井の中の蛙大海を知らずに続きなんてない!
ふだん何気なく暮らしていて、別にいろはかるたなんかしなくても、諺であるとか故事成語であるとか慣用句みたいな言い回しに触れる機会がわたしたちには多々あります。
その中でもよく見聞きするのがこの「井の中の蛙大海を知らず」ですが、どうやら続きがあるというようなことを永六輔さんが仰ってたとか、それ以外にも大勢の方々がいくつか教示されているとのことなので何例か見てみたいと思います。
◎井の中の蛙(かわず)、大海を知らず。ただ空の深さ(青さ)を知る
◎大海の鯨、井の底を知らず
・井の中の蛙 大海を知らず されど 井の中を知る
・井の中の蛙 大海を知らず されど 空の青さを知る
・井の中の蛙 大海を知らず されど 空の高さを知る
・井の中の蛙 大海知らねども 花は散りこみ 月は差し込む
上記の◎については永六輔さんの言葉です。2点目については鯨ではなくて翼の生えたカエルがうにゃうにゃぁって出てくる伏黒恵のアレを思い出してしまうんですけど、、、
で、・の4つについては誰の言葉なのかはハッキリしないけど、よくお見掛けする続きといわれるものです。いずれも良いというか、素敵というか、ロマティックというか、典雅というか、風流というか叙情、詩情に溢れた文章だと思いますし、世の中の人々が感じ入ってしまう理由もよく分かります。
ただ「続き」と断言されてしまうと、イヤそれは違うと否定せざるを得ません。
例えば、巨人の星には続きがあって左腕のピッチャーだった星飛雄馬が右腕ピッチャーとして戻ってくるとか、ドラマ「ケイゾク」の続きが「SPEC」だとか、そういうことに異論を挟むつもりはありません。
でも、空とか花とか月とかは違うんじゃないかなぁーと思います。上記で何例か挙げましたが、つまりそれらは「続き」ではなく勝手な「創作」だとわたしは考えています。
とは言えこれはわたしの個人的な意見で、続きであろうが創作であろうがどっちでもいいというのが大半の意見とは思いますが、改めてこの「井の中の蛙大海を知らず」が何なのかというのを確かめたうえで「創作」と言い切る理由を述べたいと思います。
そもそも、この井蛙の故事成語の出典は『荘子』の外篇の中の秋水篇だとされています。『荘子』というのは荘子(荘周)という紀元前300年頃の人物が著者とされる書物です。
中身については、内篇、外篇、雑篇で構成されていて内篇のみが荘周本人による著述で残りの外篇、雑篇について偽物である疑いがあるそうです。(結局、出典からして続きなのか創作なのかハッキリしないのは何とも皮肉な感じです。)
内容についてはいわゆる「老荘思想」の一端が垣間見れるようなエピソードが盛り沢山といった風で、混沌王、はねつるべの話や胡蝶の夢、木鶏や尾を泥中に曳く等の現代社会を生きるわたしたちにとっては荒唐無稽、支離滅裂な滅茶苦茶でパンクでクレイジーな話ばかりの書物なのですが、どうやら現実的で常識的でクソ真面目な「論語」のカウンターカルチャーとしての側面もあったようです。
そんな荘子にあって少し論語よりな「井の中の蛙大海を知らず」ですがその元ネタになった部分をわたしの意訳でお伝えします。
河伯(中国の黄河という大河の内陸寄り神というかカエルのような妖怪というか鬼みたいな存在)が河口まで下り海若に対面しました。
その海若(北の海か東の海の沿岸部の神というかウミガメみたいな妖怪というか鬼みたい存在)が河伯にこう言いました。
井の中の蛙と海の話ができないのは、その場所しか知らないからだ。夏の虫と氷の話ができないのは、その季節しか知らないからだ。つまらない者と真理や道理の話ができないのは、狭く偏った考えしか持たないからだ。
というのが概要になるのですが、ちょっと荘子っぽくないという印象を持たざるを得ません。老荘思想には、二元論のような考えはつまらないから止めましょうみたいな雰囲気があるのですが、このお話は狭いより広いほうが良いよね、夏だけより一年中の四季つまり春夏秋冬を知ってるほうが偉いよねといった感じの二元論そのものの論理が持ち込まれていておかしいなと思ったら、どうやら後世の、儒学のみを極めた学者が荘子に触れ「世の中全部わかった気になったがそうじゃなかった」みたいな思想の潮流が中国の土着の神々の会話として編集されてしまったとのことです。だから分別くさい話だったんですね。
という訳で、井の中の蛙というのはただの例え話でしたし、空も花も月も関係ありません。もし続きがあるとしたら、それは「夏虫疑氷」という四字熟語ということになります。
では何故、前述した創作物が世に広く知れ渡るようになってしまったのか明らかにしたいと思います。そこには3つの理由があると考えます。
①現代人のコンプレックス---おそらく現在のこの世を生きる多くの人が狭い場所から飛び立てずに閉じ込められてる、辺境の地に不本意ながら幽閉されてると自認、自覚、錯覚してるような状態、または努力はしているが知らない、分からないことが多過ぎるというような劣等感に悩まされている。
②ビジュアルによる再現と認識---おそらく「井の中の蛙大海を知らず」というただの例え話を絵面、図柄、画像で思い浮かべてしまったのだと思います。現実世界のカエルは井戸にはいませんが、それぞれ各人が頭の中で暗くて狭くて深く湿った井戸の底に佇むカエルの映像が脳内で再生されてしまったのではないでしょうか。
見上げればそこには青い空。救われた錯覚に陥りますよね。
③カエルの連想、混同。---「古池や蛙飛びこむ水の音」松尾芭蕉の有名な句です。俳句のことはよく分かりませんが普通のカエルはこちらからあちらのほうへピョンと勢いよく跳ぶものです。池に飛び込むことのできない井戸の中にいる蛙はせめて侘び寂びくらい感じて欲しいですよね。
「やせ蛙まけるな一茶これにあり」---小林一茶の有名な句です。カエルというのは日本人にとって身近な動物です。自身や自分の近親者を投影して応援したくなる気持ちはとても理解できます。井の中の蛙も自然と応援したくなりますよね。
「小野道風の逸話」---これは俳句ではないです。小野道風というのは朝廷、宮中に仕えた平安貴族です。花札で傘をさしたオッサンの正体は実は彼で、柳と蛙と一緒になってます。ある時、自暴自棄になっていた彼は柳の木の下で飛び跳ねるカエルを見掛けたそうです。「バカだなあ、何度も跳んでるようだが随分と高いところにある葉っぱにつかまるのは無理だろう」と思ったその時に、なんと強風が吹き、柳の枝がしなり、垂れ下がった葉っぱにカエルが飛びついたとのこと。それを目の当たりにした道風は「バカなのは私だ。ロクな努力もせず書の道を諦めていたとはなんと愚かな!」と一念発起し、後に三跡とよばれ書道の神様にまでなったそうです。
なんとなく、こんな連想や混同が「小さい自分、至らない自分、夢見る自分、頑張る自分」の投影対象としての蛙が、空の青さや高さ、花びらや月を呼び寄せてしまったのかもしれませんね。
余談ですが、ひねくれ者とか故意に人と反対する言動をとる人を天邪鬼(あまのじゃく)と言いますが別の漢字にすると 河伯、海若 と表記するとのこと。
そうです、蛙や夏虫について語っていた二人です。どうやら(仏の教えにおいて世界を守る)四天王の仏像が踏みつけているのはあまのじゃくらしいです。画像などで確認してみると踏みつけてられている様子は悪さをしたイタズラ小僧にしか見えません。そんな小僧の会話なんてただの与太話なんでしょうね。
与太話の続きとするのはダメで、創作とするなら許すとか、そんな駄文をつらつらと書き付けることが野暮なことに思えてきたので今回はそろそろ失礼させていただきます。
最後までお読みいただき有難うございました。
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