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ポスト・ムービー・トレイル〈2〉──桜新町の今昔を歩く

私たちは、どんな時代を生きているのか──。

私(わたくし)の記録と記憶の価値に着目するアーカイブ・プロジェクトAHA!は、東京・世田谷の各戸から提供された8ミリフィルムのアーカイブサイト「世田谷クロニクル1936-83」の利活用に取り組んでいます。

家族の団らん、レジャー、社員旅行といった昭和のホームムービーには、「現在」という時代の価値観をくっきりと浮かび上がらせてくれます。世田谷を中心に地域での暮らしや在宅医療の現場でリサーチに取り組む神野真実さんに聞きました。

「このホームムービー、どんなふうに使えますか?」

連載第2回(全6回)

文=神野真実(デザインリサーチャー)
1994年生まれ。祖父の死をきっかけに、耳の不自由な祖母(当時86歳)が引きこもる姿を目の当たりにし、人の死からはじまる新しい生活への移行と地域社会のあり方に関心をもつ。「かつて暮らしの延長にあった老いや死を、どのように日常に取り戻していけるのか」という問いのもと、ケアの現場の内と外をつなぐデザインプロジェクトを実施。世田谷区を中心に在宅医療を提供する医療機関の運営にも携わる。


訪問看護師・尾山さんとゆく桜新町商店街振興組合

2022年8月10日 14:00-16:00
桜新町商店街振興組合事務所にて

夏の晴れた日、魚徳のお母さんのコーディネートで、お店から歩いて5分もかからない商店街振興組合の拠点へ連れて行ってもらった。

 この通り(サザエさん通り)は、日の差す側と差さない側で全然温度が違うからね。この事務所は日が照る側、うち(魚徳)は日陰側、だから通りにお魚の棚をだしておいても大丈夫なの。

そう言って、お母さんは振興組合事務局の大塚さんと吉池さんを私たちに紹介し、指定のゴミ袋を購入すると、「それじゃ」とお店へ戻っていった。

早速、世田谷クロニクルの説明をして、玉電の映像を一緒に映像を見てみる。

大塚 おー、8ミリってこんな感じなんだ。雰囲気ありますね。

尾山 魚徳のお父さんもこれが一番盛り上がりました。「この道はねぇ!」

神野 「ここで二つに分かれているから、三軒茶屋だろう...」みたいなね。

大塚 こんな感じで2両編成だったんですね。そして、古いですね、街並みも、世田谷っぽくない。地方みたいだなぁ。…これはどこですかね。

尾山 これはどこですかね。

神野 ...魚徳のお父さんよんでこないと(笑)

No.65『消え行く玉電』01:35

尾山 玉電がジャマ電って言われていた時の、ジャマ電っぷりが伝わってきますね。

大塚 ジャマ電、って呼ばれてたんですか?

尾山 そう、ジャマ電って呼ばれてたらしいですよ。

神野 でも、確かにこれは...って思いますよね。こんな道だと。

尾山 車社会になりつつある時でしたからね。

大塚 桜新町って、電線がないの、ご存知ですか?

(一同外を見る)

尾山・神野 たしかに。

大塚 全部地中に埋めちゃったんですよ。でもこの時代はありますね。

神野 パンタグラフがあるから、たしかに!

大塚 そこの緑のボックスがいろんなところにあると思うんですけど、あれが地上にある電線の地上機ってやつなんですよね。

(一同外の地上機を見る)

ここで、吉池さんが倉庫に“あるもの”をとりに行ってくれた。戻ってきた手に抱えられていたのは、商店街にあるお店を150軒以上、水平垂直に撮り溜めたアルバム2冊と、商店街でのお祭りや行事ごとの記録2冊だった。ページを開くと、めくるめく商店の数々。

これらは寝具屋のKさんが50年以上前に撮影し、振興組合に寄付したものだという。吉池さんたちが事務所の整理をしていたところで発見し、その後、今の桜新町のどこに位置するのか、一軒一軒、地元の先輩方に聞いて解明したのだという。

大塚 当時の商店街の人が記録を残したい、っていうので撮ったらしいんですよ。だからあの人のおかげなんです。我々ここの事務所きて2年くらいなんですけど、整理してたら、たまたまアルバム出てきて、「なんだこれ?」って見つかったんですよね。

吉池 この「八百春」というのが今のマクドナルドですね。ここが「小泉金物店」。

尾山 「立花屋」って今もありますよね?

吉池 「立花屋」は、今はえーっとね駒澤にあります。

神野 すごい、移動先まで把握してる!

尾山 私もここら辺走り回っているんで。

吉池 「立花屋」さんが、昔こっちでやっていたんですね。で、「田中庵」の田中さんがここ。で、この「めおと食堂」が...。

尾山 「めおと食堂」ある!

吉池 あの「めおと食堂」が、もっとこっち側にあった時のです。

大塚 あ、そうなんだ。

吉池 これが今の成城石井のあたり、その奥が桜ビルって金色の文字で書いてある表札屋さんのあたり。

尾山 ここも川だったんだー。

吉池 そう、河川になる前で、呑川で。

尾山 今、埋まっちゃっている...

吉池 ここら辺は住所が深沢なんですよね。今は桜新町なんですけど、桜新町になる前は「新町」と「深沢」しかないんで。久富のお神輿は昔の区分でまわるので、こちらまで来ないで、お豆腐屋さんの通りの小川が流れていたところでUターンするんです。

神野 お神輿ってそうやって順路が決められてたんですね。

映像を見たり、写真を見たりしながら、商店街にある「チェリー美容室」が戦時中は「桜美容室」にその名を変えていたことや、桜新町が「集団就職」を日本で初めて受け入れた地域であること。故郷を離れ、心が折れてしまいそうな若者たちのために「さくらんぼの会」が発足した話などを教えてもらった。写真や映像に重ねて語られる話の一つひとつは、地域をより立体的に感じさせ、かつてこの足元で起きていたことだと感じられた。

吉池さんの話は、尾山さんが患者さんから聞いた話と重なりあい、何か答え合わせのようにもなっていた。当時を生きていない人たちが昔話をするという稀有な展開は、伝え継がれたバトンを受け取った同志のようにも見えた。気づくと2時間近くも語り込んでいて、日差しの向きもだいぶ変わっていた。この日はサザエさん缶バッチをもらって解散。

帰り道を歩きながら、この街並みの写真を撮影していた人のことを思う。撮影は、おそらく三脚を立て、一軒一軒シャッターを切っていったのだろう。この写真を撮っていた時、その人は何を思っていたのだろう。こうして時を超えて、私たちがまちを知る貴重な時間になるとは思っていなかったかもしれない。

桜新町は商店街が生きていると思っていたけれど、まちが生きているのではなく、人がまちを生かしてきたんだと実感する。

左から吉池さん、大塚さん

こんなふうに人に、まちに出会う尊さも知って、改めて、世田谷に暮らす患者さんたちにも同じように物語が聞けないかと考えた。

尾山さん曰く、訪問診療や訪問看護の現場で出会う人々は、老いや病気とともに生きながらも、それぞれの生きるペースを崩さずに暮らしたいという思いの方が多いという。映像のペースと、本人のペースにズレがあるとすぐ飽きてしまうし、そこを「頑張って見て」とは言えないから、彼らに合わせるための映像の選定や、視聴環境が必要だと教えてくれた。そのためにまず、全ての映像を確認し、患者さんが見られそうな映像の目星をつけ、それらを他の看護師とみながら、あれこれ考えてみることにした。

きょう見た映像
No.65 - 消え行く玉電(昭和44年2月–5月11日撮影)
No.03 - 清坊の正月(昭和12年正月撮影)

第3回につづく)

文=神野真実(デザインリサーチャー)
写真=尾山直子(看護師/写真家)


ポスト・ムービー・トレイル──昭和の8ミリを携えて街を歩く
1 近くて遠いケアの世界
2 桜新町の今昔を歩く
3 ケアの現場に近づいて
4 チエコさんのおうちへ
5 看護師たちとふりかえる
6 受け取ることからはじまること

※ 本記録に登場する、患者さんの人物名は一部仮名です

GAYA|移動する中心
昭和の世田谷をうつした8ミリフィルムのデジタルデータを活用し、映像を介した語りの場を創出するコミュニティ・アーカイブプロジェクト。映像の再生をきっかけに紡がれた個々の語りを拾い上げ、プロジェクトを共に動かす担い手づくりを目指し、東京アートポイント計画の一環として実施しています。主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、特定非営利活動法人記録と表現とメディアのための組織[remo]