に触れようとすると、たちまち、刺すように鋭い哀しみが伝わってきた。誰かに置いてきぼりにされたのだろうか。押し潰されるほどの暗黒の中で、声を押し殺して泣き続ける様は、居所もなく、ただその冷たさに震え続けるばかり。そして、響く。心の奥底で、少女がひたすらに叫んでいる嘆きが。


 ————暗い。寒い。ひとりぼっちだわ。
 誰も私の存在に気づいてくれない。いつもそうなの。
 もしかして、誰も助けにこないのかな。このまま、夜は明けないのかな。闇に呑まれて、消されるのかな。


 引き絞るような声はまだ幼く、痛切に誰かからの庇護を求めていた。柔らかな髪の中にその泣き声は閉ざされてしまって、おそらくは彼以外、誰も聞き取れない。

 少女は、縺れるように危うい足取りで立ちあがると、ふわりと髪を靡かせて、目の前を過ぎてゆく多くの人間たちに向かって、痛々しい笑いを貼りつけ、ぼろぼろの手を差し伸べた。その笑顔は醜かった。生きている振りをした人形のようで、この社会を通底する摂理も受け止めきれぬままに、自らの思う"人間"の浮かべる笑顔の、必死な猿真似をしてみせたかのようだった。目を背けるほど不細工というわけでもないのに、その醜怪な微笑は煩わしく、不快で、人を苛立たせる。彼女の縋る相手はすべて、闇の中から立ち上がってくる朦朧とした影絵で、大人ばかりだったが、けれども時に、同じくらいの年齢の子どもも混じっていた。しかしそれらはすべて、無意味な行為に終わった。

 頬を打たれ、怒鳴られ、張り倒され、唾を吐きかけられ、指を差されて冷笑される。とても子どもに対するそれとは思えない、乱暴な仕打ち。倒れたところを土足で蹴り飛ばされ、彼女は足を引きずり、老婆のように這々の体で逃げ帰った。後ろから、破裂するような笑い声が聞こえた。やがて少女は、クッションの下に潜り込んで、両膝を抱えてうずくまり、体を縮こませ、両手で耳を塞いでしまった。しかし闇の中のありとあらゆるところから、彼らの日常の声は忍び込み、彼女の心へと、正義の明るさを携えて響き渡ってくるのだった。

 
 ————足を揃えて、歩調を合わせよう!
 ————声も揃えて、心を合わせよう!

 それは少女には残酷な命令だった。彼女の足取りは規律を欠いていて、輪を乱し、不格好で、とても同じリズムで歩くことができない。高揚した笛の音が響く。流れてゆく人間たちの陰翳は、同じ帽子を被り、一糸乱れぬ足音を立て、まるで軍隊の行進のように遠くへ行ってしまう。恐らく、隊列の先には、世界を導く英雄がいて、辿り着いた人々にあまねく、素晴らしい恩寵を授けるのだ。そして彼女は闇の中に取り残され、ひとりぼっちになってしまう。

 嗚咽だけが、暗闇に落ちてゆく。押し潰されてしまいそうなほど小さな、痩せっぽちの後ろ姿。しかし、そんな現実すらも受け入れ難いように、もしかして、もしかして、と必死に自らを鼓舞し続けるその少女は、希望と絶望の両方を含み、その光と影の合間で、ゆっくりと心が引き裂かれてゆくかのようだった。そして啜り泣きながら、彼女は手元に散らばった、微かに輝く鋭い金属片を組み合わせ、虚しい音を立てて壊れてゆくそれを、そしてまた震える手で構築した。しゃくりあげるせいで手元が狂って、何度も何度もそれは崩れ去ってしまったが、もはやそれ以外に彼女に残されたことはないようだった。打たれて腫れ上がった頬の波打つ痛みに堪えながら、少女は自らに与えられた、永遠の試練と格闘し続ける。


(カメリアも色々と闇が深いからなー!)


 そう言って笑っていたあの栗鼠たちの声が、記憶の底から、切ないほどにデイビスの胸に込みあげてきた。二匹の小動物たちのこぼした愛らしい笑い声すら、彼女を痛めつける嘲笑の響きと混じり合い、虚ろな木霊を残して掻き消えていった。
 彼は呆然としたまま、その少女の後ろ姿を見つめるしかなかった。ぽた、ぽた、と頼りない音を立てて涙が滴り、俯いた顔を取り巻く巻き毛の中で、その雫に濡れた金属片がきらきらと輝いている。それはまるで、頭上から落ちてきた星の欠片を、必死で掻き集めたような。自身の手の届かぬものを幾つも積み重ねつつ、もしかして、と虚妄に満ちた希望を呟き続け、そして次第に、彼女は金属片の角で切ったらしい、自分の両の手のひらを滴る血で真っ赤にしながらも、ただひたすらに、歪んで見苦しく、滑稽としか言いようのない何かを発明し続けるのだった。


《————もう、やめよう》


 きら、と魔法の粒が光り輝いて、その暗闇は徐々に薄らいでゆき、囂々たる風の流れに吹き払われた。まるで紗幕が取り払われたかのように、目の前は現実に取って代わられてゆき、そして激しい風音に呑まれていった。フライヤーは相変わらず強風に妨げられて着陸しかねており、膠着状態からは少しも好転していない。

 けれどもデイビスは麻痺したように、たった今、目の当たりにした幻影を受け入れられず、放心してその風の渦を見守っていた。どこか深い場所に黒々とした淵が横たわり、目の前の光景と二重写しになるかのようだった。

 そんな彼の様子には気づかず、隣で柔らかな髪を靡かせているカメリアは、涙目になりながら、

「デイビス、どうしよう。竜巻が収まるまで、待っていた方がいいのかなぁ」

と、不安そうに問いかける。

 彼はしばらく、その鳶色の瞳の、透き通るような奥深くを覗き込んでいたが、やがて雄渾に眉を引き絞ると、フライヤーの座席から身を乗り出し、カメリアと交代するように立ちあがった。

「よし、俺が操縦する。ちょっと手荒になるから、しっかり防御姿勢を取っていてくれ」

 プロのパイロットに運転を代わってもらい、ほっとした様子のカメリアは、軽く指笛を吹くと、

「アレッタ、おいで!」

と、両腕を広げた。一巡してきた竜巻の勢いを上手く利用し、弾丸のように胸に飛び込んできた友人の隼を、離すまいとしっかり抱き留める。そんな彼女が飛ばされないよう、片腕で自分の方へと引き寄せながら、大きく片側に重心をかけ、ぐん、と膝を曲げてフライヤーを漕いだ。バランスを崩すぎりぎりのところまで体重を偏らせると、風の渦の動きを見切って、一気に前方へとフライヤーを傾ける。いささか不安定な軌道ながらも、竜巻から僅かの間離脱したフライヤーを、今度は反対側に傾けて暴風から距離を取る。そうして交互に体重移動を繰り返すうちに、徐々にフライヤーは、制御の自由を取り戻したようだった。

「凄いわ!」

「へへー、このくらいは余裕だぜ」

 ようやく主人公らしいところを見せられて、安心したデイビス。さて、着陸させねば、と今度は眼下の建物に向けて、方向を急転換させた折り。

「あ」

 ストームライダーの操縦に慣れていた彼は、可能な旋回の角度を見誤った。勢いを殺されて失速し、瞬く間に地面へと落ちてゆくフライヤー。下から吹きあがる風の抵抗に、ざわっと髪が持ちあがり、内蔵が宙に浮くような嫌な感覚が迫り上がる。鬱蒼としていた緑の集塊でしかなかった樹々の梢も、一秒毎にその克明さを増して、ぐんぐんと葉の影が見えるほどになる。膝の屈伸により、ぎりぎりまでフライヤーを失速させながら、デイビスは間近にまで迫った樹との激突に備えて、強く目を瞑った。

 どんがらがっしゃん、という古典的な音とともに、二人は宙に投げ出され、茂みに落下の勢いを殺されながらも、それらに縫い止められる。枝葉の落ちるまばらな音ともに、ひりつくような痛みが肌を突き抜け、ずきずきと全身を襲った。それと同時に、服のあちこちに引っかかっているのは、何の容赦もなく伸びた放埒な植物。どうもそれらの葉や枝に受け止められ、地面との衝突を免れたらしい。

「な、なんだ、この伸び放題の有様は」

「なによこれー!」

 まるで手入れされていない建物の付近はジャングルに飲み込まれ、荒れ具合は著しかった。苦労して脱出し、地面に降り立つと、彼女の髪に絡まる蜘蛛の巣やら、蔦やら、葉っぱやらを取ってやる。

「カメリア、大丈夫か?」

「ぐすん。お気に入りのドレスが」

 涙ぐみ、スカートの裾を見つめるカメリア。少し破けてしまったようだ。

「ごめん、乱暴になっちゃって。とはいえ、なんとか着陸できたな」

「ありがとう。フライヤーも、一応壊れてはいないみたい」

 と、地面に叩きつけられた自らの発明品をチェックする。シンプルな構造が功を奏して、上手いこと衝撃を逃したのだろう。そばにある粗末な建物には、複葉機となったピラニアのマークが刻印されていることから、言及されていた格納庫だと判断できる。幸運にも、目的地は違わなかったらしい。幾つか予想外のトラブルに見舞われたとはいえ、結果は上々だった。

「デイビス、何を見ているの?」

「ああ。さっきの黒い鳥……いったい、どこに行っちゃったんだろう?」

 デイビスは灰色に渦巻く空を見あげながら、先ほどの巨大な鳥の影を探して、視線を彷徨わせた。しかしもはや、その姿は僅かな痕跡すらも見えない。竜巻さえも、いつのまにか止んでしまっていた。彼らの見たものは、幻だったのだろうか?

「それにしても、湿気の多いところねー。……わ」

「げ、スコールかよ。さんざんな旅の始まりだなあ」

 ぽつ、とカメリアの鼻に落ちてきた、一粒の水。空から降ってくる霧雨で、瞬く間に彼らの服は湿っていった。カメリアは、片腕ほどもある近くの大きな葉を折って、傘代わりにデイビスへ渡す。

「はい」

「サンキュー。少し、中で雨宿りしてくか」

 彼らは雨の中で、着陸時の衝撃で散らばった荷物を何とか回収し、ハンガーの軒下に身を寄せた。

「こんにちはー。……お邪魔しまーす」

 返事がないと知っているとはいえ、まるで職員室に入る学生の如く、恐る恐る格納庫の扉を開けるカメリア。薄暗い内部は空闊としていて、大層広い。しかし人の生きる匂いはまるでなく、無気味にわだかまる沈黙のうちに、荒れ果てた痕跡だけが散乱していた。

 倒産が決まった時、事務所の家具などもここに運び入れ、廃棄の手間を省いたのだろうか。埃を被り、幾らかは土に還りかかっているそこに、今は新たな自然が宿り、草木が芽吹き始めている。崩壊しかかった隙間からそそぐ外の空気を浴びて、細かい塵の流れすらもきらめいて、深い光と影のコントラストを描いていた。崩れかかった壁や、何か分からぬものの散らばった地面からは、人の気配は少しも窺えない。アレッタは、退去時の残骸のひとつであろう木箱に止まって、ぶるる、と小刻みに濡れた身を震わせた。トランクケースからタオルを取り出し、その体を丁寧に拭ってやる。

わっ!

「きゃっ」

 デイビスの突然の大声に、飛びあがって驚天するカメリア。ポーン、と心臓が飛び出た気になる。

「はは、そんなビビるなって。まだまだ、神殿にすら入っていないだろ?」

「もー。子どもじゃないんだから、くだらないことしないでよね」

 タイミングを弁えない、他愛もない戯れに、カメリアも、アレッタも、ジト目で彼を振り返った。
 
 身繕いを終えて、ふう、と溜息をつく二人と一匹。放棄され、草木に覆われ、荒れ果てた末のその廃屋からは、かつて飛行への期待を駆り立てていただろうに、今は人々から忘れ去られた哀愁が漂う。これはこれで、ロマンがあるとも言えるが、うっかり触れるとガラス片が撒き散らされたりしていて、危険である。

「凄えな。どんだけ放置していたんだよ」

「完全なる廃墟って感じ」

 彼らは服が引っかからぬよう、気をつけて進みながら、格納庫の中を散策した。もはや使われなくなった飛行機の座席が転がり、砂や埃ですっかりざらつき、蛹を咥えた蟻が列をなしていた。時折り、地面を突き破るように生えている雑草は、力強く、目に新鮮に映えた。

 荒廃した、と思っているのは彼らのみのようで、すでにここは新しい生命の予感が満ち満ちて、別の魂たちに乗っ取られ、部外者なのはむしろ、ここを訪れる人間たちの方だった。すべてはゆっくりと、その忘れ去られた空間に、ふたたび自由の息吹を漂わせ始めていた。それは人類の手から離れた、別次元の生命の繁栄であった。倉庫の隅には、青く美しいツバメが巣を作り、その下のデスクの端には、白ちゃけた糞と羽毛が溜まっていた。ひび割れたコンクリートの合間には、ひっくり返って脚を曲げる、小さな蜘蛛の死骸が落ちていた。背もたれの破けた椅子や、割れたティーポットや、無残にも破片となったランプの残骸の隙間からは、背の高い、名も知れぬ鋸歯の鋭い雑草が生えてきて、まだ何者にも触れられたことのない、産毛の生えた葉の表面を差し出し、茫洋とした格納庫のなかで、微かな光を期待していた。蔦が這って、土の匂いが漂い、どこかの貴婦人の持ち物だったらしいレースは、蜘蛛の糸が数条絡まった、薄墨色に透き通る襤褸切れとなっていた。

 支配という軛から逃れた、統一もなくそよぐだけのその空気は、彼らの歩くたびにその髪を撫で、そして離れた。散策を続けていた彼らは、やがて、格納庫の最も奥に位置する、広々とした舞台の前で立ち止まった。崩落している天井から射してきているらしい外光が、ほんの僅かな範囲の床を照らし染めていたが、それだけだ。叩きつけるようなスコールの音も消え果てていて、短い雨は過ぎ去ったのかもしれない。上から滴々としたたる雨露は、格納庫の床に水溜まりを作り、周囲の砂埃を吸って薄茶色に濁りながら、鈍く空の色を反射していた。

 デイビスが少し肩をすくめて、何もねえな、と独りごちようとした時、少し宙を見あげていたカメリアが、うつつを抜かしたらしい虚ろな声で、

「蝶々」

ぽつんと、呟く。つられてデイビスも、彼女の視線の先にある生き物を仰いだ。

 そこには、朽ち果てた格納庫の天井から漏れてくる、一筋の光を浴びながら飛んでゆく蝶。モルフォを思わせる、蒼く光沢がかったその翅の際から、深い密林の緑へ、透き通る陽光の黄色へ、燃える焔のオレンジへ、次第に暮れなずむ夕闇の紅へと落ちてゆくその構造色は、まさしく生きた宝石。少しでも位置が移ろうたび、その場に燦然と煌めきを残して、光と影のあわいを入れ替わるように、秘やかに飛んでいた。

 はたはたと、蝶のはためく音が聞こえるほどの静寂の中で、二人は何も語らずにその命の鼓動を見つめていた。たったひとつの生命しかいないのに、その羽ばたきには何か、事物を躍動させる神秘的なリズムMystic rythmeが宿されているように見えた。不安定に上下し、そのうら寂しい廃墟に躍る姿は、今はもう失われてしまった、闊達に飛行するものたちの精神を引き連れ、その昔年の幻想と戯れるように、絶え間なく陽動していた。

 棚の隅に置かれた、あの稚拙な飛行機の絵画も。
 闇の中で組み立てられた、あの不格好な発明品も。

 これまでに儚い夢に終わったものたちが、細い光線の中で生命を吹き込まれ、ゆくりなく浮かびあがり、この蝶とともに永遠に空中で戯れるような。そんな刹那的な幻想が思い浮かんで、二人は無言で、その蝶の軌跡を追う。はためく行き先は不規則で、静謐な割には忙しなく、降りるかと思うと、また舞いあがってしまう。彼女と並んでその命の躍動を見ているうちに、ペンだこで固くなっている隣人のちいさな手を、ふと、声もなく握りたくなった。

 親密さだとか、雰囲気に惑わされた、とかではなくて。たた、手に触れることで、彼女に何かを伝えたかった。彼の胸を占める、あの闇の中で泣きじゃくる少女の姿を見た時から渦巻いていた、言葉にならない思い——今、彼女の全身を彩っている、この世の光と影のことも。

 けれども、その沈黙の安らぎを失いたくなくて、何より、手を繋ぐことで別の感情が入り混じってしまう恐れを排除したくて、彼らの手は宙に浮いたまま、一度も触れ合わないままでいた。胸を満たす、静かな切実さ。おそらくそれはきっと、励まし、のようなものだったのかもしれない。


(……俺って、何も知らないんだな。カメリアのこと)


 そんな自覚が、静かに胸に染み込んできて、改めて思い知る。ずっと傍らにいたにも関わらず、自分は彼女を、一面だけしか理解しようとしていなかったのだと。

 ぼろぼろに剥がれた壁のどこかの隙間から、風が吹いてきて、彼らの髪を浮き立たせ、荒れ果てた格納庫の襤褸切れを、音もなく揺れ動かした。カメリアは、鳶色の髪に包まれたほのかな横顔をさらしたまま、健気に羽ばたく虹色の蝶に、じっと目をそそぎ続けていた。



……

 ハンガーを出てから、神殿の方向に行きかけて、カメリアは不意に立ち止まった。

「どうした?」

 彼女はその場に佇んだまま、少しばかり顎に手を当てて、じっとフライヤーを見つめていた。やがて、

「やっぱり、フライヤー、格納庫の中に隠しておこうかな。数日野外に放置しておいて、木材が腐ってきたら困るもの」

「それもそうだな。入ってすぐの、階段の下にでも置いておくか」

 そこで協力して、ひとりが格納庫の扉を開け、ひとりがフライヤーをごろごろと転がすと、靴底で車輪のストッパーを落とし、軽く揺すぶっても動かないことを確かめた。

「これで雨露はしのげるかな?」

「ありがとう、デイビス」

「おー。こんくらい、訳ないぜ」

とデイビスは自分のスーツケースを引っ張り、ふたたび格納庫から、光あふれる外へと出た。

「さーて、問題の神殿に向かわなくちゃな。とりあえず橋を渡って、川向こうの三角州にまで行くか。ここから南南東の方角だ」

「うん。なんだか、ドキドキしちゃうわね」

 かくして、デイビスとカメリアは連れ立って、瓢箪や魚を干してある小屋の前を通り過ぎ、Puente al templo(注、神殿への橋)を渡り始めた。簡易な木材とロープで作ったらしい橋は、足を乗せるたびにちいさく軋む。河は深緑の澱みがちな流れの上に、幾らかの枯れ葉や鴨を遊ばせており、先ほどのスコールが嘘のように、濡れた密林と大地の上から、真っ白な太陽が光り輝いている。トランクやスーツケースの重さに苦労しながらも、デイビスとカメリアは、少し興奮した足取りで対岸へと足を運んでゆく。

 この選択がこの後、彼らの未来の大きな転換点となるのだが、二人はこの時点ではまだ何も知らなかった。

 今は、ジャングルの奥に広がる神殿へ。汗ばむ陽気の真下、鳥の響きや、虫の鳴き声が湧き立つ未知の森の中へと、彼らのシルエットは吸い込まれていった。





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