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ベトナム独立を支援し続けた 第29代総理大臣犬養毅のこと その(2)

 その(1)→ ベトナム独立を支援し続けた 第29代総理大臣犬養毅のこと その(1)|何祐子|note からの続きです。

 犬養毅自身も、そして犬養毅を頼りにし祖国解放のチャンスを待っていたクオン・デ候とベトナム革命家達にとっても、5.15事件は痛恨の凶報だったことがクオン・デ候の自伝中のこの発言から伝わって来ます。⇩

 「政治的に十分な権力が犬養子爵の手中となり、適切な時機が到来した暁には必ず、私を援助しベトナム復国事業を成し遂げようと誓って下さいました」

 ”歴史にIF(もし)はない”、とよく言われますが私は全く反対の立場でして、”歴史のIF(もし)”を考え続け、『その時、その裏面では誰が得をしたのかしら?』を後日検証する事が重要だと思っています。
 検証し、仮説を立てて行くうちに、散らばっていた現象が不思議に繋がって来ることがよくあるからです。
 ”もし(IF)、あの時犬養毅が暗殺されていなかったら。。。?”

 きっと、クオン・デ候は祖国ベトナムへ戻って、長年に亘る日本の援助と庇護に応えるべく、東南アジアの要衝の地・印度支那(インドシナ)のベトナムに、強固な親日政権を作った筈です。
 何故なら、クオン・デ候は、1926年の長崎・全亜細亜民族会議で下記の様な大演説をしていたのです。⇩

 「安南は、多年保護政府の横暴手段に苦しめられたが、獣形的文明国人の圧迫を受けつつあり、諸君には既に(中略)安南のこの苦しい立場を諒解して貰えることと思う。(中略)人類の福祉を培殖し、世界の平和を擁護し、人類に黄白強弱のへだてなく(中略)光天白日の下に共存共栄せしめんとする趣旨はみな同じであり、(中略)わが国民は幼少の頃から、孔子の教理を学んできました。幼少の時代から仰いだ宗教と学んだ道理により、博愛精神を陶治されてきたのです。(中略)私は安南に生まれ、育ち、国民の信頼を得ています。安南は、アジアの交通の中枢地に位置しています。そこに世界人道革命軍の大本営、すなわち根拠地を設置し、幽閉あるいは圧迫されている各民族を解放したいと、この20有余年、念願してきました。(中略)途中、危険地帯を通過することになるため、参会を前もって通知することが出来ず、今日、突然出席した失礼は、お許しください。」
               
『安南王国の夢』より
 
 1926年8月1日~3日までの3日間長崎で開かれた『全アジア民族大会』の最終日に、突如演壇に躍り出て流暢な日本語で挨拶をした安南人志士、『安南の国民党外交部長フェレバー・ロイ』と名乗ったクオン・デ殿下は、この国際会議に於いて、「日本のアジア主義に呼応して、日本と共に植民地主義と戦う決意」を表明したのです。
 この演説に、日本、支那、インド、フィリピン、シャム(タイ)、トルコ、蒙古、マレーシア等の各代表が揃った会場からは満場の拍手が送られました。 

 そして、この長崎での全アジア民族大会に関する記事は、8月2日付「大阪朝日新聞」と10月8日付「国民新聞」に掲載されて、新聞記事を読んだ日本民衆に対して、『儒教道義を重んじる文明国ベトナムの存在』を強烈にアピールしました。
 この仕掛けを考えたのは、やはり元新聞記者だった犬養毅らの手腕だったでしょう。
 
 本来、東アジアの朝鮮、中国が独立し主権国家として自主防衛が成れば、地域全体の相互扶助により日本の安全保障も高まる筈でした。けれども、犬養毅の師である福沢諭吉が庇護した朝鮮人の金玉均(きん・ぎょく・きん)や、犬養自身親身に世話した中国人の孫文、康有為(こう・ゆう・い)らが相次いで失脚。そんな当時に於いて、ベトナム王国クオン・デ殿下のこの演説は、犬養毅達にとってどんなに期待が大きかっただろうかと思います。
 
 しかし、、、残念ですけど、犬養毅は殺されました。。。😢

 そして、クオン・候は相変わらず日本に留まり続け、西洋列強は益々ベトナムに介入してきます。日本の安全保障は当然確立しません。それどころか、泥沼の『支那事変』に嵌り込み、最後まで抜け出ること叶わず、そして、広島・長崎の上空に原爆が落ち、最後敗戦を迎えました。

 「なぜ、あの時、地方出身の青年将校たちは犬養毅を暗殺したのか?」

 これ⇧は、また興味深いテーマで凄い方向へ脱線してしまいそうですので脱線せずに行きたいと思います。💦

 「犬養子爵が総理大臣に就任して幾月も経たないうちにあの事件が起こったのです。私の復国事業の前途へも、大きな打撃となりました。」
 
クオン・デ候は、自伝中にこう語っています。
 この頃のクオン・デ候を間近で見ていた、犬養毅の孫で作家の犬養道子氏が著書『ある歴史の娘』(1955)の中でこの様に書いています。⇩
 
 「たったひとり。そういう犬養の家の空気(=5.15事件後のこと)をわかちあいもせず、さりとて5.15の社会的性格の重大さを見てとりもせず、その事件をわが身ひとつの個人的悲劇とのみ受け取って、黙然と邸の一隅に座す人がいた。」  
 
 犬養道子氏は、犬養家に居たクオン・デ候の存在を、述懐しています。

 「”ねえママ、あの人、だれよ、あの北のベランダの茶色の人…” 母にそう訪ねたのはいつごろであったろう。5.15の前であったようにも思われる。(中略)"道っちゃん、あの方はね――学校なんかで言っちゃ駄目よ、黙っているのよ、ほんとに、よ。” 念を、これはまじめに押してから、”安南の王様。亡命の最後の王様…”」
 「素性を知ってのち、私は彼をまじまじと観察し、茶などを持って近づいて見た。彼は決して自分から人に話しかけられるたちではなかった。いや、話などと言うものではない、彼の全存在は閉じられた井戸のように――と、私は感じた――深く暗い底を抱いたまま黙していた。」

 
当時、まだ幼かった犬養道子氏の目には、こんな悲壮感漂う暗い印象に映っていた様です…。😥
 しかし、これは当然でしょう…。何と言っても、当時フランス仏印政府が被植民地に対して執った鎖国政策と恐怖支配の実体は、本当に酷いものでした。(⇒ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(1)
 クオン・デ候ら海外組を支援する国内活動組、そして無数の無辜の民衆が常に危険に晒されて摘発を受け、逮捕獄門、流刑、死刑となっていたのですから。
 
 「そんな南さん(=クオン・デ候のこと)にしてみれば、1906年以来、国外退去のあの危険の時をも通し、その後再来日ののちも「父」でありつづけたお祖父ちゃま(=犬養毅のこと)の死は、どれほどにか身に応えたのであった。」

 クオン・デ候が、犬養毅を『日本の慈父』として慕っていた様子は、クオン・デ候が自伝中で語っているのと同じ様に孫の犬養道子氏も感じとってらしたようです。

 「百ケ日のすんだ一日、私は学校から近い青山墓地に、秋の小菊を持って行った。だが、墓に近づきもせずに帰って来た。眩しい午後の、無人の墓地境内に、ただひとり、お祖父ちゃまの暮石を撫でつつ哭くがごとくに立ちつくすその人がいたからで。」
             
 「ある歴史の娘」より

 この時のクオン・デ候の痛恨の涙は、自伝中で候自身も強調している様に、「当時の私の心痛は、唯単なる個人的な感傷によるものだけではなかった」のです。
 西洋植民地・フランス領インドシナとなって以降のベトナムは、生き地獄の様な植民地政府による恐怖圧政下で、牛馬奴隷同然の状態に苦しんで居ました。解放を待ち侘びる沢山の国民と同胞らの顔は、クオン・デ殿下の脳裏から片時も離れる事は無かった筈です。

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 23歳で祖国を出奔し、初めて渡った国・日本。その日本で初めて出会った政治家が犬養毅でした。
 クオン・デ候は、犬養毅を『日本の尊師、尊父』として頼りとし、敬愛していたことが、候の自伝記述からひしひしと伝わってきます。

 「1915年からあの日死去されるまで、毎月援助金は一度たりとも途切れることなく、遅延することもありませんでした。一度、約束日が来ても私が仕事に忙殺されて受け取りに行かれないでいると、病気でもして寝込んでいるのではと心配した犬養子爵がご自身で私の家を探し訪ねて下さいました。私への暖く細やかな思いやり。犬養子爵を思い出すと、何時でも溢れる涙を禁じ得ません。」
 「資金援助は16年間続きましたが、毎回必ず犬養子爵ご自身の手から私に手渡して下さいました。いつも白い紙に綺麗に包んで封筒に入れてあり、それは16年間一度も変わりませんでした。それだけでも、犬養子爵がどんなに注意深く貞節のある方だったかが判ります。終始一貫、私に対しては慇懃丁寧な態度で、貴賓の様に、時に家族の様に接して下さいました。」
 「儒教に対する深い造詣。東洋道徳心に富み、名利一切に関心が薄く、古き良き伝統を重んじる方でした。義侠心に厚く、慈善活動に多くの時間を割きました。52年間の政治家人生で、大方殆どの政治家が使う陰険、狡猾な手段などは一切用いなかった。」

 「日仏協定」を盾に『ベトナム人留学生の国外追放』を迫られた日本政府は、1908年にとうとう『ベトナム人留学生の解散命令』を出しました。 
 この時犬養毅は、 「あまり心配しないで当分静かに形勢を観望、その上で対策を立てたらどうか」と潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)に進言し、「長くて一年も隠れていてもらえば、我々同志が何としてでも政府を動かし元通りにする」(『潘佩珠伝』より)と、力強く請け負ったそうです。
 しかし、国許の家族が仏印警察に監禁されたという情報でパニックとなったベトナム人留学生は、殆どが断乎帰国を要望した為に、金庫に一銭の金も残って無かった彼等の帰国費用にと、犬養毅は懐から餞別2千円を、そして日本郵船会社に斡旋して『横浜-香港の乗船切符100枚』を寄贈したのでした。

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 こんなエピソードもあります。

 1923年(大正12年)9月1日、日本をマグニチュード7.9の大地震が襲いました。「関東大震災」の被害は甚大で、当時内閣通信省大臣だった犬養毅は不眠不休で対応に当たったそうです。
 銀行の臨時窓口に殺到した市民は、通帳等全てが焼けて身分確認も口座の内容も証明できない。対応に困る幹部職員に対し、犬養はこう指令を飛ばしました。 
 「預金を引き出したい者には、保証人を立てさせれば良い。保証人を用意すれば、現金は言うまま払い戻してやれ。国民にとっては今こそ金が必要なのだ。」       『狼の義 新 犬養木堂伝』より
 
 「普通選挙法」が成立した1925年に犬養毅は当時71歳、一時政界を引退して信州に隠棲します。その時世話になっていた村で、馬鈴薯やトウモロコシなど農業振興に取り組んだそうです。

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 犬養毅の傍で薫陶を受けたクオン・デ殿下も、ベトナムが独立を勝ち取った後の経世済民策は常に頭にあったでしょう。当時の日本内務省の1924年頃の報告書に、『クオン・デ候が養蜂研究に没頭』という内容が見えます。
 また、日本退去後に一時タイに滞在したクオン・デ候が、タイの越僑(=ベトナム系移民の事)の現状を観察して、
 「祖国ベトナムでも、利益となりそうな産業は殆ど華僑の手の内にあり、タイの地においては、越僑人の微小な産業でさえも、殆ど彼らに奪われてしまっている」
 
と、将来祖国へ戻った時の国家運営の課題にも言及してたりします。
 
 戦後日本で書かれた関連書籍では、「クオン・デ候は日本語が出来なかった」と書かれていることが殆どですが、戦前書籍には全て、「クオン・デ候は日本語が誠に流暢」と書いてあります。天と地の差です。
 日本に滞在してたのに日本語が不自由なら、当然情報弱者となり日本情勢にも世界情勢にも疎く、無知蒙昧に違いなく。けれど、これが全く正反対、日本語が流暢だったなら、当時の新聞・雑誌・ラジオから日本人と同じ量・内容の情報を得ていたのでしょう。尚且つ、政治家・犬養毅の庇護下、当時の日本政権・軍部の最上部・最重要の情報も、実は知ることが出来ていたとすれば…。どうでしょうか。。。?

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 満州事変(1931年8月)勃発後、日本では若槻内閣が総辞職しました。
 犬養毅は既に71歳、しかしそのまま田舎で隠棲できません。第29代内閣総理大臣を拝命し、早速『国際協調を軸とする穏健外交』と『満州事変解決と日支共同』に動き出しましたが、結局1932年5月15日、青年将校による凶弾に倒れました。

 この日、クオン・デ候は、最大の理解者・犬養毅を失ったのでした。

 ここで再度、『戦前と戦後の書籍中のクオン・デ候の天と地の差』に触れたいと思います。
 当時の日本政界は藩閥の専横が横行、普通選挙も中々成立できず、庶民は貧乏と不況に喘ぎながら、政治家の殺傷テロルが頻繁に起こる物騒な世の中でした。
 ベトナムの独立運動家たちも、同志側から裏切者が続出し、どんどんとフランス側へ寝返って密偵となって昔の仲間へ危害を加えるようになってました。
 こんな状態で、庇護者である犬養毅を突然失ったクオン・デ候の心情は如何ばかりか。。。😨😨
 わ、私なら、、、もう諦めたかも知れません。。もう抵抗しても無駄だ。このままのんびり日本で暮らそう。、死ぬの怖い。普通の人は大概は臆病ですから、『もし、自分なら』と考えると、『きっと甘やかされて育った王族なんて所詮そんなもの』という考えに安易に落ち着いてしまったのか。
 
 しかし、クオン・デ候は実際、一般人とは全く異なるメンタリティの持ち主だったことはここに→本の登場人物・時代背景に関する補足説明(8)-ベトナム王国皇子 クオン・デ候のこと)書きました。 
 自伝「クオン・デ 革命の生涯」(→クオン・デ 革命の生涯の第一章『少年時代』で、祖国で読んだ世界偉人伝記中で最も敬愛する日本の偉人に、「日本史では、楠正成、豊臣秀吉、吉田松陰、西郷隆盛」日本南朝の忠臣陽明学の志士を挙げています。

 逆境にあって益々頑強、怒涛のリーダーシップを発揮したクオン・デ候は、元々タフなメンタリティの持ち主だったことは間違いないですが、その上でやはり、23歳で日本に亡命し犬養毅と出会い、祖国で身に付けた『陽明学』の素地(ベトナムは、阮朝2代目明命(ミン・マン)帝以後は儒教が国家正道)と、その後の玄洋社の頭山満や松井石根大将等との出会いも、クオン・デ候が『武士道』を地で生きることとなった背景ではないかな、と私は考えています。

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 犬養毅は、安政2年(1855年)備中国賀陽郡(岡山市)生まれ。20歳の時に東京へ上京し、「郵便報知新聞」に原稿を寄せ学費を稼ぎました。21歳で「戦地探偵人」として、西南戦争に従軍し、砲弾が飛び交う戦場を取材して「戦地直報」の原稿を書いて東京へ送りました。

<剛毅朴訥近仁>
 犬養毅の号、<木堂>は、論語が由来。
 <仁>=自己抑制と他者への思いやり。号に負けない生き方を貫いた犬養毅の生き様を、間近で見届けたクオン・デ候でした。

 西南戦争従軍後に、犬養毅が詠んだ漢詩があります。
 
 登城山憶南洲翁  <城山に登って南州翁を思う>

麟閣幾名賢   <麒麟閣に集う賢人は大勢いるが>
濁見一頭地   <西郷は頭一つ抜きん出ていた>
先蹤誰能攀   <その人の為した功績を誰がよじ登ることができようか>
鬱嵂城山翠   <城山は今も深い森に覆われている>
 
 クオン・デ候は、犬養毅邸でこの犬養毅自身の揮毫掛軸を見た筈です。少年の頃、心熱く揺さぶられた日本忠臣伝。その、西郷隆盛の最期を西南戦争の戦場で見届けた犬養毅。。。
 初めて出会った日から、クオン・デ候と犬養毅の2人の心は、<仁>の一語で固く結ばれていたのだろう。私は密かにそう確信しています。。。😭

ベトナム独立を支援し続けた 第29代総理大臣犬養毅のこと その(1)|何祐子|note

 

 

 

 

 

 
 

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