見出し画像

クオン・デ候を支えた日本女性

  先日、或るベトナム人の方から、著名な北部人の歴史家(故人)が書いたクオン・デ候に関する文章に関して問い合わせがありました。

 読んでみますと…、例に漏れず、かなりオカシイ所があります。
 これは仕方がない。クオン・デ候は、23才で祖国を出奔してから40年以上海外を流浪し、大部分は日本に滞在したのです。ベトナム人歴史家が知らない、或いは研究材料の不足は当然です。この歴史家の方も、文章を書くに当たり何かしら日本側の資料を参考にした筈ですが、それでもベトナム史学界に於ける『クオン・デ候の日本滞在期間研究』が未だ未着手レベルに置かれているようで、とても残念です。😭

 以前ここ⇒ベトナムの皇子クオン・デ候 家族写真の謎に迫るにも書きましたが、台湾で撮られたこんな写真一枚も、「ベトナム独立を忘れ日本で幸せな暮らしを享受してた愚昧な皇子」の証拠にされて今日まで言われ放題言われて来たのです。現在でも、汚名は払拭されていません。
 一度メイン・ストリームによって歪められ広められた歴史を正すは、大変な時間と労力が必要なんだと実感します。

 今日は、問い合わせ内容の一つ、クオン・デ候の秘書のような存在だった安藤ちえのさん(上の写真の前段一番右)にスポットを当てます。

*********

 「…1898年(明治31年)、山形県東置賜郡の旧名主の家系に生まれた。…ちえのは色白の山形美人で、活発な頭のよい娘だった。高等女学校を卒業後、両親の勧めで見合い結婚をするが、親の決めた夫とそりが合わず、家を飛び出して上京したという。」
          牧久氏著『安南王国の夢』より

 安藤ちえのさんの甥っ子で1963年に養子縁組した成行(しげゆき)氏に直接インタビューした内容とのことなので、信頼できる情報と思います。
 上京してからは、「ある華族様の家に住み込んでいた」そうですが、これがどうも『近衛(このえ)家』の様です。「いつごろ、だれの紹介でクオン・デの身の回りの世話を焼く”女中”として彼の下にやってきたのかは定かでない」といいますが、諸々の状況を考えると、「犬養毅や頭山満ら支援者が家族の家に住み込みで働いていたしっかり者のちえのに白羽の矢を立てた、と考えてもおかしくはない。」と牧氏は書いており、私もそう思います。

 日本に滞在していたクオン・デ候やベトナム革命同志らは、日本警察の厳重な管理下に置かれ、手紙類もチェックされていました。
 日本内務省からフランスへ送られた報告書のクオン・デ候は、「のんきなベトナムの愚昧な皇子」の様子そのものですが、これが功を奏して長い期間に亘りフランス当局の目を晦ませたと思います。
 そんな環境下で、お手伝いさん兼秘書兼通訳等々の重要な役目を住み込みで任せる女性の選定は、ベトナム独立支援の犬養毅翁頭山満翁大川周明先生松下光廣社長…の存在を考えれば、単純な理由で選ばれてなかった筈です。

 「ベトナム復国同盟会」設立直後、クオン・デ候は台湾政府(日本)に招かれ台北に渡りました。台湾政府からの依頼は台湾無線電力伝送局内のベトナム語班設立だったため、長期化する見込みからベトナム復国同盟会の中央総務部を一時台北へ移して、この時安藤ちえのさんも同行しました。この滞在時にクオン・デ候の友人らと撮った記念写真が上の写真、要するに撮影日時は1939年から1940年の間

 クオン・デ候は、1951年4月6日、入院していた東京飯田橋の日本医科大学第一附属病院でお亡くなりになりました。その後は、どうなったのでしょうか。

 「…1956(昭和31)年正月、東京・天沼の小さな古びた一戸建てに住む安藤ちえのと甥の成行のもとを、クオン・デの遺児、チャン・リエットとチャン・ク―が予告もなく訪れた。クオン・デの遺骨を引き取りに来たのである。(中略)クオン・デの遺品はすべて荷造りして、ベトナムに送ることにした。…ちえのは骨壺を渡す前に、中から頭頂部近くの骨と手先部分をそっと取り出して隠した。2人がベトナムに向けて飛び立った翌日、ちえのは、この遺骨を小さな骨壺に入れ、東京・南池袋の都営雑司ヶ谷霊園の『陳東風の墓』の脇に埋めた。ちえのはそこにクオン・デの墓を建てるつもりだった。」 
          牧久氏著『安南王国の夢』より

 東遊留学生だった陳東風(チャン・ドン・フォン)氏のことは、ここ⇒「ベトナム志士義人伝シリーズ④ ~陳東風(チャン・ドン・フォン,Trần Đông Phong)」に書きました。
 東遊運動の行き詰まりを苦にして自決した陳東風君を憐れみ、クオン・デ候が雑司ヶ谷霊園の一角を購入し墓を建てました。墓は、今でもここにあります。

 安藤ちえのさんは、1987年に89歳でお亡くなりになりましたが、生前、成行氏に
 「陳東風の墓地にクオン・デ候の墓をつくり、私もそこに一緒に葬ってほしい」
 と遺言を残しましたが、その遺言は未だに実現して居ないそうです。

 ここからは、私の個人的な推察になります。
 日本を第二の故郷と思ってくれていたクオン・デ候は、亡くなる前、いつの日か、反西洋植民地主義戦争で犠牲となった全てのベトナム人志士の弔い塔を雑司ヶ谷霊園に建立し、そこに自分の骨の一部を埋めてほしいと遺言したのではなかったかと思います。しかし、焼野原から驚異の戦後復興を果たした日本は、高度経済成長からバブルに突入し、都心物価もどんどん上がって行きましたから、この遺言は叶わなかったのかと思います。
 もし私が当時の安藤ちえのさんと同じ立場だったら…?
 離婚を経験し、気丈に働いていたお屋敷で人柄を見込まれ、アジア人の植民地奴隷解放に身を捧げる革命家ベトナム皇族のクオン・デ候の下で献身した半生だったのなら、やはり死んだとき自分の骨も殿下の傍に埋めて欲しいと願ったと思います。

 クオン・デ候が日本で薨去されてから、既に70年以上が経ちますが、私が去年、クオン・デ候自伝『クオン・デ 革命の生涯を翻訳出版した縁で、今年この年末にベトナムから問い合わせを受けたこと、これは良い兆しだと思っています。
 これからも少しでも、出来る限り日本側に遺るベトナム志士の抗仏活動に関する史実を古書から掘り起こし、発信を続けて行きたいです。それが、日本を信じ共に『西洋金融資本主義』と戦ってくれたクオン・デ候やベトナム志士らの想いに報い、彼等の魂を弔うことになると同時に、日本側の隠された歴史も一緒に探求することに繋がる。実はこれが、日本の再興に不可欠だとも思って居ます。
 
 是非、封印された真実の日越史を両国有志でこつこつと掘り起こして行きたい。同じ志を持つ方に、是非”古書探索・ベトナム志士探し”に参加して頂ければ幸いです。😊😊
 
 
 


 
 
 

 

 

 

 

 


 

 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?