吉田知子

【短篇小説千本ノック10】融解する境界—―吉田知子「恩珠」

 これまで読んだなかで、いちばん怖い小説を教えてください。
 こんな質問をされたことがある。
 怖い小説、なかなか難しい質問だ……とは思わなかった。なんとなれば、私は比較的、というより明らかに怖がりの範疇に入る性質の持ち主であり、怖い、と思ったモノ・コトは、この灰色の脳細胞に深く刻み込まれている。
 試みに、これまで読んだ怖い小説を列挙してみよう。
 内田百閒「青炎抄」、半村良「雀谷」、筒井康隆「走る取的」、中島らも「はなびえ」、アントン・チェーホフ「ねむい」、シャーロット・パーキンズ・ギルマン「黄色い壁紙」、ガブリエル・ガルシア=マルケス「電話をかけに来ただけなの」、フリオ・コルタサル「夜、あおむけにされて」、レイ・ヴクサヴィッチ「ささやき」……等々、どれも、ほんとうに怖い。いずれこの【千本ノック】で扱いたい傑作ばかりだ。

 錚々たる顔ぶれが並ぶなか、現代日本の作家で、怖い小説を書かせたら随一と自信を持って言えるのが、吉田知子だ。84歳の高齢にかかわらず、いまでもコンスタントに作品を発表し、同人誌『バル』を主宰する吉田知子の作品に触れたい方は、景文館書店より刊行されている『吉田知子選集Ⅰ~Ⅲ』をまず手に取るとよい。岸本佐知子や川上弘美が(憚りながら私も!)偏愛する作家の真髄が味わえる。未読の方は必ずや、こんなすごい作家がいたのか、と驚くにちがいない。
 ここでは吉田知子の作品中、私が勝手に最恐だと思っている短篇「恩珠」(短篇集『箱の夫』所収)を読んでいきたい。以下、冒頭部分を引用する。

 表で誰かが「おくさん、おくさん」と呼んでいる。女の声だ。声は裏口へ廻った。どうして呼び鈴を鳴らさないのだろう。押しつけがましい無遠慮な声。アクセントがおかしいのも不快だった。オクサ、と低く、最後のンを高く伸ばす。 身構えて玄関の戸を開け、「はい」といった。背の低い色の黒い女がゆっくり歩いてきた。見たことがある顔だが、誰なのかわからない。 きたよ、わたし。(吉田知子「恩珠」以下太字部分は本作の引用)

 このように、吉田知子の小説では、他者による外部から内部への闖入が重要なモチーフとなる。同じ『箱の夫』に収められた「母の友達」「泳ぐ箪笥」「水曜日」、あるいは傑作「お供え」(短篇集『お供え』所収)など、いずれも招かれざる客が内部の秩序を攪乱する様子を描いているが、家というプライベート空間に土足で入り込む他者の無気味さを描くとき、吉田知子の筆は実に活き活きとしている。とてもいやな感じなのだ。
 さて、この女はいったい何者なのか。語り手は「必死で思い出そうと」する。「物売りではない。そういう関係の人ではない。中へ招じ入れなければならぬ客だ」ということはわかるので、語り手は女を家にあげることにする。
 先回りするようで恐縮だが、この時点で、語り手の運命はすでに決している。私は以前、ある種の小説を玩味する場合、作品内の「現実」と「非現実」が境を接する部分、すなわち「なにかをかけちがえた瞬間」を探してみるといい、と書いた(【短篇小説千本ノック4】)。
 吉田知子「恩珠」では、その瞬間が、きわめて迅速に、小説の冒頭わずか数行の段階で訪れる。素性不明の女を、なんとなく家に招じ入れてしまったところで、語り手の「現実」と「非現実」は裏返ってしまった。彼女はもはや、のっぴきならない事態に足を踏み入れている。そしてこの「恩珠」という小説では、そのクライマックスにおいて、より深刻な「現実」と「非現実」の反転が生じることになるのだが、これについては後述しよう。
 不意の訪問客は、「縁なし眼鏡をかけ、がっちりとした幅広の体格の女」で、「顔形は日本の田舎のどこにでもいる中婆さんだが雰囲気が違う」。奇妙な威厳がある。「きたよ、わたし」「わかるか、わたし」と、片言の日本語を話すことから、「日本人ではないのだ」と推察される。
 そういえば、と語り手は思い出す。三年前、夫の取引先の社長・崔さんが連れて来た女がいたはずだ。きっと、彼女だ。「名前はなんだったか。パクかキン、いや、ウンなんとかだったか。一度聞いただけでは、とても覚えられないような名前だった」。おぼろな記憶では、たしか彼女は小さい頃日本に住んでいたことがあるのだとか……。それにしても、どうしていきなりやって来たのか。それもひとりで。その事情が、語り手には全然わからない。たしかめようにも、言葉が通じないから、どうにもならない。

 崔さん、お元気ですか。あれからお会いしてませんけど。 
 わたし、きたよ。 
 女は私の顔を見た。わずかに口のまわりの筋肉がゆるんだ。私が彼女を思い出したのがわかってほっとしているように見えた。 
 崔さんは。今度はお一人で日本へいらっしゃったのですか。 
 女は数回うなづいた。わかったのかどうか。崔さんがいなければ話が通じない。
 崔さんはいらっしゃらないの。
 崔さん、といってから、女は早口に何かいい、頭を振った。
 わたし、さがす。わたし、おとうさん。                              (中略)
 わたし、おとうさん。わたし、さがす。
 そうですか、と私はいった。
 お父さん、いなくなったんですか。日本へ逃げたのかしら。妻子を残して。きっと蒸発したのですね。日本でもよくあることですよ。
 どうせわからないだろうと勝手に喋った。お父さんというのは彼女の父親なのだろうか。それとも夫だろうか。


 ふたりのディスコミュニケーションにともなう徒労感たるや、尋常ではない。読んでいて、だんだん気が遠くなってくる。語り手もそうで、はいはい、と適当に相槌を打ち、フィーリングで話を合わせているうちに、どんどん向こうのペースに乗せられていく。流されやすい人なのだ。このように「恩珠」における会話の応酬は、ほとんど一方向的なものに終始するが、それでもなんとかかんとか意思は疎通している、ように思われる。
 実のところ、この「ように思われる」というところが曲者であって、語り手が、そして読者が、謎の女の真意をついに理解したとき、畢竟、両者間のコミュニケーションが成就したとき、小説は予想だにしなかったカタストロフをむかえることになる。
 先に進もう。客人の来意をはかりかね、戸惑う語り手に、女は数葉の写真を見せる。古い写真である。

 幼児と母親。川で遊んでいる女の子。木の下にいる女の子。山をバックにしたお寺と数件の農家。もう一枚は山の中腹の林の写真だった。林の中には杭が立っている。逆光なのか、黒っぽくてよくわからないが、杭は数本立っているようだった。女はその杭を指差して「おとうさん」といった。私は変な気がした。この場所にはなんだか見覚えがある。いや、そうではない。この写真を知っている。この写真はうちにもあった。どういう写真かわからないが、あった。いつか見たことがある。母が持っていたのだ。(略)女が写真を裏返した。高郷村川西と書いてある。

 高郷村川西。村の名を見て、語り手は驚愕する。なぜか。「私もいたんですよ、ここの村に。小学校にあがるまで。生まれたのもここなの」。どうやら、そうなのだ。ここにおいて、謎の女の存在が、語り手自身の過去にぐッと近付いてくる。女は子供の頃、日本にいた。高郷村の写真を持っている。そうである以上、ふたりの来歴は、どこかで重なっているのではないか。

 ここへ行きたいんですか。
 女は、女の子が木の下にいる写真を見せ、裏返した。「恩珠二歳」と薄いインクの字で書いてある。白いワンピースを着たおかっぱの女の子が眩しそうに顔をしかめてセンダンの木の下にいる。
 これ、あなたなの。あなたの写真なんですか。
 やっと名前がわかった。私が恩珠という字をさし、彼女を指さすと、女は笑った。私も名前がわかって嬉しかったので笑った。一瞬、名前ではないような気もした。だが、下に「二歳」と書いてあるし、写真の幼児はそのくらいの齢だし、とにかくそうにしようと決めた。決めたところで読み方がわからないのだから、呼びようもなかったが。

 ここにおいて読者は、「恩珠」という謎めいたタイトルの意味をつかみかける。どうやら「恩珠」とは、不意の訪問客たる女の名前らしい。しかし、同時に語り手は「一瞬、名前ではないような気もした」と言っている。結局のところ、それが正しいかどうか、たしかめるすべはない
 「恩珠」。音読みすれば「おんじゅ」だろうが、日本人の名前でないなら、そうは読まないだろう。けれど「恩珠」という漢字も「おんじゅ」という音も、なぜかしら忘れがたい印象をあたえる。
 吉田知子作品のタイトルには、こんな風に、変に耳に残るものが多い。一例を挙げれば、「迷蕨」「逆旅」「人蕈」「脳天壊了」など。順に「めいけつ」「げきりょ」「ひとたけ」「のうてんふぁいら」と読むが、このあたりのセンスの素晴らしさも、私が吉田知子を偏愛する理由のひとつだ。こんな格好いいタイトルの小説が、傑作でないはずがない。
 話が横道に逸れた。横道に逸れる、といえば、吉田知子の主人公たちはよく歩く。それもよくわからないところを歩いて行って、よくわからない人に出会い、気付いたときには取り返しのつかないところに来ている、というテンプレートを反復する。
 「恩珠」もまたそうで、語り手は、よせばいいのに女を車に乗せ、高郷村まで連れて行くことにする。こういう親切心があだになるのも、吉田知子の小説ではよくあるパターンだ。
 女が見せた写真は、どうやら墓であるらしい。土地の老人に訊くと、「畜生墓」だと言うが、「わたし、おとうさん。うんじ、おとうさん」「おくさん、おとうさん。うんじ、おとうさん」と繰り返す恩珠の様子から推測するに、それは彼女の父の墓なのだろう。してみると、恩珠は父の墓を探し、「改葬とかするつもり」で日本に来たらしい。それにしても、「どうして私(引用者注:語り手)がそこまでやらなければならないのか。そんな義理はない」。語り手はいやいやながら恩珠に付き合い、気付けばずいぶん山奥まで入り込んでいる。もうじき日も暮れる。いい加減、帰らないと、大変なことになる。

 また今度にしましょう。ここまでわかったんだから今度来るときは楽よ。 私は倒木をまたごうとして上半身を木の上にのせている恩珠のコートを引っ張った。恩珠は木から降りると向き直り、バッグから写真を取り出した。その写真を激しくバンバン叩く。
 おくさん、おとうさん、わたし、おとうさん。
 おそろしい剣幕だった。まるで私の父と恩珠の父が同じだといっているように聞こえる。それなら私たちは姉妹になる。そんな話は聞いたことがない。

 藪に分け入り、山道を進み、谷を越える。
 そうして、すこしずつ、「おとうさん」の墓へと近づいていく。道なき道を行くにつれ、語り手自身にも奇妙な記憶のよみがえりが訪れる。「そうだ、この道を登ったのだ、と思い出した。あの場所は滝よりかなり下だった。あのときもいったん谷まで来て、それから下へくだったのだ」。恩珠の興奮がいつしか私の興奮になり、気付けば、語り手のほうが墓探しに熱中している。そして、「とうとう見つけた」「ここよ、ここがあの写真のところよ」

 私は杭に字が書いていあるのを見つけたが暗くてよく読めない。携帯用ペン型懐中電灯を持っているのを思い出して、それで照らしてみた。
 エスの墓。
 隣りは「コロの墓」だった。            
             (中略)
 恩珠は黒い塊になっていた。彼女は杭を指差し、低い声で命令した。その命令はなぜかはっきりと日本語で私に伝わった。
 もっと読んで。この杭の字を読んで。みんな読んで。これも、これも、これも。
 私は再び懐中電灯をつけ、倒れている墓標を起こし、泥を落とし、前や後ろへまわって一つずつ読んでいった。
 ピーちゃんの墓。松次郎の墓。たまの墓。パクの墓。コウの墓。サイの墓。キンの墓。ちびの墓。シロの墓。

 ようやく見つけた墓は、どうやらペットの墓らしい。しかし、どこか、なにかがおかしい。自分は、とんでもない間違いに巻き込まれているのではないか。いつから? 要するに、最初から、そもそものはじまりから、すべてがこの結末に向けて、防ぎようもなく、なだれ落ちていたのである。あのとき、玄関の戸を開けたから? 女が訪ねてきたから? 否、語り手がこの世に生を享けた瞬間、すでに物語は始まり、そして終わっていた。

 うんじ、と恩珠がいった。
 恩珠は、何度も私に「うんじ」という。私は「ねえ」というような間投詞だろうと気にしていなかったが、今度はまともに私に向かっていっている。 うんじ、と私もおうむ返しにいった。
 おとうさん。
 お父さん。
 恩珠は白いワンピースを着た幼児の写真を出した。恩珠と書いてあるところを指差し、うんじ、といい、私を指差す。
 なに、それ。どういうことよ。恩珠。オンジュ。ウンジュ。そうか。そう読むの。うんじって恩珠のことなの。そういっているの。私が恩珠だと。まさか。そんなはずがないでしょ。何いってるのよ。

 間投詞だと思われた「うんじ」の音が恩珠に接続し、女は語り手を指して恩珠と言う。「こんなことがあるだろうか。悪い夢ではないのか。全部嘘なのだ。こんな女はいないのだ」。なるほど、そうかもしれない。現実は私たちが考えているほど強固ではなく、些細なきっかけさえあれば、いとも簡単に悪夢へと変貌する。真実は嘘に、現実は虚構に反転し、そして、いま目の前にいるのは、恩珠ではないだれか別の女だ。 
 「こんな女はいない」
。では、私はどうだ? 私はいま、私自身として、たしかにそこにいるのだろうか。私が私であることを証明するには、私の存在そのものが不可欠であり、しかし当の私は、もはやこれまでの私ではない。

 私は私よ。あなたはうんじで私はうんじじゃない。うんじは私であなたは恩珠でしょう。あなたのお父さんは私のお父さんで、私は私で、私はエスじゃない。エスの娘ではない。エスのおとうさんじゃない。ああ、ああ、こんなに真っ暗。どうするのよ。

 唐突だが、言葉とはなにか。人が世界を認識するためのツールである。認識とはAB間の劃定だ。AはBではない、と両者の境界を分かつことで、世界に秩序が生まれる。吉田知子の小説では、この劃定秩序の崩壊が重要なテーマとなる。自己と他者、夢と現実、嘘と真実……私たちは基本的にこれら二項の狭間を往還して生を経てているが、ひとたびその境界が溶け合ったとき、世界の相貌は狂気と恐怖に満ちたものになるだろう。
 「ああ、ああ、こんなに真っ暗。どうするのよ」。どうにもならない。わたしはあなたで、あなたはわたしで、結局のところ、みんなが私で、私がみんなだ。一元論に回収された世界ほど、おそろしいものはない。それは劃定なき、闇の世界だ。本作「恩珠」は、地の文とも語り手の台詞ともつかない、以下の一文で締めくくられている。

 もう何も見えない。

 最恐の小説である。

 当初、今回はジョヴァンニ・パピーニ「泉水のなかの二つの顔」を扱う予定でしたが、私事により、吉田知子「恩珠」を取りあげました。パピーニの作品はまた次回に譲りたいと思います。それと、今後しばらくは幻想・怪奇系の小説を扱う予定でいるため、コメント欄やTwitterを通して、みなさんの考える「最恐の短篇小説」をご教示いただけると幸いです。それでは今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

☆ 今回読んだ本
吉田知子『箱の夫』(中央公論社)

 おまけの一冊
マイケル・リチャードソン編 / 柴田元幸訳『ダブル / ダブル』(白水社)
⇒ 「分身」をテーマにした珍しいアンソロジー。「分身」とは、畢竟、彼我の境界が揺らぐ恐怖から生じた主題だろう。ポール・ボウルズ「あんたはあたしじゃない」、スーザン・ソンタグ「ダミー」、トンマーゾ・ランドルフィ「ゴーゴリの妻」など傑作を多く収める。


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