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呟き的な個人的考察New③

皆さん、こんにちわ。

臥龍桜です。

前回は有料noteでした。正直自分の中では沢山の方に購入していただき

ありがたくも驚きと嬉しさで一杯です(^-^)

さて。今回は。

『世界遺産からの繋がり』

をお話ししていこうと想います。

皆さん、トップ画像は何かお分かりですか?

トップ画像は

『子持勾玉』(こもちまがたま)と言われている勾玉です。

勾玉の背や腹や胴などに小さな突起など付着させた物です。

しかし基本的に子持勾玉の用途は不明の様です。

基本的に『普通の勾玉』も『装飾品』以外の用途はあまり分かってはいない様です。

一般的?にはこの2種がよく知られていると想います。

『出雲型』

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『大和型』

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この2種がよく知られていると想います。

ん〜特徴的に出雲型はプックリ。大和型はプックリからのシュとした感じですね。

伝わりますかね?(笑)

僕も自分様に勾玉を2つ持っています。

まぁ勾玉に興味を持ったのはnoteを読んでいただいてる皆さんならお分かりでしょうが。

僕のnoteの『解禁』に書いてあります。

興味がある方はご覧ください。

さて。この2種類の他にも色々な形をした勾玉があります。

そのうちの1つが『子持勾玉』です。

さてこの子持勾玉にソックリ?な勾玉があります

ソックリ?っていうか同じだよね?と想います。

薙鎌勾玉

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子持勾玉

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子持勾玉の真ん中の出っ張りを丸にしたら

薙鎌勾玉ですよね(笑)

さてこの子持勾玉ですが

皆さんは世界遺産になった

『沖ノ島』をご存知ですか?

世界遺産になる前は沖ノ島には男性しか上陸出来ませんでした。(大祭の時に約200人のみ。島に上陸する前に海水で禊などをするなど約束事が多々あります。)

今は男性も駄目で一部の研究者(男性)は上陸出来るそうです。

当然沖ノ島を管理している宗方大社の方は行けます。

ちなみに沖ノ島の場所はこちらになります。

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さて沖ノ島は世界遺産になる前から島のあちらこちらに

『国宝級のものがある島』でも有名で

『海の正倉院(しょうそういん)』とも言われています。

一般的に沖ノ島から出土した?置いてある?のはこの様な物です。

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出土?置いてある?

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この様な感じです。

この地面に置いてある様な埋まっている様な物も全てが

『国宝級です。』

当然持ち出しも禁止です。

さて。

これが今回のメインテーマ

『世界遺産からの繋がり』とどう繋がるのか?

最初からガツンと行きましょう(笑)

こちらです。

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こちらのガラスの製品を東京理科大学の方々が調べました。

結果は

『沖ノ島から出土した国宝のガラス製品が。

ササン朝ペルシャ起源であることが理化学的に実証されたと発表した。』

(2020年3月)

沖ノ島では4世紀後半~9世紀に国家的祭祀(さいし)が営まれ

大陸などからの奉献品が多数出土、約8万点が国宝として宗方大社の神宝館に所蔵されている。

この様な感じです。

さて以前からササン朝ペルシャのお話しは皆さんにしてきました。

(今回はササン朝ペルシャで表記を統一します。)

別名『波斯国(はしこく)』ですね。

平城宮の跡地から出てきた数学を教えていた

波斯国の人。

平城宮自体は707年頃から810年頃までの間に現在の奈良県にあった都です。

もう1つは

『さきたま古墳』ですね。

日本書記的には534年頃には安閑天皇(あんかん)の命令により笠原直使主(かさはらのあたいおみおぬし)が拠点を持ったのが初まりとされる様です。

その、さきたま古墳からもペルシャの伝統的な細工を施した物が出土しています。

また奈良県の新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群からもササン朝ペルシャのガラス碗が出土しています。

奈良古墳も年代で言えば、さきたま古墳と同じ様な年代になります。

1回簡単に纏めます。


沖ノ島では4世紀後半~9世紀に国家的祭祀(さいし)が営まれ大陸などからの奉献品が多数出土。

4世紀後半とは350年から400年の間頃です。

9世紀とは801年から900年まで。

なのでざっとですが

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350年頃から900年頃まで沖ノ島では国家的祭祀が行われていた。

分かってる事で年代順に並べてみると。

沖ノ島=350年(福岡海上)

さきたま古墳=530年頃(埼玉)

新沢千塚古墳=530年頃(奈良)

平城宮=707年〜810年頃(奈良)

沖ノ島=900年頃まで。

この様になります。

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では『ササン朝ペルシャはいつから初まりいつ終わるのか?』

226年から651年までです。

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話は秦氏のお話になります。

秦氏が日本に来たのは応神天皇の時と言われています。

応神天皇は270年から310年の間、天皇をしていました。

なので270年から300年頃と推測します。

秦氏は数千から1万人ぐらいの一族と一緒に日本に来て日本に帰化します。

日本に来ると

『豊前国(現在の福岡、大分あたりです。)に拠点としました』

とあります。

そこを拠点として(ざっとですが以下の県にも拠点を作り)土着の人と結婚したり、技術を教えあったりしました。

出雲(島根)伊予(愛媛)阿波(徳島)吉備(岡山、広島、香川、兵庫などの一部)

山背(京都)大和(奈良)美濃(岐阜)

相模(神奈川)などなど

ざっとですが秦氏はこの様に日本に帰化して土着の人と結構したり、技術を教えたりしながら当時の中央政府とも関わりを持ち。

言い方は悪い?かもですが権力を持って行くようになりました。

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さて。個人的には以前からも秦氏のお話していますが

簡単に言ってしまえば。

『秦氏』の大元は現在のイランなどの中東から来た人々だと想っています。

失われた10氏族も関係があり。

ゾロアスター教とも関係があり。

ミトラ教とも関係があり。

チベット仏教とも関係があり。

密教とも関係があり。

仏教とも関係があり。

エンキ、エンリルなどのシュメールとも関係がある。


細かく言えばまだありますが、、、、ここら辺で(笑)

では今お話している事と踏まえて考えると

『秦氏』は大陸から日本に来る時に

『沖ノ島を拠点の1つとしていた?』

と考える事が出来ます。

本当にざっとですが地図に矢印で秦氏の移動ルートを書いてみました。

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この様な感じになります、、、本当にざっとだな、、、(笑)

で、先程書いた事と移動ルートを比べると

沖ノ島=350年(福岡海上)

さきたま古墳=530年頃(埼玉)

新沢千塚古墳=530年頃(奈良)

平城宮=707年〜810年頃(奈良)

沖ノ島=900年頃まで。

更にササン朝ペルシャが出来た年代を付け加えます。

226年から651年まで。

沖ノ島で国家的祭祀が行われていたのは350年から900年まで。

ササン朝ペルシャの始まりは226年

沖ノ島の祭祀は350年

という事は約130年の間に秦氏は現在のイラン中東から日本に来た。

という事になります。

長いと想いますか?短いと想いますか?

どの様に感じるかは皆さん次第ですが

個人的にはかなり短いと想います。

さて。

226年から651年がササン朝ペルシャがあった時代です。

130年後の356年

356年から651年の約300年間は少なくとも日本とササン朝ペルシャの交易があったと考えるのが普通じゃないでしょうか?

+秦氏は日本の土着の人々と結婚したり、勢力を広げていきました。

ではこの様な事を踏まえて

『沖ノ島』とはなんですか?

沖ノ島の子持勾玉

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諏訪大社の薙鎌勾玉

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奈良県の三輪山の禁足地から出土した子持勾玉

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大阪の古墳から出土した子持勾玉

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千葉の熊野神社裏から出土した子持勾玉

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愛知の豊橋などから出土した子持勾玉

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愛媛の遺跡から出土した子持勾玉

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と、まだまだありますが。

この様に日本各地に子持勾玉はあります。

さて余談ですが

勾玉の現時点日本最古のものは

『縄文時代の勾玉が1番古く、朝鮮半島にもつたわった。』

『また紀元前6世紀から3世紀初頭には

アマゾナイト製の勾玉が見られる。』

とある。

縄文時代とは範囲が広いですが一般的には

13000年前から2300年前までを

『縄文時代』といいます。

この頃には勾玉が既に日本にはあったんですね。

しかも今の朝鮮半島にもつたわっていたと。

青森県の三内丸山遺跡(日本最大の縄文遺跡)からは

約5500年前の勾玉の初まりと言った方が分かりやすいですかね。

『翡翠の大珠(たいじゅ)が発見されています。』

こちらです。

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さて。

勾玉が縄文時代からあった事。

勾玉は朝鮮半島にもつたわった事が分かりましたね。

では朝鮮半島の勾玉は日本の勾玉と何か違うのか?

基本的には同じですが、個人的には少し特徴がある気がします。

こちらです。

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左が新羅の古墳から出土した勾玉。

右が百済の日本で言う前方後円墳的なところ出土した勾玉。

筋の様な物が入っているのが分かりますか?

次に見せるのが

和歌山の車駕之古址(しゃがのこし)の前方後円墳から出土された『金製勾玉』

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和歌山市もこの金製勾玉に対して

『出土遺物には国内でも類例のない、朝鮮半島からもたらされた可能性の高い金製勾玉があります。』

とおっしゃっています。

という事は朝鮮半島由来の勾玉に関しては

『金製なのか?金属製なのか?という見分け方も出来ると想います。』

しかし材質は大雑把に言ってしまえば同じ様な物です。

では何処で朝鮮半島由来なのかを見分けるか?

『形』ではないでしょうか?

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この穴から伸びている『線』これがヒントなんじゃないかと想います。

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こちらの金製勾玉は『線』ではありませんが

穴から紐?を模した様な物が付いています。

この様に勾玉に何らかの細工をしているのは

日本古来の勾玉では無い可能性もあると想います。

さて。では子持勾玉はどうなるか?

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今まで皆さんにお話した事や以前、お話した事から考察すると。

子持勾玉は秦氏の子孫繁栄の為の勾玉

という事になると想います。

簡単に纏めてみます。

(個人的にポイントになる所)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

① 子持勾玉が出土する県と秦氏が移動した先が同じ。

② 子持勾玉の年代がほぼ同じ。

③ 子持勾玉のデザインがほぼ同じ。

(先程の朝鮮半島由来の勾玉のデザインから考えると、秦氏の子孫繁栄の勾玉は子持勾玉の様なデザインに統一されてると個人的には考察出来るからです。)

そして以前、お話しした。

ゴータマ1族は元々ペルセポリスに居た。(分かりやすく言えばブッダ一族)

タケミナカタはゴータマ1族の可能性がある。

以前お話したので簡略的に。

興味がある方は

(バリバリ都市伝説〜日本〜をお読みください)

『天竺波提国王』(てんじくはだいこくおう)』

タケミナカタは本来『波提』の国王で
『守屋逆臣』に謀反を起こされて日本に逃げてきた。

今で言う兵庫県、岐阜県(南宮)を経由して諏訪に辿りつき『諏訪明神』になった。

(秦氏の移動ルート、兵庫から岐阜これも当てはまりますね。)

簡単に言うとタケミナカタ(諏訪明神)は

ゴータマ1族の玄孫だと書いてあるんですね。

話は変わりますが以前お話した事なので、こちらも簡略化します。

長野県の守矢と天孫族系の鴨氏は同族と言われています。

賀茂氏(かもうじ 加茂氏 鴨氏 加毛氏)
この様に3つあります。

天神系

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
(天神系)は神武天皇の先導をした。
八咫烏とも言われています。

上加茂 下鴨の祢宜(ねぎ)を務めました。

禰宜は年齢的にある程度成熟した人で。
知識や経験が豊富な者が務めることが多いようです。祭祀では重要な役割を果たします。

『鴨がネギ背負ってくる』はこの事が始まりです。

竹内宿禰も賀茂氏(天神系)とされています。

地祓系

大鴨積命(大賀茂津美命・大賀茂都美命)
を始祖とし。

三輪系氏族の一派に属する。
大鴨積命は大物主神(三輪明神)の子でまたは後裔の大田田根子の孫で。
速須佐之男命の11世の孫と言われています。

備前鴨(加茂)氏

簡単に言うと天神系、地祓系をまとめていたと
言われている。(諸説あり。)

安倍晴明に天文道と伝えたとされる。

とあります。

そのうちの地祓系に属する

三輪系氏族の一派に属する。
大鴨積命は大物主神(三輪明神)の子でまたは

後裔の大田田根子の孫で。


速須佐之男命の11世の孫と言われています。

(これは余談ですが。この人物)

大田田根子(おおたたねこ)

ホツマツタエの後半を書いたとされる人物です。

この人物も個人的には後にキーマンになると想います。

さて話は戻ります。

守矢?(個人的には今からお話する神氏じゃないかと想いますが)

と三輪氏(大神氏(おおみわ))と同氏族という話もある。

また

諏訪大社の上社で祭祀をしていた

守矢氏と諏訪氏、諏訪氏の一部の

『神氏』

何故?神氏と言われていたかを簡単に

諏訪大明神(タケミナカタ)は8歳の子供に自らの衣装を着せて

『御正体』(ごしょうたい)として
タケミナカタの衣装を着た8歳の子供自身が

『生き神』であり『御神体』とした。
この役目をする人を『神』と言われていた。

この事から『諏訪氏』の中の8歳の子供が
諏訪大明神に選ばれて。

その8歳の子供の親や身内を『神氏』と呼んでいたと考えられます。

この様な理由があったからです。

また『神氏は諏訪神族』とも言われていました。

その諏訪神族の

駿河国の安部氏

出雲国の牛尾氏

丹波国の上原氏

薩摩国の上井氏などが諏訪神族の一門(親族)だった様です。

そして出雲に繋がります。


出雲の子持勾玉

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三輪山の禁足地から出土した子持勾玉

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今お話した事と以前のバリバリ都市伝説〜日本〜などでお話した事を簡単に繋げます。

シュメール=マギ教=ゾロアスター教=

ミトラ教=(個人的にはこの辺りで先程お話したゴータマ1族のタケミナカタが日本に来たのではないか?と想っています)=

チベット仏教(ミトラ教と仏教の合体的な物と個人的には認識しています)=

仏教=

(個人的にはこの頃に密教と仏教がある種、分かれたと想っています。

ざっとですが。

チベット密教の移動ルートはチベット辺りから

中国へ、そこから日本。

仏教の移動ルートはチベット辺りから

インドへ、そこから中国辺り、そして日本

この様な流れだと想っています。)


そしてチベット密教ルートは下の様に分かれ

唐代三夷教(とうだいさんいきょう)=

キリスト教ネストリウス派(景教)=
ゾロアスター教(祆教)=マニ教(明教)=

(個人的ですが仏教の方が弱冠ですが中国に広まるのは早かったと想います。)

そして

『密教』(個人的に密教はミトラ教がベースであり、ゾロアスター教の要素もあり、仏教の様もあるMIX状態だと想っています。)

密教=空海=母親は秦氏

とこの様な流れだと想っています。

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また『秦氏』は唐代三夷教(とうだいさんいきょう)のマニ教だと言われています。

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個人的にもマニ教自体が唐代三夷教(とうだいさんいきょう)の景教と祆教のMIXの様な物だと個人的には解釈してるので秦氏が信仰していたのは

先程と同じですが

『マニ教の様な物』=『密教』だと想っています。

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また以前も書きましたが秦氏の先祖と言われている。

『弓月君(ゆずきのきみ)』

『日本書紀』によると弓月君は百済の120県の人民を率いて日本に帰化したとあります。
(西暦約290年頃とされています。)

また

月氏族(げっしぞく)


という方々が居て。
紀元前3世紀から1世紀頃にかけて東アジア〜
中央アジアにかけて存在してい遊牧民と国家とされている様です。

2世紀頃に戦に敗れ『大月』と呼ばれ
東西の交易で栄かえた様です。

この『月氏族』と『弓月君』はどうも元々は
同じ部族の様です。(弓月君は個人です。)

また月氏族と弓月君は別々に日本に来たと言われています。

この流れに先程の沖ノ島からの年代に+していきます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー月氏族=紀元前3世紀から2世紀

沖ノ島=350年(福岡海上)

さきたま古墳=530年頃(埼玉)

新沢千塚古墳=530年頃(奈良)

平城宮=707年〜810年頃(奈良)

沖ノ島=900年頃まで。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

という事は『秦氏』の先祖は

紀元前3世紀から2世紀にかけて

東アジアから中央アジア、東西の交易で栄えたと。

画像29

上が『北』です。

なので『東は日本、西は中央アジア』になります。

そして沖ノ島の子持勾玉やササン朝のガラスなどなどの事をプラスして考察すると。

『秦氏の先祖は紀元前から日本と交易をしていた日本に来ていた。可能性が高い』となると想います。

なので更に今お話した事をプラスします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

月氏族=紀元前300年〜200年まで(交易)

大月族?(元は月氏族)=200年(交易)

弓月君(秦氏)=290年頃に日本に帰化

沖ノ島=350年(福岡海上)

さきたま古墳=530年頃(埼玉)

新沢千塚古墳=530年頃(奈良)

平城宮=707年〜810年頃(奈良) 

(余談ですが806年 唐から空海が帰国。この事も秦氏の評価を上げる事に一役買っていたかもしれませんね。)

沖ノ島=900年頃まで。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この様になります。

『紀元前300年から沖ノ島の国家的祭祀が行われ始めた350年までの間が繋がったと想いませんか?』

これならば。

沖ノ島からササン朝ペルシャのガラス製品や子持勾玉

さきたま古墳から出土した製品や

各地から出土する子持勾玉が

秦氏の移動ルート先から出土する理由が分かると想います。

そして。

出土したのはあくまでも『物』です。

『物』だけが日本に来たんですか?

違いますね。

『文化 宗教 崇拝も当然、日本に入って来てるんですね。』

『松尾大社や伏見稲荷を造ったんですね。厳密に言えば造ったではなく、、、、、、、、

『神仏習合』したんだと想います。』

僕らの年代でいうと聖徳太子なのであえて

聖徳太子と書きます。

『聖徳太子以前には既にある意味では、神仏習合していたんですね。』

まぁ仏教ではないんで

『神密習合ですかね?』

伏見稲荷なども諸説が色々とあり元々は今で言う村社の様なものを祀ってあったという話もあります。

700年頃に『秦氏』が伏見稲荷の神主さん的に立場になったとあります。その前から秦氏の方が関係する所だったという話もありますが。

今皆さんにお話している様に、渡来人の方々がいきなり中央政府との関わりを持つのはある種

不可能でしょう。ごく一部の渡来人の方は権力者と結婚していたので完全に不可能だとは言いませんが。

やはりそれでも年月も信頼関係も必要だと想います。

紀元前300年頃から日本に帰化した290年

約600年間の間に交易や一部の秦氏さんが日本に帰化したりした上での信頼関係が下地にあり、集団帰化に至ったと想います。

さて。

世界遺産の沖ノ島の子持勾玉やガラス製品から

秦氏との繋がりがあると分かったと想います。


さて

日本で1番有名な勾玉は

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

三種の神器の1つですね。

二種の神器説もあります(剣と鏡だけ。)

三種になったのは後の話だと。

一般的には天照大御神が岩戸隠れした時に

天照大御神を岩戸から出す為に榊の木に掛けられていたのが八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

だと言われています。

さてホツマツタエでわ。

『陽陰和る文(アメナルフミ)

ヤタの鏡 

八重垣の剣(ヤエガキノケン)』 

この3つが

三種の神宝です。

(一般的に言えば三種の神器ですね。)


陽陰和る文(アメナルフミ)とは簡単に言うと以前もお話した。

ト、ホ、カ、ミ、エ、ヒ、タ、メの『トの神』

世代で言ったら第一世代(性別無し)の

『トの神の教えの事を陽陰和る文(アメナルフミ)と言います。』

『トの教えとも言います。』

その教えを物体?実体化したものが

『ヤサカニの環珠』別名を

『八尺瓊勾玉』と言います。

ホツマツタエでは

『八尺瓊勾玉(ヤサカニのマカルタマ』と言います。

ヤサカニとは『恵み和す(めぐみかす)』

という意味で

『恵みと溶け合う、調和しているという意味です。』

その物体?印?が

『八尺瓊勾玉です。』

ホツマツタエでは簡単に言うと

『剣は今で言う警察庁』

『鏡は今で言う法務省』にあたります。

勾玉は今で言えば内閣総理大臣が持つものです。

この『三種の神宝』を持つものが

国を民を守り、繁栄させる為の責任があると考えてもらえば良いと想います。

当然、ホツマツタエでは

イザナギ、イザナミさんが

陽陰和る文(アメナルフミ)と八重垣の剣(ヤエガキノケン)を授かっていました。

後に男性天照大御神のアマテルさんが1人で

三種の神宝を持つ事になります。

さて

古来の日本では勾玉にはこの様な意味があったんですね。

しかし?しかしなのかな?面白いのが

『八尺瓊勾玉(ヤサカニノマカルタマ)』

先程も書いた

ヤサカニとは『恵み和す(めぐみかす)』

マカルタマは曲がるとかの意味では無く

『還、環、輪、真』この様な意味だとホツマツタエは話しています。

なので

物体としての八尺瓊勾玉は本来この様な物だったのか?

画像30

もしくは

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真の珠と書いて『真珠』の様な物だったのではないか?とホツマツタエは話しています。

個人的に気になったのは

『ヤサカニの環珠』の『環珠』です。

ホツマツタエでもお話ししている様に

環=丸を表していると想います。

環状列石も『丸』ですね。

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また中東に数珠の様な物があるのをご存知ですか?

タスビーフと言います。

画像33

勾玉の元になった大珠(たいじゅ)も

画像34

『丸』でしたね。

この様に『勾玉』と簡単に言ってもかなり奥の深いものなんだと想います。

常日頃?(たまにしてないけど(笑))から勾玉を付けてる自分としては

ホツマツタエの『トの教え』の様に調和を保てる人でありたいと想いますね。

写真は自分の水晶ブレスレットin『magatama』です(笑)

画像35

さてさて、今回はこの辺りで終わります。

何時も長々とありがとうございます(^-^)

次回は今回のお話の『って事は?』のお話をしたいと予定しております。

ありがとうございました。

以上。

臥龍桜でした。

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