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【短篇小説千本ノック4】ベルギー幻想派四天王を連れて来たよ。——トーマス・オーウェン / 加藤尚宏訳「黒い玉」

 前回、前々回は、マラマッド、シンガーというふたりのユダヤ人作家を扱った。彼らの小説を読みながらおもったのは、「いちいちこたえるなあ……」ということであった。アメリカに住まう貧しいユダヤ人の生活を活写したマラマッド、対してユダヤの伝統社会に生きる人びとの業を描いたシンガー、どちらも重たいのである。読んでいて、なんだか暗いところへ連れていかれる気がする。おまけに猛暑だ。気が滅入る。だから今回は気分を変えて、ちょっと涼しくなるような短篇を読んでいきたい。文体も変える。

 ということで【短篇小説千本ノック】第四回は、ベルギー幻想派四天王のひとり、トーマス・オーウェンの「黒い玉」を扱う。いきなりベルギー幻想派四天王というパワーワードが出てきて、おおかたの読者は「いったい……」という感じだろうが、なにも私が勝手に考えたわけではない。そういう人たちがいるのである。名前を挙げると、今回紹介するトーマス・オーウェンのほかに、ジャン・レイ、ミッシェル・ド・ゲルドロード、そしてジェラール・プレヴォーの四人。

 ジャン・レイは日本でもそこそこ翻訳が出ている。古代の神々が囚われた洋館を舞台にした長篇『マルペルチュイ』(月間ペン社)、怪奇幻想小説集『幽霊の書』(国書刊行会)など、蓋し傑作であるが、いずれも現在は絶版。あとのふたり、ゲルドロードは二、三の短篇のみ翻訳があり、プレヴォーにいたっては日本未紹介だそうで、四天王、大丈夫か? という気がする(近年、松籟社から『幻想の坩堝 ベルギー・フランス語幻想短編集』という気高い本が出たが、ここにもプレヴォーの作品は収められていない)。

 こうした現状のなか、『黒い玉』『青い蛇』という二冊の短篇集(もともと一冊の原著を二分割しているらしい)が天下の創元推理社から刊行、しかも文庫化までされているのだから、トーマス・オーウェンは恵まれている。大志ある出版社が『ベルギー幻想派四天王傑作選』など出してくれたら、意外と需要はあるとおもうんだが、どうなのだろうか。すくなくとも私は買うが。

 さて、ベルギーのルーヴァンに生まれたトーマス・オーウェン(一九一〇年)は、作家のほかに法律家、実業家、評論家、学士院会員と多彩な顔を持つ才人だった。彼の描く幻想短篇は、ゴシックな描写と悪夢のなかを彷徨うような奇妙な物語を基調としており、日本の作家でいうと、漱石の『夢十夜』やその衣鉢を継いだ内田百閒の掌篇に近い。手元にある『黒い玉』『青い蛇』文庫版の表紙にはオディロン・ルドンの版画が使われており、たしかにルドンの描くモノクロームの不安の世界は、オーウェンの小説に通じるものがある。

 テラスの真新しいセメントはざらついていた。鉄のバルコニーはほうぼうに錆が出ていた。四階下には河が流れ、銀色の優美な曲線を描きだしていた。外側から見ると、部屋の窓は手入れの悪さが目立った。ペンキは剥げ、ガラスをとめた防水用のパテはあちこち剥がれ落ちていた。拾わずに放置された瓶の栓が下に転がっていた。立地条件の素晴らしいこのホテルは、過去の名声によって生きのびていた。(トーマス・オーウェン / 加藤尚宏訳「黒い玉」以下出典の言及がない太字部分は同作の引用) 

 先にゴシックと述べたのはこういうあたりの描写を指す。舞台こそ中世の古城から遠く隔たってはいるものの、いかにもなにかが起こりそうな気配である。オーウェンはまずもって雰囲気(アトモスフィア)の構築に腐心する作家だ。そして幻想小説においては、この「いかにも」な感覚が作品を構成する重要な要素となる。

 「黒い玉」の主人公には一応名前が与えられている。ネッテスハイムという名の彼は、物語の舞台となるホテルの宿泊客で、おそらくはついいましがたチェックインしたばかり。「おそらくは」というのは、このネッテスハイムという男の素性が明らかになることはついにないからで、私は上記の引用に続く「スーツケースを空にして、ブルーのスーツをハンガーにかけておこう」という一文から、彼が到着間もない身であるのを推測したにすぎない。またそれに次ぐセンテンスでは、「明日、あの連中に会うことにすればいい……」と述べられているが、ではその連中とはいったい何者か、彼はその連中と会ってどうするのか、読者にはほとんどなんの情報も与えられていない。

 こうした書き出しが得意な作家を知っている。フランツ・カフカである。というよりカフカは小説を、このように書き出すことしかできなかった。なぜならカフカにとっての小説とは、不断の「運動」にほかならず、問題になるのはつねにその現在であるからだ。カフカの、特に中篇以上の長さの小説は、だいたいにおいて主人公の覚醒や到着からはじまっている。彼らに過去は必要ない。ただ作者たるカフカの筆に連動した現在、五里霧中のいまを進むだけなのである。

 が到着したのは、晩遅くであった。村は深い雪のなかに横たわっていた。城の山は全然見えず、霧と闇とが山を取り巻いていて、大きな城のありかを示すほんの微かな光さえも射していなかった。Kは長いあいだ、国道から村へ通じる木橋の上にたたずみ、うつろに見える高みを見上げていた。
 それから彼は、宿を探して歩いた。旅館ではまだ人びとがおきていて、亭主は泊める部屋をもってはいなかったが、この遅い客に見舞われてあわててしまい、Kを食堂の藁ぶとんの上に寝かせようとした。Kはそれを承知した。二、三人の農夫がまだビールを飲んでいたが、Kはだれとも話したくなかったので、自分で屋根裏から藁ぶとんをもってきて、ストーブのそばで横になった。部屋は暖かく、農夫たちは静かだった。Kは疲れた眼で彼らの様子をうかがっていたが、やがて眠りこんだ。(フランツ・カフカ / 原田義人訳『城』)

 カフカの主人公同様、ネッテスハイムも到着と同時に眠りに落ちてしまう。夕暮れの冷気に触れて目覚めると、部屋のなかは闇に包まれている。部屋の明かりをつけたその瞬間、彼の現実は一変する。

 明かりがついた瞬間、ほんのちょっとしたことが起こった。取るに足りないほどのことだったが、しかしそれでも、まるでこれを合図に外の世界と突然断絶が起こったかのように、それまでとは違った新しい雰囲気が部屋の中に生じた。

 管見ながら、幻想小説のおもしろさとは、その「非現実」がいかに「現実」を食い破り、転倒させるかにかかっている。その意味で、幻想小説の玩味を心掛ける読者は、作品内の「現実」と「非現実」が境を接する地点を探してみるといい。いわば、なにかをかけちがえた瞬間であり、そのなにかが曖昧であればあるほど、小説は幻想の度合いを増す。ただし、曖昧さがあまりに肥大化すると、今度は小説としての結構が損なわれる。その意味で上に引用したオーウェンの文章はかなり親切なもので、近松門左衛門言うところの「虚実皮膜の間」を目に見えるかたちで提示したくだりだろう。熟達した小説読者ほど、作品内に置かれた「虚点」と「実点」を看破する視力に長けている。すべて小説とは虚構と現実の相克によって成り立つ形式だから、以上の読み方は無論、幻想小説にかぎらず、小説全般に適用できる。そしてこの「虚点」と「実点」の操作術を奇形的に発達させたのが日本の私小説なのだが、これについてはいずれまた折を見て話したい。

 話を戻そう。部屋の明かりをつけたネッテスハイムは、奇妙なモノを目にする。その描写が興味深い。

 くすんだ色の小さな毛玉によく似た柔らかくふわふわしたものが、純白の軽い羽布団から出て、青いビロードの大きなクラブチェアの下に転がり込んだのだ。いや、転がると言ったのでは正確ではない。飛んでいるようにも、跳びはねているようにも見え、そのため彼は、ちっちゃな猫かとも思ったし、同時に鳥かとも思った。毛の生えた、光沢のあるその外見、ちらちら動く影模様のようなその軽やかさからいって、考えられる唯一の生き物は蝙蝠だった。

 これでもかと形容を連ねているが、結局のところそれがなんなのか、私たちには、そしてネッテスハイムにもよくわからない。くどいのは承知で、用いられた形容を以下に抽出してみる。

 「①くすんだ色の」「②小さな毛玉によく似た」「③柔らかく」「④ふわふわした」ものがベッドから飛び出してくる。それは「⑤飛んでいるようにも」「⑥跳びはねているようにも見え」「⑦ちっちゃな猫かとも」「⑧鳥かとも思」える、「⑧毛の生えた」「⑨光沢のある」「⑩ちらちら動く影模様のようなその軽やかさからいって」「⑩考えられる唯一の生き物は蝙蝠だった」。いや、明らかに蝙蝠じゃないだろう、という感じで思わず笑ってしまうが、やっぱりなんだかわからない。このわからなさが味噌だ。

 本来、形容とは事物の限定、乃至劃定のためなされる言語行為である。しかしここでは対象となるモノを明示しようと言葉を重ねれば重ねるだけ、私たちが思い描くそれの形姿は焦点を結ばず、拡散していくように思われる。おもしろいことに、作品のタイトルにもなっている「黒い」という形容は、最後まで一度も使われない。妙に気分を逆撫でするそのモノを、ついにネッテスハイムが捕えた場面は次のように描かれる。

 それは子供の拳ほどの大きさの、体が乳白色の蟻のようなもので、青白くて生温かく、ゴムみたいで、黄楊(つげ)の木の強い匂いを発散していた。
ネッテスハイムはその塊りを床に勢いよく投げつけ、片足で上から踏んづけた。ゆで卵のように、それはゆっくりと潰れた。すると、そこから死臭を漂わせる白っぽい体液が流れ出た。

 いま私は、上の文章を書き写しながら非常な生理的嫌悪感をおぼえた。一読、触れてはいけないものに触れてしまったことを読者に体感させる描写であるが、案の定、この後ネッテスハイムは異常な事態に襲われることになる。いましがた踏み潰したそのモノから発散される奇妙な薄膜に、彼の身体はじわじわと取り込まれていくのである。「底意地の悪い植物のような力で固く締めつけてくる」薄膜は、あたかもネッテスハイムを「忌まわしい繭の中に包」もうとするように収縮し、彼の身体は「この邪悪な皮膜の中でしだいに小さくなっていく」のだった。

 膜は、糸を繰りだし、結び合い、広がり、絡まり合っていくその一連の奇怪な動きの中で、彼の体をその中に押し包み、同化し、いわば消化吸収していくのだった。今や、この気味の悪い糸鞠の内部に脈打つ微かな搏動を自分のものと感じながら、彼が今度は、しだいにその命の<核>になっていった。彼は気力を取り戻し、この状況、この<もの>の中心にいるこの状態から想像できる結末を考えた……

 今回は趣向を変えて、読者への問いで稿を閉じようとおもう。正体不明の球体に同化吸収され、ついには彼自身が球体に変容してしまったネッテスハイムだが、「この状態から想像できる結末」とはいったいどんなものか? 考えてもわからなかった人は、実際に作品を読んでみてください。ヒントは……この作品のタイトル「黒い玉」。

 次回の更新は来週の水木あたりの予定。先日渋谷のユーロスペースで観たジョン・ウィリアムズ監督の『審判』がとてもおもしろかったので、カフカを扱うつもりです。

☆ 今回読んだ本
トーマス・オーウェン / 加藤尚宏訳『黒い玉 十四の不気味な物語』(創元推理文庫)

 おまけの一冊
ハンス・へニー・ヤーン / 種村季弘訳『十三の無気味な物語』(白水Uブックス)
⇒ 幻想小説集というよりは倒錯小説集といった趣きの短篇集。タイトルが似てるので(笑)



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