ポスト・ムービー・トレイル〈3〉──ケアの現場に近づいて
訪問看護の仕事について
前置きとして、「訪問看護の仕事」について触れておきたい。
訪問看護では、定期的に患者のもとを訪れ、健康チェックや入浴介助、痛みや苦痛を取るためのアドバイスをしたり、家族のケアを行う。状態が落ち着いていたら週に1回、体調や傷などに変化があった時には週2、3回〜毎日、患者さんの状態にあわせて訪問頻度を調整し、最後まで伴走する存在である。
病院が「治療する場」であるのに対し、自宅は「生活する場」であるため、医療者は患者宅に赴き、生活状況を観察して、その人がどんな人生を歩んできたか、大切にしていることや暮らしにあわせたケアを実践する。そのため患者さんとの会話や、部屋に置いてあるもの、過去のアルバムなどは、その人の人生を知る糸口として捉えられ、それらがさまざまなケアのアプローチへと昇華されていく。
例えば、かつては着付けの先生だった方で、精神疾患によりネガティブな発言をしがちな患者さんには、看護師が着付けを教えてもらうことで、心の安定を図る時間や空間を作ったり、言葉を多く発さない方で、きれいな夕日の塗り絵を描いていた患者さんに、看護師がその丁寧な色づかいの意味を問うことで、過去の思い出や本人の思いを聞き取るなどの実践がなされている。本人が持つ力や考えを創造的に引き出す試みが日常的に行われている。
看護師仲間を加えて
2022年10月6日19:30-22:00
桜新町アーバンクリニック在宅医療部にて
通常業務を終えたあと、尾山さんに加えて、訪問看護師のちえさんと坂詰さんに事務所の小上がりスペースに集まってもらい、現場での活用方法を検討し始める。映像を見始めると院長の遠矢先生と管理者の國居さんも覗きにきてくれた。
90歳の人と一緒に見ることを想定して
まずは、尾山さんが選んだ『消え行く玉電』『父の1日 伊知郎さつ影』『ラジオ体操』を視聴することにした。これらは90歳の人と一緒に見ることを想定し、その人の記憶と映像を重ねられる可能性が高いと思われるものとして選ばれた。対象となる年齢の想定が90歳。自分が日々関わっている人の年齢層というのは、とても限られた幅であることにも気付かされる。
「ケアの現場で見て使うには」という観点から思ったことをなんでも言ってください。という声かけをして、大きな画面に映像を映す。
坂詰 これどこかな?
ちえ 上町にありましたよね、この古い電車。
國居 昭和44年ってもう古いもんね。50年以上前だもんね。
坂詰 これに乗ってチエコさんが三茶まで買い物に行ってたんだよね。
ちえ 当たり前だけど、電車しか写ってないですね。
尾山 これは東急電鉄の社員が撮ったみたいですよ。
坂詰 車が古い!
ちえ 街並みを見て、昔を思い出す人(患者さん)いるのかね?
尾山 うん、なんか魚徳のお父さんがこれ見て、一生懸命、「これはね、多分ねー今のあそこのところだよ…」って言ってた。
國居 私が小さい頃乗ってた車、こんなんばっかよ。
尾山 若い父親と写ってる...的な写真ね。
坂詰 電車が本当に道路を走ってんだよね。
尾山 ねぇ〜なんかジャマ電って呼ばれてたって、これも魚徳のお父さんが言ってた。
坂詰 ジャマ電(笑)
尾山 前にマスジさん桜新町の駅の、玉電の写真見せたらすぐよろこんでたよ。これ三茶だよね? あの別れるところ世田谷通りですよ。246のところ。カラ館かなんかあるところ。
ちえ あ、はい、はい、はい。あそこね。
尾山 めちゃめちゃ(車内が)混んでますね。
國居 (映像が)いきなり変わる。
坂詰・尾山 あ、駒澤大学!
尾山 これはヤマオカさんが喜ぶね。
ちえ 確かに乾布摩擦してた、うちのおじいちゃんも。
尾山 私のおじいちゃんもこういう格好して写ってた写真。明治生まれのおじいちゃん。
國居 うちのおじいちゃんもしてたわ!
尾山 みんなそんな乾布摩擦してた?
國居 冬もやってたね。
ちえ (映像でも)すっごい息白いもんね。
國居 井戸水あったわ、ああいうの。こんなの(8ミリフィルム)撮れるってさ、お金がないとね。
尾山 あー、そうだよね。昭和30年代にね。
ちえ 今のはお供え?
國居 お仏飯を雀にあげてたんじゃない? 昨日のお仏飯。
ちえ なんか世田谷の家って家の中にちっちゃい神社みたいなのいっぱいあるでしょ? それかと思ったの。
尾山 あるあるあるある。
神野 戻る? ちょっと戻ってみる。
ちえ これでしょ? なんか小屋みたいなところに入れてる気がしたからさ。
尾山 確かに確かに。
國居 フクオカヒサエさんの家にもあったよね。庭にすごい大きいのあったの。
ちえ 「普通、家に一個あった」って聞いた。
尾山 世田谷で? へえ。
ちえ 世田谷のまあ、地域が限られるのかもしれないけど。
映像を数分流しただけでも、チエコさんや、ヤマオカさんといった患者さんたちの名前や、その人にまつわる逸話が次々と飛び出してくる。その風景はまるで、その場にいない共通の友人の話をしているようだった。
その後も、現在の患者さんのみならず、過去の患者さんやその家族にいたるまで話は広がった。看護師から語られる記憶の数々に、どれほど多くの人生と向き合ってきたのかを思い知らされる。「患者さん」と一括りにして呼ぶことや、立場を固定化する呼び方に違和感を覚えるくらい、人間同士の関わりの連続だということがよく分かる。
映像を見る、を叶えるために
映像をいくつか見るうちに、現場で映像を使うことの意味や可能性が少しずつ見えてきたが、実際に80–90代の患者さんと映像を見るには、その導入や環境に工夫がいるという話になった。
國居 どんな大きさで見せるかによってだいぶ違うと思う。目が見えにくくなって、日頃からものを見ない人って、老眼鏡もすでに持ってなくて...。iPhoneで流しても絶対に見ないし、iPadでも小さいかな。このくらいの大画面だったら見ると思う。あとは、画面のコントラストが薄いと、何が映っているか分からなくて厳しいかな。
尾山 映っているものも、よく分からないものではなくて具体的な方が惹かれやすいよね。単調なものだと、飽きるだろうな。いつくるか分からないメインのシーンに行くまで、ずっと見てるっていうのは体力的にも辛いじゃないですか。例えばチエコさんに見せるのであれば、最後の花電とか分かりやすいところを大きくアップしてみせたりするだろうなー。
國居 あとは、映像を出す側(看護師)が内容をよく理解して、この場面のあとこれがくるっていうのが分かってないと、イチから一緒に見るのは厳しいよね。このポストカードに印刷されているシーンも、看護師が切り取ったら違うものになるだろうね。
映像を見るための環境的な工夫として、画面の大きさや、コントラストが重要であることや、映像の選定にあたっては、映る対象の分かりやすさや、看護師が内容を理解したうえで患者にあわせて提示できることなどさまざま挙げられた。こうした“感覚値”は、日々の業務の中で研ぎ澄まされ、個人にあわせて創造的/即興的にケアを実践する姿勢を持ってきたからこその視点であることもうかがえた。
坂詰 さっきヤマオカさん喜ぶかなって尾山さん言ってたじゃない。患者さんと結びついて、かつその記憶が楽しい思い出とつながると、喜ぶってことなんでしょうね。だから逆に記憶に関係ないものだったら...うん。まあ面白いと思うかもしれないし、やっぱ分かんないなで終わっちゃうかもしれない。そこの記憶の想起につながるかどうか。
尾山 そうね。自分の人生にゆかりがあるものだと反応いいだろうけど、ゆかりがないものはみんなすぐ飽きちゃうだろうね。
その後、私も訪問に同行させてもらえそうなチエコさんの話になった。担当看護師の坂詰さん曰く、チエコさんに見せるなら、お買い物に行くときに乗っていた『消え行く玉電』、職場があった神田が映る 『お宮参り、自宅工事』もあり、とのこと。本人の辿ってきた人生との接続点があることは、映像の選定にあたって一番大きなポイントだ。
通常業務を終えてからの2時間半、難しいこと、答えがないことに向き合う看護師たちの体力にも、頼もしさを感じる。患者さんとともに見る方法に見通しがたち、訪問日程の確認を終えると看護師たちは自転車で颯爽と帰っていった。
(第4回につづく)
文=神野真実(デザインリサーチャー)
写真=尾山直子(看護師/写真家)
ポスト・ムービー・トレイル──昭和の8ミリを携えて街を歩く
1 近くて遠いケアの世界
2 桜新町の今昔を歩く
3 ケアの現場に近づいて
4 チエコさんのおうちへ
5 看護師たちとふりかえる
6 受け取ることからはじまること
※ 本記録に登場する、患者さんの人物名は一部仮名です