見出し画像

相互的な主体性 ——対話における主体性を考える

「主体性」ということば

 近年、「主体」や「主体性」という語は大きな注目を浴びている。2020年度(小学校)から実施されている学習指導要領では「主体的で対話的な深い学び」が目指され、教育における「主体性」の養成が重視されるようになった。また、厚生労働省は誰もが「主体的なキャリア形成」をできる社会の実現を目指し、キャリアコンサルティングなどの政策に取り組んでいる。個人から団体へとピントをずらすならば、地域でまちづくりに貢献している多様な主体やSGDsに取り組んでいる多様な主体といった、課題解決に取り組む主体が問題となるだろう。ところで、こうして多用されてきた「主体」「主体性」という語を、私達はいったいどのようなものだと考えて使ってきたのだろうか。
 精選版日本国語大辞典によると、「主体性」とは「行動する際、自分の意志や判断に基づいていて自覚的である」という性格である。また、インターネットページにおいては「主体性」という語は「行動」「自ら」「自主性」などといった語と共に出現することが多い。冒頭で提示した小学校学習指導要領の解説(総則編)では、「学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通しをもって粘り強く取り組み、自己の学習活動を振り返って次につなげる」ことが「主体的な学び」として提示されていた。ここで、以上のような一般における「主体性」の使われ方を参照することで、「主体性」という語が自己性と行動性という2つの性格によって規定されていると言うことができるだろう。平たく言い直せば、「主体性」とは「自分が自分で行動する」性格であり、「主体」とは「行動する自分自身」ということになる。

対話における「私」と「君」

 一般に、「主体」は「客体」と対の概念として理解されることが多い。それは、「能動的に行動する自分自身」と「受動的に行動の影響を受ける個物」という対立関係が行動のうちに想定されるからである。しかし、「主体」‐「客体」という構図はそれほど常に成立するものではない。
 私はここで、対話における主体性を考えたい。対話という語もまた一般には多くの意味を伴って解されているが、ひとまずここで想定する対話とは、2者間での対等な言語コミュニケーションである。仮に、「私」と「君」の対話において、「私」が「君」に何事かを語りかけるという場面を考えてみよう。
 「私」は、自己性と行動性をもった1つの「主体」として「君」へと話している。そうであれば、「君」は「話す」という行動を受ける「客体」にほかならない。そしてこの瞬間、対話の中に、能動的主体である「私」と受動的客体である「君」という対立構造が生まれていることになる。しかし果たして、これを私たちは「対話」と呼ぶのだろうか。「対話」という語には、「私」と「君」とが対等につながりあっているような可能性を見出せないだろうか。

能動性の呪縛からの解放

 対話における主体性を考えるには、「主体」‐「客体」という対立構図から抜け出し、対話に参加している「私」と「君」の両者を主体として考えることが必要である。そしてそのためには、能動性の病から解き放たれねばならない。対話において「私」が何事かを語っているとき、それは、「私」が能動的に話しているということを必ずしも意味しない。対話においては、能動性と受動性とは表裏一体である。なぜならば、対話において「私」が「君」になにごとかを話しているとき、「君」は「私」からなにごとかを聴いているのであり、翻せば、「私」は「君」になにごとかを聴かれているのである。もちろん、ひとたび対話の外に出れば「話す」ことは必ずしも「聴かれる」ことにはならない。誰かに必死に何かを話しかけても、それが耳に届かないのはよくあることである。しかし、もし「私」と「君」との間に対話が成立しているのであれば、「話す」ことは常に「聴かれる」ことでもある。このとき、「私」の「話す」という行動は——そしてもちろん、「君」の「聴く」という行動も——能動性とか受動性といった概念では裁ききれるものではない。
 主体性へと話題を戻す前に、「聴かれる」という耳慣れない単語についてもう少し立ち寄る必要があるだろう。「私」が「君」に「聴かれる」とは、いったいどういうことだろうか。「聴かれる」ことを、「話したことを受け取られている」という意味で理解してはならない。そうだとすれば、「聴かれる」ことの前提に「話す」ことが置かれてしまう。そしてその先には、再び能動性の呪縛が待ち構えている。そうではなく、「話す」ことと「聴かれる」ことは同時に成立するのだと考える必要がある。「聴かれる」が「話す」ことによって成立するのと同時に、「話す」もまた「聴かれる」によって成立しているのである。そしてそれは、対話の中で生じる「話を引き出される」という感覚に近い。
 実際、対話において私たちはしばしば話を引き出されてしまう。話そうと思ってはいなかったことを、思わず話し出してしまう契機が対話の内には存在する。そしてそれは、話している相手がだれであったかに、すなわち「私」と「君」との関係性に大きく依存するものである。「本音の対話」などといった言葉で意図的に対話を目指したところで、「本音」が語られることはそう多くない。しかし、語ろうとしていなかったにも関わらず、つい語ってしまうものが本音であり、それを可能にするのが対話である
 ここにきてようやく、「私」が「君」に「話す」という能動的に見える単純な行動が、「私」が「君」に「聴かれる」という受動的な行動と一体をなすという意味がよく理解できる。「私」は「君」に「聴かれる」ことによって、ふいに語りだしてしまい、気づくと「話す」ことが可能になっている。そして「話す」ことが同時に、「君」が「私」を「聴く」ことを可能にし、再び「私」は「君」に「聴かれる」に至る。

対話における主体性

 「話す」主体‐「聴く」客体という「私」と「君」との対立構図は、対話を説明するものとしては不適切であった。「話す」と「聴かれる」とが一体をなす対話においては、「私」と「君」とはそれぞれ「聴かれる」主体と「聴く」主体であり、相互に主体的である。ただし、この対話における主体性は、自己性と行動性からなる「主体性」にそのまま重ねることは難しいだろう。なぜなら、対話における「私」の主体性は「君」の主体性なしには成立しえないものであり、独立した自己を想定する限りは導き出されないものだからだ。
 それゆえ、私たちは関係性に規定される主体性を考えなければならない。言い直せば、「私」と「君」との関係に目を向けることでかえって見出されるような「私」の主体性を考えなければならない。それは、「君」によって引き出されることで自覚されるような「私」の主体性である。
 「私」は「君」との関係のうちに自らの「主体性」を見出す。そのとき「君」も同時に、「私」との関係のうちに「主体性」を見出している。対話における主体性とは、このように相互的な主体性である。私たちの自己性は一般に、他者との区別において——すなわち自己の独立性において——感じとられるものとされている。しかし、対話における主体性はその逆の可能性を示唆している。それは、私たちが他者との関係において自己性を感じ取ることができるという可能性である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?