見出し画像

ベトナム志士義人伝シリーズ⑯ ~豪侠の義人 陳有力(チャン・フゥ・ルック、Trần Hữu Lực)~

 ベトナム志士義人伝シリーズ|何祐子|note

 1907年に日仏協約が締結され、フランスから外交圧力を受けた日本政府は、当時東京に200人程居たベトナム人留学生へ解散令を発しました。
 
 クオン・デ候ファン・ボイ・チャウの2人には、『国外退去』という重い処分が下されました。クオン・デ候は、ひっそりと東京を出て神戸に向かいましたが、この時クオン・デ候の供をしたのが、元東遊留学生でベトナム革命党の党人陳有力(チャン・フゥ・ルック)氏です
 クオン・デ候は、一旦東京へ戻り、衆議院議員柏原文太郎(かしわばら ぶんたろう)氏と面会の後、最終的に博多門司港から上海へ向けて出港しました。⇩

 「翌日午後2時に警察の車が迎えに来て、私と阮超(グエン・シウ)を駅まで送ってくれて、門司行き汽車に乗りました。私が東京に戻っていた間、神戸警察に拘留されていた陳有力(チャン・フゥ・ルック)は、神戸警察が直接門司港まで連れて来たので、彼も一緒に上海行き船『伊代丸』に乗船したのです。」    
    
「クオン・デ候 革命の生涯 第5章」より

 フランスは、彼等が日本を退去した後、即刻逮捕すべく上海で厳重な捕縛網を敷いて待ち構えてました。危機的状況にあったクオン・デ候が、この時の同行者に選んだ一人が陳有力(チャン・フゥ・ルック)氏だったのは、勿論理由が在ります。
 陳有力(チャン・フゥ・ルック)氏は、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)や黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)氏と同じ中部乂安(ゲ・アン)省の出身で、やはり、先祖代々の儒学名門家の子息でした。けれど、子供の頃から性格は奔放剛毅、躰つきは逞しく、”唯我独尊という風で、その振る舞いは古武士の様だった”、と潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が自伝『自判』に書き遺してます。
 上海に上陸したクオン・デ候一行は、上海→汕頭(すわとう)→香港→澳門(マカオ)を移動した後、クオン・デ候は広州へ、陳有力(チャン・フゥ・ルック)氏と阮超氏は香港へ渡り、そのまま、海外革命活動に身を投じたのです。

*************

 陳有力(チャン・フゥ・ルック)君、乂安(ゲ・アン)の人、本名を阮式唐(グエン・トゥック・ドゥン)。
 父君は、阮式序(グエン・トゥック・トゥ)、号を東渓(ドン・ケ)、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏の師。フエ城陥落の時、官職を棄て郷里に帰り、家塾を開いていた。
 
 君は、身体は壮健、顔は円豊、人並外れて豪放な質、一人歩きの年頃に、はや豪侠の気は人目を引いたという。

 国亡び、仇敵の世となると、恥を知らぬ同国人は西洋ドレイになって行く。君は烈しく憤り、15歳の時、巣南(=ファン・ボイ・チャウの号)翁の門を叩いて、翁の『琉球血涙新書』を手に取ると、懐に隠し家に持ち帰って密かにこれを読んだ。それからは、きっぱりと家業の一切を捨て、以後もっぱらは酒徒剣客、遊侠の徒と交わるなどして、刀剣術を習った。父君も止めなかった。

 西洋人に媚びへつらい、同国人に威張り散らし、私腹を肥やす悪知恵に長けた狐に狸。同じベトナム人でありながら、同胞を殺すなら、必ずそ奴を殺す。これが任侠の仕事であって、己れの禍福利害なんぞは問題外とばかり、君は、フランスの狗になり下がった挙人の阮某を殺して以後、数年あちこちで暴動を起こしていたので、君の捕縛に西洋人は血眼になり、君の行く末を案じた
魚海(グ・ハイ)氏が、強引に君を出洋させた。

 戊申(1908)年の4月、同志と共に日本へ着くと、東京同文書院へ入学した。兵訓練の授業では一層張り切って、銃を肩に担ぎ、剣を腰に差し、寝食を忘れ打ち込んだ。
 学生解散令後、清国に渡り、上海で中国語を覚え、
広西省の蔡松波(さい・しょうは)氏の紹介で、広西『陸軍幹部学堂』に入学した。将官を目指して懸命に軍学を学んだ君を、中国人の同窓らは、望い畏れていたという。2年後に卒業して軍に勤務、広西人として中隊長の職位を得た。

 辛亥(1911)の年、我が党人は挙兵を図り、軍事に熟達した君は、黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)君が北路軍を率いるなら、君は西路軍を統率しようと、自薦して司令官になった。

 翌年、君は中国を離れて暹羅(シャム=タイ)に渡り、シャム・ラオス間で組織作りに奔走、現地で『ベトナム光復軍』の越僑軍を編成し、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏から、『在暹羅光復会支部長職』を拝命した。
 乙卯(1915)年頃、苦心の甲斐あり、軍の大勢はほぼ整ったが、その頃はシャムもドイツに宣戦布告し、阿ったシャム国政府が懸命にベトナム革命党員を探し回り逮捕、国外退去にし、そして君はとうとう密偵網の罠にかかり捕縛されてしまった。
 シャム官憲が拘置後、フランスへ身柄を引き渡し、ハノイへ送還された。

 ハノイ法廷での訊問に対する君の言葉は激烈を極め、法廷は、黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)君共々無期流刑を宣告したが、2人は共に銃殺刑を要求した。
 この年の冬、2人同日、白梅(バック・マイ)庄で銃殺刑に処された。時に、30歳だった。

***************

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』の中に、陳有力(チャン・フゥ・ルック)氏が刑の執行前に詠んだ辞世の句が収められてます。

江山己死  吾安得偸生 十年来練剣磨刀  壮志擬扶鴻祖國
 Giang sơn dĩ tử, ngã yên đắc du sinh, thập niên lai lệ kiếm ma đao, tráng chí nghĩ phủ Hồng Tổ quốc.
羽翼未成  事忽焉中敗 九原下調兵練将  雄魂願作国民軍
   Vũ dực vị thành, sự hốt nhiên trung bại, cữu nguyên hạ điều bình luyện tướng, hùng hồn nguyện tác quốc dân quân.  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?