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あなたも私もマイノリティだ

遠い国で起きた一つの噴火が、日本全土に影響を与えた夜でした。

今回の津波警報で私が思い出したのは、かつてチリ地震で地元が被災した話です。

もちろん、生まれる何十年も前の話なので私自身は知らない。
でも、体験した、という先生から直接話を聞いたことがある。
地球の反対側で起きたことでさえ、自然の驚異は私たちに無関係ではないのだと思い知りました。

トンガの現地の人々が、一人でも多く無事であることを祈って。



かつて行きたかった海外は、今ではすっかり遠いものとなってしまいました。

国内でも自由に動く事さえ憚れるのだから仕方ないと言えば仕方ないのですが、実はここ数年、私の中で大きく変化したのもこの海外への憧れです。

幼少期から大学生の時まで、憧れの地だった海外。英語やイタリア語や韓国語に手を出しては、教材を積読していた私。

だけどちょうど、感染症が世界中に広まり始めてからでしょうか。

なんだかプッツリと興味が薄れてしまったのです。
そんな憧れの海外について、本日偶然見かけたつぶやきにピンと来ました。

”留学経験のだいご味は、「自分がマイノリティ」の世界を経験すること。見知らぬ土地、肌も言葉も宗教も違う、誰も頼れる人がいない土地へ行くと、人は少しだけ優しくなれる”

要約するとこのようなことをおっしゃってました。

私は深く感銘を受けました。と言うより、衝撃、に近いかもしれません。

私は、自分のことをずっとマイノリティだと思っています。

これは自分が「特別な人間である」と過信しているという意味ではなくて、

「自分がどこかに所属している」という気持ちになったことがない、と言う事です。

幼稚園に通う最初の集団生活でも、「私はここになじめない」とはっきり自覚していました。

子どもの頃はその違和感を言語化できなかったし、「人が人と違うのは当然である」と本で教わった私は、あまり深く追求してきませんでした。

でも大学生の時、ちょっとした転機を迎えました。

同じ日本ではあるけれど、縁もゆかりもない土地で文化の違う人々と信頼関係を築き、ほんの少しだけ優しくなれるという経験をしたからです。

同じ日本で、そこまで大きな文化の違いを経験することないでしょ、って思いますか?
いいえ、それがありうるのです。文化も、歴史観さえ違うことが、同じ日本でもありうるのです。
それゆえに私はずっとマイノリティだと感じて生きてきました。

「日本人である」という「表面」の側だけ見て、そこに文化の違いなどないと思うのは、日本と言う国を少し大味に見ていると思います。

日本にだって文化の違いはあります。それは時に無意識の差別を引き起こすほどに。

海外だとそれがより顕著に表れるのでしょう。
そういう点では海外に行くという経験は得難いものでしょう。

もし、留学経験のだいご味の一つがそうであるならば、私はすでに経験したと言えますし、むしろ今も経験し続けているとさえ思っています。

私は常にマイノリティである、と思っているからです。


世界には、言葉が違うのに習慣が似ていることがあります。
逆に、同じ話題に関してまったく反対の反応をする人々もいます。
同じ言語を話していてもです。


「表面」に見える違いももちろん楽しいです。
肌が違う、髪が違う、宗教が違う、言葉が違う。

だけどそんな表面的な部分のみで「人」は判断できません。

もっとその奥にある深い深い、目に見えない違いこそ楽しい。

それは海外だろうが国内だろうが同じなのです。

「マイノリティ」ってあまりポジティブな意味ではないのでしょうか?

でも、自分の正義は隣人の正義ではないし、自分の正しさが仲の良い友人と同じであるとも限りません。

恋について、宗教について、家族について、趣味について、仕事について、これまでの経験について。

あなたにも「マイノリティな部分」は必ずあるはずです。

人は人と違うから
だからお互いに助け合ったりいがみ合ったり、傷つけあったり愛し合ったりできるのではないでしょうか?


あなたも私もマイノリティだ。

どこにいようとそれに気づけば、ちょっとだけ、人に優しくなれるのかもしれません。

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