君って挫折とかしたことなさそうだよね
「君って挫折とかしたことなさそうだよね」
この文章は、そんな一言から始まった、「挫折」をめぐる思索である。
「挫折」の価値
「挫折」は、辛く苦しい経験であるから、一見マイナスなイメージの単語であるように見える。しかし実際には、「挫折」はよい経験として語られてきた側面をもってはいないだろうか。冒頭の「挫折とかしたことなさそう」は、「辛く苦しい挫折」に「襲われていない」ことを称える褒め言葉だろうか。それとも、「成長の機会である挫折」を「経験していない」ことを軽んじる言葉だろうか。
私たちは、自分の人生の話をするときにしばしば「挫折」の話をする。面接において、自己啓発本において、教育の場面において。これまでの自分の経験を語るとき、「挫折」は欠かせないスパイスである。「挫折」を語ることによって、人生という物語に転機が与えられる。そしてその転機の前後で、その人がまるで大きく変わったかのように、「挫折」に耐える苦しさを背負ったかのように、あるいは「挫折」を乗り越えて大きく成長したかのように感じさせる。他者の苦しい話は、共感を呼びやすい。「挫折」を語ることは、自分の人生の物語に他者を誘い込むことでもある。
そのためだろうか。少年漫画の世界にも「挫折」が欠かせないように思われる。王道な少年漫画のテーマは友情・努力・勝利であるが、主人公が努力をするきっかけに「挫折」があることは珍しくない。まず主人公は「挫折」を経験し、その「挫折」を友情や努力によって乗り越えることで勝利へとたどり着く。少年漫画とは、そういう物語である。『NARUTO-ナルト』の主人公うずまきナルトや『BLEACH』の主人公黒崎一護はその典型とも言えるだろう。
「挫折」は決してマイナスなものではない。むしろ、「辛く苦しい」というそのマイナス性ゆえに「挫折」は好ましい。「挫折」をしたということは、「辛く苦しい」経験をしたということであり、それを乗り越えたということでもある。だからこそ、人の苦しみや痛みがわかるし、人間としての成長を遂げることもできる。「挫折」は紛れもなく、高い価値を持っている。
「挫折」の価値の裏面に
しかし、「挫折」経験によって人間的に成長できるというこの事実は、その裏面に、「挫折」を経験していないと人間として一人前でないという価値観を持っている。もちろん、文字通りこれは命題的に「裏」であって、前者が真であることが後者の真偽を論理的に決定づけるわけではない。それでも、後者の価値観はある程度社会で共有されているように思える。そしてこの価値観ゆえにすべての人間は、自分の人生の語りにおいて「挫折」経験を要請される。
もちろん、ここで私たちが要請されているのは、今なお経験している「挫折」、すなわち「進行形の挫折」ではない。教育者が「今まさに私が挫折していること」を語ることはめったにない。そこで語るよう要求されるのは既に乗り越えられた「挫折」、すなわち「完了形の挫折」である。そしてこの「完了形の挫折」は、もはやリアルな(現実の)挫折ではありえないし、リアル(現実)である必要も特段ない。それは自分の人生という物語を成立させるために脚色された経験であり、必要なのはリアリティ(現実感・現実らしさ)である。
だから、重要なのは「本当に挫折をしているか」ではない。「いかにリアリティある挫折経験を語れるか」である。その人にとっていかに「挫折」が真に迫ったリアルであろうとも、それがリアリティを持っているかどうかは別問題である。だから人はしばしば、自身の挫折経験を「挫折」として語ることに躊躇する。定期テストでの失敗や部活の大会での敗北は、「そんなの挫折のうちに入らない」などと言われてしまいそうに感じてしまう。そうして挫折を「挫折」として語れなかった人たちは、「挫折」の価値から排除される。
「挫折」に代わるもの
「挫折」には2つの価値がある。ひとつは「リアリティ」で、もうひとつは「経験」である。「現実感」のある「挫折」をしていることによって、その人が「辛く苦しい」思いをしてきたことが証明される。そしてそのことは、その人が人の痛みや苦しみをわかること、他者の辛さに寄り添えることの証となる。一方で、その人の「挫折」は完了形であり、既に「経験」となったものである。その人は「挫折」を克服しているのであり、それによって人間的成長を遂げていることが証明される。
だから、その価値の裏側には、「挫折をしていないと人の痛みや苦しみを分からない」「挫折をしていないと人間的に成長を遂げていない」という価値観が残る。冒頭の「君って挫折とかしたことなさそうだよね」というセリフは、この価値観を土台にもつ。すなわち、「君って人の痛みとか苦しみとか分からなそうだよね」「君って人間的に成長とかしてなさそうだよね」という意味を届ける。もちろん、「辛く苦しい挫折をしていなくていいな」という皮肉の面を被って。
もし些細な出来事であっても「挫折」であると反論するような人がいるとすれば、事はそう簡単ではないことを付け加えておきたい。些細な出来事が「挫折」として受けとられるのは、それがリアリティをもった「挫折」であるように「語られる」からである。例えば、挫折時と克服後とのギャップを強調して。私たちの人間的変化は、果たしてそんなにも劇的なものだろうか。
改めて立ち止まってみたい。「挫折したことがない」と言う人は、リアルな挫折さえないのだろうか。それは、客観的なリアリティをもった「挫折」経験がないだけではないのだろうか。リアリティをもった「挫折」として語ればそれでよいのか。あるいは、「挫折したことがない」と語ることは悪しきことだろうか。そもそも、本当に「挫折」がなければいけないのだろうか。「挫折」がなければ、人間は人の痛みや苦しみをわからないのか。「挫折」がなければ、人間は成長したり変化したりすることができないのか。私たちは「挫折」しないといけないのだろうか。
「挫折」の価値を疑い直すとき、そこにはどんな道が開かれるのだろうか。