仏印”平和”進駐の『第2次近衛文麿内閣』陸軍大臣・東條英機のこと その(2)
「宣誓供述書」の『南部仏印進駐問題』の項からです。⇩
1940年9月からの北部仏印駐兵は平静を保っていました。しかし、「1941年に入り南方の情勢は次第に急迫を告げ」て、日本は、「仏国との間に共同防衛の議を進め、1941年7月21日にはその合意が成立」します。28日から南部進駐を開始しました。
この⇧『仏印共同防衛議定書』締結に至る前の事情がこれです。⇩
1940年1月30日決定『対仏印泰施策要綱』に基づき、「『統帥部』の切なる要望に基づい」て、同年「6月25日の南方施策促進に関する件」が決まりました。この措置を必要とした当時の背景は5つ。⇩
1,支那事変解決の必要から「重慶と米、英、蘭の提携を南方に於て分断」すること。2,米英蘭の南方地域に於ける「戦備の拡大、対日包囲圏の結成」、米国内に於ける「戦争諸準備並びに軍備の拡張」、米首脳者の各種の機会に於ける「対日圧迫的の言動」。3,「対日経済圧迫の加重」、日本の生存上必要なる「物資の入手妨害」4,米英側の「仏印、泰に対する対日離反の策動」、「仏印、泰の動向に敵性」を認めらるること。5,「蘭印(インドネシア)との通商会談の決裂(←小林通商大臣訪蘭印のこと)並びに蘭印外相の挑戦的言動」
以上、主に5つの理由で、「仏印は重要な地域であるから何時米英側から同地域進駐が行われないとは言え」ず、「自衛を講ずる必要」を認めたということです。←と、ここで『統帥部』のニュアンスが多少変化したと言いますか、「ちょっと説明が苦しいなぁ。。。」と私は思いました。。。
たしか、仏印の北部進駐の動機は、『支那事変解決、対ソ自衛の完璧』でした。逆に言えば、その少し前まで、対ソ自衛の為の物資供給元は米英ありきで構築していた? と、そう考えると、ちょっと怖くないでしょうか。そうすると、米英には元々絶対に逆ってはいけない筈です。しかし、流れで行きますと⇒支那事変の解決の為に仏印に進駐 ⇒ 仏印進駐から米英が経済圧迫 ⇒ 経済圧迫されて大変、だから南方は配給基地として重要。⇒ 仏印は重要だから米英に獲られてはならない ⇒ 南部仏印に先に進駐する(自衛自尊)
⇧と、この流れならば、元々仏印(北部南部共)進駐は、規定路線だったのじゃないのかな、とも思えます。更に言えば、第一次世界大戦直後、パリに滞在していた東久邇宮が、「ペタン元帥(当時はまだ首相ではありません)からこの次は日米の戦争になるが、日本はその準備をしているかと度々言われた」(昭和軍事秘話(中)杉田一次氏(東久邇宮の副官)講演、『ベトナム1945』より)ので、「クレマンソーに聞いたところ、同様の答えを得た。アメリカはまず、経済的に(圧迫する)、日本は短気者だから、戦争になる」という逸話も記録に残っています。そうなりますと、上⇧の日本側の流れも、『⇒支那事変の解決の為に支那から撤兵』というシンプルな解決方法の選択肢の存在にも、当時多くの人が気が付いていた筈で、卵が先か鶏が先かのような論争に突入しないで済んだかも…とも私のような素人には思えますが、しかし、実はその前に大前提として、「アメリカが日本へ経済圧迫すれば、日本は短期者だもの、戦争するよ」という見方が、第一次世界大戦直後の欧州政界で、既に広く浸透していたとしたら。。。。やはり、日本国内だけで話をすれば解決するというだけの話ではないような気がして、ちょっとよく解りません(笑)ので、仏印に絞ってこの先を続けたいと思います。⇩
この流れでは、流石に作戦実行に決定権の無い事務方トップだった東條陸相でも、異論はあったんじゃないかな、と想像します。最重要問題の『支那事変』がまだ全然解決してませんから。ですので、この頃陸相という立場にあった東條氏が内外メディアや軍部などを通して入手していたという世界情勢情報を下記に列挙してみます。⇩
1940年
7月 米提督、UP通信に対日強硬論発表。ルーズベルト米大統領、屑鉄と石油等禁輸品目追加発表。
8月 飛行機用ガソリンの西半球外への輸出禁止発表
10月 米大統領、国防の為英国及重慶政権への援助演説。米海軍長官、ワシントンで三国同盟の挑戦に応ずる演説。米国政府、東亜在住婦女子に引き上げ勧告。米国務省、米人の極東向けビザ発給停止。日本名古屋市の米国領事館閉鎖。米大統領、屑鉄輸出制限令。
11月 米国、重慶政権に一億ドル借款の供与発表。英政治家、対日圧迫強化の場合(英)財界は協力指示する演説。英国外相、下院で対日非協力演説。
12月 米大統領、三国同盟排撃並びに民主主義国家のため米国を兵器廠
と化する演説。財務長官、重慶及びギリシャに武器貸与の用意ある旨演説。
1941年
2月 米海軍長官 重慶政府は米国飛行機2百購入の手続き完了発表
5月 同海軍長官と陸軍長官、中立法反対表明。英国、英属領の日本へのゴム(輸出)全面的禁止。オランダ外相、蘭印は挑戦に対して応戦の用意ありと演説
6月 蘭印交渉決裂(←石油確保不可能)
8月 米海軍長官 「アラスカ」第13海軍区に新根拠地建設発表
9月 太平洋に於ける米国属領の軍事施設工事費8百万ドル内訳公表
⇧こんなに沢山写さなくてもいいかと思ったのですが、恐怖感がより強くなるかもと思い列挙してみました。。なんだかよく解らない私でも、恐ろしい、、これは恐ろし過ぎます。。。。
正に、四面楚歌ですよ。こういった背景の下、「統帥部の切なる要望に基づき1941年6月25日に「南方施策促進に関する件」が決定したという訳ですから、まあ、同様の情報量に晒されていた当時の日本国中は、神頼み為らぬ軍部頼みになるに違いなく、『大本営決定』に異論を唱える人は一人もいなかっただろうと想像します。作戦決定権が無いと云えども陸相の東條氏も軍人ならば勿論異論があろう筈は無かろうと思います。
まあ、異論も無駄です、統帥権は独立ですからー。
今一度、東條陸相の『宣誓供述書』の冒頭『わが経歴』に戻って見ます。
「1940年7月22日に、第2次近衛内閣成立と共に陸軍大臣」
「1941年7月18日成立の第3次近衛内閣にも陸軍大臣として留任」
「1941年10月18日、私は組閣の大命を蒙り」内閣総理大臣拝命
ですので、1940年7月22日から1941年10月17日までは、陸軍大臣ですね。丁度、仏印への平和進駐に始まり南部進駐に終わったような、私にとりましては、なぜかとっても親近感のある陸相在任期間でした。
。。。。それよりもっっ!!『統帥部』ってっっ!『大本営』って結局、一体誰よ?! という私の心の声が聞こえますでしょうか。。。
『官の鏡』のような真面目一本やりの仕事師・東條陸相の手の届かない存在『大本営』。でも、仏印だけが興味対象の私はここまでにします。
番外編として、上記の通り、「1941年10月18日、内閣総理大臣拝命」してからの東條氏は、その後外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣、参謀総長を兼職します。私の様な臆病な人間からしますと、⇧の様な国際情勢でしたら、とっくに肩書や職務なんか放り投げて、とっとと逃げ出してしまっただろうと思いますが、凄いことです。
まだ総理大臣職にありました頃の1943年11月には、東京で『大東亜会議』を開催します。『宣誓供述書』にも、「大東亜建設の前提である「東亜解放」」に言及し、植民地と半植民地の状態に在る各民族が、他の民族国家と同様世界に於て対等の自由を獲ようと永年の希望を充足し、東亜の安定を阻害する不自然状態を除く、とあります。
しかし、私の様に仏印側から見てますと、この頃正にベトナム独立運動の統領だったクオン・デ候が日本に庇護され東京に在った訳でして、その存在は公然の秘密だったでしょうから、東條氏も当然これを知らない筈ないと思うんですね。クオン・デ候の庇護団体は、松井石根大将を筆頭に頭山満氏の玄洋社・黒龍会がメンバーですから、東條首相も知らない筈がありません。そう期待して『宣誓供述書』のこの部分を読み進めても、「ビルマ」「マレー」「フィリピン」「泰」「インドネシア」と順次登場しますが、「ベトナム」は「べ」の字も出て来ません。本当に全然認識がないのか、或る種不思議な印象です。
それでは、1945年3月9日に日本軍が『仏印武力処理」、通称『明(マ)号作戦』を実行して、フランスからベトナムを独立させ、第13代皇帝、バオ・ダイ帝が『独立宣言』を発布して組閣したのは、どういった経緯からなのか? そして、この時の日本側は、クオン・デ候を帰国させて国家元首に就任させようと動いた派と、候の帰国を待望していたベトナム国民の期待を裏切って帰国を阻止した派のドタバタ攻防を、東條首相は当然知っていた?
ここからは、推察でしかないですが、東條首相はある程度知っていた上で、「利権争いに一切関わらない」という自身の信条に忠実過ぎるぐらい忠実だったのではないかと考えます。それと、あくまでその時のフランス国正規政権『ヴィシー政府』とは友好関係にあり、全て外交手段に則り、仏印に於てはフランスの仏印主権を尊重すると謳った条項を尊重していたのではないでしょうか。
そう考えると、何となく、「極東国際軍事裁判(東京裁判)」の法廷で、目の前に座った東條英機氏の頭をポカっとやった大川周明先生の、「お前がっ、大事な時にいつまでも、もたもたしておるからっっ!」、というようなお声が聞こえるような気がします。。。
最後に、仏印進駐の時の陸軍大臣、東條英機の『南部仏印進駐問題』項の言で、この記事を〆たいと思います。この頃に事務方のトップにあった東條陸相は、「当時、本当にこう思っていた」という真実の心を、裁判という神聖な場所で宣誓されたと思いますから。
「日本が南方に進出したのは止むを得ざる防衛的措置であって、断じて米、英、蘭に対する侵略的基地を準備したのではありません。」
「仏印に対しては攻撃を行った事もなく攻撃を計画した事もなかったと断言し得ると信じます。」
「我国の南進が仏印及び泰を限度として居ります。然も平和的手段に依り目的を達せんとしたものであります。」