見出し画像

ベトナム抗仏志士と近衛秀麿(このえ ひでまろ)(8/12 追記)

 近衛秀麿(このえ ひでまろ)氏は、仏印平和進駐時の第二次近衛内閣の総理大臣近衛文麿(このえ ふみまろ)氏の御実弟です。

 近衛秀麿氏は、1898年生まれで1973年にお亡くなりになりました。ネットを調べると、『日本の指揮者、作曲家、正三位勲三等、元貴族院議員』とあり、『日本のオーケストラにおけるパイオニア』と説明があります。
 東京大学文学部を中退して欧州へ留学し、長く欧州に在って指揮、作曲を学んだそうです。秀麿氏が常任指揮者を担った『新交響楽団』が、後の『NHK交響楽団』

 近衛秀麿氏のご著書に、西日本新聞の連載を纏めた『風雪夜話』昭和41年(1966))があります。
 日本の筆頭名家の生まれ。政財界に身を置けば、努力せずに席を得て、名誉名声に権力、何不自由なく出来た筈ですけど、ご本人曰く、『子供の頃から「天衣無縫」という四字が妙に好き』だった『生来の天邪鬼(あまのじゃく)』で、 

 「…しばしば岐れ道に立った時、アスファルトの既成道路を尻目にいつもいばらの路の方へ足が向いてしまう。これは亡き父(=近衛篤麿公)から継いだ万年野党精神の現れかも知れない。」
                 『風雪夜話』より

 「これには歴然とした自覚症状があるが自分ではどうにもならない。権勢の前にどうしても頭が下らないので不便で困る。」と言うように、最近日本の政財界で大流行の『忖度(そんたく)』が大の苦手だった様です…。

 時に気になって、兄の近衛文麿(このえ ふみまろ)氏に聞いたそうですが、これに対する文麿氏の返答が実に振るってます。⇩😊😊

 「それは何も気にすることはない。近衛の家の血統なんていうものは、特に徳川期に入ってからは、関ヶ原で敗けたいわゆる外様の諸藩との政策的な婚姻で、一般に日本人がまだ一国、一郷内の婚姻しかしていなかった時代に京都に在って九州の果て島津藩から嫁をもらったり、蝦夷や津軽の北の辺地との養子のやりとりなどして居り、母は北陸の加賀、我子の代になると開国派の井伊掃部の血統まで引くという日本には類の少ない雑種なのだからな。大天才もいないかわりに、一粒一粒に変わり種が多くて、ありとあらゆる性格が出て来ても、少しも驚くには当たらない。それで大空で列から飛び出した一羽の雁か、池中のコースを逆に泳ぐ一匹の鯉のような天邪鬼が出来て、1人だけ日本人的の枠からはみ出したって別に不思議はない。」
            『風雪夜話』より

 そうして、欧州の音楽界に身を置いていた秀麿氏は、1940年頃にドイツ・ベルリンの街上で出会った、一人のベトナム人志士との想い出を書き遺しています。(『風雪夜話』より⇩)

 ***********************
 
 「ベトナムの志士・フォクノー

 サイゴンに住むベトナム独立運動の志士ピエール・フォクノーも僕にとっては忘れ難い心の友だ。終戦の年、欧州の戦場で別れ別れになって以来もう20余年も会ってはいないが。
 彼もかつては無類の親日家であった。尤もそれがために国事犯としてフランスで投獄されるに至った訳なのだが。

 僕が最初に彼と出会ったのは、第二次世界大戦も初めの頃、ドイツが電撃作戦でフランスを降した直後のベルリンの街上であった。」

***********************

 この頃日本軍は、『ドンダン・ランソン進攻』の準備中。南方軍の長勇(ちょう いさむ)参謀長が単独自転車でハイフォン入り。第5師団中村明人中将が南寧占領、クオン・デ候らのベトナム復国同盟会同志らも合流し、日本軍と共に活発に下準備工作をベトナム現地で進めていた頃です。
 第2次近衛内閣の松岡洋右外相も、フランス大使らと外交交渉を重ねていました。

***********************

 「彼はサイゴンのフランスの法廷で植民地政策への反逆の罪名で終身刑の判決を受け、服役のためパリ郊外の国事犯の獄舎に送られた。ところが運のいいことには、その2年目にパリはドイツ軍の占領するところとなり、国際的な慣習によって他の政治犯と共に釈放されたのであった。
 
 もともと「親日」が彼の重刑の主因だったのだから、ドイツ占領軍司令部も彼が日本の出先官憲に頼ったらよかろうという取りなしで、在ベルリン日本大使館あての添書と汽車の切符とを持たせてパリを立たせていたのである。
 彼は大いな希望を胸にふくらませてベルリンに着いたのだろうが、しかし日本の出先の外務官僚の生態を知るものにはこの結末がどうなったかくらいは大体想像がつく筈だ。大使、参事官はもちろん、書記官とか官補とか名のつくようなものは一人も現れず、ただ一書記生が面会して、ここには二度と来ても無駄だというような対応をされて全くとりつく島もなかったのだという。彼は日本大使館から生涯通じての最大の驚きと失望を味わった訳だ。その上懐中には無一物に近く、頼る人とては誰もいない、言葉の通じない異国の街上を一人さ迷い歩いているところを偶然にも僕とばったり出会ったのであった。」

************************

 日本の在外公館高級官僚サマたちの名物、”あるある塩対応” …(笑)
 この頃、大東亜戦争はアジア民族の聖戦だと、日本はアジアの盟主を自認してた筈なのにぃ…。(笑) 日本の在外公館が何とも驚きの対応…。
 ドイツ占領軍司令部の在ベルリン日本大使館あて添書など、多分眼も通してないでしょう。。。(←あるある…)😭😭😭

 フランス語で懸命に身の上を語るフォクノー氏。所持金は無し、腹も空いただろう、夏外套で身体は震えている。秀麿氏が食事に誘うと、フォクノー氏は興奮して、道々矢次早に流暢なフランス語でまくし立てました。
 幸運なことに、この日はA紙特派員Ⅰ氏が中近東からベルリンに帰着、そして元パリ駐在の友人らも集まってきて、漸く話の全貌がわかり、途中からフォクノー氏の歓迎の宴にかわったそうです。

************************

 「この話の主人公ピエール・フォクノーとはこの夜から無二の親友になった。よくよく見ると幾度か死線を越えたことのある人間の立派さと、どことなく孫逸仙(孫文)の面影がある。特に満足そうな笑顔には満座を魅了する気品が備わっている。僕はこの日本料亭の2階のアパートに、ミニチュア―の電気機関車の路線を敷き詰めた一室を借りてあったので、取敢えずそれを片付けて彼の居室にした。それで、その次の日から他に頼る人のない彼は姿に影のごとく僕に連れそって歩いた。しかしこちらは、食料、衣類その他万事が切符制度の戦時体制下のドイツで官憲の力を借りずに人間一人を遇することの容易でないのを痛感せざるを得なかった。

 別に大して深い意味はないが僕は何となく言いそびれて彼にはしばらく自分の本名を教えなかった。運転手だと言ってみたり、特派員になったりしたが、一週間めぐらいにとうとうばれてしまった。彼は、「このうそつきめ。貴君の名前が分ったぞ。」と言いながら正面から抱きついて来た。そのやせた東洋人の腕には驚くべき物すごい力があった。」

***********************

 フォクノー氏は母がベトナム人、父がフランス人の混血で、彼が生まれて間もなく父は消え、独学で教育を終えてフランス語を習得したそうです。
 苦労してお金を貯めて印刷工場を経営し、貸家を持つと、日本人だけが値切ったり踏み倒しがない。その為、自分で新聞『アレルト(警鐘)』を発行して、その中で『日本を東洋各民族のリーダーとして、被圧迫民族の独立を!』と論陣を張ったそうです。その為、『親日の罪』で逮捕されて、裁判で終身刑を受けパリに更迭されたのでした。

 (追記)
 この⇧『アレルト(警鐘)』紙は、当時サイゴンでこのような記事を掲載していたようです。⇩

 「バンコクに帰任した中堂(観恵中佐)と、松下光廣(大南公司社長)の情報交換が始まった。(中略)松下がベトナムにおける「排日運動」を阻止しようと、仏印で発行されていた「アレルト」紙のスポンサーになって自ら言論活動に乗り出した背後には、中堂観恵がいたのである。松下が「アレルト」に書いた記事の大半は、中堂から送られて来た情報によるもの」
             『安南王国の夢』より

 そう考えると、当時のサイゴンにあって「アレルト」紙は、日本企業の大南公司松下社長と懇意の仲で、日本軍の意見や情報をベトナム国民に知らせる機関紙のような役割も担っていたことになります。
 仏印政府から「親日派=反政府派」として目を付けられ逮捕、監獄行きとなったのは必然の成り行きだったのでしょう。。。
 

***********************
 
 「僕が彼の部屋で談笑して帰ろうとすると彼はいつも階段の上まで送って出て、僕が階下に降りるまで合掌したまま立っていたものらしい。
 一度途中でふと、ふり返ってぞっとしたことがある。夕闇の薄暗い段の上で直立して手を合わせて僕の後ろから拝んでいるではないか。
 「おい、縁起でもない。おれはまだお釈迦じゃないぜ。」
 それでもⅠ君の説明であの合掌はインドシナの最高級の敬礼だということが判って返って恐縮してしまった。

 僕のベトナム知識は戦時中の数年起居を共にする間に彼から得たものである。彼が駐独日本武官室のために綴った「ベトナム内政意見書」は大変な力作である。その中に日本の農業技術を移入して多量の米を日本に提供する一項があったので、だれ言うとなく彼の日本名は「米山實」になった。
 
 …日本軍撤退の後、宿敵フランスを相手にベトナムの悲運はなおも続いた。そしてフランスの敗退後はアメリカ。若い将軍あがりの首相が何代も続く間に、ベトナムは、フォクノーの叡智を必要とした時期がかならずあった筈だと思う。たとえばケネディが派兵する前に彼の意見をきくべきであると思った。」

***********************

 ここ⇧で、フォクノー氏が駐独日本武官室のために綴った「ベトナム内政意見書」に、日本の農業技術を移入して多量の米を日本に提供する一項があったのは実に興味深いことです。
 何故ならこれは、南部ベトナム共和国の呉廷琰(ゴ・ジン・ジェム)大統領が1955年の就任直後から力を入れていた政策だからです。

 先の記事「ベトナム・マクロビオティックの夜明け ~日本食養会の櫻澤如一(ジョージ・オーサワ)ベトナムへ~|何祐子(note.com)で、メコンデルタ米の改良政策で南ベトナムに招かれた日本食養会所属の農業技師、高橋常雄(たかはし つねお)氏のことを書きました。
 日本人櫻澤如一(さくらざわ ゆきかず)氏の玄米食健康法(マクロビオティック)で頭のおできを治してもらった呉成人(ゴ・タイン・ニャン)氏が実は潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)のお弟子さんで、この方が内海三八郎氏へファン・ボイ・チャウ自伝の漢語原本を郵送したという奇縁も書きました。(宜しければご一読お願いします。。😌😌)

 この史実からも分かる様に、1955年から南部ベトナム共和国は日本の農業技術を積極的に導入していました。
 また、クオン・デ候の盟友であり元抗仏志士でもあった呉廷琰(ゴ・ジン・ジェム)氏は、大統領就任直後にクオン・デ候の遺骨引き取りと祖国帰還式を行なったり、海外に残留していたベトナム同志たちの帰還事業に尽力しましたから、ベルリンからベトナムに戻ったフォクノー氏から「日本の農業技術を移入して多量の米を日本に提供する」という意見も聞いた可能性が大きいです。
 でも、近衛秀麿氏の文章には、呉廷琰(ゴ・ジン・ジェム)大統領下で南・ベトナム共和国の農業政策がどのように進んでいたのか、また日本が支援していた(筈)の呉廷琰(ゴ・ジン・ジェム)氏の暗殺とケネディ大統領の暗殺の連鎖には言及されてませんね。

 この『風雪夜話』出版の1966年頃は、丁度呉廷琰(ゴ・ジン・ジェム)氏と、その3週間後のアメリカケネディ大統領の2つの暗殺事件(1963年11月2日と22日)があった頃です。
 仕方ない。だって今現在でも日本では、呉廷琰(ゴ・ジン・ジェム)大統領は「アメリカ帝国主義の傀儡、仏教徒弾圧の悪の権化・ジェム」だと国際戦争屋の古いメディア・プロパガンダのままなんだから。😭😭😭

 さて、ベルリン街上での偶然の出会いから無二の親友になった2人は、1945年ドイツ敗戦でベルリン脱出を試みます。しかし、途中ライプチッヒで生き別れとなったまま、秀麿氏は現地で捕虜となり数年後に日本に帰国。そして帰国後、サイゴンからフォクノー氏の消息を聞いた秀麿氏に、フォクノー氏と再会出来るチャンスが巡って来ました。

************************

 「数年前渡欧の途次、南廻りのフランス航空便がサイゴンの空港で故障修理のため数時間遅延したことがある。
 僕はこの期を逸さず、せめて電話で声だけでも聞こうと思って、胸をときめかしながら番号簿を探した。サイゴンの薄い電話帳は公衆便所の前に放り出してあった。
 そしてこの一冊の番号簿の前半、A-H位までトイレット様に引きちぎられていて、フォクノーのFは見当たらないのであった。こんなにがっかりしたことはなかった。
 僕は一別以来まだ彼の声を遂に今日まで聞かずじまいである。
       (昭和41・6・17~18 西日本新聞)」

***********************

 ちょっと懐かしいひと昔前のサイゴン。。。
 そういえば、1990年代初め頃でもトイレにビリビリの電話簿がいつも置いてありました…。😅😅 

 ところで、私はこの秀麿氏の文章を読んだ時、「ああ~、なるほどなぁ…」と思ったのです。
 サイゴンに戻ったフォクノー氏は、ドイツで近衛秀麿氏から受けた親切を死ぬまで周囲の人や再会した同志など沢山の人々へ語り続けたと思います。そして、当時のベトナム全国民は、日露戦役後の日本へ無一文で渡った東遊(ドン・ズー)運動のベトナム人留学生が、近衛篤麿公の東京同文書院で世話になったことを知って居ました。
 それに、ドンダン・ランソン進攻ベトナム建国軍が日本軍の先導を勤め、フランスを追い払った記念すべき日は第2次近衛文麿内閣の時なのです。
 
 ああ、そうか…。
 昔ほどではないにしても、未だに根強いベトナムの人々の親日家ぶりは、きっとベトナムのお爺さんお婆さん達がこういった話をいつも子、孫らに語り聞かせ、それが「いつか、きっと日本へ恩返ししてよ」という念になって遺ったお蔭なのかな…と感じるのです。
 なんと、あり難し.。。。
 だから今日も、私は娘にこう言い聞かせています。

 「日本の先達の厚恩を忘れたらバチが当るよ。」

 
 
 
 

              

 
 
 
 

 

 

 

 

 

  

 

 
 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?