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仏領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)で起こった軍事クーデター、通称「明(マ)号作戦」のこと その(2)

その(1)(こちら→日本軍の仏印武力処理(=軍事クーデター) 通称「明(マ)号作戦」のこと その(1)|何祐子|note)からの続きです。

 東京の参謀次長から南方軍総参謀長宛に、「仏印処理の研究準備」の電文が打たれたのはいつ頃かと言いますと、1942年11月にアメリカ軍が仏領アフリカ上陸した時です。フランス正規政権のビシー政府がアメリカに対して「対米国交断絶宣言」を発したのです。「火事場泥棒は止めろー!」という感じですかね。。。😅 この国際状況の中、1943年5月御前会議が開かれました。東條首相は〈仏印武力処理〉に反対の立場でしたが、『大本営』は〈仏印武力処理=軍事クーデター〉研究を開始しました。

 クオン・デ殿下の復国同盟会に、愛国団(Đoàn Ái Quốc、当時ベトナム北部最大の政治団体)丸ごと入会した、愛国団代表のブ・ディン・ジー氏は、元々サイゴンで林中佐に面会する前に、東京の松井石根(予備役)大将の『如月会』とクオン・デ殿下より「独立後の新制を担う人物を東京に連れ帰るようにとの密命」を帯びていました。そのため、サイゴンで推薦された候補者、武文安(ブ・バン・アン)と黎全(レ・トアン)の2人を連れて、1944年10月河村参謀長と東京に戻りました。

 さて、肝心のサイゴンでの〈マ号作戦〉進捗状況はと言いますと、
 1944年10月頃、林中佐は「作戦後の仏印統治計画を起案するよう」命令を受けます。そうして、林中佐が纏めた案の骨子はこのようなものでした。⇩
 1,〈マ号作戦〉後は軍政を敷かない。
 2,ベトナム、ラオス、カンボジアは即時独立(総督府の内容が明確になるまでは一時管理)。
 3,国内のフランス直轄領(コーチシナなど)は、独立後ベトナムが実力で回復する。
 4,軍政を敷かず(ベトナム人に任せても治安に問題ないと判断)

 しかしです。この案は12月の総軍・第38軍(=12月で印度支那駐屯軍→第38軍と改称しました)の幕僚会議で誰も賛成しなかったそうなんですね。ここは、色々と意見が分かれたみたいですねぇ。。。😅例えば、「軍と重慶(=蒋介石の重慶政府)が提携(=支那事変が解決)できれば、大東亜戦争問題は解決するから、重慶政府への手土産に仏印を残しておくべき」という考えとか、「ベトナム独立後はフランス直轄領のコーチシナ省を日本の領土に」という意見が会議で出たそうです。その頃の日本の最重要課題は、『支那事変解決』と『物資欠乏解決』ですから、『国益優先』という観点では、一理あるとも思えます。けれど、物事は何でも裏と表がありますから、『国策決定』の下に『軍御用達』となった商社等の『商品専売』、それによって『売買権』と『流通権』が発生しますと、莫大な金額が動きますよね。だからやっぱり常に密接に利権団体が絡んでいるのかも、どんな時でも。まあ、後からあれやこれやと批評するのは簡単ですが。。💦💦
 林中佐は、「そんな独立はベトナム人は侮辱感と反日感情こそ抱くが、そんな独立に魅力など感じない」と説明しました。そして、なんと後日に河村参謀長から林中佐案でOKが出たそうです。その後の幕僚会議でも意義が出ませんでした。

 それでは、これで目出度く林中佐の原案で、、、と思いきや、そうは問屋が卸さないぜ!とばかりに、あっけなく変更されます。第38軍に新しく赴任して来た軍司令官の土橋勇逸中将のご登場です。土橋司令官は、「林中佐に現状のままの独立とし、親日政権(クオン・デ殿下のこと)に編成し直すとか、政府を代えるとか一切小細工をするな」と、林中佐に案のやり直しを命じます。そして、林中佐がそれにそって修正した案を、会議を開かずそのまま了承し、同時に名称も〈マ号〉から〈明号〉へ変更したのでした。
 これが、後々に〈明号作戦〉成功後の日本の内輪で起こった「クオン・デ殿下ベトナム帰国・国家元首就任派」に対する「クオン・デ帰国阻止派」の前哨戦だと言えるかと思います。

 1945年3月1日に、東京から最終決定案「印度支那政務処理要領」が現地に伝達され、「3月5日以降、時機を見て仏領印度支那の処理を行うこと」が発令されました。

 〈明号作戦〉が開始された3月9日当日の様子がこちらです。⇩
 3月9日、夕方6時半頃ハノイで「突然爆撃が始まった」そうです。💦
「フランス側と交渉継続中は、サイゴンの通信所が絶えず000を発信し、交渉決裂の時、つまり〈明号作戦〉開始命令は333を発信することになっていたが、決裂つまり戦闘開始となる時刻は、夜の10時頃のはずなので、通信所に聞き直させると、やはり000が発信されている。誤まって攻撃を始めてしまったわけである。」
 なんと、交渉継続中で000が発信されていたのに、誤って攻撃が始まってしまったのでした。急いで攻撃中止を要請、師団長がフランス側に交渉に出向いたりして機関銃の音が止み、やれやれ、、と思っていた。そこへ本当に333が入って来て、今度は本格的な戦闘開始となったそうです。
 因みに、「333」というのは、近年ベトナムで最も古いビールのブランドですけど、〈明号作戦〉と関係あるんでしょうかね?!まさか、裏の名前は〈明号ビール〉とか。🤣 いつか調べて見たいですが。

 こうして実施された〈明号作戦〉。結果はこうなりました。⇩
 「奇襲作戦としての〈明号作戦〉は、「海外の評価」も「奇襲作戦、成功」「スマッシング・サクセス」(大成功)」。」
 「第一期の3月9日から11日の2日間で、インドシナ全土の主要地区の武装解除を行い、3月11日から18日の第2期に主要地区の周辺、それ以後の第3期は、所謂残党の追討作戦」が行われた。
 
 この⇧「スマッシング・サクセス(大成功)」の一番の要因は、こちらの→ 日本軍の仏印武力処理(=軍事クーデター) 通称「明(マ)号作戦」のこと その(1)|何祐子|note を読んで頂けたら判りますが、あれだけのベトナム人各界リーダーが、揃いも揃って日本軍に全面協力して行動を共にし事前に仏印軍(=雇われベトナム兵)への帰順工作、国民への協力呼びかけをしていたんですから、はっきり言ってちょっと失敗するとは考えにくい、必然の結果だったかとも思えます。しかし、その成功を確実且つ万全にするために、この時現地の日本軍側に「特殊工作部隊」の「安(やす)部隊」という部隊の活躍もありました。
 「安部隊」は、明号作戦実施に当り第38軍直接指揮下に入った「中野学校出身の20名を中核とし、石田昭一中佐が隊長」だった部隊です。
 「実際は〈仏印処理〉までは、フランス軍についての情報収集、対日諜報源の封殺、安南王宮の要人の獲得、独立活動家の地下組織の強化、ペタン派のフランス人将校との連絡に当り、作戦実施とともに、フランス軍兵舎の破壊、攪乱、投降、切り崩し、誘致、宣撫、等々、タフな任務を遂行した。」
 さ、さすがの「陸軍中野学校出身の部隊」です。💦💦 そして、この安部隊には、大川周明氏の『大川塾』でベトナム語を学んだ卒業生らも現地入隊・配置されまして、語学の壁も乗り越えました。大川周明氏の先見の目。

 3月10日の午後4時頃、フランス軍は降伏します。フランスによる統治当局は廃止、ハノイの蓑田不二夫総領事がコーチシナ州知事事務管掌に任命されました。

 以上、1945年3月9日に、当時仏領インドシナ連邦(連邦の内訳詳細は、こちらご参照お願いします。→ 仏領インドシナ連邦の基本情報|何祐子|note)の主にベトナム、カンボジア、ラオスにおいて実行された、日本軍による『仏印武力処理(=軍事クーデター)』通称『明(マ)号作戦』とその前後の詳細を簡単に纏めてみました。

 この明号作戦の成功後は、⇩
 ベトナム、ラオス、カンボジアの3国へ向けて、「日本軍が今回、この地域のフランス主権を完全に排除したので、この機会に貴国が従来フランスと締結されていた「保護条約」、諸条約を破棄されるのは、日本にとって何ら差し支えない」という内容の「口上書」を届ける「軍司令官の特使」がそれぞれ出発したそうです。

 それでは、〈明号作戦〉実施後の仏領インドシナ-ベトナム・カンボジア・ラオスのそれぞれの「独立宣言」の経緯を、戦前の記録の中に書き遺されたエピソードでご紹介して記事を〆たいと思います。

〈ベトナム〉 
 「3月9日の夜、バオダイ皇帝は、王妃とユエとハノイの国道上を高級車で通行中、ユエ地区の処理に当った独立歩兵第190大隊の大隊長、河合自一大佐の警戒兵に発見された。猟の帰りといわれている。アンナンの要人らしいと、本部に案内されたところに、ユエ地域担当の安部隊の金子正剛大尉が出会う。」「金子大尉は、すぐにそれがバオダイ帝と王妃であることを知り、〈仏印処理〉の意義とフランス植民地は終わりを告げ、明日よりアンナン人のアンナン国として、輝かしい栄誉が獲得されるから安心されるようにと告げた。バオダイ帝は涙を流して喜び、金子大尉と固い握手を交わした。アンナンには、横山公使が最高顧問として派遣され、バオダイ帝は3月11日、フランスとの「保護条約」を破棄して、独立を宣言した。」

〈カンボジア〉
 「カンボジアの武装解除は、3月9日と10日の2日間でほぼ終わり、第2師団がシアヌーク国王の保護を命じられていたが、3月10日にはその所在が分からず、11日に王宮内の僧院で僧侶の姿でいるところを発見された。師団長の馬奈木中将は、木下武夫参謀長を王宮に派遣し、この作戦は仏軍の武装解除を目的とするもので、貴国に対しては他意がないので、安心して国政を執られたいと告げた。シアヌーク国王は、アンナンと同時に「独立宣言」を発するよう依頼したが、その連絡が取れず、3月13日に「独立宣言」をした。」

〈ラオス〉
 「ラオスは、交通不便な山地の奥であり、渡辺耐三領事が王宮に辿り着いたのは3月20日頃であった。同領事は、国王に武力処理を告げたが、もともと別天地で、国王は領事の言を信用しなかった。4月7日に日本軍が進駐して、疑う余地がなくなり、国王は4月8日に「独立宣言」をした。」

 「〈仏印処理〉以後は日本の軍政が敷かれたと見る者が多い」が、(実際には軍政は敷かず)、「三国は即時「独立宣言」をした。」 

 以上です。
 『歴史』を外交の手段とする場合は、何か意味があるのかも知れませんが、『外交』なんか普通の主婦の私には縁が遠いです。でも、私達のお爺さん達の話は、興味しんしんで昔の本を毎日読んでいます。主婦で結構時間がありますので、あちこち本で見かける記述をノートに書き出していると、不思議と辻褄があってくる事象があり、あ、じゃあ多分これが真実に近いかも、と思った事を抜き出してここでご紹介しています。
 ただそれだけ(^O^)。結構楽しいです。


 



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