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【短篇小説千本ノック7】救世主たち――ホセ・ドノーソ / 染田恵美子訳「閉じられたドア」

 今回の【短篇小説千本ノック】では、チリの作家ホセ・ドノーソの短篇「閉じられたドア」を扱う。
 いま私はドノーソをチリの作家と言ったが、彼はチリ大学在学中、奨学金を得てプリンストン大学に留学した俊英で、はじめての短篇は英語で書いている。また、本格的に作家デビューを果たしたのちは、メキシコ、アメリカと渡り歩き、六七年から八一年までの期間はスペインを活動拠点としていた。代表作とされる長篇『夜のみだらな鳥』(復刊めでたい!)や『別荘』はこの時期に書かれている。

 で、ドノーソといえば、なんといっても狂気に満ちた傑作『夜のみだらな鳥』のイメージが強い。というか、ほとんどの人が『夜のみだらな鳥』の話しかしないし、ぶっちゃけ『夜のみだらな鳥』にしても、正直、そこまで読まれていない(所詮、復刊されるまでが花か……)し、読んだ人は読んだ人で、そのあまりにぶッ飛んだ内容のせいで、おそらくは前頭葉とか海馬のあたりを損壊されるのであろう、「よくわからないけどすごかった……」という程度の曖昧模糊とした感想を口にするばかり。かく言う私もまた、十年前のおぼろな記憶にすがりつつ、「一読の価値はありますよ……」などと腑抜けた常套句を口にする始末だ。これではいけない。 

 こういうときこそ短篇の出番である。長篇が読めないなら、短篇を読めばいいじゃない? マリー・アントワネットはそう言ったと伝えられている。
 ドノーソの短篇集は唯一、木村榮一の翻訳による『三つのブルジョワ物語』(集英社文庫)があり、これに収録された三篇「チャタヌーガ・チューチュー」「緑色原子第五番」「夜のガスパール」はどれもいい。特に「緑色原子第五番」は、私にとって、もはや偏愛の域に達した小説である。
 当初、私はこの「緑色原子第五番」を扱う予定であったが、あるアンソロジーを読んでいたところ、偶然、本作「閉じられたドア」に出会った。そして一読、ガツンと殴られるような衝撃を受けた。これしかない、と思った。

 「閉じられたドア」の主人公セバスティアンはよく眠る子どもである。寝る子は育つ。いいことだ。とはいえ、いささか寝すぎなのである。子どもらしい遊びもしない。夜泣きをして母親を困らせることもない。手はかからないが、女手ひとつで子を育てる母アデーラには、それが不安の種なのである。

 ある日、アデーラは息子に尋ねてみた。
「なんの夢を見ているの?」
「夢って?」
「そうね、たとえばいろんな人のことやお話なんかを夢で見ているんでしょう?」 
 セバスティアンは母親の手をやさしく撫でながら答えた。
「ううん……よく憶えていないけれど、夢は見ないみたいだよ……」 
 その返事を聞いてアデーラは思わずかっとなった。
「それじゃなんのために寝てばかりいるの」と、とげとげしい口調で問い詰めた。
「寝るのが好きだからだよ、ママ……」(ホセ・ドノーソ / 染田恵美子訳「閉じられたドア」以下太字部分は同作の引用)

 セバスティアンによく似た子どもを知っている。漫画家の水木しげるである。自身の少年期をモデルにした傑作漫画『のんのんばあとオレ』やエッセイ『ねぼけ人生』を読むとわかるが、彼もまたとにかくよく寝る子どもだったらしい。とはいえ少年時代の水木しげるは、大好きな絵には寝食を忘れて没頭するし、隣町との戦争ごっこやコレクションにも情熱を燃やす。ごはんだってたくさん食べる。健康そのものだ。
 一方のセバスティアンはというと、ほんとうに、寝ること以外なにもしない。叱られない程度に勉強し、学校を出て、そこそこいい会社に勤めもするが、そのすべてが寝ることに対する言い訳じみている。やるべきことはやっている、だから好きに寝させてほしい、というわけだ。
 よくよく考えてみればおかしな話である。余暇を趣味に費やす、酒を飲む、異性と遊ぶ……社会倫理と法律を逸脱しないかぎりにおいて、それらはみなひとしく個人の自由として許容される行為であるが、時間のあるときはいつもずっと、ひたすら寝てばかりいます、という人に出会った場合、私たちは彼を、自分たちとは異なる、不思議な生き物を前にしたようなまなざしで眺めてしまうのではないか。
 それがもし自分の子どもであったら、余計に歯がゆいだろう。アデーラもまたそのように感じている。小言を繰り返す。そんな母に、セバスティアンは言う。すこし長いが重要な箇所なのでそのまま引用する。

「どう言えばいいのかな……ぼくには生まれつき、好きな時にいくらでも眠ることのできる能力が備わっているみたいなんだ。寝るのが好きなのはきっとそのせいだよ。ぼくにとっては、それ以外のことはすべて幻みたいなものでしかない。自分でもはっきり分かっているわけじゃないけど、ぼくにとって眠っている間がいちばん仕合せなんだ。ほかの人から見れば、ばかばかしくて下らないことのように思えるかも知れないけれど、ぼくはそのために生まれてきたんだし、それがいちばん大切なことなんだ。夢を見ている時は、仕合せだなって感じるんだよ。魔術的でしかも真実味のあるもの、すべてを明るく照らし出す光の世界を夢に見るけれど、その光はぼくだけでなく、ぼくをはじめすべての人を照らし出すような感じがする。だけど、目が覚めたとたんに、夢の世界に通じるドアは、ぴしゃりと閉ざされてしまい、どんな夢だったのかどうしても思い出せない。夢の中で味わった幸福な感じを、この生活に、他の人たちが生きているこの現実の世界の中に持ちこみたいんだけれど、どうしてもそれができない。だから、なんとかしてそのドアを開かなければならないんだ。そのためには、ひたすら眠り続けて、そのドアを打ち壊し、夢の中の至福感を思いだせるようにならなければいけない。いつかきっと……」

 ここにおいてはじめてセバスティアンの願望、というか大志が明らかになる。アデーラは驚きあきれる。読者だってそう感じるだろう。彼は眠りという極私的な、最も非生産的な行為によって、自分自身だけでなく、全人類に至福をもたらすというのだ。
 彼は救世主(メシア)なのか? あるいは単に頭のおかしい人なのか?
 おそらくはほとんどの人が後者と断言するだろう。実の母親であるアデーラでさえそうなのだ。彼女は息子を残念な人間と見做し、ひとり孤独に老いさらばえていく。容色は衰え、だんだんと気難しくなる。このあたりの描写は、読んでいて非常に辛い。
 セバスティアンが勤める貿易会社の上司アキレス・マランビオもまた、彼のことを一風変わった人物だと考えている。ある日、アキレス宅に招待されたセバスティアン。断り切れず訪れた夕食の席上、上司と部下のふたりは冗談じみた賭けをすることになる。
 セバスティアンの眠りの秘密を聞いたアキレスは、彼が「けっきょくなにも見つけらずに死んでいくほうに賭け」る。もし自分が勝ったら、「その時はきみの死体を共同墓地の墓穴に放りこんでやるさ」というわけだ。セバスティアンは言う。「それじゃあ、もしぼくが勝ったら、葬式の費用をもっていただけますか」


 そしてこの後に続く母親の死をきっかけに、セバスティアンの行動はいよいよ常軌を逸したものになる。彼は母の葬儀を終えると、即座に辞表を提出し、以後は農家の手伝いや半端仕事で生計を立てていく。これで思う存分、追い求めるものの探求に、精神を傾注できるわけだ。
 こう聞くと、精神を傾注といったって、ただ寝るだけじゃないか、と反論したくもなるが、なかなかどうして、そんなに生易しい話ではないのだ。なぜか。これまで完全にコントロールできていたはずの眠りが、彼に牙をむきはじめたのである。

 睡魔が絶対権をふるって、自分の生活をおびやかすようになったので、彼は不安をおぼえはじめた。(略)けれど目が覚めても、以前と同じように夢の内容をどうしても思い出せず、絶望感は深まる一方だった。いくら眠っても夢の中の至福感をどうしてもつかむことができず、苦しみは増すばかりだったが、その一方ではいつかきっとあのドアが大きく開かれて、自分を迎え入れてくれるはずだという確信が強まっていった。

 要するに、ナルコレプシーのような状態に陥ってしまったのである。ナルコレプシーといえば作家色川武大(阿佐田哲也)が苦しめられた病だ。突如として猛烈な眠気に苛まれる。睡魔を制御できない。色川の場合、友人宅で麻雀をしていると、自分の番がまわってくるまでに寝てしまい、そのたびに起こされていたという。食事しながら気付けば寝ていた、なんてこともしばしばだったらしい。はたから見ると暢気な感じがするけれど、当人にとっては深刻な事態である。これでは満足に仕事もできない。
 半端仕事すらこなせなくなったセバスティアンは、乞食をし、市場から食物をくすね、新聞紙にくるまって暖をとる。完全な浮浪者である。窮余の策とばかりに精神病院に転がりこむが、「輝くばかりに仕合せそうな顔に微笑を浮かべて眠っている」ところを医師に見咎められ、「こんなに穏やかな寝顔で眠っている人間をいつまでも病院に置いておくわけにはいかない」と追い出されてしまう。眠りが彼の首を絞めるのである。
 しかし、セバスティアンにはある予感があった。いよいよだ、という予感である。

 もう少し、もう少しであれを思い出せる。間もなくあのドアが開きそうだという気がしはじめた。少しばかりのパンと氷と霜をしのげる場所を探し出して、あと二、三日生きのびることができさえすれば。

 セバスティアンはある決心をする。かつての上司アキレスのもとを訪ねよう。「見るもあわれなこの姿をみたら、ひょっとすると同情して、ずっと以前に約束したことを忘れて、食べ物を恵んでくれ、二、三日は泊めてもらえるかもしれない」
 尾羽打ち枯らしたセバスティアンとアキレスとのあいだでどのようなやりとりが交わされたか、例の賭けがどうなったかは伏せるが、私はこの短篇を読み終えたとき、胸が締めつけられるような切なさを感じた。結末は、是非ご自分の目と感性で玩味されたし。さすがはドノーソ、見事というほかない結末だ。
 

 セバスティアンにとっての眠り、すなわち他の人びとにはまったく理解されないが、それが成就したあかつきには、全人類に輝きをもたらすにちがいない営為とは、いったいなにをあらわすのだろう。
 ここで私は、またしても水木しげるを思い浮かべる。水木しげる貸本時代の傑作長篇『悪魔くん』のことである。この漫画の主人公である少年、松下一郎(通称、悪魔くん)は一万年にひとりの大天才であり、その頭脳と直観によって悪魔を召喚、使役する秘術を見出す。
 彼の望みはただひとつ、悪魔の力を借りて、腐りきったこの世を打破、すべての人間が幸福に暮らせる「千年王国」を樹立することである。が、そんな彼の理想は凡人には理解されず、結果、彼は国家転覆を狙う危険人物と看做され、志半ばにして壮絶な死を遂げる。
 ニューギニア戦線・ラバウル出征直前の水木しげるが、聖書やゲーテの『ファウスト』を熟読していたことはよく知られている。要するに水木は、現代のキリスト譚として『悪魔くん』を描いた。だからこそ、この物語は、悪魔くんの来るべきよみがえりを示唆したラストを迎えることになるのである。
 ここにおいて、ドノーソ「閉じられたドア」と水木しげる『悪魔くん』が二重写しとなる。セバスティアンは、そして悪魔くんは、人類の幸福のためにその生涯を賭けた、全き利他の人であった。
 彼らの熾烈な闘争は、あまりの崇高さゆえに余人には理解不能であり、通常の社会規範を逸脱した営為は、狂人、乃至危険人物のそれとして排斥される。救世主の誕生は決してありえない。社会がそれを阻み、抹殺するからである。
 ドノーソも水木しげるも、そのことをよく知っていた。いずれもただのハッピー・エンドでは結ばれない彼らの物語に、しかし読者が一抹の希望を感じたとすれば、それこそが芸術における救いである。物語のなかでは、芸術のなかでは、夢想だにしなかった奇跡が、たしかに起きるのである。

 次回の更新は来週半ばの予定。アルゼンチンの幻想小説家、ボルヘスの盟友、ビオイ・カサーレスの短篇を扱おうと思っています。


☆ 今回読んだ本
ガルシア=マルケス他 / 木村榮一他訳『美しい水死人』(福武文庫)

水木しげる『悪魔くん――貸本版』(チクマ秀版社)

☽ おまけの一冊
フリオ・コルタサル / 木村榮一訳『悪魔の涎・追い求める男 他八篇――コルタサル短篇集』(岩波文庫)
⇒ 至高を追い求めた男の物語「追い求める男」を収める。目指せあのドアの向こうまであとすこし……。


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