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興亜会(こうあかい)発起人曽根俊虎(そね としとら)が記した『法越交兵記』(1886)

 『法』は仏(フランス)、『越』ベトナム。 
 米沢藩出身の曽根俊虎氏が、海軍大尉の職にあった時に実際に現地で見たフランスとベトナムの交戦顛末を記した書、それが『法越交兵記』です。
 出版年は明治19(1886)年

 その『交兵=戦役」とは、いつどの戦役に当たるのか、ベトナム人歴史家陳仲淦(チャン・チョン・キム、Trần Trọng Kim)氏編の『越南史略』(1921)から当該部分を省略抜粋してみます。⇩

 「1881年、再び仏軍の北部侵略口実となる事件(雲南省へ物資運搬中のフランス商人が老開(ラオカイ)で外賊に足止めされた事件)が起こり、フランス軍は船2隻と数百名の軍隊を海防(ハイフォン)、河内(ハノイ)へ出兵、駐留した。
 翌年3月フランス軍がハノイ城攻撃を開始。フエ朝廷から援助要請を受けた清国からの派遣軍が北寧(バクニン)省と山西(ソンタイ)省に駐留してフランス軍と対峙した。このとき清国軍にあった
太平黒旗軍の劉永福(りゅう・えいふく)軍の攻撃で仏軍大佐が戦死すると、仏本国のパリ下院議会がベトナム北部侵攻決議を即刻可決、それがフランス政府の550万フラン戦費捻出を後押し、これ以後本格的なフランス軍のベトナム北部侵攻が決定的となった。 
 統一性に欠け十分な訓練もなく旧式の銃器大砲で戦うベトナム軍は、 ハノイ、ハイフォン、南定(ナムディン)省など何れの場所でも壊滅し敗走を続けた為、フエ朝廷は1883年フランスと講和条約を締結、対外国交渉権をフランスに譲渡し、保護国になることを受け入れた。
 北部駐留の清国派遣軍は、ランソン、カオバン、ラオカイ地方に残営するのみとなり、フランスと清国李鴻章 (り・こうしょう)の交渉で天津条約を締結(1885.4.27)、清国もベトナムはフランスの保護国と明確に認めた。」
   
 チャン・チョン・キム編『越南史略』より要約
 
 1858年に開始された仏西(フランス・スペイン)連合艦隊のダナン砲撃から始まり、激しい攻撃を受け続けた東洋国のベトナムが『天津条約』の締結でいよいよ本格的に西洋国家の植民地となることが決定的になりました。 
 此処までの一連の事件、戦乱を現地で見届けた海軍大尉の曽根俊虎が、帰国して筆を執り書き上げたのが『法越交兵記』(1886)でして、その3年前には『清国漫遊誌』も書いてます

 実際に、『法越交兵記』目次国立国会図書館オンラインからほんの少しだけご紹介します。(原本は漢語)⇩

巻の1 
 フランスーベトナム交兵記要目 
 北寧(バク・ニン)城外市街の図
 王室乱胤の沿革
 安南の割省と開港
巻の2
 南定(ナム・ディン)の国旗軍(=劉永福将軍)
 安南が清国に援軍を請う
 炎に包まれるハノイ城
 劉永福の檄文
巻の3
 南定(ナム・ディン)城外の会戦
 北寧(バク・ニン)城砲門の図
 順化(フエ)条約
 越王の密輸 
巻の4
 フランス人の深意
 越人偽りの投降
 越南廷臣による新王毒殺事件
 清国 フランスに対し会戦宣布
巻の5
 フランス使者 越王に謁見
 北寧(バク・ニン)の守兵
 清国兵の敗走
 興化(フン・ホア)陥落
 
 
なんと、全488ページの超大作です。。。
 
ところで、曽根俊虎氏は此の『法越交兵記』が原因で明治21年2月に逮捕されてます。この事件を『筆禍事件』と呼ぶそうなのですが、

 実際の横須賀鎮守法廷府法廷の判決文には『法越交兵記』の文字など一切書いて無いそうです。それでも、『東亜先覚志士記伝下巻』(黒龍会編)や『アジア歴史事典第五巻』には、「曽根の『法越交兵記』が筆禍事件を起こした」と書かれているそうで、これに関して佐藤茂教氏は論文『引田利章の経歴紹介と曽根俊虎に関する若干の史料』(1972)の中でこう自論を述べています。⇩

 「『法越交兵記』が、はたして筆禍に問われる程のものであったろうか。
 『法越交兵記』は、確かに安南・清朝側を弁護し、フランスの非道を語気鋭く非難してはいるが、日本政府に及ぶところは見当たらない。
 思うに、当時条約改正を間近にした日本政府の欧米列強への思惑と、対清国との朝鮮問題にかかわる外交上のなりゆきからと、(中略)いずれにせよ『法越交兵記』の起訴事実は、奉職履歴中の裁判記録には明記されていないのである。

 そして理由をこう考察されています。⇩
 「一つは、彼の逮捕が…出版後一年少ししか経ってなかったこと。(中略)更にこの推測を深め、誤伝を助長させるに一役買ったのは、曽根家の要望による(中略)一切の門外不出」
 「もう一つは、『法越交兵記』には、熾仁親王の御序辞《彰往察来》を賜っていることである。(中略)(この親王の御序辞が)『法越交兵記』を表立って避難出来ぬ一因とみることが出来よう。」

   『引田利章の経歴紹介と曽根俊虎に関する若干の史料』より

 なるほど…。
 要するに、”島国の海の向こうで西洋植民地主義国家の横暴は酷い、もうそこまで侵略の手が来ている、同じアジア人のベトナムも清国も悲惨だ、日本も早くしないと大変だ~”と、愛国心を以てお国の為に見聞記を書いた訳ですが、それでまさかの『逮捕』。。。トホホ。😭😭

 けれど「熾仁親王の御序辞《彰往察来》を賜っ」た為、「表立って避難出来ぬ」ので判決文には「官吏の職務に侮蔑したり」とだけ書いてあるというような流れだったようです。。。トホホのホ。。。

 とは言え、残念ながらこの原本は漢語で私はまだ本文読めてません。どなたか中国語の判る方が翻訳出版してくれないかな~。原本内容を詳しく読んでみたいので、是非お待ちしてます。。。😅😅

 ついでに、曽根俊虎氏は、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏の自伝中に登場した宮崎滔天(みやざき とうてん)氏が書いた自伝『三十三年の夢』に登場します。

 病臥にあった友人の代わりに『広島移民会社』の斡旋する日本人移民シャム(タイ)に引率するなどした後、タイでの山林事業を思い立った滔天氏は、犬養木堂翁(=犬養毅)からこんな忠告を受けました。
 「…人身売買会社的ならば知らず(移民会社を指す)、殖民で以てやり付けよと云うことは、とても君等や吾々では六ケ敷いテ、まァ中止にしたがよかろう、」
 
 「暫く昼寝でもして待って居たまえ」
と言われて暫く待って居ると、本当に外務省から「支那秘密結社の実情視察」密命が来た。
 その出発準備で友人宅を訪ねた滔天氏は、そこで曽根俊虎氏に会ったのです。⇩

 「…座に一客あり。余の室内に進み入るを見て、満面に喜色を湛えて独語して曰く、イヤこれか、兄さんにそっくりじゃ、誠に見事だわいと。この人年歯五十左右、短髪ことごとく白く、躰幹短小なれど軽微の風あり。余や未だその何人なるを知らざるなり。座に着くに及んで小林君為に紹介せり。云う
 「これは曾根俊虎君じゃ、曾て君の御亡兄八郎君と兄弟の交わりありしもの、近頃君の事を聞いて、一度会いたいと云って居たが、今日は丁度好い時であった」と。
 余も嘗て曾根君の名を聞けり。」
           
『三十三年の夢』より

 この⇧「御亡兄八郎君」とは、「明治の初年に自由民権論を主張して四方に漂浪し、十年西郷の乱に予して戦死したる」滔天氏の長兄八郎氏のこと。 
 「げに人生の因縁より奇なるものはあらず。」と滔天氏は言い、期日大森の曾根邸を訪ねた滔天氏は、一封の古手紙を見せられるのです。
 
 「これまた亡兄の筆跡にして、明治六年、馬賊の一群支那一角に蜂起せる時、在清の曾根君に寄せたるものなりき。書中の一節に曰く、
 「先般馬賊の一群蜂起せりとの報あり、爾後状景いかがに御座候や。早速御詳報下され度候。事によりては万事を放棄して直ちに大陸に踏み込み度きものに候。島国の事に至っては一も謂うべきものなし。唯一日も速かに大陸の空気を呼吸仕り度、それのみ相楽しみ待居り申し候…」」
           
『三十三年の夢』より

 明治維新後幾年もないのに、日本社会に漂う閉塞感と厭世感を訴えていた若者の何と多いことか。
 「西郷の乱」西南戦争後、明治政府に絶望し、日本を捨て大陸を目指す若者が続出していたというのがあの頃の偽らざる事実。もしかして現代と全く同じ状況かも知れません。。。

 その後滔天氏は、俊虎氏から紹介された興中会の支那人陳白氏を通して孫文(そん・ぶん)氏と知り合うことになるのです。
 
 明治43年5月31日に曾根俊虎氏はお亡くなりになりました。芝白金の興善寺には、墓参する孫文氏の姿がありました。

 俊虎氏の生前を知る養女タケ女史によれば、海軍を退役した俊虎氏の所へ孫文氏が時に訪ねて来ると、「角ソデがまたついてきよる」と言っては2人で仲良く笑い合っていたそうです。。

 

 (角袖・・・多分昔の中国の胡服のこと)
 
 

 

 

 


 

 

 
 
 

 
 
 

 

 
 
 


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