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TDL二次創作「A twinkle of Mouse」幕間劇:生きる者、死ぬ者

『おい、スコット。これ全部、俺が食っていいのか!?』

『フフフ、お前のために、一流の食材を用意したんだ。思う存分食ってくれ』

 爽やかな風の吹き抜ける草原に、白いテーブルクロスだけが、妙に鮮やかにはためく。不思議な響きを立ててぼうぼうと草は波打ち、彼らの髪も掬いあげては、柔らかな動きで散らしてゆく。草原の只中の、大きなテーブルの前に腰掛けたデイビスの隣で、なぜかコックコートに身を包んだスコットが、湯気を立てて輝く、大量の皿を示した。

『デイビス、私は滅多に褒め言葉を口にしないが、お前の才能には脱帽せざるを得ない。お前は世界最高の、いや、人類史上最高のパイロットだよ』

『ヒョーーー! やっぱりスコットは見る目あるぜ! いっただっきまーす!』

 戦闘民族のようにナイフとフォークをガチャつかせ、デイビスは一気に、目の前のものを口に詰め込みにかかった。オムライスもステーキもハンバーグも、どれも美味い。それにしてもスコット、パイロット業務で忙しいだろうに、いつのまに料理なんて勉強したのかなあ。もぐもぐと思案に耽りながら、隣の人物に目をやると、彼は、みるみるうちに平らげてゆくデイビスの顔を見たまま、どこか寂しそうに、口角を緩ませているのだった。

『スコット。あんたは食わねえの?』

『ああ。いいんだ』

『えー、一緒に食えよ! せっかく作ったんだろ? あんたの料理だぜ!』

 しかしスコットは、困ったように眉尻を下げて、

『お腹、空いていないんだ』

と告げた。それきり、彼の口はつぐまれ、何も言わなかった。

 透き通るようなその微笑を見つめているうちに、ふと、そばにいる人間を差し置いて食べ物に飛びついている自分が、酷く醜いような気がした。しかしスコットは、そうして美味そうに食べてくれることを望んでいた。そして、その望みが確かに、自分の行動ひとつに預けられているのを知っていた。

 スコットは、太陽を見あげていた。溢れんばかりの光の降りそそぐ中で、ゆっくりと波打つ草原を歩き、全身で、風と戯れるようである。時々、どどう、どどう、という轟音が、潮の満ち引きのように渡ってゆくたび、見たこともない遠くへと連れ去られてしまいそうに思えた。草原は広かった。果てしもなかった。まるで、ポート・ディスカバリーの周囲に広がる海のようだ。どうすれば、この草々を超えてゆけるのだろう。風は何も答えず、ただ、はたはたと、彼らの衣服の裾を靡かせてゆくだけだ。

『あれ? お、おい。スコット!』

 デイビスは、いつのまにか遠ざかりつつある彼の背中に向かって、叫んだ。彼は振り返ると、静かな暖かさを込めた声で呟く。その声すら、風のうちに切れ切れになり、まるで死者からの言葉のように聞こえた。

『どうしたんだ、デイビス?』

『俺も行く!』

 それが果たして、どの行き先を示しているのかは分からなかった。しかしデイビスは、遠ざかりつつあるその後ろ姿を手繰り寄せるように、必死に言葉を繰り返した。

『俺も、あんたと一緒に行くんだ!』

 スコットは何も言わなかった。胸をつらぬくような轟音が、太陽を満杯に受けて、真っ白に輝く葉の数々を持ちあげていった。今は晴れ渡っている天気も、ひとたび吹き荒れたら、ちりぢりに吹き乱れてしまうかもしれなかった。そんな儚さの中で、しかし太陽だけは、永遠に白かった。

 風が鳴る。今は、その茫漠とした走りを受け流してゆく、若々しい葉の一枚一枚のしなりすら、蒼穹の底に響き渡るようだ。デイビスとスコットのあいだの不可解な距離は、代わり映えのない景色のせいで、どれほど離れているのかの判断もつかなかった。ひょっとしたら、肩を叩けるほど近いのかもしれないし、二度と話しあえないほど遠いのかもしれない。そうして、見る者の心持ちによって伸縮する距離は、けれども、この静寂のあいだは、デイビスの眼の中にしか映らないかのようだった。

 長い沈黙を得て、ほとんど諦めかけていたデイビスの耳に、聞き慣れたバリトンが響いてきた。

『———そうだな。なら、一緒に行こうか』

 ぱっと、デイビスの胸の中が明るくなった。その嬉しさのまま、彼は何度も頷き、抑え切れない笑みをこぼす。

『おい、何をしている? 早く来いよ』

『ああ!』

『ぐずぐずするなよ。足引っ張るんだったら、置いてゆくぞ』

『分かってるよ! 偉そうに言うなって!』

『まったく、いつでもどこでも、ギャーギャーとうるさい奴だな。草に足を取られて、すっ転ぶんじゃないぞ』

 走る。
 草を靡かせる地面を蹴り飛ばし、さらさら、さらさらと絶え間なく擦れあう音を超えて、目の前の人影の方へ。ああ、いつかどこかで、こんな夢を見た気がする。あれは遠い昔だったか、つい最近のことだったかも分からない。けれども。俺はあいつの背中を追いかけて、ようやく、長い長いミッションの完了オーバーを告げたんだ。生還した俺を見て、あいつはたった一条、光る涙を伝わせていた。あの時、真っ白な中で脳裏に刻みつけた光景が、もう一度、この草原の上で繰り返されるかのようだ。ずっとずっと、繰り返されることなのかもしれない。人生のうちで、何度もやってくることなのかもしれない。俺とこいつが、この世に生きている限り、何度でも空と海の間で、響き渡るように。

『とうちゃくー! はー、汗かいた』

 スコットの背中を叩きながら、ぱたぱたと手で煽いで顔に風を送っていると、妙な既視感に見舞われた。これもまた、誰かのしぐさを真似ているかのようだった。いったい、誰だったろう? ただ、あの日も、眩しい太陽が射していた気がする。灼けつくような、あの陽射し。そう、そして実際に、あの太陽の下にいたすべての生き物の存在が、灼きつけられたのだ。果たしてそれが、何に刻印されたのかは、分からなかったけれど。

『なあ、スコット。ストームライダーって、嵐がないと飛べないだろ? でも俺、もっともっと改良して、空の世界を冒険する飛行機にしたい。頭の中で考えているプランが、たくさんあるんだ。
 飛行機は、無限の可能性を秘めてる。もっとロマンを追求して、もっと素晴らしい体験になって……世界中に生きている人たちを、救えたらいいよな。俺たちなら、それができるはずなんだ』

『ああ』

『そうしたら俺たち、歴史に残るぜ。ポート・ディスカバリーは素晴らしい街で、そこで生きていたキャプテン・デイビスとキャプテン・スコットは、伝説の相棒だったんだって、俺たちのことが物語になる。ずっとずっとそうやって、俺たちの冒険は、続いてゆくんだ』

 無限の草原を歩きながら、隣にいる彼へ、デイビスは休みなく話し続けた。語らなければ、堰き止められずに、溢れだしてしまいそうだった。言葉とは別の形で、とめどもなく、ぐちゃぐちゃにこぼれだしてしまいそうだった。

 何か自分は、信じがたい哀しいことと、押しひしがれるほどに偉大なことを、同時に経験した気がする。そして、それを目撃した以上、それに向かって歩き続けるしかないのだ。今なおも足が揺らぐほどに深い重みを、眩ゆさを、空虚のように憶えている。

『もー、ちゃんと聞いてんのかよー、スコット! 俺たちの将来に関する話だぜ?』

『聞いてる、聞いてる。よくもまあ、そんなにペラペラと口が動くものだと思ってな』

『まるっきり聞いてねえじゃねーか、ふざけんなよ!』

『伝説になるって話だろ? お前って本当、虚栄心が強い男だよな』

『そんなんじゃねーって! だって、俺はただ——』

 その続きを言いかけて、デイビスは慌てて口をつぐむ。それを言ったら、きっぱりと拒絶される予感がして。



 ———だって、そうでもしねえと俺たち、ただの仕事仲間で終わっちまうだろ。


 

 それは誰にも言えずに、ずっと頭の中で考えてきたこと。そしておそらく、彼らの生き続けるこの世界が、何の答えも出さぬまま、今日まで基盤を作ってこなかったことだ。

 親子なら、兄弟なら、交わしてきた年月の深さに浸ればいい。
 恋人同士なら、将来を誓いあって。
 友人なら、くだらないことで笑い、時に叱責して。
 師弟なら、その魂を継承して、次世代へ、さらにその次へと伝えゆくものだ。


 なら、俺とスコットは?
 何か確かなものを約束できるのか?


 それを聞く勇気はない。過剰な意味を見出されて忌避されたくないし、何をくだらないことを、と嘲笑されたくもない。だからそれは、自分の中にだけ留めるべき問いだと、分かっていた。

 けれども、証が欲しかった。何か後世にいたるまで、消えることのない証が。それはおそらく、いずれどちらかが先に死ぬ、ということが、分かりきっているからだ。そうして死んだ時、ポート・ディスカバリーで築き続けてきた、俺たちの確かな日々は残らない。この世で呼吸するたびに、いよいよその事実が、切実に胸に迫ってくるからだ。

『どうした。なぜそんな顔をしている?』

 押し黙るデイビスの顔を見下ろし、スコットは首を傾げた。デイビスは首を振って、わざと皮肉げに口角を持ちあげた。

『べっつにー? 俺はただビッグになって、歴史に名を残したいと思っただけだからさ』

『ほほー。何とも高尚な志をお持ちのことで』

『てんめー、俺を挑発してんのかよ!』

『ビッグな夢より何より、まずはその喧嘩っ早さを直さねばな。まったく、最初に会った時より少しは落ち着いたと思ったが、所詮は表面上だけのことか』

『そー言うあんたは、何かご大層な夢でも持ってるっていうのかよ、スコット!?』

『あるにはあるが、お前には言わない』

『おいっ! 俺に言わなくてどーすんだよ!』

『ベタベタベタベタと、鬱陶しい奴だな。一人でトイレも満足に行けない餓鬼かよ、お前は』

 風のうねり、それは永遠に続く。この広い草原をいっぱいに満たし、そして去ってゆく。

 スコットの真っ白なシャツに覆われた背中だけを見続けていたデイビスは、ふと、眼差しを地平線の先へと向けた。草原を渡る風が、沁みるような光の縞を走らせている。手を伸ばすと、太陽さえ掴めそうなほど、遠くまで澄んだ蒼穹だった。雲ひとつないのが、なぜだか、泣きだしそうに寂しく思えた。


『———俺はあんたの家族じゃないし、あんたの一番気の合う奴にも、人生の最大の理解者にもなれないのかもしれない。

 でも、何かを一緒に成し遂げて———

 他のどんな奴らにもできない形で、ともに名を残すことだって、できるよな』


 不意に声色の変わったデイビスの言葉を合図に、しばらく、沈黙が落ちる。風波が吹く中、胸の塞がったようにたたずみ続けるデイビスを、どこか憐れむようにスコットが見つめていた。

『俺たちは、表舞台からいなくなったって、誰かの胸に残るんだ。いなくなった後でも、ここにいる誰かを、勇気づけることができる。

 例え、もう会えなくなったって。

 生きててよかったって——人に、夢を見させることができるんだよ』

 風のように、騒がしく。
 狂おしく。
 思いを、説く。その手の中には、使い古した無線機が握られている。



『別れは、おしまいなんじゃない。始まりの場所にすることだって、できるから』


 その言葉を、本当のことにするしかなかった。
 そうでなくては、生きてゆけない。太陽のようにこの世に降りそそいでくる別れが、生きている身には、あまりにも哀しすぎて。



 ———あなたが夢を叶える日を、信じてる。あなたならきっと、その遠い場所へと辿り着けるって、分かっているから。ずっとずっと、信じているわ。



 今もまだ胸に疼く、自分を未来へと送りだそうとする言葉は、轟々と唸る颶風の中に、響き渡っては消えてゆく。空は、もはや何色だったのだろう。恐ろしい数の色が融合して、溢れる万物の息を吸い取ってもなお、尽きようとはしなかった。

 スコットは、吹き荒れる風音に消えてしまいそうなほどに静かに、けれども確かにそこに生きて、デイビスのそばに近寄ってきた。眩しい陽射しの溢れ返る、膨大一色の空を見つめていた。彼の襟も、袖も、裾もまた、風に揉まれて、無限の中で大きくはためいていた。そしてようやく、彼の口が動いた。

『ああ、そうだ。この先何があったって、それは俺たちの、新たな始まりに過ぎない』

 そう答える人間の横顔を、見る。自分の分身であり、しかも、彼以外の何者も、彼にはなれないかのように。空からの光が、彼の眼を彩る。

『けして、終わらない。俺たちがいなくなっても、ストームライダーの物語は、消えない。ポート・ディスカバリーに語り継がれる命の中で、永遠に冒険し続ける。この世に、人が生きている限り』

 そう———

 それがきっと、誓いの代わりだ。
 キャプテン・スコットから、キャプテン・デイビスへの。
 たった一人の相棒から、もう一人の相棒への。

 それを聞いて、ようやくデイビスも、安堵した微笑みを浮かべる。生まれて初めて人の死を経験し、毎夜考え続けて、芽生えさせた光。例え拙く、微かなものであろうとも、ようやく足掻いて手に入れたその光を、この男も分かちあってくれることが、ただ、嬉しかった。





 真っ白な光。

 ドクター・ファシリエの呪術の続きだろうか? いや、彼はもう、ブードゥーの神によって、墓石へと封印されたはずだ。ならばなぜ、今も彼の魔術が見せた、あの光の中にいるのだろう。まるで解けない呪いのように、今も願いの中をさまようかのように、白だけが、自分を塗りつぶしてゆく。

『パパ、おかえりー! 今ね、みんなと、ストームライダーごっこをやってたの!』

 ああ、でも確かに、これはドクター・ファシリエのかけた魔術ではない。なぜなら、映し出すのは、欲望ではないからだ。映しているのは、心の鏡だ。クレアが走ってきて、片脚に縋りついてくる。そこまでは同じなのに、娘を誰よりも愛しているのに、この子はまもなく、自分の中の最も深い部分に触れてくると、分かっている。

『ねえ。どうしてマリーナの人たちは、デイビスのことばかりしか、お話ししないの?』

『……それはな、』

『クレアは、パパが一番好き! ストームライダーに乗ってるパパって、一番、一番、頑張っているのに』

 柔らかな巻き毛を揺らして、クレアは問う。大人の自分でさえも、永遠に、理解しがたいことを。


『どうして、ポート・ディスカバリーの人たちは、キャプテン・スコットの名前を、誰も言わないの?』


 こんなにも愛している娘に対して、今は、声をかけられない。

 しがみつくクレアの背を撫でていると、遠くから、人々のざわめきが聞こえてきた。誘うように。導かれるように。

『パパ? どこに行くの?』

 黄銅色に陽を反射する合金の柱も、その合間に張り巡らされた薄青いガラスも、さらにその中に映り込む、金属製の椰子の木も。


『パパ!』


 呑み込んでゆく。
 あの街へ。

 マリーナを包み込む、絶え間ない潮騒。クレーンを巻きあげてゆく金属音、コンテナを輸送するジョイント音、研究員用の冷静なアナウンス、髪を逆立たせる激しい発電音、潜水艇を引きあげて滴る海水、そして、スピーカーから流れる、勇壮な交響曲——その全てが、見違える活気を湛え、全身を圧倒してくる。まるでこの世の全ての苦しみが、太陽光線の中に消え去ってしまったかの如く。

 何も変わってはいないポート・ディスカバリーなのに、自分の居場所はここではないと、理解していた。それでも、どうやってここから脱出したらいいのかも分からない。まるで幽霊のように、因縁の地が心に絡みついて、離れられない。

 ならばこの思いは、未練として片付けられるものなのだろうか。 
 どうして、誰も記憶しないのだろうか。
 どうして、誰も顧みてはくれないのだろうか。

 あまりに多くの人々が、霞む陽の光を浴びて生き生きと笑っているのに。忘れられた死者のように、この科学都市に佇んでいるのは、ひとりだけ。少しずつ、少しずつ、ポート・ディスカバリーは自分を置き去りにして、明日の方向へと進んでいってしまう。

『デイビス! キャプテン・デイビスはどこですか!』

 せかせかとハイヒールを響かせ、Jデッキを歩いてゆく彼女は、まるで透明人間であるかのようにスコットの内側を通り過ぎ、さっさと前へ詰め寄っていった。

『いるのは分かっているのですよ! デイビス!』

『ここだぜ、ベース』

 誘導灯を支えるコンクリート土台の向こうから、ひょっこりと顔を覗かせる。スコットは胸を衝かれた。何ヶ月ぶりだろう? 美形なのに、どこか憎たらしくも、懐かしくも感じられる顔。またCWCを抜け出してサボっていたのだろう、さらさらと潮風に流れてゆく髪には、少しばかり、寝癖がついていた。

『あなたという人は、またいい加減な始末書を提出して!』

『おいおい、そんなかったるいことでわざわざ呼びだすなよな〜。ホラ、俺とベースの関係、まーたみんなに噂されちまうぞ?』

『馬鹿なこと言わないで、さっさと書き直して頂戴! あなたはCWCを背負って立つエース・パイロットでしょ!』

『へいへーい。まーったく、冗談が通じないお方だなあ、ベースは』

 それまで咥えていた煙草を左手で挟み込むと、ぐしゃぐしゃと塗り潰し、その下に、見慣れた汚い字で詳細を書き足していった。通り過ぎてゆく人々が、ちらちらとデイビスに興奮の眼差しを送る。しかしまるでそれに気づいていないのか、彼は前髪を掻きあげながら、くどくどと愚痴を吐き続ける。

『そんなに真面目な奴がほしいなら、スコットを呼び戻せばいいじゃねーか。どおーせストームライダーのパイロットなんて、万年、人が足りていないんだし〜』

『あの人の名前は出さないって、約束したでしょ』

『俺はあんたがたみたいに、かつての同僚を、都合よく記憶から掻き消そうとするのはごめんだからな』

『済んだことをグチグチ言うのはやめなさい、他のメンバーの士気に関わるのですよ。いいですか、もしもあなたのパートナーが聞いていたら、どんなに気分を害するか——』

『今さら、善人面なんかしてるんじゃねえよ! 俺の相棒だった奴をここから排除したのは、あんたたちだろうが!』

 ぐしゃり、と潰された書類の上で張り詰める沈黙は、まるで、乾ききった紙が一枚、二人の合間で灼き焦がれてゆくかのようだった。沈黙は熱く、火のついた穂先から、静かに、細い煙が滞留し、渦巻きながら立ちのぼってゆく。風にばら撒かれてゆく灰塵が数粒、自身の服に降りかかってきているのにも、デイビスは気づかない。

『……分かるでしょう、デイビス。子どもみたいなことを言わないで』

『嫌だ』

『ここは組織なのよ。あなた一人のわがままを、通せるはずがないでしょう』

『目が節穴なのは、俺以外の連中だ。あいつはまだパイロットを続ける意思があった。なのにあんたたちが、よってたかって、あいつの将来を潰したんだ!』

『精神的にも能力的にも、どうやってあれ以上を望めるというの! デイビス、下手な希望を託そうとしないで、意志だけではどうやったって無理なことが、人間にはあるの。あの人に一番残酷なことを望んでいるのは、デイビス、あなたの方なのよ!』

『俺は認めない! こんなの正義じゃない! スコットはお前らのために身を粉にしてきたのに、お前ら民衆がそれを裏切った! あいつはもう飛ばない——飛ぶことなんてできない! パイロットの精神を潰して、何が未来のマリーナなんだ!? これが正義だというのなら、ポート・ディスカバリーなんて大っ嫌いだ!』

 なぜ。
 なぜ、彼らの元を去ったというのに、いまだに禍根の種となり続けねばならないのだろう。
 益のあるものは何ひとつ残せず、過去の亡霊に執着する者も、掻き消そうとする者も、そのどちらもが、もはやこの心を見ようともしない。

『お願い、分かってちょうだい。……ポート・ディスカバリーは、年々、どんどんと大きくなってる。感情論だけじゃ生きてゆけない。ここにいる何百万という市民の生活を支えられるのは、あなただけ』

 傷つき続けるというのは、自分には、過ぎた真似なのだろう。すでに手をすり抜けてしまった場所に、傲慢な罪悪感を抱くよりは、いっそのこと、何もかも麻痺して、何も感じなくなってしまった方がいい。


『キャプテン・スコットは、もう、終わった人間ですよ』



 夢だと分かっているのに、その言葉を耳にすると、胸の中ががらんどうになったように感じた。気がつくといつも、世間から切り離されて、膨大な空無に呑み込まれてゆく思いがする。立ちすくんだまま、身動きが取れずにいると、やがてポート・ディスカバリーの音楽やざわめきが、潮騒の如く広がってくる。たゆまぬ進歩の気配が聞こえてくるのにしたがって、行き交う人々が踏む彼の影は、薄く、消え入りそうに淡くなってゆく。笑顔の群衆の先には、黄金のドームを戴き、太陽光線を反射しているかつて誇りとしていた自分の職場、CWCがある。




 隣のベッドで、デイビスが寝返りを打った。スコットは起きあがると、窓の向こうの月を見た。月明かりを受けて、左手に嵌めた指輪が光った。世界はまだ眠っていた。







一覧→https://note.com/gegegeno6/m/m8c160062f22e


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