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ベトナム革命家クオン・デ候の付き人だった何(赤松)盛三氏のこと。

  

 時は流れて1929年、大久保百人町167番地に女中と居住していたクオン・デは、府下大久保町西大久保144に転居し、依然として犬養頭山満の援助により辛うじて生活し、外出も少なく、来訪者としては、赤坂区青山北町5の16に住む何盛三の外にはほとんどない有様であった。
 ちなみに記す。
 この頃の来訪者何盛三とは、当時のクオン・デ、ファン・ボイ・チャウらをめぐる数奇にみちた暗灰色のドラマの舞台裏に、しばしば影のごとき役割をになってあらわれる日本人である。

『ヴェトナム亡国史 他』より

 長岡新次郎氏・川本邦衛氏編の『ヴェトナム亡国史 他』の巻末解説に、この様に⇧書かれています、『何盛三(が もりぞう)氏』
 2年前、奇縁でクオン・デ候の自伝を日本語翻訳し出版した私のペン・ネーム『何祐子(が ゆうこ)』と苗字が同じ😅😅。とても他人とは思えない。、、ということで、以前こちらの記事ベトナム・サイゴンの婚家 ”HÀ(ハー)GIA=何(が)家”の歴史を辿るにも取り上げ、そこにこう書いておきました。⇩
 
 「 。。。岩倉使節団に一等書記官として参加、晩年は元老院議官に貴族院議員…、やはりもの凄い優秀だったようで、またまた何故かとても嬉しい🤗!父何静谷氏『長崎唐通詞』と書いてあるので、『何盛三』の養家はもうここで決まりじゃないのかな~??と勝手に憶測したりして。」

 。。。実は、このこと⇧は、案外あっさり本当だった事が判りました。😅😅
 安間幸甫氏著『蘇る日越史 仏印ベトナム物語の100年』(2021)から、この事や追加詳細を色々纏めてみたいと思います。。⇩ 

 盛三は海軍中将であり男爵の赤松則良の三男であった。父則良は勝海舟と共に咸臨丸で太平洋を渡った最年少の幕臣。幕府派遣の欧州留学生としてオランダで造船学を中心に学び、のちに佐世保鎮守府長官となる。日本の造船界の父的存在であった。母の貞は御殿医林家から嫁いだ。(中略)
 何家は徳川の時代からの中国通詞(通訳)の家柄で、養祖父何礼之は明治時代に「新時代の開明派」と言われた多くの先進人たちの英語の師であった。

安間幸甫氏著『蘇る日越史 仏印ベトナム物語の100年』

 そして、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の『獄中記』邦訳者である南十字星氏も何盛三氏でやっぱり間違いない様です。

 さて、この『何盛三氏』について、1930年頃の広東総領事館と外務省との交換文書に「要注意人物赤松某の件」という記録があり、広東でベトナム革命党員が殺害された事件の被疑者として何盛三と思しき日本人に就いて言及する現地新聞の記事が出た時、総領事館が何盛三本人を呼び出して訊問した時の調書がこちらです。⇩

 何盛三は、「新聞報道は事実無根である。10年来の友人阮福民(=クオン・デ)の紹介による2,3の安南人は知るも、安南革命党には何ら関係は無い。自分が来た目的は広東語と安南語の習得だと語ったが、新聞報道により自分の身の危険を感じ安南革命党員に毎月若干額の援助を続けた。弁護士を使って中国警察に対して無実を伝えている。」と弁明。総領事館側は「中国側とフランス側に不快な感情を与えることは必然だから、自発的に立ち去るのが良い。」と伝えたことを報告している。 

『蘇る日越史 仏印ベトナム物語の100年』

  ここ⇧でワタシが思わず注目したこと。
 それは、盛三氏の供述「10年来の友人阮福民(=クオン・デ)」から、二人の関係は1930-10年で、大体1920年位から始まったと推定出来たこと。そうすると、前回投稿した1945年の仏領インドシナで日本軍下に編成された『高台(カオ・ダイ)教奉仕隊』のこと」の中の松下光廣氏の自伝的文章にあった様に、

 「…そのころ、クオン・デ公は、中国名『林順徳』と名乗り、本郷区追分町31番地の第2中華学舎内に身を潜めていた。長崎唐通詞の子孫である国士何盛三(天草町大江・何医師と同家系か?)が、影のように彼の身辺にあった。」            
北野典夫氏著『天草海外発展史』

 と、クオン・デ候と何盛三氏2人のこの関係が1920年頃からスタートしたと確信が持てました。😀

 そしてもう一つ、「自分が来た目的は広東語と安南語の習得」と言っていること。。😅😅 
 何故かと云うと、Wikipediaにこの様な情報があったからです。⇩

 「学習院中等科・高等科で学ぶ。武者小路実篤と同期で、『武者小路氏よりもさきにトルストイをドイツ語で読んだ』とされる。」
                                              何盛三 - Wikipedia

   …私の様に、ベトナム語の一か国語を習得するのに四苦八苦した人間からすると、、、『養祖父何礼之は明治時代に「新時代の開明派」と言われた多くの先進人たちの英語の師』、そして、北京語は中国語学校「善隣書院」で教鞭を取り『北京官話文法』という教材まで発行した実力。ドイツ語も同期ナンバーワン。。。そこへ更に、『広東語と安南(ベトナム)語の習得』まで、、、😅😅 たまにこういう語学の天才肌の人、いますよねぇ、、羨ましい。。。
 しかし、更にです、実は何盛三氏とは、⇩

…広東総領事事件で、外務省の知人として何盛三が名前を出した広田弘毅との関係が見える外務省保存文書もあった。「最近世界に於ける国際補助言語エスペラントの普及の現状 萬国エスペラント協会 日本総代表委員 何も盛三」という1922年文書は、エスペラント語の普及宣伝に使ったと思われるもので、これが外務省ファイルにあった。何盛三から広田弘毅宛てのハガキも一緒であった。

『蘇る日越史 仏印ベトナム物語の100年』

 何盛三 - Wikipediaにも、『エスペラントの活動』にこの様に書いて有ります。⇩

 「1919年12月に創設された日本エスペラント学会 (JEI) に当初から参加し、評議員及び宣伝部委員となる。1920年代にエスペラントをはじめた人なら知らないものはなく、(中略)1920年10月の第7回日本エスペラント大会では、初代駐日フィンランド公使のグスターフ・ラムステッドの講演を日本語に通訳している。1920年11月、エスペラント図書の輸入を行う極東書院を作り、1922年に四方堂に引き継ぐまで続けた。同年衆議院で採択された「国際補助語エスペラント教授調査」に関する請願については、民俗学者の柳田國男とともに署名活動の先頭に立っている。」

 そうすると、何盛三氏とは、実は当時日本でも、”知る人ぞ知る有名人”だった可能性も大いにあり。。。しかも、その人がベトナムのクオン・デ候の蔭の従者として常に傍に有り、あの頃ベトナム革命をサポートしていた!

 ベトナム革命とは、調べれば調べる程本当に奥が深いです。。😂😂

 こうなると当然・必然ですが、『何盛三氏』は普通の血筋ではありませんで、安間幸甫氏も、「何家は明治維新の進取の時代に国際関係の名門と言って良い家柄」であり、「日本と外国との交流の前線にいた何家が、万国共通言語として登場して来たエスペラント語に関心を持ったのも当然であった。」と書いています。
 更に、「何盛三とクオン・デをつなげたであろう驚くべき関係」を物語る、静岡県磐田市旧赤松記念館(上⇧の写真)に展示の『赤松家の家系図』に言及されてますが、この「赤松家、林家、佐藤家、何家の関係は、維新での徳川家臣団の姻戚関係による結束」の華麗なる系譜。。ですが、あまりにも複雑なので、簡単に纏めてみました。。。😅😅⇩

*実父・赤松則良:幕臣、オランダ留学、佐世保鎮守府長官、海軍中将
*実祖母:順天堂医院 佐藤泰然の娘
*実母・(林)貞:御殿医林家出身
  実母の姉:榎本武揚(オランダ留学組)と結婚
  実母の兄:オランダ留学組で初代軍医総監
  実母の弟:長崎何家へ養子(⇒盛三の義父になる)
  実母の弟:佐藤家から養子に入った林(佐藤)董(ただす)、イギリス留学、外交官から外務大臣 

*実姉・登志子:森鴎外と結婚(翌年に離婚
*実兄・喬二:
大鳥圭介の娘と結婚
*実弟・庸夫:米沢潘の色部家へ養子に入る

 。。と、この様に、、華麗なる家系図は更に広がりますが、取敢えず盛三氏の周辺だけ。しかし、こう見て見るとなんと凄い、養祖父の何礼之と母方の叔父林(佐藤)董は共に明治4年の『岩倉欧米使節団』に随行し重要な役割を果たした人物。特に林董氏は、外交官時代に清国・ロシア・イギリス大使と歴任、1902年の『日英同盟』締結の立役者です。
 ベトナム志士達が日本を目指し亡命して来た『ドン・ズー運動』も、林董氏が外務大臣(1906年5月~1908年5月)の時でした。

 ふと、ここでネットで『赤松家』を調べてみると、⇩
 「赤松氏(あかまつし)は、…村上源氏の一流で鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を領した豪族である。関ヶ原の戦いの敗北で一族は離散したが、その子孫の一人則良が明治期に海軍高官となり、勲功により華族の男爵に叙せられた。
 …
赤松円心は元弘の乱において、後醍醐天皇の皇子・護良親王(大塔宮)の令旨を受けていち早く挙兵し、建武政権の樹立に多大な功績を挙げたことから、建武の新政において播磨国守護職に補任された。
        赤松氏 - Wikipedia

 この様に、とてもとても古いお家柄でした。。
 1600年頃のベトナム史はと言えば、フランスがベトナムへ侵略の手を伸ばし始めて来た頃です。⇒「安南民族運動史」(7)~ベトナム略史・呉朝からフランス東侵まで~

 クオン・デ候とも懇意であり、大川塾(=東亜経済調査局附属研究所)を開設してアジア民族の奴隷解放を支援した大川周明(おおかわ しゅうめい)先生と共に『猶存(ゆうぞん)社』の中心人物だった満川亀太郎(みつかわ かめたろう)氏は、日記の中に『日本改造法案大綱』の北一輝氏を滞在先だった中国から呼び戻すに大川周明氏を派遣する際、この交通費は「何盛三氏が自分の書籍を売って捻出した」と書いてあるそうです。

 うむむ、、、『何盛三氏』、、、本当に本当の、昭和維新のキーパーソンの一人に間違いない。😅😅😅
  

 

 

 

 

 


 
 



 


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