【書評】友田とん『「百年の孤独」を代わりに読む』を代わりに読む

Ⅰ はじめに——マルケス主義者たち

 居酒屋でお酒を飲んでいて、カウンターの向こう側にある棚の上、自分にはそうそう手が出せない高そうなお酒が鎮座している界隈に、あの銘柄の焼酎が並んでいるのを見つけると、それだけでもうその居酒屋がちょっと好きになる。
 その焼酎の銘柄が、ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』からきていることを知ったのは、それほど最近ではない。はじめて『百年の孤独』を読む前から、耳学問で聞きかじっていたようだ。さすがのマルケスも、極東の島国のお酒に自分の小説のタイトルが使われるとは想像しなかっただろう。
 焼酎の銘柄にしてしまうくらい、日本人は『百年の孤独』が好きだ。愛されている。かつて寺山修司は『百年の孤独』を原案とした映画『さらば箱舟』をマルケスに無許可で撮ってしまったし、中上健次の『千年の愉楽』はマルケスの正統なフォロワーだ。その他にも有象無象の<マルケス主義者>を輩出している。
 かく言う私だって、<マルケス主義者>の端くれだ。かつてマルケスが縁で育まれた恋愛があり、ひどい結末をむかえた。けれどもそれでマルケスと彼の作品を恨んだりはしない。マルケスへの愛ではそこらの人にひけはとらない……とおもっていたが、上には上がいるもので、傑作『紙の民』(白水社)をものしたメキシコ生まれの作家サルバドール・プラセンシアは、『百年の孤独』を三年間読み続けてこの小説の構想を得たという。
 さすがの私もこれにはシャッポをぬいだ。そこまでするのか。それならもう、あんたが大将、認めよう、という気になっていた。
 ところが、世間は広いようで狭い。プラセンシア以上に『百年の孤独』に入れ込み、実に四年ものあいだこれを読み続けた猛者が、日本にいた。
 『「百年の孤独」を代わりに読む』(以下『代わりに読む』)は、著者・友田とんとマルケス『百年の孤独』との四年間にわたる蜜月と闘争の記録である。
 友田はまず、なによりも読む。マルケスがぶち撒けた極彩色の絵具のようなエピソードを丁寧にすくいあげ、はじめて『百年の孤独』に触れる人にもわかりやすく、その物語のおもしろさを伝えようと腐心する。本書はその意味で、『百年の孤独』入門書としての役割をしっかり果たしている。
 同時に、本書は聖典たる『百年の孤独』を彩る挿話の数かずから派生した友田自身の妄念をおもうさま羽ばたかせていく、脱線の実践というべき書物でもある。
 更に以上のテーマとは別に、そもそも「代わりに読む」とはどういうことなのか? という重大な問いが残されてあるのだが、まずは先述した脱線という部分に焦点を絞って本書を読んでいきたい。

Ⅱ アルカディオは五代目・小さんの夢を見るか?——脱線の実践①

 『百年の孤独』はたくさんの珍奇なエピソードが有機的に絡まり合うことで物語を推進させていく小説だ。すべてのはじまりにして終わりの地マコンドでは、死んだはずの人物がいつの間にかよみがえり、敬虔な神父はチョコレートを飲んで空中浮遊する。非業の死を遂げた人たちがいて、幽霊も出る。おまけにその幽霊、どういうわけか年を取る。
 果てしなく繁茂するこの物語に、ある人はひたすら魅了され、貪るような読書の至福を味わうにちがいない。別のある人は、そこに現実の南米史を重ね合わせるかもしれないし、文学にある程度通じた人なら、作者マルケスの自伝的要素や、他の作品との影響関係を読み解いたりもするだろう。
 しかし友田が試みる読みは、そのどれとも異なる。第0章たる『代わりに読む』の前日譚において、彼が挙げている読みの姿勢は以下の二点。すなわち、

・冗談として読む
・なるべく関係ないことについて書く(とにかく脱線する)(p13)

 たとえば『百年の孤独』にはたくさんの登場人物が出てくる。
 具体例を出すと、マコンドの開拓者たるホセ・アルカディオ・ブエンディアには長男ホセ・アルカディオと次男アウレリャノがいて、ホセ・アルカディオの息子はアルカディオだ。長じて後、アウレリャノ・ブエンディア大佐を名乗る次男アウレリャノには戦争中それぞれ別の女性とのあいだにもうけた17人の息子アウレリャノがいてそれから……。
 これを俗に<ブエンディア・トラップ>と呼ぶ。『百年の孤独』を読む人は、たいていブエンディア一族の名前で混乱する。私は『百年の孤独』を三回通読したが、そのたびに混乱した。このアウレリャノはどのアウレリャノなんだ?! となるわけで、目下代わりに読んでいる友田もまたブエンディアの呪縛からは逃れられない。どうにも大変だ。整理しよう。
 と、友田が手に取るのは、『百年の孤独』初読者の虎の巻たるブエンディア一族の家系図……ではない。言わずと知れた落語の名門、柳家一門の家系図だ。おお見よ、人間国宝五代目・小さん、続く六代目・小さん、ここには小さんがたくさんいる。だが、これでは結局……。

わけがわからなくなってくる。家系図を眺めても、誰がだれだかわからない。そこで私は小さんの落語を聴きながら、エピソードを読むのだった。                               (p55)
 
 『百年の孤独』を読んでいたはずが、気付いたら小さんの落語を聴いている。友田の脱線はなおも留まらず、五代目・小さんが愛したちらし寿司がアルカディオの布告好きにコネクトされ、そこからは羽生善治の竜王戦における「封じ手」と少年時代の将棋大会の記憶がよみがえる。前章で兵隊に撲殺されたはずのニカノル神父の再登場と五代目・小さんの得意演目「粗忽長屋」が二重写しとなり、友田の脱線はゆるやかに、不思議なロジックの軌跡を描いて移行していく。
 この脱線の愉しさ可笑しさが、まずもって本書『代わりに読む』の第一の魅力だ。引用力、参照力、グスタフ・ルネ・ホッケなら<照応>力と言うだろうか。エピソードの外部にある、ぱっと見あまり『百年の孤独』らしくないモノ・コトを探知し、本来なら出会うはずのなかった両者をつなげる、鋭敏なアンテナ。
 『百年の孤独』という小説の内部で語られる驚異のエピソードが、小説それ自体とはかけ離れたなにかと思いがけなく結合し、新たな驚異が生み出される。自分では意識しなかった回路が、バシバシと開通していく感覚。その快楽。
 『百年の孤独』という奔放な空想の書に、妄念による脱線が接ぎ木される。友田は読み、そして書く。作者と読者の幸福な出会いの時空がここに顕現し、両者の境界は融解する。このエピソードから、次はどんな飛躍を見せてくれるのか。どこに連れて行かれるか検討もつかない期待と緊張とを、読者はつねに共存させながら本書の頁を繰ることになる。

Ⅲ ある朝目覚めると、ザムザは——脱線の実践②

私はとにかく脱線し続けた。考えうるかぎりの脱線の方法を試みた。しかもなるべく遠くに。(p84)

 いかに脱線するか、どのようにして、小説から遠く離れるか、そしてまた小説へと回帰するか。友田が試行錯誤する脱線の方法で私が特に興味をひかれたのは、第7章「いつもリンパ腺は腫れている——大人のための童話」におけるその道筋だ。
 長く続いた戦争が終わり、アウレリャノ・ブエンディア大佐は捕えられる。彼には死刑の宣告が下された。おまけに脇の下のリンパ腺が腫れている。激烈に痛くて夜も眠れない。
 これはいわば、マコンドの秋。ひょっとすると冬になりつつある季節かも。実際に『百年の孤独』を読んでみるとわかるが、このあたりのマルケスの筆致はあきらかに暗い。そんななか、友田は「ただひたすら『百年の孤独』を読み続けていた。そして寒くなってからというもの、ずっと首が痛かったのだ」。彼は考える。「ひょっとしてアウレリャノの体とシンクロしているのではないか」(p62)。
 いま現在読んでいる小説と、自分の心身とがシンクロしているように感じる瞬間は、たしかにある。ここではまず小説の登場人物であるアウレリャノ・ブエンディア大佐と著者である友田自身の身体の不調が共鳴している、つまり虚構と現実の境目が、リアルな身体に影響を及ぼすレベルにまで肉薄していると仮定しておこう。
 ともかくいまやアウレリャノ・ブエンディア大佐は死を待つ身であり、脇の下はすごく痛い。にもかかわらず、刑の執行は遅れている。なぜか。大佐が死ねば、マコンドとその周辺地域になにがしかよからぬ結果をもたらす、と敵側は考えているのだ。それゆえ彼らは当局に手紙を出す。死刑執行、どうしましょうか? 
 できることなら、というかどうしたって大佐の処刑は避けたい。彼らは当局からの返事を待つ……否、むしろ待たない。反対に、返事が来ないようにと祈るのだ。「これほどまでに、手紙が来ないことを望んだものが過去にいただろうか」(p65)。
 友田の脱線先がいよいよ定まる。だれかからの手紙を待ち望むがまくんと、彼の願いにこたえるかえるくんとの友情を描いた絵本『ふたりはともだち』(アーノルド・ローベル作、三木卓訳、文化出版局)だ。
 私はここまで読んで、おやっとおもった。届くあてもない手紙を待つがまくんと同じように手紙を待つ退役軍人を描いた小説を、まさに当のマルケスが書いているではないか。
 「大佐に手紙は来ない」(1961年)はマルケスのキャリアのなかでも初期に位置する短篇で、かつてアウレリャノ・ブエンディア大佐(!)が率いた革命軍に身を投じていた老人が、届くあてのまったくない手紙、つまりは恩給を待ち続けるという、読んでいるだけで無性に死にたくなるような話。マルケスの小説で手紙を待つといえば、なんといっても「大佐に手紙は来ない」だ。
 が、友田はあえてその方向への脱線を避ける。彼が進むのは『ふたりはともだち』でがまくんがもらう素敵なお便りのほうであり、老大佐がついに受け取ることのない恩給のほうではない。一体どうしてなのか。
 ひとつには距離の問題があるだろう。脱線先がおなじマルケスの短篇では、AとBとをつなぐ脱線の距離が、おそらくは一駅くらいしかない。容易に徒歩で行ける距離。それではおもしろくない。できればもっと移動したい。なるべく遠くに。
 そしてもうひとつの理由は、アウレリャノ・ブエンディア大佐と著者・友田の体調がシンクロしつつあったことに起因するのではないか、と私は勝手な想像をめぐらせる。
 『百年の孤独』を執筆していたマルケスは、ある朝、泣き腫らした顔をして妻メルセデスの前に現れ、こう言ったのだ。「ついさっき、アウレリャノ・ブエンディア大佐が死んだよ……」。
 似たような(そうでもない?)話を続けよう。私の友人に国内外の晦渋な大長篇小説をひたすら読み続ける苦行僧のような男がおり、彼はマルケスの盟友でもあったアルゼンチン作家フリオ・コルタサルの迷宮的小説『石蹴り遊び』を五回だか六回、ぶっ続けて読んだのだという。彼はその結果、「もう何回か読んでいたら、おれはコルタサルになっていたかもしれない……」というシンクロニシティの境地を垣間見たのであった。
 事程左様に、虚構と現実とは危うい均衡のもとに成り立っている。
 ときに虚構は私たちの現実を食い破る。マルケスがアウレリャノ・ブエンディア大佐の死を、あたかも旧知の友人か家族のもののように受け止め慟哭したように、『石蹴り遊び』を読み続けた男が、ある朝ある悪夢から目覚めてみたら髭面のコルタサルになっていたということもありうる。
 そうであってみれば『百年の孤独』と何年ものあいだ抜き差しならない緊張関係を保ってきた友田とアウレリャノ・ブエンディア大佐の不調がシンクロしてしまうのは自然のなりゆきであって、著者はここですこし『百年の孤独』を覆う戦争の暗雲から目を背ける必要があったのではないかとおもうのだ。
 そのように考えてみると、『代わりに読む』における脱線とは、『百年の孤独』のエピソードから派生した妄念の飛躍でありながら、聖典たるマルケスの小説の動かしがたさ、取り返しのつかなさに小説の外部から揺さぶりをかけ、作品が持つ不動性を相対化していく試みといえるだろう。

Ⅳ チュンソフトをぶっつぶせ——脱線の実践③

戦争が始まってからというもの、小説全体には常に重苦しい空気が漂っていた。ブエンディア家の多くの子供たちが命を落としていく中で、作者に愛されているのか、アウレリャノは決して死なず、生かされ続けている。そして、これを一ヶ月の間、前には進まずに繰り返し読み続けている私は苦しくて、もうどうにかなってしまいそうだったのである。どれだけ繰り返し読もうとも、ヘリネルド・マルケス大佐は戦争のむなしさを感じるばかりだし、アウレリャノ・ブエンディア大佐は毛布にくるまってマコンドに帰還してくるのだ。
               (中略)
そして、ある瞬間に私の頭の中で化学反応が起こった。これだ、植木等演じるところの源等の力を借りて、私は戦時下の『百年の孤独』を読み進めることができるのだ。突然、体がポカポカと暖かくなり、力が湧いてきた。よっしゃ、いっちょう無責任に読んでみようじゃありませんか!(p79-81)

 スーパーファミコン全盛期に発売され、今なお傑作として語り継がれているサウンドノベルソフト『かまいたちの夜』(スパイク・チュンソフト)は、閉ざされた真冬のペンションで起きる殺人事件の謎を解いていくゲームである。いくつもある選択肢のどれを選ぶかでエンディングが変わるというシステムが、当時ゲームといえばドラクエストⅡがんばれゴエモンの世界を往還して事足れりとしていた私には、なにかこう未来的な新しさにも感じられた。小学生の頃の話である。
 しかし『かまいたちの夜』をプレイしていくにつれ、私はそのあまりの難しさに絶望の念を募らせていった。                   「こんや、12じ、だれかがしぬ」。何者かが残したメモに書かれた予言どおり、宿泊客のひとりが陰惨な死を遂げる。そこからはもう怒涛の勢いで人が死ぬ。死んで死んで死ぬ。血みどろの殺人劇を、主人公・透はいかにして解決へと導くのか。
 結論から言うと、透=私はこの事件をまったく解決できなかったのである。
 何度繰り返しプレイしてもペンションの宿泊客は皆殺しにされ、透=私もまた、ガールフレンドの真理を守ることができず、無惨な死に見舞われる。画面が血の紅に染まる。
 私とて殺人鬼の暴れっぷりを、指くわえて傍観していたわけではない。プレイするたびに、その都度前回とは異なった選択肢を選んでいたし、もっと言えば数十回、数百回と反復される疑似的な惨死の果てに、私はこの殺人ゲームの黒幕とその手口を、小学生離れした犀利な観察眼と推理力で突き止めてすらいたのである。犯人は、×××さん、あなたです。
 にもかかわらず、透=私はそれからも死に続けた。犯人はわかっているのに、毎度毎度判で押したように宿泊客は殺され、無情なる死が主人公を襲う。だめではないか。そしてついに、私はこのゲームに飽きた。
 想像するに当時の私は、戦時下の『百年の孤独』を読み続ける友田とよく似た心境にあったのではないだろうか。犯人は×××だ。マコンドを覆う戦火はいずれ去る。わかってはいても、どうしたってそこから抜け出せない。気持ちがずぶずぶ沈んでいく。
 両者の唯一のちがいは、私が完全な徒手空拳であったのに対し、友田のほうは脱線という切り札を手にしていたことだ。沈滞した空気を和らげるため友田が切るカードは、かつて植木等が演じた無責任男・源等を、なんとマコンドに密入国(村)させるという驚きの手段である。金細工の小魚をつくるだけのひきこもりみたいになってしまった失意のアウレリャノ・ブエンディア大佐のもとに、あの無責任男がやってくる。

「これぁ、これはどうも。わたくし源等です。光源氏の源に一等、二等の等。まぁ、つまりわたしも長谷川さん(引用者注:ハナ肇)も、大臣も、ルンペンも、人間すべて根は等しくエテコウだ。とこういうことじゃないですかね。てなわけで、よろしく!」と植木等は笑い飛ばすのだった。
一体全体、なんて適当で無責任な男なんだと思った。しかし、これで気持ちは吹っ切れたのだ。何を悩む必要があるのだ。(p82)

 小説という形式においては、それを何度繰り返し読もうが、物語とそこに登場する人物は不変である。もし読者がある小説を読んで、こんな人物、前に読んだときはいなかったのにな、と不審の念を抱いたならば、以前には読み飛ばしていたか狂気の訪れが近づきつつあるかのいずれかであって、それは魔術的なエピソードを満載した『百年の孤独』のような小説であっても例外ではない。
 けれどもときに、私たちは小説を読みながら——別にそれは漫画でも映画でもドラマでもなんでもいいのだが——いまこの物語にあいつがいてくれたら……と夢想せずにはいられない。そんな瞬間が、たしかにある。
 その意味で友田にとっては、戦時下のマコンドの息苦しさを無責任に笑いのめし、物語の換気をしてくれる源等の存在が、火急に切望されていたのである。そして私は友田のこの姿勢から、私たちが物語と付き合っていくうえで大切ななにかを学んだような気がする。
 あなたはある物語と膝突き合わせて座っている。膝を突き合わせるということは、おたがいに正座しているのである。疲れるではないか。先ほどから物語はにこりとも笑わない。しかめ面してちびちびと酒を舐めている。重いなあ、とあなたはおもう。とはいえ相手から見れば当のあなたも同じような顔をしているはずで、そのことはおたがいによくわかっているから、余計にやりきれない。空気がよどむ。ふたりの孤独だ。しかしそこに、がらりと障子を開けて、あなたと相手が見知った顔があらわれたとしたらどうだろう。やはりふたりとも、救われたという気がするのではないだろうか。
 以上『代わりに読む』における脱線の方法をとおして、私たちはいままさに自分が正対している物語の重力を、すこしだけ緩和する方法を学ぶことができた。
 とはいえそれでも物語は不変なのだ。井伏鱒二は自身の短篇小説「山椒魚」の結末部分を選集の収録にあたりごっそり削除してしまったが、では井伏にならって、私たちも物語の気に入らない部分、いらないとおもう部分はさくっと断捨離してしまいましょう、というわけにはいかないのだ。「アウレリャノ・ブエンディア大佐が時代の流れに逆らえないように、物語を読む者は、物語に逆らうことはできない」(p113)。すると一切は単なる気休めなのか。そうではない。友田は言う。すこし長いが、重要な引用。

アウレリャノ・ブエンディア大佐はもう死んでしまったのだろうかと私は思った。私はその結末を改変しようとは思わない。改変しようとしているわけではない。物語を変えることはできないのだ。それは前回学んだことだ。だが、物語を変えようとすることは、あるいは変えたいという衝動は無意味なのだろうか?
死んだ人間が本当に死んでしまったのだろうかと問うことは、決して無意味ではないのだ。何かをやろうとして、何者かにそれを阻まれた大佐の気持ちは、私たちもやはり何かを物語に作用させようとしつつも、それがしっかりと物語に阻まれる経験を持ってしなければ、身を以てその無念を理解することはできないのではないか。私は失敗し、無念や挫折を感じることで、物語の中の者たちの無念さを僅かなりともこの手に感じることができる。この文章を通じて、その感触が少しでも伝わっていればと思う。そこに私は「代わりに読む」ことの不可能性と可能性の両方を感じているのだ。(p123)

 
 物語を変えることはできない。それでもなお、物語になにかを作用させようと試みること。風車を悪魔と看做して突貫したラ・マンチャの騎士にも似た行為を我が身でしてみてはじめて、私たちは物語の人物たちが味わう苦悩や悲歎に近づくことができる。問題は経験だ。その試みの壮大な空振りだ。

Ⅴ 『代わりに読む』を代わりに読む——どうして僕はこんなところに

私は相手を選ばない。誰か一人でいいから、その一人の代わりに読みたい。私はとにかく代わりに読みつづける。(p184)

 本書はひとりの男が『百年の孤独』という小説と対峙し、冗談と脱線の試行錯誤によってその長大な年代記を読み進めていく過程を描いた書物である。
 そしてまた、「代わりに読む」とはどういうことなのか、それは一体なにを意味するのかを追い求めていく著者の思考の総体でもあるのだ。
 巷には世界の古典名著の概略をまとめた本があふれているが、とはいえ私たちがそうしたあらすじ本を読んで、「『カラマーゾフ』、ふふん、おれ昨日読んだよ」などと軽々に口にすることはやはりためらわれる。というよりそれをためらわせる微弱なエーテルのようなものが、この地上にはみなぎっている。つまるところ、本それ自体は物質にちがいないが、それを媒介して営まれる読書という行為は、厳然たる経験として認知されている。そして個人の経験は唯一無二、その個人にのみ所属するものである、と私たちは考えている。
 たとえば『カラマーゾフの兄弟』をある人は一昼夜で読み終えるだろうし、ある人は数か月、あるいは数年、もしかすると一生涯読み終わらないかもしれない。その間その人には、多くの出会いがあり、別れがあることだろう。他の本を読んだりもするだろうし、友人とおいしいごはんを食べる機会だってあるはずだ。
 一日で読んだ人も本質的には前者とおなじで、どんなに脇目も振らず集中した読書を心掛けたところで、喉渇いたとか、尻が痒いとか、今日の夕飯どうしようとか、その人固有の生理的欲求乃至妄念の展開に伴走するかたちで読書は進む。
 私は最初のうち、『代わりに読む』の頁をめくりながら、おそらく本書は以上のようなことを念頭に置いて書かれているのだろうとおもっていた。するとある頁に、私がふわふわとかたちをなさぬまま思考していたことと、よく似た一節を見出したのだ。

代わりに読む者は、代わりに読む際に心に去来したものごとを書き留めていく。ありきたいの結論かもしれないが、それが出発点なのではないだろうか。そして、去来したものごとではなく、できることなら何かに触れたときに去来しうるものの総体、読む側の感応回路そのものを書き出していく。そうすることによって、代わりに読むということが達成される。(p90)

…『百年の孤独』を読みながら、あなたがよく知っているものに向かって、あるいはいま読んでいるものに脱線したり、並走していけば、マツヤマ君の言う「乗り移られたような感覚」を作り出すことができないだろうか。つまり、『百年の孤独』を読みながら、私が違う物語に脱線し、話を少しずつズラすことによって、「代わりに読む」ことは成し遂げられるのではないか。                              (p94)

 成程たしかにそうだよな、とおもいつつ、私はまた『代わりに読む』の頁を繰る。すると、なんとしたことか、「代わりに読む」ことについてようやくなにかをつかんだかにみえた友田の自信は、ある女性の一言「まだ、読んでたんですか?」によって脆くも崩れ去る。「とんでもない間違いをおかしているような不安が襲って」くる。「代わりに読むとは、こんなこととは、ぜんぜん違うのかもしれない」(p96)。
 いましがた、エウレカ! と叫んだことに対して、ほんとうにそうなの?と問われた場合、私は素直に、やっぱりちがうかもしれないと思い直せるだろうか。
 因業な私の性格上、ムキになって、自分のエウレカにとって都合のいいものばかり拾い集めて、もはやのっぴきならない地点にまで行き着いた挙句、ああ、はいはい、私がまちがってございました、とかなんとか不貞腐れた発言をして周囲の顰蹙を買いそうだ。
 本書のなかで友田はつねに自問している。ほんとうに正しいのか、すこしは前に進んだのか、そしてこの文章は一体どこに向かっているのか。前進と後退の反復が推進力となる。
 それはおそらく三歩進んで二歩下がるという単純なものではない。二歩下がるときのその後ずさりが先に踏み出した歩みと完全に一致した二歩であるはずはなく、そうしてまた三歩進んだときには最初の三歩からはだいぶズレた地点を踏みしめている。三百六十五日繰り返した日には当初の予想とは全然ちがう場所にいるだろうし、なにしろ友田は四年読んでいる。
 意図的な脱線を狙いすまして読む友田は、実のところ彼が意図せざるところでも脱線しているのであり、著者自身は京都を走っているつもりが、他者の目からすると、いやあなたがいまいるのはニューヨークだよ! というくらいかけ離れた場所にいる可能性もある。私もまた、友田の思考にできうるかぎり寄り添いつつ私なりの脱線を繰り返した結果、いまいる場所を見失っているのだろうか。
 ひとつだけたしかなことがある。それは本書『代わりに読む』が、『百年の孤独』と友田とんの幸福な出会い抜きには決して書かれなかったという事実であり、もっと言えば、すべて小説とは読むことによってしか書かれないものであるということだ。
 おれはこれまで小説など読んだことがない、とのたまう小説家もおそらくは存在しないだろうが、そんな貴重なサンプルをもし見つけたらこう言ってやるといい。
「あなたは当のその小説を、書きながら読んでいるじゃありませんか?」  あるいはひょっとして、読みながら書いているのかも。
 友田が見出した答えと見出せなかった問題を、直接引き写すような無粋は控えたい。この感動的なラストはあなた自身が読むべきものであり、そうして読み終えたあなたは、やはりなにごとかを書くしかない、そんな気分になっているのではないかと私はおもう。
 それにしても私は、『代わりに読む』を代わりに読むことができただろうか。

Ⅵ おわりに——『百年の孤独』を代わりに飲む

 蛇足ながら、私はまだあの銘柄の焼酎を飲んだことがない。飲みたいのはやまやまだ。しかし……。

何しろ、そんな他人事として読めるのは、最初の一回だけなのだから。二度とは読めない読み方で読む。その一回きりであることが大切なのだ。                                  (p60)

 そうなのだ。一度知ったが最後、知らない状態にはもう戻れない。私は『百年の孤独』をこれからはじめて読む人がうらやましい。それとおなじくらい『代わりに読む』をはじめて読む人がうらやましい。
 けれど私にはまだ、『百年の孤独』をはじめて飲むことができる。できるならそれを、もう読み終えてしまった小説のかけがえのない思い出を、夜を徹してだれかと語らう、そんな愉しい通夜酒の一献として飲みたいものだ。そのときがくるのを楽しみに生を経ている。

                            三柴ゆよし


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