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デジタルの夜明けのヒントに『「エンタメ」の夜明け ディズニーランドが日本に来た!』

新しい事業や業界を盛り上がりの陰には、必ずといっていいほど立役者がいる。そうした立役者がいかにしてコトを起こしていったか、その話を知るのは面白い。

『「エンタメ」の夜明け ディズニーランドが日本に来た!』
https://www.amazon.co.jp/dp/4062103486

本書は、ディズニーランドを東京に招致した三人の男の物語。三井不動産×電通のチームで三菱商事×東宝チームから招聘の権利を獲得し、途中頓挫の危機がありながらも契約から約25年をかけて開業に至る。

その立役者の3人とは、電通の小谷正一、同じく電通の堀貞一郎、そしてオリエンタルランドの高橋政知。ディズニーランド開業の経緯だけでなく、その3人がそれまでにどのような仕事をしてきたのかについても同じくらいの文量で書かれており、そちらの話が面白い。特に、この小谷という人は日本テレビ開局、プロ野球パリーグ設立、そして大阪万博と、当時のエンタメの多くをキーパーソンとしてプロデュースしていた。

彼らが活躍していたのは今から50年以上も前の話だが、時代の変わり目に「誰がどのようにして」世の中を変えていったのかの記録は、今のデジタルが変えつつある世の中を観察する上で参考になる。
時代は変わっても、世の中を変える原理は変わらない。

以下、印象に残った点を本書に登場する順にまとめておきます。また、最後に感想もまとめておきます。

ディズニー招致コンペの要因は圧倒的なおもてなし力

ディズニー幹部が来日した際の三菱と三井×電通のプレゼン&接待争いで命運がわかれた。横柄な態度でディズニー側の怒りを買ってしまった三菱に対し、三井×電通は移動にヘリを使ったり、移動車中の飲み物に幹部たちのお気に入りのドリンクを用意していたりと、先読み力とおもてなし力が抜きん出ていた

1951年当時、「テレビの仕事をしたい」なんて異端だった

堀貞一郎は1951年バイト先のNHKでテレビジョンの放送が開始されるとの噂を耳にし、テレビの世界へ進むことを決意。放送局開設を企画していた日本電報通信社(現・電通)の面接で「テレビジョンの仕事がしたい」と言った。社長吉田秀雄は「変わったやつだなあ」と苦笑いした。

今でいう、「ドローンの仕事がしたい」と言うみたいな感じか。

昔の電通マンは自分で何でもやった

当時の電通制作局はみんな20歳台。職種は一切なくなんでもやった。堀は自分で企画書を書き、CMソングを作詞し、知り合いの作曲家にメロディをつけてもらい、アニメを撮り、プレゼンし、自らCMソングを歌い、企画が通れば演出し、編集し、ナレーションした。

テレビのメディア価値を示すために街頭に置いてしまう施策

日テレの創業者正力松太郎は、テレビのメディアとしての価値をスポンサーに示すために5億円かけてテレビ500台を購入し、街頭テレビを設置。アサヒビールのCMについて接触メディアの調査をしてラジオよりもテレビが多いというファクトを作った。

電通クリエイティブの原型はマッキャンエリクソン

吉田は渡米視察でマッキャンエリクソンのクリエイティブグループ「ティンカー・グループ」の存在を知る。ノルマを持たない自由な風土で数々の名作を排し、会社をけん引していた。その電通版がプランニングセンター。そこに堀が配属される。

小谷正一は人の心を掴む天才だった

プランニングセンター立ち上げをした小谷正一は人の心を掴む天才だった。フランスからパントマイム第一人者マルセル・マルソーが来日した際、同伴した夫人の買い物に部下をはりつかせ、迷って買わなかった方の商品を記録する。そして帰国時にそれらをまとめてプレゼントする。

パリーグ設立は小谷の「作ったらいいじゃないですか」からはじまった

プロ野球のパリーグをつくったのは小谷正一。毎日新聞時代、読売の反対でプロ野球加盟が暗礁に乗り上げたとき、社長に「入れてくれないなら、作ったらいいじゃないですか」と進言。 課題の解決に必要な手順を、制約を取っ払って考える。

小谷は日本の民間ラヂオを作った

小谷は社長に命じられて日本最初の民間ラジオ放送開局を担う。 誰も手がけていない仕事を与えられると、誰よりも燃える。

ラジオ開局時、小谷はスポンサーから徴収する広告費の価格設定に頭を悩ませた。既存の他媒体の料金をベンチマークにしながらあれこれと設定してみたが、スポンサーの納得は得られない。そこで電通の吉田秀雄に相談に行くと「社員の食いぶちを、肚づもりの時間数で割ってみりゃいいじゃないか」

帰り際の小谷に吉田は「今に放送局が新聞社を養うようになるんだぜ」

小谷は自分を抵当にロシアからバイオリニストを招聘した

バーで仕事仲間と「今、いちばん難しいことって、何やろ」という話からソ連のバイオリニストを日本に招聘する企画を立てた小谷。当時は国交も無い。ロシア通商や、日本の外務省に交渉するも泣かず飛ばず。そんな中宴席であったロシア貿易を商いにする社長に訪露時に直談判を依頼する。

招聘費用捻出のため実業家を回り借財を申し入れた際、「抵当は?」との問いに対して「抵当は小谷正一です」。 これ好き。

小谷は人のやりたいことを応援することで部下に慕われた

小谷は管理能力の高い人ではなかった。ただ、若者を誉めてその気にさせることにかけては天下一品だった。 「小谷さんは、ぼくらがしゃべるのを聞いて、きみ、ええこと言うなあ、とおだてるのはうまかった。だから若い連中がよく小谷さんのところに集まったんやね」

小谷は会社の名前ではなく自分の名前で仕事をしていた

岡田芳郞は、電通時代、小谷が電話で「電通の小谷です」と名乗るのを一度も聞いたことがなかった。いつも名乗るときは「小谷です」だけ。小谷は決して肩書で仕事をしない男だった。

ニューヨーク世界博でディズニーの集客力、スポンサー集客力を目の当たりにした小谷は、大阪万博の住友商事の展示で童話館を提案し形にする。 アイデアを得て、それを形にするときのスピードとスケールの大きさがケタ違い。

そして、「万博の次はディズニーランド」を合言葉に小谷と堀は動き出す

オリエンタルランドは三井不動産と京成電鉄のジョイントベンチャーとして設立。元々は浦安沖の海が製紙工場の廃水で汚染されてしまっていたために、埋め立てて東京のベッドタウンを作ろうとしていたらしい。設立当初の社員は3人。

ディズニーランドの図面はわずか2日のうちにスケッチに落とされた。その図面と6枚の企画書を携えてディズニーはニューヨークへ向かい、資金調達をはじめた。

ディズニーランド成功の理由はふたつ考えられる。ひとつは相手の立場で物事を考えること。例えばディズニーの水飲み場の蛇口は上に向いているが、それは親が子どもから目を離さなくてよくするため。もうひとつは、アトラクションの物語を誰でも直感的にわかるものにして理解のストレスを無くすこと。

手塚治虫はディズニーを尊敬していた。随筆でディズニー作品を真似ていたことを認め、ディズニーランドがほかのテーマパークと異なる点を「子どもたちへの愛情が感じられる」点にあると思い返してしている。

1970年代に入るとディズニーのコンテンツは時代遅れとの見られ方がされ、ディズニーランド招聘の計画にも暗雲がたちこめていた。1969年までは文部省が認可したコンテンツしか輸入ができないという規制があったがそれが撤廃され、加えてアメリカのヒッピームーブメントから刺激的な映画が輸入されたためだ。しかしその予想を裏切るように、ディズニーランドは大ヒットする。

時代はいつだって真っ白なキャンバス

電通プランニングセンター時代、小谷の部下だった岡田が「小谷さんの時代は羨ましいですよ。時代の過渡期に真っ白なキャンバスに思い通り絵が描けたらなんていいのか。」それに対して小谷「岡田くん。いつだって時代は過渡期だし、キャンバスは真っ白なんだよ。」

◾️感想

本書を読んで感じた「時代が変わっても変わらない、世の中を動かすために大事なこと」は3つ。

1.相手の先々を読むことで心を掴む
仕事は人で成り立っている。だから、立場の上下関係なく一緒に仕事をする人に気持ちよく仕事をしてもらう工夫が必要。それも仕事だと思って楽しむ。

2.キーパーソンを抑え、自分がキーパーソンになる。
とはいえ誰を確実に抑えるかは意識すべき。仕事を成功に導く上で動かさないといけない人、動かした方がいいテコのような人は存在する。

3.自分を囲う枠組みに囚われずとにかく行動を起こす
とにかく自分が動くのが一番早い。その上で会社の肩書きはあくまで肩書き。自分の行動を決めるものではない。

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