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ベトナムと南宋(なんそう)の話

 先日の12月21日(木)にYOU TUBEで『ニュースあさ8時!』、通称”あさ8”というニュースチャンネルを見てましたら、思いがけず百田直樹氏が、古の中国にあった『南宋(なんそう)』の話題に触れてくれました。⇩
 「…あの時、南宋には徹底して金(=女真族)と戦うんだと言った人物がいたが、いや金と戦ったら駄目だ!と言った人間がいて、、、今でも、まだまだこの人間の像に中国人は唾を吐くと言う。その像は杭州、風光明媚な西湖にある。」
 
 こんな⇧感じの話題をゲストの石平氏や有本香さんと話されてました。
 。。。嬉しい―😊😊😊!

 ”えーーと、名前は何だったかな、、” と悩む携帯の液晶画面越しの百田氏に向かって、
 ”南宋の英雄は『岳飛(がくひ)』だよ!、岳飛を殺した佞臣は『泰檜(しんかい)』!!”と、思わず子供の様に声を上げそうになりました。。😅
 チャンネル視聴者多しと云えども、この中国故事を直ぐに思い出した人は少ないんじゃないかなーと、私って主婦なのにもしかして博識!?と朝からちょっと嬉しくなりました。😅😅

 しかしこれも、2022年8月に自費出版したベトナムのクオン・デ候自伝『クオン・デ 革命の生涯』翻訳作業の賜物です。。。

 以前ここ⇒『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第14章 支那へ渡り、そして再び日本へ~にも書きましたが、クオン・デ候は、1923年頃、中国杭州に居た潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)を訪ねた後に、洛陽に駐留してた直隷派の北閥軍人呉佩孚(ご・はいふ)を訪ねました。この時、中国杭州(こうしゅう)に関して特に詳しく語っています。⇩

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支那には、こんな諺があります。
 『上有天堂 下有蘇杭』
 (あの世には天堂が有り、地上には蘇州と杭州有り)

 これだけで十分、杭州がどんなところか想像できるでしょう。
 上海から杭州は、汽車で4、5時間程。交通の利便性から、商売は大変繁 盛しています。
 西湖の美しい風景を目当てに、毎年上海から大勢観光客が訪れるので、西湖周辺には旅館が立ち並んでいます。
 
 西湖十景の名は特に有名で、その昔、清朝の乾隆帝(1711‐1799)が杭州行幸の折、十景の其々に4文字を彫り込んだ石御堤を建立しました。
 現在では、この十景のうち殆どの景観が『桑海の変』と同じ運命を免れずに、昔日の面影は消え、ただ石碑が建っているだけです。とは言え、観光客の目的は、風景を愛でるというよりも、この乾隆帝の石碑を見に来ると言う方が正しいと言えるでしょう。

 西湖十景以外にも名勝地が沢山有るが、最も有名なのは岳王廟。宋代の忠臣、岳飛(がくひ)の墓です。
 尽忠報国の臣・岳飛は、金族(女真族)を打ち破った名将だったが、佞臣泰檜(しんかい)の諜計に掛かり殺されてしまった。
 けれど、この現代に於いては、廟を訪れる誰もが岳飛の墓前に来ると、皆お辞儀をして敬慕の礼を表して行きます。反対に、岳飛の墓の出口付近に置かれた泰檜夫婦の像は、皆が小石を投げつけるので、鉄製の像にも関わらず鼻や顔が欠け崩れ落ち薄汚れてしまっている。

 廟に、支那人のこんな対句があります。
 『黄泉(青山)有幸埋忠骨 黒(白)鐵無 (无)辜鋳佞臣』
 (黄泉は忠骨(忠義の臣の骨)が埋められて幸せだ。
  無辜の鉄は佞臣 に鋳造され殊更不運である。)
 
     
『クオン・デ 革命の生涯 第14章』より

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 クオン・デ候然り、又潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)も抗仏ベトナム志士もみな漢詩に通暁、彼らの文章には中国故事や漢詩が多く引用されています。初期の抗仏志士達は殆どが科挙試験合格者で高学歴者だった故、それも当然かも知れません。
 大東亜戦争後、クオン・デ候は、敗戦国・日本に組したという理由からか今日まで、日越両国に於いて『愚昧なベトナムの王子』のレッテル張りをされ続けて来ました。しかし、これが実は真っ赤な嘘だったことは、今後資料が明らかになって行けば徐々に剥がされて行くでしょう。
 やっぱり、嘘メッキは100年も持たない。。。😑

 クオン・デ候の自伝内容には、自己弁護やセンチメンタルな感傷、人間関係の言い訳などが全く無いです。全篇を通して伝わって来るクオン・デ候の性格とは、一言で云って”実に男臭い”というか、細かい事にクヨクヨしない大器の器で、温故知新の土台にロジカル・シンキングの持ち主だった様です。頭山満翁犬養毅翁も、大川周明先生松下光廣社長も、そして松井石根大将も、皆が皆クオン・デ候に惚れ込み、ベトナム解放に懸けた理由が判るなあ。。。というのが私の正直な印象ですが、そんなクオン・デ候が唯一、自伝の第14章「支那へ渡り、そして日本へ」で、珍しく中国杭州の故事を引用し、己の感情を表しているのが上⇧の文章ですので、私は、”何故?”??と折から気になっていました。
 それから後に、ベトナム史の中に自主時代(=支那からの独立時代、939年~)中の陳(チャン)朝(1225-1400)時代、『元寇(=モンゴル軍)撃退』でこんな故事があることが判りました。⇩

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 1285年4月、フン・イン省の川岸で元の唆都軍と出くわしたが、この時の安南軍側には、宋の将、趙忠(ちょう・ちゅう)がいた。宋から加勢に来た趙忠は、宋の軍人と全く同じ様に弓を掛けた軍服を着ていたので、戦の中でこの趙忠の姿を見たモンゴル軍は、宋が支那を恢復し安南を扶けに来たのだと思い込み、敵兵は怖れを成して皆逃げ出してしまった。逃げ出す兵を安南軍が追撃したため、敵軍は甚大な被害を出し北へ後退した。
 この勝利の報が伝わると、興道王は喜んで帝へ奏上した。”我が軍が初めて勝ちました、軍の士気は極めて盛んで、敵は負けを引いたばかり。今こそ大軍を出して昇龍(=ハノイのこと)を奪回できましょう”
     
 チャン・チョン・キム著『越南史略』より

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 ベトナムも、日本と同じくモンゴル軍の襲撃を2度に渡って撃退しましたが、劣勢だった安南(あんなん=ベトナム)軍の加勢に駆けつけたのが、宋の将軍趙忠(ちょう・ちゅう)という人物です。お陰で安南軍は、見事元軍を撃退しました。
 因みに、南宋(なんそう)をネットで調ると、⇩

「1121年、靖康の変で北宋が滅んだ後、江南で再建された王朝。都は臨安。江南の開発を進め経済が発展した。元のフビライによって1276年に滅亡した。」 (世界史の窓)

 滅亡した南宋の将軍が、ベトナムへ加勢に来た。その姿を見た元軍(=内訳は雇われの寄せ集め漢人軍)が恐怖で総崩れしたという。。。。それで結局、ベトナム陳(チャン)軍は元寇を2度も撃退出来たのだから、”滅亡した旧南宋軍人が、余程多量に安南(=ベトナム)に流れて来てたんだろうなぁ。。”と私は想像してます。😑
 出なければ、話の辻褄が合わないっ。💦💦

 旧南宋軍人は多分、多くがそのままベトナムの地に帰化、土着化したのでしょう。
 そして時は流れ、反フランス植民地解放闘争時代に、グエン朝始祖嘉隆(ザー・ロン)帝直系子孫として生まれ落ちたクオン・デ候も、世界を流浪する中で中国杭州を訪れた時、ベトナム陳(チャン)朝時代の故事『旧南宋軍の安南救援』に想いを馳せていたのは間違いない。
 そして、当時(戦前)の日越の知識人なら、この故事は”常識”の範疇だったのかも知れません。。。多分。

 さて、今日はさらに、私の妄想ベトナム史💦(笑)を一歩先に進めたいと思います・・・。😅
 以前この記事⇒私説-新ベトナム史解説『秦・始皇帝の南越始末』に書いた様に、始皇帝の『南越始末』を請け負ったのが、元秦官尉の趙陀(ちょう・だ)でした。
 この秦人・趙(ちょう)氏は、BC208年赴任先だった北越地方辺で『南越国』を建国、その後全7代で最期は漢によってBC111年に滅亡しましたが。。。
 。。。ここで注目したいのは、趙陀(ちょう・だ)の嫡男、趙仲始(ちょう・ちゅうし)です。先の記事に、私はこう書いて置きました。⇩

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 「その後即位した趙陽王(母が南越人)は、またまた臣下と共に消え(殺され?)、ではここで『趙家』の血筋は絶えたのか?といえば、私はこれも怪しいと思います。。。
 趙陀には元々仲始(ちゅうし)という嫡男がいて、『安陽王の金亀神伝説』によれば、螺城内の井戸で投身自殺したので、孫の胡(ホ)が即位したことになっています。この胡=趙文王が、何故か皇太子を漢へ送った張本人。ですのでこれはもう、趙本家の仲始は早々フェードアウトし、別の血筋が入れ替わったような気がします。そうでなければ、趙武王死後のいかにも漢頼みの国家運営は不自然だと思うからです。」

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 そうです、”官尉”職の軍人を父に持つ嫡男が、井戸で自殺?とは、何ともナヨナヨした武門の家系には不名誉な事件ではないですか? もし本当なら尚更、武家としては絶対に隠したい、なるべく『戦場での名誉の死』に偽装したい所です。もし本当に、井戸で死んだなら死体が上がるし、では墓は? それでその後どうなった?は、全然解らない。。。

 ここで、私が想像しますに、、、
 現在のベトナム北部ハノイの直ぐ近く、当時古螺(コー・ロア)城内の井戸とは、多分外の川に繋がっていたと思います。だってこの辺り一帯が元々紅河デルタの湿地帯なんですから。
 趙(ちょう)家の正嫡男は、早々に南越国(=北ベトナム)を脱出し、支那に戻って『漢(=秦)』に合流したのではないでしょうか。。。
 そう考えれば、全て辻褄が合って来ます。。。
 ベトナム陳(チャン)朝時代の元寇襲来に、何故か??南宋の将趙忠(ちょう・ちゅう)が加勢に来て元(モンゴル)軍を蹴散らしたというのも、案外偶然じゃないと思って居ます。。。。😅😅


 


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