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語学と言語学

たまには専門分野の話をしよう。私は大学にいると語学教師として扱われることが多く、特に一年生の学生にとって見れば完全にただの中国語教師だ。しかし、付き合いの長い学生なら「こいつ、本当に中国語教師なのか?」とうすうす気づきはじめているはずだ。だって、口を開けばベトナム語の話しかしないし(笑)

私自身はどう考えているかというと、自分のことを言語学者だと思っている。だが、語学自体を自分のアイデンティティーから切り離すこともできないと感じていて、その点では多くの同業者と少し違うだろう。言語学者はややもすると「語学と言語学が同一視されることを嫌がる傾向」がある気がするが、私の場合は逆に「語学が前提にならないと言語学ができないタイプ」である。今回はそんな「語学と言語学」について私自身の考えをまとめていきたい。

語学と言語学の違い

まず、語学と言語学が国語辞典でどのように説明されているのかを確認したい。手元の電子辞書に『デジタル大辞泉』が入っていたので、それぞれ見てみよう。

語学:1. 言語を対象とする学問。言語学。2. 外国語の学習。また、その学科。外国語を使う能力についてもいう。
言語学:人間の言語の構造・変遷・系統・分布・相互関係などを研究する科学。(以下は下位分野を列挙するだけなので省略)

「語学」は言語学を指す意味でも使われているが、一般的には二番目の意味で使われることの方が多いだろう。つまり、外国語(の学習)を前提にする。一方「言語学」の項目には「人間の言語」と書いてあるのが特に目を引く。特定の言語ではなく「言語そのものがどうなっているのか」を探求する学問であることが大まかに推察される。

とは言っても、周りの言語学者を見渡してみると「特定の言語」ではなく「言語そのもの」を研究している人はそんなに多くない。むしろ国内でも国外でも一番多いのは「自分の母語を研究対象とする人たち」例えば、私の主戦場である中国語研究の国際学会では研究者の八割以上が母語話者だ。日本の言語学でも「母語である日本語を研究対象とする人」の数の方が、英語や中国語、ドイツ語などをそれぞれ研究する人よりも明らかに多いだろう。

母語を研究対象にする人にとっては、「外国語(の学習)を前提とする語学と言語学を同一視される」のは確かに迷惑だろう。外国語のことを考えなくても自分の研究は完結できるはずだからだ。

「語学を前提とする言語学」という研究スタイル

一方、私は外国語を研究対象にすることは可能だが、母語を研究対象として考えたことすらないタイプだ。これは言語学に関わるまでの経緯が大いに関係している。大学に入ってから第二外国語で中国語を始めたことは今までに何回も書いたのだが、実はその当時は言語学とは縁もゆかりもない歴史学科(日本史)の学生だった。しかし、大学でハマった中国語とアルバイトに明け暮れた結果、漢文訓読もくずし字読解もまともに勉強せず単位を落としてしまい、もはや八方塞がりになりつつあった残念な落第生だった。それでも幸運なことに「まるで科挙みたいな鬼試験」であった旧HSK高級を合格できるくらいの中国語力はあったので、それをうまく活用して言語学ができる大学に転がり込んで今につながっている。

このような経緯があるため、私の研究の発想法は「語学を通じた疑問を言語学の研究に発展させるルート」しか無い。母語である日本語は思考を組み立てる重要な道具ではあるのだが、それ自体を内省したり分析対象とする意識は昔から全くなかった。日本語を研究する人たちの中には小さい頃から国語辞典が好きだったり国語の文法に興味があったりする人が多いとはよく聞くが、私の場合はむしろ小さい頃から国語や国語辞典には大して興味も疑問も湧かなかったし、むしろ社会科や歴史の方が好きだった。不思議なことに、私の周囲の外国語を研究する先生方には、私と同様に最初は歴史学を専攻・勉強していた人が結構多い。もしかしたら「歴史学→語学→言語学ルート」は「外国語研究の隠れたメジャールート」なのかもしれない。

非母語話者が言語研究で生き残るには

ということで、繰り返しになるが私の主戦場は中国語研究であり、特に国際学会に出ると研究者の八〜九割が母語話者で埋め尽くされる。中国語研究の世界はとにかく層が厚く、かなりマイナーな方言でもちゃんと母語話者の研究者がいるのがすごい。この完全アウェーな状況の中でも、私たち外国人かつ非母語話者の研究者は「母語話者の研究者たちにも認められる研究」をしないと存在意義がない。しかし、ここを打開するのは全く簡単ではない。

言語の研究を組み立てる上で、まず当てにするのは語感や内省である。「この言語でこの文は言えるのか?言えないのか?」や「この母音とあの母音は同じか?違うか?」を判断する感覚や能力のことだが、非母語話者はこの語感が完全には身につかないし、母語話者からはあまり信頼されない。なので、不完全な語感に頼って「この例文は言えると思います!」と主張しても、母語話者に「これは言えないだろう」と指摘されたら絶対に勝ち目がない。語感や内省に依存するだけだと、外国語の研究は非常に苦しいものになる。

それでも、母語話者の語感に負けずに自らの主張を組み立てていく方法はいくつかある。私の場合、院生時代から頼ってきたのは音声学の実験的手法である。口(正確には調音器官)から発せられる音声の物理的特性を音響的に分析し、そこから観察される傾向性を考察すれば「客観的な実験データ」を根拠にして自分の主張を立ち上げることができる。このようなデータは音声事実にもとづいて作られているため、母語話者であっても「自分の語感ではこれは間違いだ!」と指摘するだけでは有効に反駁できず、「間違っていることを示した別の実験データ」が必要になる。今ではこのような実験的手法は完全に普及しており、特に音声研究の分野では母語話者の研究者であっても実験データを利用するのが当たり前になった。

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音響分析を利用すると録音から得たデータにもとづいて研究を組み立てることが可能となる。語感だけに依存せずに研究が成立する点では非母語話者にもチャンスが多い領域の一つではあるが、コロナ禍に入ってからは「対面で録音データが取りにくい」という新たな弱点も出てきた。

ただ私自身は、言語に対する主観的判断を排除した実験データに少しずつ飽きが出始めている。もう少し主観的な判断に立ち返って「母語話者も気づかないような語感」を利用することができないかなと模索している。「そんな語感があるのかいな?」と同業者の人たちは怪しむかもしれないが、通時的な観点や対照的な観点も組み入れると「現代の母語話者には見えない問題」が見えてくることがある。そのような「母語話者とは次元の異なる語感」を養うためにも、色々な語学を延々と続けている。