開会式のゲーム音楽を喜んで良いのか

先に結論を書きます。

「そもそもこんな非常識なタイミングで五輪開催しなければ多くのゲーム音楽ファンが素直に楽しめたんだよ、なんでそうしなかったの?」

という点で合意形成しましょう。

背景

五輪開会式で入場曲にゲーム音楽が使われたことに対して、古くからゲーム音楽産業に関わる方からは総じて「ここまで認められる日が来て嬉しい」という反応が目立ちました。

これに対し、五輪開催のみならず五輪を楽しむことに怒りを感じているライターのワニウエイブさんが、このような記事を出し、賛否両論の状態です。

観測した範囲でも、「よく言ってくれた」という人もいれば、「政治的な主張にゲームを利用しているのはどっちだ」といった反論もあります。

私の感想としては以下のようにツイートしました。(ツリーに続きあり)

そしてこの記事を受けて、電ファミさんが以下のような回答を提示します。

しかしこの記事に対しても、「自分達の気持ちを素直に吐露したら分断と言われるのか」的な(※だいぶボカしています)反論が出ていて、かつ、最後に「建設的な意見が増えてほしい」としつつも、この記事内ではその事例が提示されていないので、結局この記事も「冷静に考えている人と感情的に怒っている人」という構図で分断を保存してしまっている……と感じました。

というわけで、「建設的な意見」の一例として記事を書こうと決意した次第です。参考になりましたら幸いです。

楽しみたいけど開催は批判したい

とにかく今は「五輪を素直に※1楽しみたい」と思っても、各方面から「それは五輪開催を認めたということか」と思われたり、挙句の果てには政府に「開催した結果多くの感動を生んだ、開催した意義はあった」などと片付けられてしまいかねない、みたいな言説がまかり通ります。

※1:コロナ禍で開催した政治的意図と選手たちの純粋な努力を分離して

いやちょっと待ってほしい。よく考えると「それはそれ、これはこれ※2」で、ゲーム音楽が使われたのはいいけど、開催は延期した方が良かったよね?という意見もできるはずです。

※2:選手は選手で頑張った、政府は政府で今開催したらダメだろう

ただこの真っ当な意見が、「通るだろう」という人と「通らないだろう」という人で分断が生じます

つまり、我々は今どんな認識で争っているかと言うと、

A:五輪を楽しんだとしても、開催自体はそれとは別に批判できるし、批判は聞き入れられるだろう

B:五輪を楽しんだら、開催自体を批判しても、批判が聞き入れられないだろう

お分かりいただけますでしょうか。「開催自体を批判したい」という意図では、まったく同じなんです。見解が違うのは、それを相手(とくに政府)がどう受け止めるかという点にあります。

私および私の周りでは、Aのように「応援したり楽しんだりすることと、開催自体を批判することを両立しよう」と言う方が多いです。が、声に出しづらいだけで、Bのように考える方もいらっしゃると思います。

(開催自体に賛成という方も、もちろんいらっしゃると思いますが、おそらく8割方は反対だろうという希望的観測で書いています。開催に賛成しつつ楽しんでいる方は、私とも意見が違うので、この記事では合意形成に至ることはできません)

私は、開催前から五輪に対するスタンスを表明(絶対延期したほうがいいけど、開催されたら楽しむ)していましたが、GameSparkさんの記事を読んで、私も「100%楽しんでいるわけではない」という事はチクチク言っていかなきゃいけないな、と態度を改めました。

こういうチクチクは、100%楽しみたい人には水を差すかもしれませんが、大事だと思います。何より、感染者数や病床の逼迫状況からしても、明らかに手放しで楽しめる状況ではないので。

「楽しむことが許せない」と言ってしまうと、私のように「開催にはもちろん反対だけど、それはそれとして楽しむ」という人と勢力が分断されてしまいます。勢力の分断というのは、「現在の最大勢力にとって最も好ましい状況」であることは明らかでしょう。

私としては、楽しみつつもチクチク言っていくことで、「誰のせいで100%楽しめない状況になっているのか」という根本原因のほうに皆で目を向けていく、というのが今私達のとれる最大の抵抗ではないかと思います。

「楽しむことが許せない」の合理性

一方で、「楽しむことが許せない」という意見もある場合においては正しいと思います。それは、「皆で一致してこんな五輪は楽しまない、開催の意義は無い」というスタンスを表明できる場合=分断されない場合です。

これは、皆さんが五輪をどれほど楽しみにしていたかにもよるのですが、私は、多くの人がそうするのは難しいと思います

それがいかに「政治的に利用されようとしている」とはいえ、アスリート自身は政府のために努力しているわけがありませんし、ゲーム音楽を選んだ人もまさか政府に頼まれてやったわけではないでしょう。

そこには純粋に、ゲームに勝って世界一になろうとする選手と、日本の文化の良さを世界に伝えようとするスタッフがいるだけです。これに「感動しないように頑張る」方が、多くの人にとっては、少なくとも私にとっては難しい。逆にそれをできる人は、偉いとも思います。

しかしそれで仲間を増やすのではなく敵を増やしてしまっては、元も子もありません。自分たちで政府のスケープゴートをせっせと作っているようなものです。

我々は「今五輪を楽しむべきかどうか」で分断される必要はなくて、今楽しむにせよ、意地で楽しまないにせよ、「あとで絶対に感染拡大および五輪失敗の責任を問うてやる」という方にフォーカスするべきです。

アスリートは頑張ってますけど、開会式が残念だったのと、選手村で感染者が出まくってるので、私はもう五輪自体もほぼ失敗だと感じています。

なぜこんな非常識なタイミングで開催したのか

そもそも、延期してコロナ禍が収まってから開催してくれたら、我々がこんな楽しむべき・べきじゃない、なんて葛藤を抱かず、100%素直に楽しめたわけで、コロナ禍で開催したから素直に喜べないし喜んだことを批判されるような分断を生み出している。

そう考えると、我々が「開会式のゲーム音楽を楽しむのは開催の肯定だ、いや違う」と分断されること自体が矮小であり、「こんな非常識なタイミングで開催しなければ多くの人が楽しめたんだよ、なんでそうしなかったの?」というベクトルであれば、より多くの人が同じ方向を向けるのではないでしょうか、というのが本記事の提案です。

ほんとに、「なんで延期しなかったのか」はスポンサーまでも疑問を呈しているレベルで、わかんないんですよね。

それはそれでコストも掛かるだろうけど、今我々が受けているコストやリスク、本来得られるはずだった利益の損失と比べて割に合うとは到底思えない。ここの議論を見たいですね。


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