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本の登場人物・時代背景に関する補足説明(5)

『遺骨引き取り』
  → 「1956年(昭和31年)正月、東京・天沼の小さな古びた戸建てに住む安藤ちえのと甥のもとを、クオンデの遺児が予告も無く訪れた。」(牧久著『安南王国の夢』)

『帰還式』
  → ベトナム王国のクオン・デ殿下没後5年目の1956年、殿下の息子2人とカオダイ教教主が日本へ殿下の遺骨を引き取りにやって来ました。そして遺骨を迎える『帰還式』が、ベトナム共和国大統領に就任したばかりの呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)大統領の手で、盛大に執り行われました。遺影と遺骨は、正式喪服を着用した多くの人民に哀悼され祖国へ帰還したのです。インドシナ休戦協定後、亡命先のアメリカから祖国に戻り、ベトナム共和国の大統領に就任した呉廷琰氏が、就任後一番初めにやりたかった仕事だったのだろうと思います。

『ベトナム復国同盟会』
  → 1932年、クオン・デ殿下は上海に同志を招集し、ベトナム光復会を改組してベトナム同盟会を結成しました。名前の通り派閥・主義・宗教に関係なく、その頃国内外に散らばっていたベトナム同志の大小組織を吸収して大きい統一組織へと発展しました。

『沢山の貴重な資料や書籍』
  → 1950年6月に果敢にベトナム帰国を試みたクオン・デ殿下でしたが、何故か帰国に失敗した数か月後から急に体力が衰え始め、病院で「肝臓癌」と診断されました。そして翌年の1951年4月そのままあっけなく亡くなってしまいました。日本医大第一附属病院に入院して居た時に、一度病院を抜け出して自宅に戻ったという逸話があります。多分、生命の危機を悟り、この時身辺整理を行って、留守を守っていた安藤ちえのへこれら「漢語、日本語」の貴重な資料を托したのかも知れません。

『チャン・リエット』
  → クオン・デ殿下のご長男ですね。ですから、阮朝開祖・嘉隆帝の嫡男・景(カイン)皇太子の直系の子孫に当たりますね。

『安南(あんなん)』
  →「『安南』なる文字が唐時代の遺風であって、支那の宗主権を示すものであるために之を忌み、自ら固有の国名『越南』を現在もなお盛んに用いているのを見ても、その国民の志すところが察知せられる。遂に明治16年、フランスは越南を保護国にしてしまった。国名も嘗ての国辱を思い出させる「安南」に代えられた。」(安南民族運動史概説)
  明治維新後の日本は、西洋民主主義国との親和協調路線であったから、「安南」の方が「越南(ベトナム)」より当時の日本社会で一般的な呼び名だったようですね。

『十二使君の乱』
  → 呉朝の第2代目皇帝・南晋王の時、各地で「使君」を名乗る者が個々に独立を唱え反旗を翻しました。この12使君による反乱期(945‐967年)をベトナム史では、十二使君の乱』と呼んでいます。

『丁先皇(ディン・ティン・ホアン)帝』
  → 本名を『丁部領(ディン・ボ・リン』と言います。12使君の乱を平定し、968年に皇帝を名乗りました。(968‐979) これが、『丁朝(968-980)』です。国号は『大瞿越(ダイ・コ・ベト)』、都は『華閭(ホア・ル』です。現在ホーチミン市一区に「ディン・ティン・ホアン通り』がありますね。日本人に何故か人気のカニ春雨のお店があります。。。因みに、『ディン・ボ・リン通り』はビンタイン区にありますね。。昔は雨が降ると直ぐに道路が河のように冠水していました。。  

『黎桓(レ・ホアン)』
 → 「前黎(レ)朝の『帝祖大行皇帝』の本名。丁先皇の時に12使君の乱平定に功績あり、皇帝から『十道将軍=全軍総司令官』に任じられました。   中国から宋軍の侵入があった時に、丁朝の幼帝を廃して黎桓将軍が皇帝に   就きました。これが『(前)黎朝(980‐1009)』です。  

『支那の明国』
  → モンゴルの『元』を破った朱元璋(太祖・光武帝)が、大陸に建国した漢人の国。

『黎太祖(レ・タイ・ト)』
  → 「後黎朝創始建業の帝王(1428‐1433年)。15世紀前期の10年にも及ぶ明国の支配に抗して、祖国の独立と統一を実現した民族的英雄。別名『平定王黎利(レ・ロイ)』」 (『ベトナム人名人物辞典』より)

『莫登庸(マック・ダン・ズン)』
  → 「後黎朝末期、貧しい出であったが武才により出世すると、最後は反乱を起こして、黎王に退位を迫り自ら帝位に就いた(1527年)。7代前の祖先に、莫挺之(陳朝代の名臣)がいる。」(『ベトナム人名人物辞典』より) 

『阮淦(グエン・キム)』
  → 「中部出身、黎朝代の忠臣。黎朝が莫氏に帝位を奪われた後、前帝の子・荘宗帝を探し出して擁立し、莫軍討滅に連戦連勝するが、仲間の裏切りで毒を盛られ大業半ばで横死した。 (『ベトナム人名人物辞典』より)   現在ホーチミン市にこの英雄の名を冠した有名な家電量販店がありますね。。。

『黎荘宗(レ・チャン・トン)』
→ 黎昭宗帝の王子、黎維寧(レ・ズイ・ニン)のこと。1532年に阮捦(グエン・キム)に擁立されて莫氏打倒の兵を招集した。(『ベトナム人名人物辞典』より)
 莫氏を倒し皇帝に即位(1533)しましたが、これが『後黎(レ)朝』の始まり、 『南北朝時代』の始まりでもありますね。元号は『元和』、1548年に34歳で亡くなりました。

『リン河』
  → ベトナム中部フエ市内に流れる河で、『香(フゥ-ン)河(Sông Huong)』のことです。リンは喃字(チュ・ノム)でしょうか、さんずいに『靈』と書きます。  今でもとても美しい風景ですよね↓​​

『阮薦(グエン・チャイ)』
  → 「『後黎(レ)朝』に於ける建国第一の功臣。黎利(レ・ロイ)が明軍を撃破した時の名軍師。彼の記した『平呉大詰(ビンゴ・ダイカオ)Bình Ngô Đại Cáo)』は有名。」     (『ベトナム人名人物辞典』より)
  → グエン・チャイの『「平呉大詰(ビンゴ・ダイカオ)Bỉnh Ngô Đại Cáo)」は、ベトナム史上とても有名です。 年配のベトナム人とビジネスの場で会ったとき、「Nguyễn Trãi」の「 Bình Ngô Đại Cáo」、そして「Cái Văn : nhân nghĩa chi cử, yếu tại an dân・・・」と、冒頭文だけでも暗唱して   見せれば、びっくりされて尊敬されること間違いない?かもです。。
 現在ホーチミン市一区の中心地に『レ・ロイ通り』とその直ぐ傍にグエン・チャイ通り』がありますね。。昔はお店も少なくのんびりしてましたが、今はもう大都会ですよね。外資系の高級ブティック・レストランばかりですので、私は最近殆ど立ち寄ることがなくなりました。。。

本の登場人物・時代背景に関する 補足説明(6)|何祐子|note
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note



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