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“わたくしの記録”から過去に触れる──「他者の話を聞く」橋本倫史×松本篤(前篇)

昭和の時代に撮影された8ミリフィルムのホームムービー。

かつて誰かが撮った私(わたくし)の記録を手がかりに、ロスジェネのメンバーが過去と現在をたずねるプログラム「サンデー・インタビュアーズ」の活動がはじまりました。

プログラムの始動にあたって、活動の記録を執筆するライターの橋本倫史さんと、サンデー・インタビュアーズの企画を務めるAHA! 世話人の松本篤が「他者の話を聞くこと、それを残すこと」についてお話しました。

対談の前篇は、これまでの関心や取り組みについてお話します。

(後篇はこちら

「私の記録」の価値をみつける

松本 AHA! は「私(わたくし)の記録」の価値に着目したいろいろな取り組みをしています。どんなことをしてきたのか、3つの事例を通してご紹介したいと思います。

1つ目は、2015年から世田谷で取り組んでいる「穴アーカイブ」という事業です。これは世田谷区は三軒茶屋にある生活工房という文化施設が主催する事業で、企画制作というかたちでAHA! が関わっています。

この取り組みは、8ミリフィルムを発掘するところからはじまります。8ミリフィルムは、昭和30年代から50年代に、一般家庭に普及したメディアで世界史上はじめて広く普及した映像メディアです。フィルムって、専用の映写環境がないと見られないので、家の押し入れに眠ったままとか、持ち主が亡くなっちゃったから捨てちゃおうとか、そういうかたちでどんどん劣化したり、廃棄されたりしてしまうんです。

でも、無音の映像の中にも、古い町並みや当時の暮らしぶりが映っていたりするんですね。実は公の記録として残っていないものが、残っていたりする。

「動きのあるアーカイブ」

松本 フィルムは持ち込んでいただいたり、あるいは、わたしたちが持ち主のおうちに行って、みんなで上映会をすることもあります。家を改修したり引っ越ししたり、何かしらの家族の節目に立ち会うときも多いです。

上映会では、何が映っているかだけでなく、映像を再生した中で思い出したことも聞いていきます。記録だけではなく、そこにまつわる記憶も含めてアーカイブとして集めていく。

そうやって収集したものをより広く開いて、鑑賞会もします。そうすると、フィルム提供者の話だけではなくて、そこに来られている方から、そういえばこんなことがあったなみたいな話が出る。スクリーンを囲んで、ある種その場自体、記憶が再生されたり、新しい発見、気づきが生まれる場所になっていく。なんというか、「動きのあるアーカイブ」みたいなことができたらいいなと思っています。

そんなふうに、収集したり公開したりということを3、4年続けた中で16時間分ぐらいのフィルムをデジタル化しました。それをもっといろんな人に触れてもらいたい。区内あるいは区外に、ちょっとずつ小さな記憶の集いの場みたいなものができたら、楽しいなと思ったんですね。それをするための道具として『世田谷クロニクル1936-83』というウェブサイトをつくりました。

たとえば福祉施設で働いている介護職の人に使ってもらったり、教育の分野で使ってもらったりとか。小さな記憶の場を、みんながつくっていけるようになったらいいなと思っています。

写真や日記を手がかりに

松本 2つ目は、『はな子のいる風景』という本をつくったプロジェクトです。はな子という、井の頭自然文化園に長らく飼育されていた象がいて。地元で愛着のある存在として、生きていたんですが、2016年に亡くなってしまいました。何かメモリアルなことができないかということで、はな子といっしょに写した写真を自然文化園と吉祥寺美術館まで提供してもらい、吉祥寺美術館が主催する展覧会の一環として、わたしたちがそれらを書籍にまとめました。

3つ目は仙台のせんだい3.11メモリアル交流館という施設で開催した「わたしは思い出す 10年間の子育てからさぐる震災のかたち」という企画展です。これは、10年前に出産された方の育児日記に着目しました。

この育児日記は、2011年3月11日の9カ月前、2010年の6月11日に第一子を出産したかおりさん(仮名)がその日から書き続けたものです。その日記をたよりにこの10年間を、振り返りませんかと。日記の中になんていうんでしょう、「育児」とか「震災」というテーマについて、かおりさんの視点からの記憶の断片みたいなものが、ちりばめられているんですよね。日記をご自身で再読いただきながら、いろんなことを改めて振り返っていただく。そういうことを展示としてまとめました。

こんなふうに、映像や写真、日記みたいな、私的な記録に何か価値があるんじゃないか。あるとしたら、どんな価値だろうっていうのを探求しながら、具体的にはアーカイブをつくったり、本をつくったり、展示をつくったりしてきました。

いっしょに楽しむ仲間が欲しい

松本 こういった取り組みって、おもしろいんですが、わかりにくく伝わってしまう感じがあって……。人の話を聞いたり、小さな記録のおもしろさをいっしょに探っていくような、そういう仲間が欲しいなとずっと思っていたんです。

小さな記録のおもしろさって、自分の身近なところから過去に触れられることだと思うんです。「歴史を知る」って言うと、ちょっと大げさかもしれませんが、身近なところから、ちょっとずつ歴史に触れていく。自分の手で、わからなかったものと知っているものをつなぎ合わせて、新たに輪郭をつくっていくような。

そこで『世田谷クロニクル1936-83』の映像をもとに、人の話を聞いたり資料を調べたりする「サンデー・インタビュアーズ」というプログラムをはじめ、参加メンバーを毎年度公募しています。呼びかけに応じてくれた参加メンバーの方たちと一緒に、昭和のホームムービーを「みる」「はなす」「きく」という3つのステップに取り組むワークショップを実施しています。

このプログラムのひとつのキーワードが「ロストジェネレーション」です。いま(2021年の時点)、だいたい38-50歳くらいの人たちですね。

自分の知っている価値観と全然違うものが、かつてのホームムービーに映っている。そんな発見をしたときに、いま見ている風景や自分の考えていることがちょっと相対化できるきっかけになるんじゃないか。そう思ったときに、「世代」という切り口がひとつの入り口になると考えたんです。

それに、昭和後半に撮影されたホームムービーを、「撮った側」ではなく「撮られた側」の視点から捉え直したとき、その記録の意味がまた違って見えてくるのではないか。そういうわけで、サンデー・インタビュアーズの参加メンバーは、このロスジェネという世代を対象に募集しました。

それと同時に、小さな記録に触れることのおもしろさや、その価値を伝えていただける方が必要だと考えていました。そのときに橋本さんのことが浮かんだんです。ご自身のユニークな視点も持たれつつ、相手の話を丁寧にすくいとっていかれるような手つき、所作があるのではないかと。そこで、橋本さんにサンデー・インタビュアーズの活動に併走してもらいながら、その記録を執筆してもらいたいと思って、お声がけしました。

今日は、橋本さんがこれまでどんな関心をもって活動をされてきたのか。まずはそんなお話をお聞きできたらと思っています。

雑誌をつくりたいと、思っていなかった

橋本 ぼくは1982年生まれで、広島の出身です。ライターという肩書で最初に仕事をしたのは2007年、14年前の25歳のときでした。『en-taxi』っていう雑誌(2015年に休刊)が、ありまして。この雑誌で「いま、純文学の変容を見逃せない!!」と題した特集が組まれたときに、評論家の坪内祐三さんが3本対談をされて、その構成役として入ったのが最初の仕事でした。人の言葉を聞いて、文字にまとめるだけで、お金がもらえるなんてって、不思議に思った記憶があります。

坪内さんが早稲田大学で「編集ジャーナリズム論」という授業をされていたんですけど、たまたま履修していて。明治・大正・昭和の雑誌を毎週1つずつ取り上げる授業で、とにかくおもしろかったんです。雑誌には時代が記録されているっていうことを、どこまで理解できていたかわからないですけど、その種みたいなものを受け取っていました。

授業が終わると、坪内さんが学生をおそば屋さんに連れて行ってくれて。坪内さんと別れたあとも、学生だけで飲んで──そんな学生らしい時間をはじめて過ごしたんですね。この時間を続けられないかなと思ったときに、「編集ジャーナリズム論」を取っていたんだし、みんなで雑誌をつくれば、編集会議っていう名目で会っていられるんじゃないかって。それで、何人かに声をかけて『HB』っていうリトルマガジンをつくりました。

随筆でしか残せないこと

橋本 坪内さんは去年(2020年)亡くなってしまったんですけど、亡くなられたあとに出版された『玉電松原物語』という本があって。坪内さんが小さかったころに見た、そろそろ記憶から歴史に移り変わる段階にある世田谷の風景をつづった本です。まさに世田谷の話ですが、そういうエッセイ、随筆でしか残せない言葉があるんじゃないかと、学生時代からなんとなく感じていました。

だからこの『HB』っていう雑誌でも、最初は、高田馬場(早稲田大学がある場所)の当時の風景をそれぞれの視点で書いてもらったり。2号では、海外旅行をする若者が減っているという話が出ていた時期だったので、海外旅行に対して、同世代の人がどんなリアリティを持っているのかを取り上げました。

ちょうどファストフード化という言葉も出てきた時期で。広島の田舎の出身で、チェーン店ができたときに「わ!できた」っていううれしさを覚えてしまった人間として、単に批判はできない、モヤモヤした気持ちとかを、みんなもないですか?ってエッセイで書いてもらったり。

ロスジェネとしての自分

橋本 なんでさかのぼってこの話をしたかというと、この『HB』の中で、ぼくが『ジェネレーションロスト』っていうタイトルの文章を書いていたんです。このとき、マルカム・カウリーの『ロスト・ジェネレーション』もみすず書房から新しく訳が出るぐらいの時期だったと思うんですが。

ぼくは就職活動をしなかったので、就職氷河期だと実感したわけではなかったんですけど、自分より一回り、二回り上の世代とはこう、切れてしまっている何かがあるなっていう感覚はあって。それをどうにか言葉でまとめていけないかなと漠然と思っていました。

雑誌をつくれば、人に会いに行ける

橋本 リトルマガジン『HB』は7号で終わってしまうんですが、その後2012年に『hb paper』という冊子を、今度はひとりでつくりはじめました。雑誌をつくっていれば、人に話を聞きにいけるなと思って。最初の号だと、倉敷にある古本屋・蟲文庫の田中美穂さんにインタビューをしたり、2号目であれば、「マームとジプシー」という演劇カンパニーを主催している藤田貴大さんにインタビューしたりしました。

雑誌に掲載されるインタビュー記事って、どうしても文字数が限られて、削らなきゃいけない部分が出てくるわけですよね。それで他愛もないやりとりなんかは削ることになるんですけど、インタビューでやりとりした時間の記録としては、残したい箇所だったりもする。自分で雑誌つくってしまえば、余白みたいな部分も好きに残せるみたいなことを、うっすら考えていたような気もします。

消える前に、記録したい

橋本 この『hb paper』をつくったころから、演劇を観るようになったんですけど、そこで生まれた変化もありました。

演劇って、上演時間2時間なら2時間、劇場の中にだけ存在するもので、全部消えてしまう。舞台写真とか、記録映像も残るは残るんですけど、それは上演とは別物ですよね。あるいは、作品をつくるまでに流れていた時間というのも、ほとんどの場合はどこにも記録されず、なかったことになってしまう。演劇を観ているうちに、放っておけば消え去ってしまう時間を記録したいと感じるようになっていきました。

ドライブインって、こんな日本中にあったのか

橋本 ぼくはZAZEN BOYSっていうバンドが好きで。2004~2006年ぐらいのときにずっとツアーを追いかけていたんですね。リトルカブで北海道から鹿児島まで、見てまわったんです。原付は高速を走れないので、一般道をずっと走ることになるんですが、そうすると、ドライブインっていう看板を掲げたところがたくさんあったんです。昭和57年生まれのぼくは、家族でドライブに出ても、ドライブインに入った記憶が全然なかったんですよ。でも、自分が触れてこなかったドライブインが、こんな日本中にあったのか、って。

そのころ、ちょうど知り合いから「しばらく乗る予定がないから、使ってもいい」と言ってもらって、軽バンを貸してもらって。後ろの荷台に布団を敷いて、ひたすらドライブインを探す旅に出ました。そのときは普通にお客さんとして入って、コーヒーの一杯でも頼んで、ここはこんなお店なんだなと思いながら、ひたすらドライブインを巡ったんです。

いつかとか言ってる場合じゃない

橋本 そうやって巡っているからには、いつか一冊にまとめられたらいいのになとは思っていたんです。でも、何も進められないまま、ずるずる時間がたって。それで2017年の元旦に、正月って今年の目標とかたてがちですけど(笑)、そういえばって、ケータイで調べたんですね。そしたら結構閉店しているお店があって。いつかとか言ってる場合じゃないなと。

とにかく話を聞かせてもらわないと、聞けなくなってしまう。普通はそこで出版社に企画を持ち込むんでしょうけど、あぁ、自分で勝手につくっちゃえばいいんだと、2017年に『月刊ドライブイン』を創刊しました。とにかく話を聞かせてもらって、原稿をチェックしておいていただければ、記録に残すことはできる。とにかくこれをつくらなきゃと思って『月刊ドライブイン』をつくり続けて、のちに『ドライブイン探訪』という本にまとめることができました。

いま、まさに風景が変わる場所

橋本 ドライブインの取材をしていた時期に、たしか忘年会かなにかで、沖縄に移住していた知り合いに会う機会があったんです。そこで「橋本さん、那覇の牧志公設市場がもうすぐ建て替え工事がはじまるんですよ。建て替えがはじまると風景が変わってしまうから、市場のことも、取材してくれませんか」って言われて。

そんなこと言われたら、考えるじゃないですか。言われたからには、取材をしないとと沖縄に向かって、見聞きしたことを自分のブログに掲載していたんですね。その文章を、沖縄で古本屋をされている宇田智子が読んでくださったんですけど、「あのブログだと、市場の歴史に興味があるわたしでも読むのがつらい」と宇田さんに言われたんです。その言葉でばっさり斬られたような気持ちになって。ウェブだと、文字数の制限を気にせず書けるけど、ウェブで長い文章を読んでもらうのは難しいだろうな、と。それを機に、やっぱり本にしないとって、方針を切り替えたんです。

ドライブインの取材をはじめたころから、ぼくは「100年後の読者に記録を残せるように」ってことを考えるようになったんです。だから、宇田さんとしても、「あのブログは100年後の読者に向けて書かれているものだから、いまのわたしが通読できなくても、橋本さんとしては想定内だろう」と思っていたそうなんですけど、確かにドライブインのときってそういう感覚だったんですね。ドライブインなんてものを知らない未来の人が、どんなものなのって知りたいときに見てもらえばいい。でも市場に関しては、風景がいま、まさに変わるっていうときに、100年後に読んでもらえばいいやっていうのがあまりにも、距離としてどうなんだろうって。

同時代の誰かに対しても、いま目の前で変わりゆくこの風景について立ち止まって考えてもらうっていうことをしないとダメなんじゃないかなと思って。それで本の雑誌社の編集者の方に「こんな企画をやりませんか」と相談して、1年間近く市場に通って取材を重ねて、本にしたのが『市場界隈 那覇市第一牧志市場界隈の人々』です。

>> 後篇に続く

橋本倫史(はしもと・ともふみ)
1982年広島県生まれ。2007年『en-taxi』(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動をはじめる。同年にリトルマガジン『HB』を創刊。以降『hb paper』『SKETCHBOOK』『月刊ドライブイン』『不忍界隈』などいくつものリトルプレスを手がける。近著に『月刊ドライブイン』(筑摩書房、2019)『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社、2019)ほか。

松本篤(まつもと・あつし)
1981年兵庫県生まれ。2003年よりremoメンバー。2005年より市井の人々による記録の価値を探求するアーカイブ・プロジェクト AHA!を立ち上げる。編著に『はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』(武蔵野市立吉祥寺美術館、2017)、展覧会に『わたしは思い出す 10年間の子育てからさぐる震災のかたち』(せんだい3.11メモリアル交流館、2021)ほか。

構成=平松郁