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エッセイ。1

2020/10/06

自分で決断できるようになること。
他人に流されないこと。
自分の決断に責任を持つこと。

自分の人生を振り返ってみたいと、ふと、思った。
いや、ふと思ったわけではない。
しっかりと理由がある。
自分のキャリアについて、いや、自分の人生について考えさせられる、考えなくてはならないタイミングが来ているように思える。就職活動。
いわゆる、エントリーシートや、面接では、自分のことを話さなくてはならない。自分の過去がどれだけ、嫌で、苦しくて、情けなくて、振り返りたくないものでも、それまでの人生の出来事やストーリーがその人物を表すものとして捉えられる。
未来は誰にもわからない。でも、過去は事実だ。変わることがないものだ。
そして、それを伝えるためには、それらをうまく、自分で、言語化できる必要がある。
ほとんどの人間は、エスパーではない。だから、言葉で、わかりやすく、端的に、伝えられなくてはならない。

しかし、私は、それらを伝えるのが苦手だ。自分のことを伝えるのが、苦手だ。自分のことを深く知られるほど、怖いものはないと思っている。
なぜなら、自分の過去に自信がない。自分には、何の面白みもない。自分には、他人のような、特別な才能なんてないし、それを磨こうともしてこなかった。自分は、人が思うよりも、ずっと怠惰だ。自分に自信がない。自分という人間がなんなのか、なんのために生きているのかわからない。

そこに、自分のコンプレックスが存在している。過去は、いつも自分のコンプレックスになってきた。何度も、軌道修正しようとした。でも、結局、いつも、大事な一歩を踏み出せない。自分で、決断できない。何かに縛られている感じ。そして、決断しないから、どんどん、自分のやること、為すことに自信がなくなる。
最近も、何度も、自分を奮い立たせようとした。自分が、今、なすべきことをしようと、不安を何とか、払拭させようと努力した。でも、常に、自分の目には、周りが何をしているか、が映り、耳には、他人がどれだけ自分より優れているか、ということが聞こえてくる。
そうすると、自分は、もう手遅れなのではないか、自分が今やっていることは、果たして正しいのだろうか、と考えるようになる。
そして、ついに、動けなくなる。

留学から帰り、実家に戻ってからはなおさらだ。
何も、良いことが起きていない。部分、部分では、良いこともあったが、この、5か月ほど、全く、自分が新たに成し遂げたこともないし、自分に足りないと感じていることも、補完できなかった。
追い打ちをかけるように、母親が父親と毎日のように口論している。母親がいつも、得体のしれないものにいつも、いらだっている。すべてのものごとのあらさがしのようなことをしては、文句を言っている。寝言でもだ。
私自身の気分もいよいよ最悪だ。それに、最近は、留学先の学費のことでもめた。学費の高さに胸が痛くなった。おまえは、~万円の価値がある、留学経験をしたのか?と自問自答する。胸が苦しくなる。全て、自分がなしてきたことが間違いのような気がしてしまう。なにも成長していないではないかと、暗に、親にも言われた

これが、私の人生だ。

自分の人生の選択を後回しにし、自分の意志で、いつからか、決めることが怖くなって、決断できなくなった。そして、たとえ、その時は自分なりに頑張っていても、いつも、後から振り返ると、漠然とした、劣等感や、自分の面白みのなさ、後悔、そういった感情が、良き感情を上回り、自分の過去が怖くなる。

一夜賢者。ある、和尚さんが言っていた言葉だ。今目の前の現実に生きろ。
過去に、妄想に、生きるのではない。
世の中には、悲しみも、楽しさも、優劣も、実はなくて。そういう情報ばかりを勝手に取り入れ、妄想に浸ることは、とても苦しいことだ。
自分の人生の目的では、本当はないことに、向かっていき、自分の軸がぶれること。
そのことほど、苦しいことはない。

なぜ、いまこんなことを書いているのか。
今、このタイミングが、なんだか、自分の人生の中で、ターニングポイントの一つのような気がしているからだ。いや、そうしなくてはいけないような気がするからだ。
自分の進むべき岸も見えずに、ただ大海を、さまよっている、それが今の自分。
でも、それでは、岸に上がることはできないし、岸の上の景色を、みたい景色を見ることができない。
ここで、自分と向き合わなければ。漠然とした、不安が、不安のまま、漂い続ける。
地図を少しずつ、自分で刻めるようになりたいと思う。
自分が何になりたいのか。職業の名前じゃない。自分がどう生きたいのか。
しっかりと決断できるようになりたい、今度は、誰かに、流されるんじゃなくて。

信念。コンパス。それが、自分がずっと、探していたものだから。

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