シンガー

【短篇小説千本ノック3】冒涜者の凄絶な生きざま――アイザック・B・シンガー / 邦高忠二訳「血」

 カバラ信奉者たちの認識では、血に向かう情念と肉に向かう情念は、ともに同じ起源をもっており、だからこそ「あなたは殺してはならない」という戒律のすぐつぎに「あなたは姦淫してはならない」という戒律がつづくのである。(アイザック・B・シンガー / 邦高忠二訳「血」以下太字部分は同作の引用)

 【短篇小説千本ノック】三回目となる今日は、前回紹介したバーナード・マラマッドと同じく、アメリカ在住のユダヤ人として多くの作品を発表したアイザック・バシェヴィス・シンガーの短篇「血」を扱います。シンガーもまたマラマッド同様、短篇の名手として知られていますが、移民二世だったマラマッドとはちがい、シンガーはポーランド(当時はロシア帝国領)に生まれ、一九三五年、ナチ先導の反ユダヤ主義を逃れて渡米した移民一世です。更に大きく異なるのは、英語で執筆し、基本的にはアメリカに暮らすユダヤ人たちの生活を描いたマラマッドに対して、シンガーは終始自身の母語たるイディッシュ語による執筆にこだわり続けました。その作品の多くはユダヤ教の道徳律と民間伝承に支配された、前近代的な村落空間を舞台としています。

 シンガーの小説に通底しているのは、地縁と血縁が解きほぐしがたく絡み合ったユダヤ人共同体の世界観であり、そこではしばしば悪魔や人狼、霊魂の不滅、最後の審判などの非現実的要素が大きな役割を担っています。いま私は「非現実」と言いましたが、私たちの目には「非現実」と映るそれらのモノ・コトは、しかし彼らにとっては人生や生活を規定するほど圧倒的な「現実」なのです。ゆえに、斯様な魔術的世界を描くシンガーの筆はあくまでリアリズムの描写に則ったものであり、読者はそこに一種ちぐはぐな戦慄をおぼえるのです。

 前置きが長くなりました。シンガー「血」の主要人物は三人。ひとりはレブ・ファリク・エーリッヒマンという農園主です。誠実な男として周囲の人たちに尊敬される彼は、エーリッヒマン(正直な人間)の通称が、もはや名前の一部にもなっています。物語は先妻に先立たれたレブ・ファリクが二度目の妻を娶るところからはじまります。そしてこの後妻、リシャ(意地悪とか下品な人間、という意味があるそうです)こそが本作の真の主人公です。

 「でっぷり肥って男のように逞しく、家事に長じており、農園のきりもりにも詳し」い彼女は、二度も夫を失っている前歴から、村では「おとこ殺し」として通っています。しかもリシャはレブ・ファリクより三十歳も年下なのですから、この結婚にはそもそもの最初から暗雲が立ちこめています。そして案の定、彼女は夫をないがしろにし、彼の農園と財産を乗っ取ってしまう。あまつさえ、間男を囲う。それが三人目の主要人物、聖屠殺人(コーシャーのための畜殺を行う者)のルーベンです。リシャとルーベンは毎夜、屠殺小屋で密会を交わし、肉の愉しみに耽るわけですが、そうこうしているうちにリシャはルーベンにとんでもない申し出をします。

 或る日、あらゆる恣欲と狡知の父である悪魔が、リシャを誘惑し、ついに屠殺行為に手をつけさせようとした。(略)リシャはけもの殺しにひどく快楽をおぼえ、まもなくルーベンには助手として働かせるだけで、いっさいの屠殺を自分でとり行った。彼女は虚偽の行為をはじめるようになり、獣脂を清浄(コーシャー)の脂肪だと称して販売し、雌牛の腿肉のばあい、食用を禁じられているその腱を抜き取ることも止めてしまった。(略)町じゅうをあざむくことにひどく満足したあげく、その充足感がやがて彼女のなかで、淫欲や残忍性と同じように強烈な情念に化していった。

 要するにリシャは、聖屠殺人にのみ許された殺生を行い、その肉を売りさばくことで富を蓄えるのです。このあたりの感覚は日本人である私たちにはすこし理解しにくいかもしれません。しかし「穢れ」とそれにともなう禁忌は、程度や表出の仕方に差はあれど、どんな文化圏にも存在するものですから、ユダヤ教だけが殊更突出しているわけではないでしょう。

 さて、そうしてまたリシャとルーベンは情事に没入していきます。いまや不摂生から「ぶよぶよにふとり、たがいにからだを合わすのがやっと」なふたりは、「一日じゅうベッドに横たわったきりで、目をさますと、ガラスの水差しからストローで酒を飲」む自堕落ぶり。とはいえ、こんないい加減なことをいつまでも隠しおおせるわけはなく、まさしく神をも畏れぬ彼らの所業は人びとの知るところとなります。怒り狂った群衆は武装してレブ・ファリクの屋敷へ押しかけていくのですが、情けなくも逃亡を企てるルーベンを尻目に啖呵を切るリシャの立ち居振舞いは、厚顔無恥を通り越して、ほとんど惚れ惚れするような力強さに満ちています。シンガーの描く「悪」の面目躍如といったシーンでしょう。

 リシャは連中をあざ笑いながら大声をあげた、「さあ、きてごらん、手のうち見せてもらおうじゃないか! このナイフであんたたちの首をふっとばしてやるわよ――あんたたちに食らわした馬や豚を裂いたこの包丁でね」或る男が、もうラスケフではだれもおまえの肉は買ってやらないぞ、おまえは村八分にしてやるからな、と叫んだときも、リシャは逆に叫びかえした、「あんたらの金なんか要らないわよ、あんたらの神も要らないね。宗旨がえするわよ。いまこの場でね!」それから彼女はポーランド語で甲高く叫びだし、ユダヤ人なんかキリスト殺しじゃないかとののしり、すでにキリスト教徒に転向したかのように十字を切って見せた。

 と、ここまで書いて私は呆然とするほかありません。いったいなにが、どのような衝動が彼女を、リシャをこのような破戒と背教に駆り立てるのでしょうか。この「血」という小説に触れた者が最も戸惑うのはまさにその動機の不在、全き空虚なのです。

 私たちは理解できない事態に接した際、そこになんらかの説明を求めます。人間は多くのことに耐えられませんが、とりわけ、虚無には耐えられない。張本人たるリシャでさえ、なぜ自分がそのような悪徳を重ねるのか理解できておらず、それがために、彼女もまた煩悶します。余人がそう看做すように、悪魔にそそのかされたと開き直ることができれば、いっそ楽になるのでしょう。けれども強烈なエゴイズムと快楽主義によって支えられたリシャという女の精神は、そんなおためごかしをついに許容しないのです。

 ときにリシャは、自分の激しい怒りや貪欲や悪態やずるい口車でいためつけた、はじめのふたりの亭主を念頭に浮かべることもあった。とても後悔するどころの彼女ではなかったが、内心のどこかになげき弔うものがあり、彼女の心をにがにがしい思いで満たすのだった。窓を開けた彼女は、星のあふれる深夜の空を見あげて叫びたてるのであった。「神よ、わたしを罰しに来るがよい! 悪魔も来るがよい! アスモデウスも来るがよい! その力のほどを見せてもらいましょ。暗黒の山並の背後にある焼けつく砂漠にわたしを連れさってみるがよい!」

 悪事の片棒を担いでいたルーベンは逃げ去り、事の真相を知った夫レブ・ファリクはショックで死んでしまいます。ただひとり、世界への呪詛と冒涜の反旗を翻すリシャに残された道は、文字通り、人間をやめることなのですが、彼女の末路がどのようなものか、ここではあえて触れません。ただひとつ言えるとすれば、あまりに肥大した「個」、共同体の「全」から逸脱した震える魂は、多数の側からつねに呪われ、疎外される運命にある、という空恐ろしい掟が、現代においてもたしかに息づいているということでしょう。

魔女はどうして生かしちゃならぬ
生かしちゃならぬどうして魔女は
どうして魔女はいかしちゃならぬ

次回扱う作品はまだ決めていませんが、マラマッド、シンガーと重たい作家が続きました。すこしいまいるところを離れて、ヨーロッパの幻想文学界隈をうろついてみようかな、とおもっております。

☆ 今回読んだ本
アイザック・B・シンガー / 邦高忠二訳『短かい金曜日』(晶文社)

☽ おまけの一冊
池田得太郎『家畜小屋』(中央公論社)
⇒ 豚の屠殺人夫婦の愛憎と肉欲を描く暗黒小説。



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