ガルシア

【短篇小説千本ノック9】ありえなかった記憶の物語――ガブリエル・ガルシア=マルケス / 木村榮一訳「この世でいちばん美しい水死人」

 もうすこし、ラテンアメリカの小説について話したいのです。お付き合いください。

 これまで読んだ小説で、最高の一作はなにか?
 途方もない質問である。対する答えを、私は持たない。が、これまで読んだ小説で、読んでいる間中、ほんとうに、ただひたすら楽しくて楽しくて、読み終わるのが心底惜しかった作品、そして何度繰り返し読んでも、汲めども尽きない物語の圧倒的な力を感じさせる小説、これはもう決まっている。即答だ。コロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスの大傑作『百年の孤独』である。
 今回はそんなマルケスの短篇を読んでいきたいのだが、でもやっぱり『百年の孤独』をまだ読んでいない人には、なにをさしおいてもそっちを読んでよ、と言いたい。できるだけ、夏休みとか入院中とか、集中して読めるときにおねがいします。時間がない人、読みたいけどふんぎりがつかない人は、友田とん『「百年の孤独」を代わりに読む』を読むといい。それでもまだ長い! という方は、しかたない、まず拙文をどうぞ。

 さて『百年の孤独』や『族長の秋』といった大長篇のイメージが強いマルケスだが、短篇も結構な数書いている。マルケス文学の源には、はじめて読んだ際、椅子から転げ落ちるほど驚いた(この大袈裟なエピソードが実にマルケスっぽい)というカフカの影響がまずあって、これは若い頃の習作に顕著。
 いま私は習作と言ったが、これもなかなか馬鹿にできない。たとえば、生きている死体となった男の緩慢な死を追う「第三のあきらめ」、軍人恩給を待ち続ける老退役軍人を描く「大佐に手紙は来ない」など、印象的な佳作もたくさんある。
 とはいえ、このあたりの作品はとにかく重い。苦しい。息ができない。マルケス入門にはそぐわない。いきなりここから入って、マルケスってこんな感じか……とか思われてしまうと、それはちがう! もっと『エレンディラ』とか読もうよ! となる。ゆえに、ここではマルケス円熟期の短篇集『エレンディラ』から「この世でいちばん美しい水死人」を扱うことにする。

 海の上を静かに漂いながら近づいてくる、とてつもなく大きな黒い漂流物を最初に見つけた子供たちは、ひょっとすると敵の船かもしれないと考えた。しかし、船にしては旗もマストもなかったので、おおかた鯨かなにかだろうと見当をつけた。浜に打ち上げられた漂流物にまつわりついている海藻やクラゲの触手、無数の小魚、ごみ屑などを取り除いてみると、下から水死体が現れた。(ガブリエル・ガルシア=マルケス / 木村榮一訳「この世でいちばん美しい水死人」以下太字部分は同作の引用)

 のっけから、そんな馬鹿な、と思う。いったい、この世に「敵の船」「鯨」に見紛うほど巨大な水死体があるだろうか。無論、ないだろう。が、語り手はいたってまじめに、水死体の描写を重ねていく。
 いや、正確には水死体の描写ではない。水死体を見つけ、それを取り巻く人びとの右往左往、てんやわんやを、マルケスは描いていく。そこにこそマルケスの特異性があるだろう。
 水死体の身長は、目方はどのくらいなのか? 肌の色、目の色、髪の色は? 髭はあるのか? どんな服装で流れ着いたのか? 
 マルケスの文章において、こうした視覚的描写は丹念に排除され、読者にはその水死体が「これまでに見かけたどの男よりも背が高くて堂々たる体軀をしており、見るからに凛々しく逞しかった」という程度の情報しか与えられない。あとには水死体をめぐって繰り広げられる女たちの根拠のない妄想と、それに基づく益体もない議論だけが残される。

 年の功で他の女たちよりも冷静な年取った女が、あの水死人をじっと見つめたあと溜息まじりに呟いた。
「顔を見ると、エステーバンという名前じゃないかって気がするね」
 たしかにその女のいうとおりだった。水死人の顔に眼をやった女たちは、そのとおりだと思った。けれども、年若い女のなかには、そんなことはない、この人に服を着せて、エナメルの靴をはかせ、花で埋めてやれば、きっと、ラウタロという名前のほうがぴったりするはずだ、と考える頑固なものもいた。

 死体の名前がラウタロだろうがエステーバンだろうが、そんな問題は、なんの意味もないように思われる。しかし、マルケスの文章はこうした「益体もない」細部の描写において冴えわたる。
 同じく『エレンディラ』所収の短篇「大きな翼のある、ひどく年取った男」を眺めてみよう。おもしろいことに、この作品と「この世でいちばん美しい水死人」とは、ほとんど同一の物語構造を持った小説である。すなわち両作ともに、外部から突如あらわれた「異人(outsider)」が村落共同体の秩序を攪拌させ、最終的には再び外部へと戻っていく物語、という構造を抽出できるのだ。
 その「異人」とは、一方は水死体、一方は翼を持ったみすぼらしい老人だが、この二作以外にも、マルケスの小説では同じ構造のエピソードが頻出する。『百年の孤独』において、マコンドに数々の脅威をもたらすジプシー・メルキアデスもまた典型的な「異人」であり、毎年決まった季節に訪れることから、折口信夫言うところの「まれびと」としての役割を担っているといえる。
 閑話休題。「大きな翼のある、ひどく年取った男」では、翼を持ったみすぼらしい老人の正体について尋ねられた「生と死に関わりのあることならなんでも心得ている隣家の女」が、このように答えている。

「これは、天使だよ」と彼女は言った。「きっと、子供のことで来たんだね。でも気の毒に、年を取りすぎていて、雨にはたき落とされたのさ」(ガブリエル・ガルシア=マルケス「大きな翼のある、ひどく年取った男」)

 「この世でいちばん美しい水死人」もそうだったが、マルケス作品に登場する物知り(自称)たちは、いつだって大真面目に、なんの根拠もない珍妙な知識を振りまわす。なのだが、彼らの言説には、読者に、あるいはそうかもしれない、と思わせる不可思議な信憑性がある。そこがおもしろい。

 人びとは最初、天使に樟脳の玉を食べさせようと躍起になった。物知りの隣家の女の知識によれば、樟脳こそは天使らの特別食だということだった。しかし、天使はそれに目もくれなかった。また、苦行者たちが運んできた豪勢な昼食にもそっぽを向いて、口を付けようとはしなかった。そして結局、天使であるせいか、それとも老人であるせいか、その点はよく分からないが、茄子入りのパン粥しか受けつけなかった。(同上)

 「樟脳こそは天使の特別食」と言い張る隣家の女もおかしいが、当の天使も天使で「茄子入りのパン粥しか受けつけな」いというふざけっぷり。出鱈目が出鱈目で相殺されている。そして往々にして、マルケスの小説では、こうした出鱈目が現実になりかわる。というより、現実そのものが出鱈目なのだろうか? 

 あらためて繰り返すまでもなく、あの男はエステーバンという名前にちがいなかった。皆さん、ここにおられるのが、ウォルター・ローリー卿です、と紹介されたら、男たちも英語のアクセントや肩にとまっている金剛インコ、人食い人種を殺すための火なわ銃を見て肝を潰したことだろう。しかし、エステーバンという名の男はこの世にひとりしかいないし、そのエステーバンがいまはニシンのように地面に転がされている。

 ひとりの老女の発案によるエステーバンの名が、いつの間にか、すべての村人に受け入れられている。もはやエステーバン以外の名は考えられない。ラウタロ? だれだ、そいつは? 
 こんな立派な、堂々とした男には、やはりそれに見合った盛大な葬式が必要だ。「赤子を捨てるように水死体を海に流すのはあまりにもかわいそう」だというので、見ず知らずの男のために代理の父母を選ぶことになるが、「よし、それなら自分が兄弟に、伯父伯母に、従兄弟になってやろう、とみんなが言いだして、村じゅうのものが水死人のおかげで親戚になった」。そんなわけで、村内の親類関係が更新される。水死体と、それにまつわる突飛な空想が、村の秩序そのものを変えてしまったのである。あまりに呆気ない。
 当初は、そんな馬鹿な、と思っていた読者も、ここまでくると、よし、そんならいっちょう、この出鱈目に最後までつきあってやりましょう、という気持ちになる。もはや読者にとってもただの水死体ではない。彼の名は、エステーバンだ。そう、エステーバン。なんだかそんな名前を、ずっと前から知っていたような気もする……。
 そればかりではない。これからはみな、あの「輝くばかりに美しい水死人」の思い出を胸に生きていくのだ。だれかがこんな提案をする。
 堂々たる体軀のエステーバンが、「二度と戸框で頭をぶつけたりしないでどこでも好きなところに出入りできるように、家の戸は大きな戸につけかえ、天井を高くし、床はがっしりとした造りにしよう」
 あるいはまた、「エステーバンの思い出をいつまでも大切にするために、家の戸には明るい色のペンキを塗り、額に汗して岩を削って井戸を掘り、絶壁に花の種を蒔こう」。こうして人びとの生活は一新され、いつしかそこはエステーバンの村と呼ばれることになるだろう。

 よくよく考えてみると、とんでもない話だ。
 ひとりの水死人の漂着によって、生活様式や親類関係、果ては村の歴史までも書き換えられてしまう。歴史改竄といえば、思い出すのは『百年の孤独』の一挿話だ。そこでは軍による大量殺戮が一夜のうちに忘れ去られてしまうという驚愕のエピソードが語られている。おそらくは軍部の情報操作と事実隠蔽を誇張したこのくだりは、小説のなかでもひときわ陰惨な印象を残す。
 「この世でいちばん美しい水死人」を「ありえなかった記憶の物語」とするならば、『百年の孤独』の挿話は「なかったことにされた記憶の物語」である。水死体の漂着によりありえなかった記憶を共有された村人たちと、軍によってなかったことにされた殺戮の犠牲者たちとは表裏一体なのだ。
 嘘とまこと、虚構と現実を隔てる壁は、おそらくはそれほど高くも丈夫でもない。嘘はいつの日かまことになり、現実は明日にも虚構に変じ得る。マルケスはそのことのおそろしさも、そこから萌芽する物語の豊かさも知悉していたのだろう。嘘かまことか、真か偽か、それが問題ではない。両者はつねに逆転の可能性を内に秘め、ほんの一押しで、世界の色彩を根本から変えてしまうのだ。
 嘘をつくこと、つかれること双方の快楽と恐怖、それこそが、いまだ有象無象の追随者を生み出し続けるマルケス文学最大の魅力といえるだろう。

 次回はイタリアの幻想小説家ジョヴァンニ・パピーニの作品を扱う予定です。

☆ 今回読んだ本
ガブリエル・ガルシア=マルケス / 鼓直・木村榮一訳『エレンディラ』(ちくま文庫)

 おまけの一冊
寺山修司『赤糸で縫いとじられた物語』(ハルキ文庫)
⇒ マルケスには多くのフォロワーがいるが、寺山修司もそのひとり。なんとマルケスに無許可で『百年の孤独』を映画化(『さらば箱舟』)してしまった! 本書はそんな寺山の、抒情と幻想に満ちた童話集。『エレンディラ』に通じる味わい。


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