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第7回「仲良く付き合える家族が近所にたまたま集まるって、幸せな奇跡というか」(文=橋本倫史)

SUNDAY INTERVIEWERS|サンデー・インタビュアーズ

お正月まであと1週間を切った日曜日に、年内最後となるワークショップが開催された。この日の課題は映像No.83「餅つき」。撮影されたのは昭和56(1981)年の12月で、撮影場所は世田谷区の喜多見。年の瀬になると近所の6、7家族が集まり、餅つきをするのが恒例となっており、その様子を撮影したものだ。今年度のサンデー・インタビュアーズで取り上げる映像としてはもっとも新しいものになる。ちなみに、この映像は8ミリフィルムではなくVHSからダビングしたもので、音声も記録されているため、これまでの映像より最近の映像に感じられる。

「まず僕が思ったのは、ああいうふうに近所の人たちが──特にお父さん方を含めて集まるのはレアケースだなと思いました」。最初の発表者となった佐伯さんが切り出す。佐伯さんは1967年生まれだから、この映像が記録された頃は中学生だった。「当時の父親たちを思い返すと、地域の中でお父さん同士の付き合いってほぼなかったな、と。あるとすれば、学校で知り合ったお母さん同士が集まるときに、お父さんもついてくるぐらいのことで、決して楽しそうな感じはしなかったなとこどもながらに思ってました」

佐伯さんが調べたところによると、「餅つき」の映像が撮影された5年後の1986年に「おやじの会」という組織が立ち上げられている。どうしても母親が中心になりがちだったPTAとは別に、父親たちが参加し活動するための組織で、今では全国各地に「おやじの会」があるという。

「最近だと、保育園に『おとんの会』という有志の団体もあるんです」。佐伯さんの発表を受けて、土田さんが説明する。そこでは土日にこどもと一緒に集まって、ザリガニ釣りをしたり、どんぐり拾いをしたり、焚き火をしたり、ときには平日に有給をとることもあるのだそうだ。

ふたりの話を受けて、社会学者でもある参加者のひとり、八木寛之さんが「背景にあるのは、共働き世帯が増えたってことなんだろうなと思います」とコメントする。「郊外とかサラリーマン世帯の多い地域だと、かつては地域のコミュニティ的な役割はすべて専業主婦が担っていて、お父さんは地域とつながる必要がなかったと、たぶんそういう解釈になると思います。共働き世帯が増えたことによって、お父さんたちも地域の活動に参加しないといけない状況になってきたのかな、と」

「餅つき」の映像が撮影された1981年には、専業主婦世帯が1100万近い数あって、共働き世帯はその半分ほど、645万世帯に過ぎなかった。これがほぼ同数になるのが、1991年のこと。そこから近しい数字で推移したのち、2000年以降ははっきりと共働き世帯が上回りだす。

サンデー・インタビュアーズというプロジェクトは、「私たちは今、どんな時代を生きているのか?」という問いを探求する、ロスジェネ世代の余暇活動として立ち上げられたものだ。ロスジェネ世代とは一般的に、1970年代から1982年生まれた世代を指す。つまりその世代は、専業主婦世帯が多数を占めていた時代に生まれた最後の世代であり、成長とともに専業主婦が減り、共働き世帯が増えてゆく時代を生きた世代だということになる。

「サンデー・インタビュアーズのことを説明するときに、『日曜日に聞く、日曜日を聞く』って言い方をしているんです」。事務局の松本篤さんが語る。「われわれが今過ごしている日曜日と、当時の日曜日のありかたって、決定的に何が違っているのか。そこをもう少し掘り下げて考えていきたいなと、ここまでの話を伺いながら思っていました」

専業主婦世帯が多数派だった時代には、休日は日曜日だけだった。民間企業に週休二日制が普及していくのは1980年代に入ってからのことだというから、「餅つき」の映像が撮影された1981年の段階では、日曜日の持つ響きもどこか違っていたのだろう。それに加えて、国民に余暇を与える目的でハッピーマンデー制度が導入されて以降、年に何度か3連休が生まれるようになった。そんな現在に比べると、当時はお正月休みというのは特別なものだったはずだ。

1982年生まれの僕は、その特別さをかろうじて知っているように思う。地方都市の田舎町に生まれ育ったこともあり、小さい頃はまだ町内にコンビニがなく、お正月にはほとんどすべてのお店が閉まっていた。そして、杵と臼ではなく、餅つき機を使っていたけれど、年の瀬には必ず餅をついていた。

「この『餅つき』の映像を、職場のデイサービスを利用されている方たちと一緒に見てみたら、餅つきをやったことがある方がたくさんいらっしゃって、『餅つきは下ごしらえが大変なのよね』という言葉が出てきました」。参加者の土田さんはそう語る。「餅つきの話をしているうちに、餅つき大会の記憶が出てきて、『世田谷区代田にある円乗院の餅つきだと大根餅とあんころ餅を配ってくれたのよ』と。調べてみると、円乗院の餅つきは江戸時代に始まった伝統あるものらしくて、旧代田村には寒餅を作る風習があったらしくて。寒餅というのは大寒の時期に作る餅のことで、この時期に作ると日持ちがすると言われていたそうです」

「今の話を聞いて、うちのおばあちゃんが『大寒の水は腐らない』と言っていたことを思い出しました」。参加者のやながわさんが笑う。「それで──うちのおばあちゃんが大寒の日に汲んでおいた水を春先に飲もうとしたことがあって、家族全員で止めたことがありました」

冬至・小寒・大寒・立春。こうした区分を二十四節気と呼ぶ。もともとは紀元前の中国で四季を区分するために生まれたものだという。暦はかつてただの日付ではなく、農業や漁業など、生活と深く結びついているものだったのだろう。でも、今ではもう、その生活に根ざした知恵は失われつつある。

「つきたてのお餅って、とにかくカビとの戦いなんです」。やながわさんが話を切り出す。「その問題を解決するために、真空パックの餅が昭和48(1973)年に発売されたらしくて。今はサトウの切り餅のほうが主流になって、それも含めて自分ちで餅をつくことはしなくなってきているのかなと思いました」

昭和48(1973)年に発売されたサトウの切り餅は、それまでのお餅の常識を覆し、1年もの長期保存を可能にした。この商品がヒットしたことで、お正月の食べ物だったお餅が、いつでも食べられる通年商品に変わってゆく。ただ、長期保存を可能にした殺菌包装にはひとつだけ欠点があり、加熱処理をすることによって、つきたての美味しさは失われてしまう。だから当時はまだ、サトウの切り餅の便利さを認めながらも、「やっぱり餅はつきたてに限る」という人たちが一定数存在していたのだと思う。だが、昭和54(1979)年に“脱酸素剤”が登場したことにより、加熱処理をせずとも長期保存が可能となり、便利さと美味しさが両立できるようになった。かつては蔵で餅をついていたうちの実家でも、お正月に食べるお餅も鏡餅も市販のものに取って代わり、餅つき機は蔵でホコリをかぶったままになっている。

日曜日のありかたも、家族のかたちも、餅つきも、こうしてみると1970年代から1980年ごろにかけて、大きく変化している。変化が始まる前の時代と、変化したあとの時代とを、ロスジェネ世代は両方知っている。だから「餅つき」の映像を見ると、今とは異なる、でも自分もたしかに知っている風景に触れて、懐かしさをおぼえる。では、もっと若い世代が「餅つき」の映像を見ると、何を感じるのだろう?

研究者である八木さんは、大学のゼミ生に「餅つき」の映像を見てもらったという。

「21歳とか22歳のゼミ生に見てもらった感想としては、『年末の休みといえど、30代から40代のいわゆる働き盛り世代の男性が集まっている風景っていうのは、今は見ないよね』という話になりました。冒頭の佐伯さんの話にもありましたけど、男性同士の近所付き合いというのはかなり特殊だなあという印象で。ここまで皆さんの話を聞いていても、どうやら餅つきは準備が大変なものだと思うので、『じゃあ、明日は皆で餅つきをやろう』という感じでやれるもんではないと思うんですよね。だから、この人たちがどういうつながりだったのかが気になりました」

「あの時代に、お父さん方がこんなふうに集まって、こんなふうに仲良く過ごしているっていうのは奇跡的だと思うんですね」。八木さんの発表に、佐伯さんがコメントする。「仲良く付き合える家族が近所にたまたま集まるって、幸せな奇跡というか、ほんとに貴重な映像だと思います」

佐伯さんのコメントを耳にするまで、昔は日本のいたるところにご近所同士の集まりがあり、一緒に餅つきをするのが一般的だったのだと思い込んでいた(古い映像を見ると、そこに記録されている光景を特殊なものとして受け止めるのではなく、当時はそれが一般的だったのだと思い込んでしまう)。でも、1981年としては、こんなふうにご近所さんが集まって餅つきするのは特殊なケースだったのかと気づかされる。

「もうひとつゼミ生が言っていたのは、『男の人がきれいな服装をしている』と。近所の人と集まるにしても、今だともう少しカジュアルな服装になりそうな気がするんですけど、襟付きのシャツを着ている人が多くて。その中でひときわ目立っているのが、アディダスのジャージを着ている人がひとりだけいるところだ、と。うちのゼミに、スニーカーの歴史や文化を調べている学生がいて、その学生によればアディダスの三本線のジャージが流行りだすのは1980年代らしいんですね。そういうものを取り入れていた人がここにいたのかなと、それも印象に残りました」

映像の中に記録されているご近所同士の餅つきも、それが一般的な習わしだったからではなく、「ご近所同士で餅つきをやったら楽しいんじゃないか」と言い出した誰かがいて、始まったものなのかもしれない。言い出しっぺとなる誰かひとりがいることで、失われつつある文化や習わしが続いていくこともあるだろう。あるいは、まるで新しい活動が生まれ、それが次世代の風習となっていくのだろう。そんなことを考えながら「餅つき」の映像を見返していると、どこか頼もしさをおぼえる。

文=橋本倫史(はしもと・ともふみ)
1982年広島県生まれ。2007年『en-taxi』(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動をはじめる。同年にリトルマガジン『HB』を創刊。以降『hb paper』『SKETCHBOOK』『月刊ドライブイン』『不忍界隈』などいくつものリトルプレスを手がける。近著に『月刊ドライブイン』(筑摩書房、2019)『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社、2019)、『東京の古本屋』(本の雑誌社、2021)、『水納島再訪』(講談社、2022)。

サンデー・インタビュアーズ
昭和の世田谷を写した8ミリフィルムを手がかりに、“わたしたちの現在地” を探求するロスト・ジェネレーション世代による余暇活動。地域映像アーカイブ『世田谷クロニクル1936-83』上に公開されている84の映像を毎月ひとつずつ選んで、公募メンバー自身がメディア(媒介)となって、オンラインとオフラインをゆるやかにつなげていく3つのステップ《みる、はなす、きく》に取り組んでいます。本テキストは、オンライン上で行うワークショップ《STEP-2 みんなで“はなす”》部分で交わされた語りの記録です。サンデーインタビュアーズは「GAYA|移動する中心」*の一環として実施しています。
https://aha.ne.jp/si/

*「GAYA|移動する中心」は、昭和の世田谷をうつした8ミリフィルムのデジタルデータを活用し、映像を介した語りの場を創出するコミュニティ・アーカイブプロジェクト。映像の再生をきっかけに紡がれた個々の語りを拾い上げ、プロジェクトを共に動かす担い手づくりを目指し、東京アートポイント計画の一環として実施しています。

主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、特定非営利活動法人記録と表現とメディアのための組織[remo]

サンデー・インタビュアーズをめぐるドキュメント(文=橋本倫史)

第1回誰かが残した記録に触れることで、自分のことを語れたりするんじゃないか
第2回「この時代の写真を見るとすれば、ベトナムの風景が多かったんです」
第3回「川の端から端まで泳ぐと級がもらえていた」
第4回これはプライベートな映像だから、何をコメントしたらいいかわからない
第5回『ここがホームタウン』と感じることにはならないなと思ってしまって
第6回なんだか2021年に書かれた記事みたいだなと思った
第7回仲良く付き合える家族が近所にたまたま集まるって、幸せな奇跡というか


SUNDAY INTERVIEWERS|サンデー・インタビュアーズ
「サンデー・インタビュアーズ」は、東京・世田谷ので収集された昭和のホームムービーを通して、現在という時代を照らし出す“ロスト・ジェネレーション”世代の余暇活動です。https://aha.ne.jp/si/