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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」18.Soaring(ソアリン本編ネタバレ注意)

 カメリアは、ドリームフライヤーの柱に掴まり、地を蹴った。

 瞬く間にぐんと傾いた重力が伸びあがり、通常生きてゆく中ではありえない、足の裏を晴れやかに洗う感覚をたわめて、どこまでも上へ上へと羽ばたくように突き抜けてゆく。今までとはまるで違う、脊髄をむき出しにするかのような圧倒的な陽の光が、乾いた肌を撫でさすり、ああ、飛べる、とデイビスは咄嗟に直感した。夢と同じだ。いや、夢の中のあの昂揚感が、本当に自分の身体を駆けめぐるのは、初めてのことだった。

 カメリアは固定具を叩き込んだ車輪に片足を乗せて立つと、大きく体重をかけて前へと漕いだ。デイビスが、ほんの角度ひとつで空を滑空できることを知っているように、カメリアのフライヤーを操る感覚もまた、本能によって知らしめられたものだった。膨大な陽の光がはためく中、ぶらんこのように軽々と大空へ放り出されながら、颯爽と風を断ち割って——彼女はそれが何よりも好きだった——怒濤の浮遊感を迎え入れてゆくフライヤー。しかし頂点を極めたぶらんこと違って、いつまで経っても落ちる気配がなく、力強く大気を切り裂きながら、圧倒的な風を、背後へとふぶかせてゆく。莫大な陽射しの瀑布をそそぐ、快晴の空。目を冴えるように高いブルーに腕を伸ばすと、その皮膚の後ろで、長い長い空気が尾を引き、新たなこそばゆい気流を生み出してゆく。彼女の軽やかな笑い声が、光のように空へ響き渡る。アレッタの鳴き声と戯れ合いながら、朗らかに、明るく、何よりも自由に。まるで同じ魂を分かち合った、兄妹であるかのように。

 何かが始まる、という昂揚感が、彼らの心臓を固く掴んでいた。カメリアは、青空の中で振り返ると、デイビスに向かって微笑みかけた。

「怖い?」

「いいや。ちっとも怖くないさ」

 デイビスは、その鮮烈な緑の眼を細め、彼女と同じように反対側の車輪の上に立った。そして、目を瞠るほどに遠ざかってゆく地面を見つめながら、あんたがいてくれるから、と囁くような声で付け足した。

 カメリアは驚いたように彼を振り向いたが、ばたばたとはためくドレスと強風のせいで、空耳だったのかもしれないと思い直した。そうして彼の整った横顔を見つめているうちに、なぜだか、涙が滲んできた。それの溢れないうちに、フライヤーは急速に高度をあげて、冷たい雲の内部へと突入した。

 このまま、一気に時空を超えるつもりだ、とデイビスは察した。視界が不良の中でも速度を緩めることなく、フライヤーのスピードはますます向上していった。服は雲の粒が貼りつき、冷え冷えと水気を吸ってゆく。身の震えるほどの凛気の中で、白無の奥から、輝かしく宙を劈く、自由に溢れたアレッタの鳴き声が聞こえた。カメリアはふっと笑みを浮かべると、霧を払うように、大きく雲を突き破った。




 ————たったひとつの問いによって、人類の数千年に渡る航空史は、幕を開けた。




 この世に産声をあげた数多くの生き物が、遙か彼方から陽光を降りそそぐ蒼穹を仰ぎ見る。

 しかし本当の意味で、その空に達したことなどあっただろうか?
 あの澄明な、雲ひとつなく澄み切った膨大な青へ、生命が真にその"魂"を浸し切ることは可能なのだろうか。

 例えば、最もその実現の可能性を秘めている生物——鳥——について考察してみよう。
 高高度飛行、もしくは長距離飛行する鳥類は、その多くが上昇気流を利用した帆翔Soaring、および滑空Glidingで高度を稼ぎ、エネルギーの消費を防ぐ。というのも、一個の生命体の力のみで飛ぶ——羽ばたき続ける——には、先に肉体の方こそが悲鳴をあげるためであり、この理法を突き破るには、さらなる肉体の適応が必要となる。一例として、インドガンは、渡り鳥の中でも最高高度に達する飛行を行う鳥類であるが、彼らは越冬のために、種として標高七〇〇〇メートルを超過するヒマラヤ山脈の上を一夜にして羽ばたく。これは、毛細血管、赤血球、飛翔筋のミトコンドリアなど、様々な生理学的進化を遂げて実現させているのである。

 それでは、なぜ鳥の渡りが行われるのか。その要因のすべてが明らかにされた訳ではないが、一般に、食糧、繁殖、越冬等の理由により、生命を受け継ぐために渡ると考えられている。渡りを目的としない単なる飛翔の場合は、これに天敵からの回避が加わる。つまるところは飛行とは、移動の最高形態であり、複数の環境を行き来することによって、自身の血脈を繋ぐ手段を意味している訳である。そして当然のことながら、肉体への負荷は非常に高く、鳥たちにとっての飛行は、まさに彼らの命と直結した、苛酷な生存戦略を示している。

 翻って、人間はどうか?
 いかなる理由でもって、人間は空を目指すことができるのだろうか。

 食糧——農耕や牧畜の発達により、季節ごとの偏りは解消されている。
 繁殖——人間は発情期の存在しない特異な生物であり、性行為はその季節を限らない。
 越冬——火の発明、着衣、住居、およびその他の科学発明により、極寒を克服できる。
 天敵——手指の発達、および認知革命が武器の製作に寄与し、敵に対する抵抗手段を齎す。

 お分かりだろう、常に環境の変革によって営みを継続させてきた人間にとっては、飛行の実現可能性より以前に、そもそもが飛行する必要性を持たないのである。

 それではなぜ、人間は飛行を求めるのか?

 その根底にあるのは、まさに、人間が"人間たること"への裏切り。すなわち、飛べない身をもって生まれついたからこそ、その呪縛を乗り越え、天に到達したいという、不可能への憧憬である。飛行とは、地に縛りつけられた肉体からの脱却。その根幹には、生存本能から解き放たれたいという、強烈な欲望がある。まばゆいばかりの自由、自由、自由——そう、この概念こそが、人類を天へと衝き動かし、人類の航空史を開始させる礎となるのである。

 すなわち、生きるためでなく、喜びのために、完全な歓喜に身を浸すこと。
 肉体でなく、魂のために、その生涯を捧げ切ること。

 鳥のように/鳥と同じでなく。

 この輻輳する願いの合間に、人間の飛行への情熱を掻き立てるすべてがある。我々は、人間の精神を保ったまま、人間ではない何者かへと変わることを欲望するのだ。「かくあれ」と生まれついた宿命に抵抗し、重力の軛を絶って、求める姿へと変転すること——これは人類に共通する、重大な本質の一つである。


 この終わりなき、不可能への欲望。
 これを俗に、"夢"、と人は呼ぶ。


 ルネサンス期のイタリアの人文学者、ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラは、このような言説を残している。

「おお、父なる神のこの上なき寛大さよ。人間のこの上なき、驚くべき幸運よ。(中略)御父は生まれいずる人間の中に、あらゆる種類の種子とあらゆる種類の生命の萌芽をさずけたもうた。各人が育てた種子は成長して、その果実をかれの中にもたらすであろう。もしそれらの種子が植物的で、かれは植物となるであろう。もし感覚的であるならば、獣となるであろう。もし理性的であるならば、天的な動物となるであろう。もし英知的であるならば、天使や神の子となるであろう。そしてもしいかなる被造物の運命にも満足せず、自分の統一の中心へと自分を取りもどすのであれば、神とただひとつの霊となって、すべてのものの上に置かれてある御父の孤独な闇の中で、すべてのものに優越するであろう」(『人間の尊厳について』)

 もしも、かくなる夢の種子が、人間のうちに芽生えるならば。

 カメリア・ヴァレンティーナ・ファルコに根づいているものは、間違いなく鳥のそれであった。だがしかし、もしも彼女が鳥として生まれついていたならば、いかなる人類の偉大さも、彼女の魂からは創造されなかったであろう。人として生まれ、人として足掻き、鳥のように飛ぶことを夢見た彼女の、ここから始まる魂の遍歴。たゆみない智慧を積み重ね、自己の宿命を風のさなかに吹き飛ばそうとするかの如く、彼女はひたすらに高みを求める。逸る鼓動をおさえ、沸き立つ心を震わせながら。一歩、一歩、射し込んでくるあの光の彼方へ。

 ————注ぎこめ。
 ————魂のひとかけらまで。

 転落する訳にはいかない。一度夢見た以上、もはや大地の片隅で生を終えるのは堪えられない。目の眩むような深淵へと落ちてゆく小石が、魂を奪う。思えば、神でさえも、これほどの高さに辿り着いたことはなかっただろう。全知全能の存在が、かくも痛ましい挑戦など要するはずもなく、その高所を満たすのは、人間の息遣いのみ。

 ————一歩、
 ————また一歩、

 登る。
 昇る。
 上り続ける。

 叶えるにはあまりに重い労苦を払い続け、幾多もの魂が、地に倒れ臥す。それは伝承のうちに息衝く、イカロスとダイダロスの悲劇の反復。大衆たちは慄然とするであろう、神話と同じ物語をなぞろうと望む、地に生まれついた愚か者たちの結末に。人々は知らない、死と隣り合わせの恐怖の中で、彼らがいかに孤独な営為を続けてきたのか。人々は知らない、運命の闘争者たちが、今なおも太陽の如き情熱を燃やして、遙けき階段を登り続けていることを。

 "いまの時間とともに生き、時間とともに死ぬべきか、それとも、いまの時間から逃れてより大きな生に達しようとすべきか"——アルベール・カミュはかく語る。この世界には、その動乱を超えたより高い意義があるか、それともこの世界の動乱以外に真実なものはひとつもないか、そのどちらかなのだ、と。「中間の位置はありえない」。彼らは進む、羅針盤に示されない真理の方角へ。彼らの上に陽の光が照り続ける限り、魂の安寧はない。


 カメリア・ファルコが冀求するのは、ただ一点。

 目指す———大空を。
 志向する———精神を通じて。
 向かいゆく———人間の生涯の、その先へ。

 シジフォスの如く敢然と山頂へと歩む、その地に這う者の生き様を見れば、神は未練がましいと嗤い、鳥たちは滑稽だと騒ぎ立てるであろう。しかしカメリア・ヴァレンティーナ・ファルコは、蒼穹に魂を染め抜く瞬間を思い描き、自らの選択した夢の神話に、まばゆい精神を投影し続ける。

 ————その顚末は、賢明な読者のご覧の通り。
 長い魂の遍歴。混迷の時期は夜の中に終わりを告げ、後は陽の光とともに、超絶の高所がその姿を現すのみ。


 これは————

 空に魅せられ、
 空に魂を売り、
 空に奇異荒唐な精神を捧げた、

 ————"我々"人類の栄光の物語。



 あまりに多くの者が、夢を望んだ。夢を描いた。その切ないまでの自由への想いを、我々はすでに知り尽くしている。

 どこまでも、どこまでも、彼らの物語は果てしなく、あの紺碧の空へと向かって、永遠の螺旋を昇り続けるだろう。子どものように無邪気な笑い声と、希望にあふれた羽ばたき、そして世にも美しい鳥の声を、この世界いっぱいに響かせて。人は夢見る。人は大志を抱く。そして、古今東西に散らばった、どこか荒唐無稽な、魂の憧憬とも言えるこれらの空の上の物語は、夢に向かって挑み続ける、数多の高潔な精神とともに、かつての先駆者たちが飛行という未来に挑戦し、誓いを立てる姿を、我々に想像させることになるだろう。

 鳥への憧憬から始まり、気球へ、グライダーへ、飛行船へ、飛行機へと発展を遂げて。風にページがめくられてゆくかの如く、歴史はなおも邁進する。
 もしも拳を握り締め、足を揺らし、膨大な陽の光を浴びて、この先の世界へ舞いあがることを望むのなら。ありったけの夢を飛び立たせて、さあ、始めよう、壮大な空の冒険を。

 莫大に広がる、寒冷を極めた雲の迷宮。

 薄白い尾を引いたドリームフライヤーは、純白に霞む世界から解き放たれ、蒼鉛の広がる世界へと飛び出した。









 瞬間。
 暴虐的な、青の渾沌。
 紺碧に塗り潰された視野が、すべての魂の理知を掠奪する。








 大空の彼方に広がるのは、人類の限界を超克した、世界の淵源。

 夢を見ているみたいだ———そう、デイビスは茫然として呟いた。


 眼前を覆い尽くすのは、極限にまで押しひしげられた紺碧——一切の他の色は許諾されない——蒼、蒼、蒼、その一色のみである。誤って足を踏み割れば、暴風をすり抜けて落下してゆく距離は、遙か数千メートルを下らないであろう。全身を風が取り憑いてゆく——その膨大な空気の厚みを介して、瞳に痛いほどの距離から飛び込んでくるのは、遠くの空に至るまで、無数の山脈を白雪に覆い尽くされた山々が、一面、朝霧のあわいに影を落としつつ、望外な朝日に照らされて地平線を埋め尽くす様相。風音が轟き渡るほどの深さを孕んだ峻嶺は、過去の超大陸がひしめき合い、千古をかけて醸成した、謂わば自然環境の大博覧会とも称せる集積である。かくして山から山へ、谷から谷へと、その清洌極まる怒濤の雪解け水を繋ぎ、ヨーロッパ大陸の大文明の影の立役者となったその山脈は、鳥瞰すれば、雄大な雲間を抉り落とすかのように酷薄で憤ろしく、さらに人間を圧倒してくるのは、ただ天海に聳える、目も眩むほどの雪嶺ばかりである。そしてその中でも飛び抜けて迫ってくる、ヨーロッパ最高峰を冠したマッターホルンは、垂直とも見紛う絶壁を突き立てたまま、その壮烈な純白の鋭鋒を、惨たらしく、厳粛に、無言の高潔さのうちに結氷させていた。

 高所にいるせいで、陽光も陰影も、息の止まりそうなほどに激しい。地上の数倍にも及ぶあらん限りの光と翳の空間のうちへ、数億年を超過する地層の歳月が聳え立ち、氷霧を含んで冷却された空気は、襟や袖口の中にまで入り込むと、硬い衣服を打ち震わせ、毛根が太く詰まったと感じるほどに凍りつかせる。山岳波——山に衝突した上昇気流から始まる、重力を復元力とした波動の一種を指す——により、凄まじい大気の撹乱の中に曝されている二人は、フライヤーの真下で繰り広げられる隆起が、みるみるその岩壁を接近させ、不用意な人間の肉を刮げ取ろうと険しい尾根を走らせる様を見て、憶えず足を引っ込める。

 それはもはや、彼らの棲んでいる巨大な惑星の皮膚と、サファイア・ブルーの彼方から照り輝く太陽との、本物の相剋と言っても良かった。鮮やかな青の球体を取り巻くこの大地の中で、最も険しい皺襞のひとつこそが、この山脈に結集し、ある時代の、ある年の、ある一日の、鴻大な地球の黎明を浴びて、莫大に広がる剣山を励起させていたのである。眼下を移ろう雲霞には、朧ろな日暈が、七色の波長を湛えてぼうっと浮かびあがり、辺りを漂う瀧のような薄霧の奔流に、立体的なブロッケン現象を生じさせていた。冷やかな霧を翼で掻き分けながら、フライヤーが氷食尖峰の間近を通り過ぎるたび、切り立った崖を転がる氷塊と、そのたびに砕けて煌めく氷片が、旭の中で慟哭するかのように滑落してゆく。

 ますます体温を奪う雲粒の波にゆっくりと包まれ、その薄曇りに閉ざされた領域を抜けると——

 ぴいん、と空気が鋭く張り詰める。たちまち、息が霧状に凍ってゆく。広漠たる水平線の上を取り巻くのは、腕を伸ばすのが虚しいほど深遠へと突き抜ける蒼天。宙に滑り続ける彼らの爪先の数センチそばを、深い色合いをした海水が揺らめいてゆき、身の縮むような冷気とともに、清涼な海の香りが躍りあがった。アルプス山脈から一気に緯度を遡り、イルリサット・アイスフィヨルドへ。陽に散り散りの細波を乱す紺碧は、まばゆい水音を立てて、その水面から遠のくように暗黒を引きずり込み、そこへ至純の蒼を流し込む空は、渡り鳥から抜け落ちた、か細い羽毛を震わせていた。遙か頭上へと立ちあがる奇抜な形をした氷像の数々が、その曲線や環状に空いた穴をくねらせ、海面にはその色合いがいとも眩しく反射して、涼やかなホリゾンブルーに透けている。周囲一面に散らばる氷塊も、近づいてみれば遠近感を突き破ってその巨体を露わにし、たちまち人間の矜持を粉微塵にするであろう。海の上に浮かぶその真っ白な世界は、この星の極北の地だけが齎せる奇景であり、氷の迷宮の合間を滑空してゆくと、あたかも別の惑星に迷い込んだかのような錯覚に囚われた。

 カメリアは膝を屈伸させ、フライヤーをゆるりと水面近くまで降下させた。翼の通れる隙間を紙一重で潜り抜けてゆくにつれ、滑らかに融解した氷塊の端は、フライヤーの輪郭を歪め取りつつ、その緊密な透明度の奥深くへ、幾百の像を映し込んだ。漣を立たせてもなお、鏡面のように空の色を映し取る、あまりに冷たい満潮の水——まるで藍色のインクを流したように濃密なその海は、峻厳に見えながらもその実、極めて豊饒な栄養を含み、日の光のそそぎ込むにつれて、深い海底から海水の流れが生み出され、悠久の時間をかけて湧昇してゆくのである。そしてそれら無機質塩を求める生命たち、海豹や、海象や、不思議な音波を反響させるベルーガ、シャチ、イッカク、貝類に甲殻類、海鳥、魚、夥しい数の海藻の種子に無限の微生物などが流れ込んできては、この波打つ青の世界に、多様な生涯の饗宴を繰り広げた。海は生きていた。たゆたう水面の下に何十万、何百万という生命が煌めき、零度の水に陥る光線と戯れているのが、近づいてくるフライヤーの気配に驚懼して一閃、一堂にその鱗を狂おしく瞬かせ、すれ違いざまに強烈な残像を散らす。氷上を歩く北極熊の親子、そして巨体を持つ孤独な一頭は、大きく咆哮を漏らすと、日射しの中に踏み縛った氷片をばら撒いて海へ飛び込む。濡れそぼった乳色の体毛は大量の雫を滴らせていたが、そのまま大きく前足を掻いて、未知を湛えた海の底へと潜っていった。

 その海底にはいかなる世界が広がっているのだろうか。海豹の交流、シャチの鳴き声、海象の漏らす泡の音。人類の知性では理解できない不可思議なことに満ち満ちて、生命と五感の銀河を織り成し、あまねく水の底を支配しているに違いない。気の遠くなるほどの暗黒の旅路を経て、ようやく地球の片隅へと辿り着いた陽の光が、泡やクリオネやクシクラゲとともに、蠱惑的な青い躍動を揺蕩わせているのだろうか。そしてその果てには、微かな光も射すことのない塗り潰された渾沌を、名も知れぬ生命の同胞が行き来しているのだろうか。

 手を伸ばし、極洋の海面に悠々と波紋を残してゆく。指先をじんと凍てつかせる海水の感触に、鈴のように笑うカメリア。すると、遠くで氷原が崩れ落ち、軋むような物凄まじい轟音を立てるのが聞こえた。厚みが千メートルにも達する氷河が割れて、怒涛の勢いで氷の塊が崩壊し、次々と巨万の水柱をあげてゆく。寄生虫を落とすためか、それとも遊んでいるのか。突然、ザトウクジラが海水から弧を描きながら飛び上がると、その巨体を海面に叩きつけ、凄まじい水飛沫を辺りに噴きあげた。

 冷たい水滴が彼らを襲うと、フライヤーは新たな海の上を飛翔していた。遠く、眼差しの勢いづくような明るさの中、天然の入江たるポート・ジャクソン湾に突き出したその海岸線が、彼らの服に染み込んだ水飛沫を、南半球の風で乾かしてゆく。次から次へと立ちあがる白波か、さもなくば何枚もの牡蠣の貝殻を重ねたオブジェのように、昂然と光り輝くオペラハウスが通り過ぎ、青い青い海の波を越えた先には、シドニー・ハーバーブリッジ——全長一一四九メートルに達する巨大なシングルアーチ橋が、漣に震える海面に影を落としていた。甘い潮の匂いと混じり合う、日焼け止め液の香りを掻き分けつつ、真っ白なデッキを開放してエンジン音を立てるフェリー、巧みに帆を操って進んでゆくヨットが大海原を切り、目にも伸びらかな航跡が青を両断して、その日も新たな生活が始まる。北と同様に、南もまた、素晴らしい一日を迎えていたのだ。各々の築きあげてきた習慣に従い、ココナッツ・ウォーターを口に含んだり、ランニングウェアを着てジョギングをしたり、細い冷気を漂わせる魚介類の大皿を運んだりしながら、世界でも指折りの美しい都市のうちに、絶え間ない創造的なリズムを刻んでゆく。北極圏から何千キロとかけ離れたその南半球の地には、別の美しさが、別の躍動が、地球に新たな色彩を塗り込め、息衝いていたのである。

 眼前にはみるみるうちに、人の手でなしたとは思えぬほど精密なブリッジの鉄骨が近づいてくる。輝く太陽の暮れる頃には、魔法がかったような青いライトとともに、多くの自動車がこのアーチ橋の上を行き交い、その後部座席には、眠りかかった子どもが、窓の外に落ちかかる夕闇の最後の深い菫青色とオレンジを垣間見て、その都市の色とりどりのライトアップのうちに、人間の生の意志を見抜くであろう。夕暮れの鐘の音ともに、海岸には屋台や見世物が現れ、ざわめきは酔いを齎し、人類の祭典の雰囲気を伴うであろう。鮮やかに濃やかに、それでいて妙に切なくなるほどの美しさは、幼子が差し出す飴玉に似ていた。ハーモニカとギターが素朴で暖かい旋律を掻き鳴らし、極彩色の衣装を身に纏ったダンサーが踊り、大道芸人の演目に子供達は群がり、ベーグルは馥郁たる香りで人々の鼻腔を擽ってゆく。夕暮れの風と戯れながら、頬を火照らせ、陽気に歌を歌い、口笛を吹くだろう。人々のざわめきが交錯し、匂いが、波音が、空が、海が、音楽を背景にさざめくだろう。そして海を馳けるヨットは、明日の黎明へと向かって、ふたたび新たな冒険を志すだろう。

 正面から近づいてくるヘリコプターが、激しいプロペラの旋回音で彼らの聴覚を刈り取り、一色に塗り潰す。思わず目を瞑る二人——そして目蓋を開くと、ふたたびドリームフライヤーは、上空漾々として高くを滑空していた。

 虚空に放り出された爪先の真下では、次第に静寂を増す季節が深まり、風の通るたびに、楓豊かな山々全体が、透明な道を生み出すように揺さぶられていった。空気までもが豊饒に染まるよう、黄葉、紅葉、緑葉、朽葉の数々の織り乱れるうちに、靴底の遙か下にはマリエンの名を冠する吊り橋が架けられ、地表はさらに無窮へ遠ざかる谷合いの底、碧い深潭の淵まで吸い込まれてゆく。山間の空気は冷ややかで、溜め息の出るほど美しい。周囲に広がる太虚が恐ろしく視界を貫通し、ぼうぼうと鳴り響く風は彼らの脇の下を吹き抜け、五寸釘の如き太陽光を叩き込んでゆくのだった。

 陽射しにくずれそうな、掻き消えそうな、あまりに物侘しい空気が、天へと聚合する連峰の真上から、虫たちの一面の声を降りそそがせてくる。やがて肩を撫で切るように迫りくる、崖に構えられた城は、神話に取り憑かれるあまりに狂王と呼ばれて水死した国王が、生前に中世を回顧したバイエルンの館、かのノイシュヴァンシュタイン城である。死なばもろとも、と遺言を残すまでに病的な愛を捧げられたその孤城は、山々の色鮮やかな樹々を見下ろす、白鳥の翼のように汚れなき白亜の壁に、深い群青の絢爛たる屋根、陽射しを跳ね返す風見鶏や主塔を控えさせており、山道を抜けてはるばる足を運んできた、吹けば飛ぶような人の気配が、遅々としてその居城を歩き、かつての君主の孤独を憐れんでいる。天から見れば、鴻大な山々の紅葉に抱かれて、かくも儚い活動を刻み込む人間の存在とは、なんと愛らしいものだろう。日の光で薄紫に霞む山々を戴き、絶壁の突端に聳え立つ城を右手に、ドリームフライヤーはゆっくりと虚空を横切ってゆく。はたはたと衣服が揺れる先を見定めれば、雄大に切り立つ山々に囲まれ、地表を覆い尽くしてゆくバイエルンの鮮やかな牧草地、メルヒェンを彷彿とさせるホーエンシュヴァンガウ城、凍てついた天空の如く澄み渡るアルプ湖、シュヴァンガウ村にちりばめられた小さな紅い切妻屋根から、雪解け水を皓々と煌めかせるフォッルゲン湖まで、あらゆるものが視野を超え出て見渡せた。

 カメリアが体重をかけ、その行き先をおもむろに上空へと転換させた。幾つもの尾根の先の峻嶺を見あげれば、さらに天高くまで聳えてゆく、幾千万もの葉の氾濫。秋の気配は強く、回転しながら降ってくる枯れ葉の香りや、光と翳の交錯の中をひた走る狐の声まで聞こえるようで、毟り浮いたかに見える綿雲はねっとりと泡立ち、聞き取れることのない微かな声をあげている。柔らかい透明度を降りそそがせる蒼穹の頂点には、羽ばたく鳥の姿が霞んで、静かに濁った光と温かい雛の匂いとを、山岳地一帯に放散させていた。

 太陽の光が、胸の中までつらぬくように、その七色の光で網膜を灼いた。一瞬、世界が真っ白に掻き消え、そしてその白無から真っ先にくすぐってくる、目蓋にあたる日差しと、胸いっぱいの草の匂い——

 まだ、東から昇ったばかりの太陽。巨体が地面を揺るがし、草の根を掻き分け、そして深い砂埃を舞いあげる躍動が伝わってくる。柔らかな木琴の音の如く、滴々と下垂れる露。生まれたての静けさとともに、低木の森閑、若草のざわめき、獣たちの吼き、そして絶えず霧のように響き渡る虫の鳴き声が、朝霞の流れる大気を震わせていた。

 吹きすさぶ巨大な旭と空虚のうちに、怒濤の勢いで地平線の機微がうねり込んできて、土と草と泥の味が呼吸に混じる。朝まだきのうちに、犀鳥が黄金の陽を浴び、名も知れぬ歴史が始まる。動物たちは走り込む。喉仏に響くような地響きとともに、草原を駆け跳び、若葉をもぎ取り、鋭敏にその逞しい首をあげてゆく。彗星のような髭の毛穴、真っ直ぐに磨きあげられた角の軸取り、鱗粉のような艶をなして興る首。その濃淡のある毛並みの行く先には、まるまると太った眼球が嵌め込まれ、さらにその内部にある水晶体は、冷え冷えと稀薄な朝の空を反射する。悠然と濡れた瞳を開きながら、彼らが脳に映すのは、同じ大地に君臨する意志の束。歩くたびに光が移り変わり、分裂してゆくこの世の光景は、彼らの魂を鮮やかに彩り続ける。

 夜明けの如く生命の気配を帯びてゆく、朝露に濡れたケニアの草原。遙か遠くに独立峰の中でも最高の氷雪を冠するキリマンジャロと対峙しながら、そのサヴァナ気候は乾季を迎え、広大な平地を繰り広げていた。象が土を蹴り、子が親を追い、草を毟り、草を食み、鳴き声が響き、雄と雄が闘争する。それは、誰に記録されることもない、彼らだけの鮮烈なドラマだった。臭気と熱の籠もった気配が充満し、奇蹟的に震える存在の吐く息と、草いきれの匂い、硬い表皮から立ちのぼる湯気が混じる。黎明はなおも上昇し続け、照ることを止めない。行進し続ける象たちの背中は、徐々に薄明の温度を吸いあげ、神々しい金の色合いへと姿を変えてゆく。暗闇が吹き飛び、夜明けがいちめんに広がるとき、すべての時間がこの存在たちに触れられて美しい。今、太陽に照らされ、なまなましく汗ばむ生命の脈動が、この地球にいだかれた自らの矮小さに反撥するように、その遙かな果てを仰いでいた。地面が震え、空気が震え、水面が震え、象牙が輝き、鳥が羽ばたいた。風に濡れて、個々は新たなる躍動を描く。存在は飽くことなく運動を続け、その強靭なひと連なりの物語の中に、何者にも犯されることのない場景を繰り広げていた。

 微かに毛が生え、深い皺の刻まれた、固く分厚い灰色の皮膚。それを滑らせた長い鼻をしならせて、一頭が砂浴びをすると、その濛々と立ち込める土埃の中に、フライヤーは一気に突入してゆく。そして、黄金に陽を反射する砂粒が、驚異的な光を滲ませた。

 瞬間——二度と汲めぬほどの大気が頭頂部を覆い尽くし、毛髪の一本一本を掻き分ける熱気が、すみずみまでくぐり抜けていった。炙るような光を頭上に透かしながら、フライヤーは自由の中で悠然と方向を転換させた。目の覚めるような蒼穹、そして蒸し暑い大気のうちを、幾重にも反響してゆく声。それは森の中に生きるあちこちの蝉が、ひねもす騒ぎ立てている声だ。

 夏——

 アジアの地方の風物詩ともいえる、あの灼熱を掻き立てるような、かしましいミンミン蝉の郷愁。地球の半分は、一年で最も暑い季節を迎え、あらゆる生き物の汗を絞り取っていた。激しく鳴き滾る油蝉の時雨が足下から沸き立つと、まるで詩吟の節に紛れて、切なくも狂おしい弦の民族楽器が、夏山の影から聴こえてくるかのようである。鴨の尾羽のような濃緑で覆い尽くす森林のうちを、長大な城壁が龍の如く峰に沿って上下し、雄渾に盛り上がる積乱雲に霞みながら、地平線の彼方でもなお尽きることがなかった。万里の長城は、紀元前三世紀に戦国の世を勝ち抜いて中国を初めて統一し、絶大な権力を握った始皇帝の時代から始まり、秦、前漢、北魏、北斉、隋、金、明と次々に入れ替わる王朝に受け継がれながら、破壊されては修築し、侵食されては移転し、千年以上の歳月に渡って築城され続けられた遺跡群である。その背景には幾度となく中国を襲う北方の異民族を牽制して、壮大な防衛壁を築き、国を守る意図を担っていた。どれほどの膨大な戦乱を重ねて、人はせんを踏み堪え、瓦に掴まり、敵陣の槍に突かれ、鉄錆の臭いがする血溜まりに倒れ込みながら、この世に受ける最後の光景として、あの壮大な青空を眼に映し込んだことであろうか。何千回、何万回とこの世に繰り返された蒸し暑い夏の底に、破れて燃やされた旗が棚引き、炙るような蝉の声を沸かせ、その日限りの日射しが喘ぐように森を灼いてゆく。望台や烽火台は、直射日光の真下に硬い石材を熱し、合間を繋ぐように浩瀚に続く煉瓦の途上には、日傘を差した人々が、今日もぽつぽつと散じていた。観光客なのか、それとも地元の民なのか——生命の気配の濃い青葉の匂いに抱かれ、まばゆい服の裾をひらめかせながら、どこまでも果てない道を歩いてゆく人々。それはまるで、歴史の合間に身を寄せ、自らの儚さを切々と受け入れる、生者たちの慎み深い営みを象徴するかのようだった。隼は、そんな地上の様子を見守りながら、不意に力を抜いて、長城の底へと吸い込まれていった。それを追って、ドリームフライヤーもずり落ちるほどに前のめりに長城の道を見下ろすと、ぶわり、と背中を包み込む墜落の感覚とともに、急速にその速度を増して滑空してゆく。みるみる皮膚が呑まれ、緑も城壁も吹き飛び続け、全身が総毛立ってゆく。一挙に近づいてくる城壁が靴の底をこそげ取るようで、弾けるような昂奮が彼らを包み込んだ。

 子どもたちの伝統的な凧が、大きな風切り音を立てて目の前を掠めた先に——

 大気全体が、熱湯を孕んだように劇的に温度を跳ねあげる。風は濃密な太陽の熱を帯びて、溶けるかと思ったくらいである。強烈とも言える空気に汗が噴き出し、一瞬、胸を打たれたかのように眩暈がした。

 古代エジプト文明、ヌビア、クシュ王国、メロエと、数多の国の衰亡を目撃し続けたナイル川。その南西に位置するギザは、世に誉れ高い三基のピラミッドの真上に、巨大な、空疎な、傲岸な黄昏を、のけぞるほど間近に迫らせている。真昼には五十度にも達する気温も、今は僅かに和らいで、遙かまで続く砂の匂いが吹き流れるさなか、雲は、暮れなずむ景色に蜜色の筋雲を広げ、溢れ返る光明に溺れていた。砂丘は斜陽のうちに柔らかい高低を連ねて、乳の如くうねり続ける砂の膨大な海の上を、さくり、さくりと踏み締める跫音とともに、ひたすらに前へ、前へ。数百キロの自重と影を引きずる駱駝の手綱を引きながら、眼球に砂が入らぬよう俯き、ターバンで彫りの深い目許を守り——そうして生き抜いてゆく砂漠の民らは、夕間暮れに灼け尽くされる砂上に翳を落としつつ、昂然と歩み続ける。

 無限に流れ落ちる砂の音を含んだ光線を受け、精緻に計算し尽くされた形を露わにするその金字塔は、遠い古王国時代には外装石に全面を覆われ、太陽の如く光り輝いていたのだが、しかし、今やその多くは人の手によって剥ぎ取られ、目の前に積み重なるのは、朽ち果てた内部の巨石のみ。いかなる目的で建てられたのか、どのように建設されたのかも秘されたまま、その全容を知る者はみな、来世への旅路へと出発している。ここに物語を語れる者は、誰もいない。風が吹けば僅かな枯れ草が揺れ、ちいさな甲虫の転がるのさえ、誰の物語でもなく、誰の事象でもなかった。それらは大空間の中を逃げ惑う光と影の躍動に過ぎず、膨大な砂の起伏や、太陽の下で静かに死んでゆく虫、この世の砂埃を刻々と蒸している光線を浴びて、ひたすらに忘却の定めへと臨んでいたのだ、ひたすらに、ひたすらに。

 ゆるりとフライヤーが旋回しても、地平線は傾斜しながらその動きについてきた。重心が片側に寄り伏せる中、ちょうど直射日光が顔に当たり、眼球の奥底が焦げるほどにまばゆい。降りそそいでくる黄昏の光は、消え入りそうな人類の足跡にも、駱駝の残痕にも、総じて等しい尊厳を投げかけ、巨大な階段を思わせる金字塔より、太陽神へと誘う道筋を示す。その同じ道を進むように、ドリームフライヤーは斜面ぎりぎりを急上昇していった。石段の物凄まじい光と影が過ぎ去ってゆき、斜陽が、克明な筋をつくるほどに彼らの肉体を照らし尽くす。

 そして最後の階を超えて、舞いあがる砂埃の彼方に見えるもの——

 壮大な蒼穹に映えるのは、インド・イスラーム建築の代表格とも言える、偉大なる白亜の霊廟。見惚れるほどに優美なドーム型の屋根を配し、周囲に繊細を極めた象眼や尖塔を聳え立たせる、その左右対称の形状には、覚えがあった。何より、吟遊詩人の奏でるエクタラの音と、甘く鼻腔に染みつく白檀の匂い、そして嗅ぎ慣れたあの香辛料の粉末の香りが、苦しいほどに懐かしい彼らの思い出を掠めた。

 タージ・マハルは、ムガル帝国の華やかなりし頃、父帝や継母と対立し、逃避行を続ける夫と苦楽をともにした愛妃、ムムターズ・マハルに捧げられた、彼女の来世における栄光を祈願する霊廟である。巡礼者はその遺志を継いで、今もモスクに赴いて跪き、メッカの方角を向いて礼拝を行う。一面を真っ白に雪がれたその伽藍には、数え切れないほどの身内の裏切りのさなかでも、絶えず微笑をたずさえて寄り添い続けた、美しい恋人との思い出が塗り込められているようである。この世の僅かな時間のあわいで繰り広げられた、人と人との戻らない交流。逝去の哀しみに裏付けられた深い愛情が、丹念に積まれた大理石の一片一片に、涙として染みついていた。

 ドリームフライヤーは、記憶の海の底を駆け抜け、今一度、あのすでに過ぎ去った瞬間をよみがえらせるかのようだった。楽園の河を模した運河の上を、吸い込まれるように滑空してゆくと、両脇に開かれたすべてがよどみなく流れ、視界の彼方を切り開いてゆく飛翔の中で、足下は浅葱色の水に触れて、幾つもの波紋の輪をつらねていった。あらゆる魂が、この水の上を辿るであろう。次々と過ぎる走馬灯のような記憶を胸に、肉体を脱ぎ捨て、天上の国へと翔け抜けてゆくことであろう。無碍に水浴びをしていた白鷺も、フライヤーと同じように柔らかに飛び立ち、豊かな光線の中を飛翔してゆく。鏡のような水面に映る、真っ白な羽ばたきと、見事な円を描く大理石の屋根——霊廟に刻まれた繊細な彫刻がさかしまに映り込み、揺籃のように揺らめいていた。それは愛しい人の冥福を夢見る、生者から死者への、最期に遺してやれる贈り物だったのかもしれない。

 雲霞の宮殿のような塔を臨みながら、鮮やかなサリーを纏う人間が、霊廟へと歩いてゆく。菴摩羅色の布が風に吹き乱れ、華やいだ女性の足取りとともに、柔らかいドレープを波打たせる。彼らは霊廟に向かって、何を思い、何を祈るのだろう。この広い世界の片隅に、どのような瞑想を刻みつけたいと願うのだろう。
 何もかもが、あの日、喘ぐように浴びた光景と同じ。もしかして、と二人は腰を捻り、見覚えのある木陰を見下ろそうと試みた。

 そこには、かつての彼らの姿——

 庭園の隅に、ダカールとカメリアが握手を交わしている様が見える。彼らは微笑んで、顔を見合わせた。

 白亜のドームを越えてゆくと、空闊と開けた宙に浮かぶ、色鮮やかな丸い気球。今度こそ世界のどこにも障壁はない——一切が視界から消え去り、足下も、頭上も、手すりも何もなく、開け放たれた時空から見えるのは、青い青い空に映える幾らかの球皮と、地平線までもが赤錆色に染まる甚大な荒野。爆発的な虚無の氾濫の中を、ますますフライヤーは上昇してゆき、薄い影を落とす地表との距離を広げた。いったい、地上何メートルから太陽を浴びているのか——戯れに、眩暈のするような虚空へ足を浮かばせてみると、脱げた靴が滑落してゆくような恐怖に取り憑かれ、次いで、底抜けの快楽が駆け登った。

 酷い集中が耳を圧していた。この惑星が生まれて以来、二度と眠れたことのない開け広がりの中、失われた六六〇〇万年の時間の軌跡が、高地を侵食し、地の底へと遠ざかりながら、今なおもその甚大な空間に息衝いている。眼前へ蟻塚の如くそそり立つ驚異的な断崖は、優に高さ三〇〇メートルを下らぬ自然の塔を屹立させ、巨人の包丁のそばを通るような思いでその狭間を潜り抜けると、その左右から同時に、艶めかしい肉脂を抉り取るような縞模様が目をさらってゆく。岩は熱く、触れれば情熱のような乾きを掌に渡しただろう地層の奥深くに、石の原理、石の融合、石の闘争を暗示しながら、ふたたび、ドリームフライヤーを虚空の彼方へと送り出してゆき、そして莫大な斜陽の中に見えてくるのは、地平線の底から点々と屹立する、狂おしいほどに孤立したメサやビュート——コロラド高原岩石の隆起によって、かつて連綿と続いていた岩石が、河川や風の浸食によって削ぎ落とされ、数千万年をかけて、この世のものとは思えぬ奇巌を立ち並ばせた光景が広がっている。絶壁の影は眼を襲うばかりに濃く深く、かくまで巨大な渓谷を抉り続ける間、いかに多くの生物が飛び立ち、その数限りない系統樹を分岐させていったのだろうか。いかなる時代の、いかなる瞬間にも、生の奔流のような風が吹き嬲り、生命は己れを躍動させていたはずである。メガネウラ、プテロダクティルス、ランフォリンクス、始祖鳥、奇翼龍、骨質歯鳥、プテラノドン、ケツァルコアトルス、そのほか様々な系統がねぐらから飛び立っては枝分かれし、あるものは絶滅し、あるものは死を逃れ、子を生み、孫を生み、進化を続け、明日へ向かって赫奕と飛翔を繰り返している。

 翼を持たずに産まれた人類は、頭上を飛び去ってゆく彼らの輝かしい命は、無限の羨望を駆り立てるものとしか映らない。仮にこの谷底に人間の軀が紛れたとしても、芥子粒ほども見えぬくらいにしかならないであろう。それほどに規格外な景観に抱かれて——アレッタは今、この時代を生きる大地の証人の如く、声を張りあげた。魂を抜かれるほどの谺だった。そこでは主は、もはや人間ではない。人間は、生きとし生けるものに拝跪する存在に過ぎず、もっと巨大な覇者が、偉大な概念が、その大空間を征服し、おびただしい羽音を広げていたのだ。

 胸が熱くなるほどにこの世を呑み込む空気量が、一堂にはためいて全身へと吹きつける。高い。眩しい。広い。冷たい。遮るものはなく、何もかもが解き放たれて、目に痛くなるほどの視野へと遠のいていた。デイビスは、どこまでも誇り高く、孤高の精神を携えて飛翔してゆくアレッタの姿を目で追った。気位の高いその生き物は、そこが本来の生きる世界なのだ。自ら以外に頼るもののない完全な虚空——誰しも身が竦むような絶無の世界だったが、むしろそれこそを求めていたというように、アレッタの翼は圧倒的な震慄を謳歌し、遙か下の荒野へ、消え入りそうな影を霞ませる。その時、デイビスは、なぜカメリアがいつもアレッタを連れてゆくのかが分かった。空に還してやりたかったからだ——すべてのしがらみから解放されて、ふたたび自らの友人を、奔放な世界に羽ばたかせてやりたかったから。こうして彼らがともに飛翔している今は、物言わぬ二人の強固な紐帯が、まるで一本の糸のように、この宙を繋げているのだった。

 彼らの精神は空を媒介とし、巨大な蒼穹の下に繋がっていた。いや、繋がり合う生き物は、彼ら二人のみではなかった。アレッタの炯々たる声に応え、大きく鳴き交わす野生の鷹たちの声が、大空の風音を凌駕するかのように響き渡る。あちこちの岩に声は反射して、その影は巨大な岩盤を横切り、強烈な太陽を浴びている。今や岩肌の色合いは、琥珀色からさらに灼けて夕陽色、糖蜜色へと暮れなずんでゆき、斜陽に朦々と照らされる荒れた地表が、どこか身震いのするほどに強大に、鳥の声を反響させ、岩場の陰に隠れた小動物たちを竦ませた。カメリアは、愛おしげに目を細めた。輝かしい声の洪水が、聴覚を圧し、鮮やかな羽音が鼓膜を震わせ、むきだしの耳を炙った。そして、天地に響き渡るそれらの余韻とともに、ふたたびドリームフライヤーは、一気に時空を超越した。

 一瞬にして、心が鷲掴まれる。魂を虜にするような——白砂を舐めつくしてゆく鮮烈なエメラルドグリーンが、網膜に焼きついて離れない。巨大な夜闇を溶かしたかのように深い海の紺碧は、南太平洋の沖合いに鮮やかな白浪を輝かせながら、破滅的な量の水を、ゆったりと海盆へ退かせてゆく。茫漠たる海の上に樹々を密集させた孤島を見下ろし、海面から数十メートル離れたフライヤーは、吹きあげる烈風の中を緩やかに滑空していた。太古から休みなくその星の表面を煌めかせ続ける細波は、風の吹くたびに自身を砕け散らせてまばゆく、葉緑素の滲み出たような浅瀬には、これほどの距離でも、暗礁の一々が白波の下に沈んでいるのが見える——そして漂うのは、清涼な果実のような、透き通るプルメリアのような、暑い光を吹きはらう、凝縮された海の匂い。激しく潮風にしなる島の椰子の木は、浜辺に幹の影を落としつつ、なおも揺れて、その硬い葉に照り映える光を、ねたり、ねたりと粘らせながら振るっていた。

 かつて、メラネシアンが八千年前にヴダ岬に上陸したという遠洋の伝説では、夜闇に沒した水平線より、星図スターコンパスを脳のうちに記憶しながら、天文と海洋の両方に包まれて世界を渡ったという——その数千年の智慧と伝統を受け継ぎ、見惚れんばかりに艶やかな肉体を持った男らは、声を限りと木造のカヌーを漕ぎ、海の乱反射させるめくるめく波紋を浴びて、鮮やかな生命のパレットとなりつつあった。ただ現在を凌駕しようと、肉体の機微まで相克させ、生きて、裂帛をあげ、太陽の意志に逆らう人間たち。それはさながら、太陽の光の中へ、潮風とともに勇み歩くよう——鼓を叩き、笛を鳴らし、櫂を漕いで放つその覇気は、長い人類史の遠く彼方から渡されてきた血肉を、あの日光の真下へと明らかにする。腹の底からまばゆい飛沫をあげ、半裸の肌には汗の玉が浮き、むせ返るような暑い大気に、彼らの生き様は、燦然と光り輝いていた。果たして、この世のいかなるものが、この人類の栄光を穢せるだろうか? 爽やかな海風は、汗に塗れて弾む胸板の温度を冷まし、気を抜けばどこまでも高い太陽に、膨大な潮の匂いを溶け込ませてゆく。辺りに氾濫する輝く青を浴びるうちに、太陽の国も、常若の国も、白浪の奥底へと呑み込まれてゆき、聞こえてくるのは、人間の声だった。あの愛おしく、力強く、どこまでも限りなく未来を切り開いてゆく、生きた人間たちの声だけだった。

 ドリームフライヤーはそのまま海面を掠めて、大海原をどこまでもさかのぼった。イルカが次々と飛び跳ね、渡り鳥が悠然と羽ばたき、飛魚が鱗を煌めかせて一瞬の潮風と戯れる。宝石を溶かしたような水が波打って、輝き、歪め、反射し、ぬかるみ、崩れ落ち、太陽を揺らし、流れ込み、逆巻き、水飛沫をあげて、気泡を浮かべ、癒着し、また引き揚げられ、飛来し、透きとおり、深い青の熱射で照らし出した。この世じゅうの風の音が躍り狂い、浮遊感とともにフライヤーを持ちあげ、飛翔させた。そうして、眼下も頭上も限りない青に包まれて、どこが空でどこが海なのか、その境目すら分からなくなった。世界のどこにも底はなく、果てしない虚空にぽっかりと浮かんで、掴めるものは何もない。目の前に広がる地球の色——それは海を蒸散させるような光沢を放ちながら、彩度の低い青銅から蒼鉛色に、少しずつ青の諧調を成してゆき、そこから無限の白鳩が飛び立ってゆくように雲が湧き起こる。遙けき日差しは、なおも威厳を振るって、渾身の力で揺さぶられるあの海の波、遭遇のうねりの中で生き抜く銀鱗、風に破れた羽をふぶかせて生き抜く渡り鳥、帆をあげて疾駆する人間の鼓動、死にゆく猛獣の目の温かさ、陽の下に立ちあがる小動物たち、こぼれんばかりに浮かびあがる数々の綿毛の種子を、蒼く濃く目に灼きつく、あの壮大な空の旅路へと誘うだろう。天を呑みほすほどに激しい颶風も、陽射しの中に開かれる虚空の海も、その景色においては一意ではない。何もかもが自由で、彼らを縛るものも、導くものも、何もない。ただ、全世界が生きている——この地で、一斉に生きている。カメリアは、堪えかねたように、讃仰の息を漏らした。鳶色の髪は燃えるように吹き飛ばされ、精緻な髪筋の一本一本までもが、あまねく空に映えた。デイビスの双眸を刺すその精神の眩しさは、地球の大気に果てもなく投げ出され、何もかもを染め抜くように、彼の魂の底に真っ直ぐ射してきたかのように見える。

 本当の意味で自由のさなかを飛んでいるのは、初めてだと思った。気の遠くなるほどに膨大なものに触れて、照りつける太陽とも、揺れ動く風とも、一体化する。見えるものに、同じ景色など、何ひとつない。どんな一瞬にも、そこには数限りない生命たちの饗宴と、膨満する時間の物語があった。そのすべてに、各々の意義が輝いていた。

 人が、生きている。
 命が生きている。

 生命の生きる手触りが、身ぬちを駆け巡る。フライヤーを打ち震わせる巨万の風は、まさしく未来へと邁進するのに必要な速度。その烈風に背中を押されて、この世は一度も立ち止まることなく、崩れ落ちるようにその姿を変じてゆく。そうして動き続ける先端で、世界は神々しい呼吸を帯びて鳴き交わし、土を踏み、影を踏み、光を踏んで、ひとつらなりの次元を浴びていた。かつてここを生きた者も、これからここに生きる者も、すべては存在の時を呑みくだし、過酷な営み一色に染め抜かれてゆくだろう。そこは、世界の絶頂。世界の頂点。そのすべてが一斉に昂り、一同に疾駆し、目が眩みそうになる。頭のてっぺんから爪の先まで太陽がみなぎり、とても目を開けていられない——しかし、瞑目してしまうにはあまりに見るべきものが溢れ返り、永遠に走り続ける。そして、宇宙の果てから渾身の力で昇ってくるこの生命たちの薄明るさは、幾度踏み躙られても、例え宇宙が弾けて死んでしまったとしても、掻き消えないように思われた。

 彼女が何を夢見てきたのか。その意味が、ようやく分かった気がする。
 空を飛ぶとは、地を離れ、永遠に俗世を捨て去ることではなかった。彼女にとって空とは、この世界そのものと同義であったからだ。

 世界を見に行きたい。
 まばゆい真実に触れ、それを愛したい。
 自分が生まれてきたこの場所は、それをするに足る価値に満ち溢れているのだと。

 そうした、この世に対する莫大な信頼が、彼女の生きがいとなって、血潮とともに駆けめぐっていた。多くの人間は、人生を歩き続ける過程で、世界に対するこの荒唐無稽ともいえる意志を見失ってしまう。しかし彼女は、その幻影を抱きながら歳月を乗り越え、この日まで歩み続けた。彼女にとって、時にその信頼は、苦しみを生み出す源泉だったのかもしれない。けれども、強烈な陽射しに照らし抜かれている今、彼にとっては、その苦しみは、神に愛されたものとしか思われなかった。

 綺麗だ。
 彼女は、綺麗なのだと、そう思った。
 目を奪うようなその清冽さは、生きてゆく上で、誰にも穢されたことはなかった。荒れ狂う風に流れる髪は、豁然と解き放たれて、その生命の象徴のように光り輝いていた。

 無防備だからこそ奥に秘めているもの、柔らかくて壊れてしまいそうなものを握り締めたまま、彼女は無礙に、光の中で微笑っていた。無邪気な笑顔、何の陰りもない、軽やかな笑い声。彼女の瞳は、その消え入りそうな儚さからも脱して、ただ前に前にと、その命の証跡を残すように大空を仰いでいる。そして、その眼に漲る生命の輝き。強靭な、生きる喜びに満ちた快活な光。目を見張るばかりの驚嘆、あまねく地のざわめきに敬服しようとする、激しいまでの人類愛の精神。彼女がいれば、世界は美しいと、生命も、人間も、生きることは素晴らしいのだと、そんな希望に満ちた思いが湧き起こる。今はただ、それを追いかけるために、彼女を見つめていたかった。すべての風の終着点には、彼女の姿があった。彼女と同じものを見たい——どこまででもいい、ともに見に行きたい。吸い込まれるようにざわめくこの風の流れに身をゆだねて、何もかも忘れ、彼女と世界中の旅路に出かけられれば、どれほど人生は光り輝くだろうか。

 彼の緑の双眸は、鮮やかに透き通ったその瞳孔の奥底にまで、生きているカメリアの面影をいっぱいに映し込んだ。空を見ている彼女の横顔が、視界を掻き乱すように身に迫り、ほんの僅かな笑い声ひとつで、漣のようにみずみずしく思いが揺れる。その微笑みは、太陽の光を恩寵として、世界のすべてを眩ませるほど綺麗に咲き誇っていた。そして彼の絶え間ない心の動きは、波紋のように輪を描いて、彼女へと向かって収束してゆく。彼女は、ひたむきにそそがれる彼の眼差しには気づいていないようだった。気づかなければいい、とデイビスは思った。このままずっと、彼女の笑っている顔だけを見ていたくて、何も語りたくなくて、時間など、永遠になくなってしまえばいいと思った。そしてふいに、ああ、自分は、吹き荒れる風のせいで吸い寄せられているのではないのだ——と、ずっと騒がしかった肉体の意味を悟る。深い深い眠りを引きちぎり、ひとめそれを見るために揺り起こされるかのように、その感覚は彼の情動をざわつかせ、二度と後戻りできない事実を教えていたのだ。

 ただ、引き寄せられている。彼女のすべてに。
 全身全霊を賭けて、彼女の魂に魅了され、その一挙一動に心を奪われているのだと。

 自分の肉体を支配する本当の意味に気づいた瞬間、デイビスは激しいまばゆさに打ちひしがれ、遅れて、太陽のように鋭い痛みが彼の心臓をつらぬいた。腫れあがった動悸が肥大し、眩暈のしてくるようなうちから、あまりにも短く、琴線に触れる言葉が、胸いっぱいに湧き起こってきた。

 ずっと前から、この感覚を知っていた気がする。
 頭の先まで感情に溺れながら、今に至るまで少しも気づいていなかった気がする。いや、気づきたくなどなかった。洒落にすらならない、こんな想いなど。

 カメリアは、それまで見つめていた蒼穹から視線を外し、彼の方を振り返った。

「……どうしたの?」

 時が止まったように動かない、いや、動くことのできないデイビス。その緑を閉じ込めた瞳が、何か果てしない震撼を掴んだまま、自分を見ていた。カメリアの鳶色の瞳もまた、その緑の瞳を真正面から見つめた。鏡と鏡が映し合うかのような——魂の底まで見透すかのような真に迫る感覚に、少しも目を動かせなかった。

 彼は何も言わなかった。ただその緑の瞳の輝きをわななかせ、狂おしく何かを訴えかける眼差しを躍らせている。

「デイ、ビ——……」

 名を呼ばれ終わるよりも先に、デイビスは身を乗り出していた。固定された車輪の上に立っていた彼女の腰に腕を回し、抱き留めるようにして、同時に後ろになだれ込む。一瞬、宙に放り出されるような墜落感が背筋を押し包み、カメリアの頭は真っ白に凍りついたが、それでも、軀の片側にはしっかりとフライヤーの背凭れが密着していて、ただ座席の上に横ざまに倒れ込んだだけなのだと悟る。そうして反転した視界の真上から、微かな衣擦れと革の軋む音を伴って、太陽の光を遮る彼の影が伸びていた。その腕が、彼女を転落から防いで、そこに引き倒したのだろう。けれども、その危険に曝されたこともまた、彼の二本の腕に依拠していた。

 先ほどの切迫感で、いまだとくとくと早鐘を打っている鼓動は収まらなかったが、それでも、見つめ続ける目と目は、ありえない近さで、互いを結び合わせたままだった。今はほとんど距離の無い眼前で、瞳に浮かぶ熱情の機微が、眼差しのうちから押し寄せてくる。その間合いに心臓が逸り、彼女は覚えず身を引こうとしたが、肩に添えられた手が、静かにそれを制した。鮮烈な緑の双眸は、睫毛を伏せて、憑かれたように彼女の頬を見ていた。それは肌というよりも、むしろその内側の何かを見つめ、ただまんじりと、自らの網膜に映り込むまぶしさに、辛うじて堪えているようだった。やがて高い鼻梁を擁した顔が、僅かばかり傾けられ、それを皮切りとして、緑の眼差しが細められて意思を手放す。ふわり、と彼のシャツの中に閉じ込められると、微かな汗の匂いがした。吹きかかる吐息が、ほんの少し互いの頬をくすぐったかと思うと、音もなくそれも交じり合って。


 融け合うように、唇が重なった。










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