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歩道に寝そべる子どもと、あえて何も言わない父親の覚悟。


父親は何かを教えようとしていた。
日曜日、混雑するアウトレット内の歩道でこちらに背中をむけじっと立ちつくす男性。目先2メートルほどに2歳ぐらいの男の子。足を組んで天をあおぎ、頭のうしろで腕を組んで寝そべっている。父とおぼしきその人は何も言わず子どもに視線を向けていた。彼らを避けるようにしてバギーを押した親子連れ、カップル、私も横を通りすぎた。

わたしなら、「何しているの?立ちなさい」「こっちへ来なさい」「汚れるでしょ」あたりを連発して、人がこんなに多いのに迷惑になるでしょ、みっともないって考えていたに違いない。

父親は人にどう思われるか?いっさいの体裁を横におき、「ここは息子に指図しないで、やりたいようにやらせるか。自分でどうするか考えさせよう」と腹をすえたようにみえた。

そのうち子どもは道端で寝そべっても何も望みは通らず、父親にはほうっておかれるしで起き上がるしかなくなる。「寝そべり作戦は上手くいかない」と知って、言葉や別の表現方法で伝えることを学ぶのだろう。

スイスの哲学者・教育思想家であるルソーの著書 ”エミール” に、このことと共通する一節がある。乳児が泣きながら両手差し出すのは「ここに来い。物を持ってこい」と大人に命令をしているのだと。そのような時は、自分から来させるようにするか、知らんぷりをしたほうがいいと書かれていた。

それにしても人目が気になって何か言いたくなるのが普通だし、相手が考えて行動するまでなかなか待てるものじゃない。

いま一瞬に起きたできごとに反射的な言葉をかけるのではなく、子どもの未来を見据えたその態度は、世間体ではなく「何をいちばん優先するかの覚悟」の表れなんだろうと思う。



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