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仏領インドシナ(ベトナム)の中の『広島』と『長崎』

 先日は、日本の広島でG7サミットがありました。
 広島といいますと、私も子供の頃はまだ自宅にテレビが有った😅ので、NHKの『終戦特集』などを家族で見てました。
 『安らかに眠ってください 
          過ちは繰り返しませぬから」

と刻まれた、広島の『原爆死没者慰霊碑』のアップが写し出されると、セミの鳴き声が鳴り響く猛暑の昼下がりに、子供心にも神妙な気持ちになったことを覚えています。

 実は、仏領インドシナ関連の古い書籍を見てますと、偶然なのかどうか『広島』と『長崎』が沢山出て来ます。ですので、一度このテーマで纏めてみたいなぁ…とずっと温めてましたが、最近、公私共に忙しい用事が溜まってなかなか纏まった時間が取れずにモタモタしていたら、もう2023広島G7サミットが終わってしまいました。(笑)
 タイミング逃し次いでに、”まあいいか、ゆっくりいつかやろう。。。”と悠長に座ってたら、”おいおい、怠けるナ!早く書け!”とどなたかのお声が天から聞こえた(ような…😅)気がして、慌ててキッチンテーブルに置いたパソコン前に座った私。。。😅

 先の記事に何度か書いた様に、丁度日本のバブル経済絶頂期に高校・大学生活を謳歌した私が、縁あって1990年代の初めにベトナムに行った頃、当時はまだどこへ行っても、”あっ、外国人だ!”という好奇な目を向けられるほど異国人は珍しい存在でした。
 この『異国人』の中でも取り分けて、『日本人』に対するベトナムの人々の溢れんばかりの友情、親切さの背景が、私が日越史に興味をもったきっかけだったことは先の記事に書きました。
 その頃、特に年配の方に会うといつも決まって、満面の笑みの後で一瞬笑顔を曇らせ、先ず手を胸に当てて、少し頭を下げて、
 『先の大戦では、広島、長崎に原爆が落とされ、被害に遭われた方々にお悔やみ申し上げる。』
 と必ず言われました。

 。。。けれど、正直に白状しますと私は関東出身で広島・長崎は遠地にあり、子供の頃は既に高度経済成長、学生時代はバブル好景気。それに、『日本はアジア諸国を侵略した』と学校で勉強したせいか、この『侵略戦争の代償=原爆投下』の様に感じて、だからそれに言及すれば、当然『日本の侵略戦争』に触れられてしまうことを恐れてか、”過去の事だから、今は全然気にしていないですよ~”、といった様な、今思えば”とんちんかん”な返答と、へらへらした態度を取っていたと思います。
 今思い出せば、そんな私を見たベトナムの年配の方々は、暫し黙って私をじっと見つめて、何か言いたげでも何も言わず、でも、何故か何処となく寂しそうでした。

 さて、掲題の『仏領インドシナ(ベトナム)の中の『広島』と『長崎』』です。
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 ーウェルズ及びレパレスを発見。第一回爆撃終了。
 -ウェルズにむけ雷撃開始、一時八分。
 ーレパレスにむけ雷撃開始、一時十一分。
 ー✖✖隊ウェルズにむけ雷撃終了、一時三十分。

 それから一時間ののち、「われウェルズを撃沈せり、二時三十分」という無電があった。
   石川達三著「包囲された日本 仏印進駐誌」より

 これ⇧は、1941年12月10日、日本の航空部隊がマレー海沖で英国戦艦を撃沈した時に『仏印航空基地』に入って来た無電です。

 ストックホルム特電のニュースによれば、英国海軍省は英国時間十日正午に声明を出して曰く、
 「海軍省は左の如く発表するを遺憾とす。すなわちシンガポールよりの報道によれば戦艦プリンス・オブ・ウェルズ(艦長J・C・リー大佐。トマス・フィリップス東洋艦隊司令長官座乗)ならびに戦艦レパレス(艦長J・G・テナント大佐)は撃沈されたり。」

 英国内閣極東代表ダフ・クーパーは、
 「今夜、東亜においては最悪の日に当たり、私はマレー半島から放送している。吾々は英帝国が世界に誇った二つの戦艦ウェルズとレパレスとを既に失った。吾々はこの事実に直面して覚悟を決めなければならぬ。これは甚大な打撃である。」
 と、シンガポールから悲痛な放送を行った、とあります。

 「かくの如き赫々たる南方作戦の成果を打ち立てたものは実に仏印基地であり、ここに拠った陸海軍精鋭部隊の功績であった」と云われるように、大東亜戦争の初戦-『南方作戦』は大勝利でした。12月8日の『真珠湾攻撃』の蔭に隠れがちですが、日本人ならこっちをより覚えたいところです。😌😌

 この⇧、「日本の航空部隊がマレー海沖で英国戦艦を撃沈」の無電を受け取ったのが『仏印航空基地』

 前年の1940年秋、クオン・デ候を統領とするベトナム復国同盟会の『ベトナム建国軍(陳忠立(チャン・チュン・ラップ大尉・総司令官))』が、日本軍の先導を果たし、精鋭第五師団(広島)』と共に『ドンダン・ランソン進攻』、それから『(北部)仏印平和進駐』に成功。そして翌年に『南部仏印進駐』を果たして、仏印政府(ドク―総督)との共同防衛協定の元、十数か所の航空基地建設に早々に着手した仏印の進駐部隊は、仏印南部の基地整備に全力をあげました。

 「…今やこの基地整備は一日もゆるがせにできない問題であった。(中略)南支那海の全海面は戦場となるであろう。その制海権と制空権とを獲得する最大の条件は仏印における陸海航空基地であった。」
 と、『包囲された日本』
には、この時仏印に在った建設作業に従事した人々に関する詳細が書いてあります。

 「…設営工事を担当した技師以下作業員の労苦は一通りのものではなかった。海軍の作業員は大部分佐世保(長崎)で募集された軍夫で、規定としては日給4円乃至5円、現地では一カ月に20円を支給してそのほかは郷里へ送金されていた。一ヵ年半の義務で、その期間以後は各自の自由に任せられていたが、(中略)しかし彼等は能く任務を自覚して、兵隊に劣らぬ忠実さで作業に従事した。
 烈日に焼かれる南仏印の暑熱のなかで、朝は五時半から夜九時まで、一日も休みなしの作業であった。九州人四割、沖縄人二割、その他四割。それを20人ずつ一班に組んだ。その他に安南人の苦力(くーりー)も多数雇っていた。」
 
多い時には、海軍側だけで作業員5200人に達したそうですので、その頃の南ベトナム・サイゴン近辺は、日本人労働者で溢れ反っていたやも知れません。
 その半分が、長崎人でした。

 一日も休みなく、「眼の覚めているあいだはいつもシャベルを握り鶴嘴を振っていたと云われるほどの絶えざる労働に耐えた」これら労働者たちのお陰で、

 「9月30日サイゴン飛行場は一応使えるようになり、10月初旬にはツドウモ(Thủ Dầu Một=現ドンナイ省内)の飛行場もほぼ完成した。すると海軍の新鋭機がやってきて毎日のように南部仏印の空を編隊飛行をやり、群衆を呆然とさせた。」
 「小沢中将は10月23日、練習巡洋香椎に座乗してサイゴンに着いた。カンボジア平原からプノンペンにかけて陸軍機械化部隊の大演習が終わって、陸海軍航空基地は次々と完成し、ガソリンと弾薬と、あらゆる軍需物資は日々集積されつつあった。」
 「10月下旬に至ってフー・クオク(Phú Quốc)島飛行場を新たに作ることになった。これは交趾支那の西岸に近い長さ50キロ幅15キロばかりの、野生の樹木に掩われた緑の島で、ここに飛行場適地を発見したのである。」

 この⇧「フー・クオク(Phú Quốc)島飛行場」は、昼夜兼行の強行作業で、「このフー・クオク飛行場を作ったことがコタバル上陸作戦の成功の一つの有力な動因になっている」辻政信(つじ まさのぶ)参謀が新聞各紙の談話の中で言及したほど。
 現在では、ベトナムのフー・クオック(Phú Quốc)島西洋資本による高級ホテルが立ち並ぶ一大リゾートアイランドに大変身を遂げましたが、1990年頃はまだ小さな漁村に寂寥とした荒野が拡がっており、今更ながら、ああ、あれが飛行場跡か…と、あの頃の風景を思い出します。😅

 因に、たった15日間の驚異的な強行作業で完成した
このフー・クオック(Phú Quốc)島飛行場に配置されたのが、かの陸軍青木部隊の加藤戦闘機部隊(加藤建夫中佐)でして、12月7日に英国の大型飛行艇偵察機をシャム湾海上で撃墜したのが、後に有名な『軍神・加藤少将』の加藤戦闘機部隊『隼機』だったそうです。
 仏印基地には海軍攻撃機も配置されて、偵察機が毎日飛び立つことを可能にしました。
 これも『仏印基地』が有ったればこそ。

 ここで、纏めてみたいと思います。

 1940年秋、『ドンダン・ランソン進攻』で活躍したのが中村明人師団長率いる『第五師団』=「広島鎮台を母体に、1888年に創設された、広島人による帝国陸軍の精鋭部隊」です。中村中将の更迭後は、松井(太久郎中将)部隊となり、マレー作戦に向かいました。
 1941年12月、シンゴラ上陸成功、翌年クアラルンプール占領。次のシンガポール攻略でも主力を努めた精鋭中の精鋭、広島人による部隊でした。
 そして、辻政信参謀が、コタバル上陸作戦成功の要因に挙げた「フー・クオク飛行場」など陸海軍飛行場の突貫工事を、南方の仏印で昼夜休みなくやり遂げてしまったのが、長崎・佐世保をメインとした日雇い労働者です。
 この労働者の手配、雇用、住居、食事提供など一切を仕切ったのが、当時サイゴンに本社を置いていた大南(ダイ・ナム)公司の長崎・天草出身の社員達と社長の松下光廣氏。そして、建設物資や労働者移送などの面を支えたのも長崎・長崎市の澤山商会でした。

 こうして、1940年暮頃からの仏領インドシナ(ベトナム)という狭い地域で日本を見た時、
 「東亜においては最悪の日(英国内閣極東代表ダフ・クーパーや、「…戦争の全期間と通じて、私はそれ以上の衝撃を受けたことがなかった(英国首相チャーチルからも判るように、「おのれ~、日本め!!」と怒り心頭だった人々にとっては、1945年に「広島」と「長崎」に原爆がピンポイントで落ちたことは、「東南アジアの日本を止めなければならぬ。。。でもどうやって?」、と悩んでいた彼らに取って、たとい偶然?!であっても、やはり痛快事だったでしょう。。。と思ったりします。🙄(そんなに”偶然”ってあるのかいな?とも思っています。。。🙄🙄🙄)

 その時に、仏印(ベトナム)では、
 第5師団がドンダン・ランソン進攻した時、現地ベトナム兵の事前投降・協力あり、現地人の食事差し入れあり、日本へ「解放ありがとう(Cám ơn giảng phóng)」の言葉をかけてくれたベトナム人。

 南仏印での日本陸海軍航空基地建設では共に働き、公けでの親日的態度は当局から制裁対象とされながらも、日本と一緒に西洋植民地主義からの解放を目指したベトナム人。

 灼熱の太陽下で、昼夜共に働き共通の敵と戦った、同胞日本人の、国許に住む両親や兄弟、妻子供の頭上に、あの恐ろしい原爆が降り注いだと知った時のベトナムの人々は、一体どんな想いだったでしょうか。

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 1975年から鎖国状態にあったベトナムへ、開放路線(ドイ・モイ政策)を経て、1990年頃から徐々に外国人が入国して来ました。
 1945年8月から長い期間変わらず心に留め、自分の家族が被害に遭ったのと同様に辛い出来事だったと『原爆投下』に心を痛めてくれていたのでしょう。
 やっと伝えた『お悔やみの言葉』。
 
そして、目の前の、当の日本人の子孫である日本人女性の私の奇異な反応に、彼らは驚いたのでした。

 でも、あの頃は、私は本当に判らなかったのです、歴史を全然知りませんでしたから。
 でも、今は全く違う。
 心から悔しいと思い、胸が苦しく痛く、辛く悲しく、よくもあんなに酷いことをしてくれたな、と泣き叫びたいです。
 民族同胞を虐殺された時に湧き上がる自然な気持ちじゃないでしょうか。30年間のベトナム生活のお蔭で、この当然の感情が取り戻せた気がします。
 そしてだからこそ、戦争犠牲者の魂を弔うためには平和、平和、何より平和を考え続け、願い続けなければならないと思うようになりました。

 先日の広島G7サミットで、日本の岸田首相は『露ウ戦争』継続拡大へ協力表明。NATOの日本事務所開設もやる気マンマンでしたね。
 多分岸田首相は、『仏領インドシナ史』をあまり能く知らないのかと思います。😅😅 
 だから、悔しいとか悲しい、辛い等の感情を封印した日本人のままなのかも。西洋人に好まれる行儀の良い、過ぎ去ったことをグチグチ言わない扱いやすい日本人のままなのかも、昔の私のように。
 ベトナムに住んだら、少しは変わるかも。😅😅
 そんな日本人なら、ほんの一部の人に喝采されるだけで、世界の大半からは当然嫌われ者。自分の祖先を忘れた人など相手にされませんね。😵‍💫😨😨😵‍💫
 

 
 

 

 
 
  

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 

 
 
 
 

 
 

 

 

 

 
 
 

 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 
 

  
 
 

 

 
 
 
 
 
 

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