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人はなぜ自然に惹かれるのか?

この世には、誰の目にも止まらないような虫がいる。サムネの虫は俺がカメラで撮ってやんなきゃ一生スポットライトを浴びずに死んでいっていたんだよ。
今、これを書いている頃にはもう死んでいるんだろう。
そういった日陰にいるような弱者たち、社会に馴染めない個人にほんの少しの光を当ててやるのが、芸術家の存在意義だと俺は思う。

でもこいつら(虫たち)からしたらそんなことはどうでもいいんだよな。
こいつらは、自分が自分で在り続けるためだけに生きている。
そこに夢や目的、生きる意味なんてたいそうなもんはない。もちろん世間からの目線、周囲の目線なんてものこれっぽっちも気にしちゃいない。こいつらはなにもない。
そう、なにもないのだ。
自分が自分で在るため、それだけのために生きている。
花は花であるために生き、
虫は虫であるためだけに生き、
鳥は鳥であるためだけに生きている。
そう、絶対的なのだ。
絶対的だからこそ花鳥風月は、とても美しいのだ。
美しいものは、それだけで美しい。

俺たち現代人は今のこの資本主義、競争社会において常に人と比べられがら生きている。
インスタのフォロワー数、持ってるブランド物の数、年収(自分のだけじゃなくパパ共のな)、意識してはダメだと分かりつつもこんなご時世、嫌でも目に入ってきちまう。
俺だって気にする。
金なんてクソだとは思いつつも、周りで社会人やってる奴の方が金はあるし、夢への道半ばで諦めてしっかり働いてる奴の方が金がある。今じゃ家庭を持ってる奴だっている。電車代がなくて、好きな女に自転車で会いに行くなんてこととは無縁の奴らだ。こんな他人様と、自分とを比べて嫌になる日もある。
これの下書き、山奥で書いてたんだけど、天から降ってくんのは「金」じゃなくて「虫」なんだぜ?自分でも笑っちまう。

そうやって日々比較されながら、比較しながら生きている我々が、「自然」に惹かれるのはなぜなのか?
自然のように、「美しく在りたい」つまり「絶対的で在りたい」と心のどこかで願っているからではないだろうか。
他人と比べたくない、「俺は俺」「僕は僕」「私は私」「うちはうち」と絶対的な存在として生きていたいから、我々人類は肌の色やら老若男女問わず「自然」に惹かれるのだろう。
仮に自分が金を沢山持っていようが、いくら裕福な生活をしていようが、異性からモテていようが他人と比較して得れんのは「優越感」だ。
「自己肯定感」なんかじゃない。
だからこの国は皆幸せそうに見えて、不幸せなんだ。自分が「自己肯定感」だと思ってるもんが「優越感」でしかないから。

でも、皆本当はそんなことくらい薄々わかってんだ。
自分の持ってるもんが大したことねぇってことくらい。
自分と他人様と比べなきゃ価値を感じれねえってことくらい。
でもそれでも、それでも俺たちは生きていくしかないのだ。周囲からなんと言われようと、こんな24歳の職無しクソニートからなんと言われようと、生きていくしかないのだ。
こんなクソな世の中で他人と比べずに生きていこう、好きに生きていこう、なんて無理だ。
無理なもんは無理だ。
それでもそう悩み、葛藤しながらも夢や理想の自分、家族や恋人や友達とか
「なんかダイジなもん」のために生きていくしかないのだ。

相対的なものは美しくない?
他人と比較しているやつは美しくない?
違う。我々人間は、
それを追い求めるその過程こそが
それを守り続けるその姿勢こそが
美しいのだ!

希望は捨てちゃいけない。

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