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シャンプーされている間膝がかゆい地獄

「かゆいとこないですか?」
 白いベールの向こうから問いかけられた時、右の膝がたまらなくかゆかった。今すぐにでもシャンプーを中断していただき、両手を使ってかきむしりたかった。しかし、膝がかゆいですと答えるわけにもいかない。シャンプーを中断してくれと頼む度胸もなかった。
「あ、はい、は、はい」
 がまんしながら返事を絞り出す。とにかく早くシャンプーを終えていただき、立ち上がりざまにさりげなく膝をかくのだ。という算段だったのだが。
「ほんとですか?なんかかゆそうな声してますよ。もう少ししっかり洗いますね」
 美容師は涼しい声で言った。変に勘の良い美容師め。長年やっていると声でかゆそうかどうかわかるものなのか?しかし、頭を念入りに洗われるほど膝のかゆみはがまんならなくなる。
 そもそもかゆくないかきいてくるのはなんのためなのか?別にかゆみをとるためにシャンプーをしているわけではないのではないか?シャンプーをされている間は何もできないので、そんなことでもぼんやり考えていたいところだが、かゆみがじゃましてままならない。私が地獄の番人になったら、シャンプーされている間膝がかゆい地獄を作りたいと思う。
 応急処置として、左の膝でなんとか右の膝をこすれないものか試してみる。しかし、かゆみの中心は右の膝の右の方にあるようで、あまり良い効果をもたらさなかった。それどころか、中途半端な力で右膝がなでられることでかゆい範囲が広がった気すらする。かこうと動かした左膝の内側もかゆくなってきた気がする。
 膝を中心に全身に力が入り、息が止まる。額から汗が滲み、顔の上の白い正方形のあれを湿らす。この状態が続けば死にすら至ると思われたが、それでも膝かいていいですか?のひとことが言えない。筋金入りのシャイ人間とはこんなものである。
 飲食店で店員に声をかけられるようになるまでに何年も修行を積まなくてはならないが、シャンプー中に膝がかゆいというのはそれをはるかに上回る難易度だ。飲食店での声掛けはレギュラー、オーディナリーな出来事だが、シャンプー中の膝のかゆみはイレギュラーなハプニングなのだから。
 家が火事になったとしても大声で助けを呼べないのではないかと時々不安になる。いざという時誰かに居場所が伝わるようにと防犯ブザーを買ったのだった。いつも持ち歩くカバンにつけている。あれを今鳴らしてしまえばシャンプーが止まり、美容師が音に気を取られているあいだに私は膝をかけるのではないか。しかし、それはできない。カバンは最初に預けてしまったし、なによりその後の弁解が恥ずかしい。
 扉を開けるのにもかなりの勇気を要したのに、どうしてさらに恥を積み重ねなければならないのか。
 ひとは私に、そんなの相手はなんとも思わないよと言うが、知ったことではない。誰が何を思わなかろうが、私は恥ずかしいと思うのだ。自分の呼吸が周りと同じようにできているか気になり出そうものなら、息ができなくなって死んでしまうかもしれない。さいわい今のところそのような事態に陥ったことはない。
 白いあれがだんだんずれていき、落ちた。
「あ、すいません」
 膝!ちょうど髪を洗ってくれている美容師の膝が目に飛び込んできた。あんたの膝はかゆくないんだろうなあ、というのは怨みのお門違いというやつだ。

***

 えらく緊張しているのか、シャンプー中のお客さんの身体にはずっと力が入っている。後頭部を洗う際、頭を持ち上げるのがなかなか大変である。美容院が苦手なのだろうか。そういうお客さんはたまにいる。
「力抜いてて大丈夫ですよ」
 声をかけた時、ちょうどお客さんのひざのあたりが目に止まった。擦り合わされる膝と膝を見ると、自分の膝がむずかゆくなった。たまに来てインテリな知識をひけらかすお客さんがミラーニューロンがどうこうと前に言っていたが、こういうことだろうか。
 と、お客さんの顔にかけていたガーゼが落ちてしまった。
「あ、すいません」
 手についた泡をさっと拭き取り、落ちたガーゼを拾う。ついでに、右の膝をこっそりかく。
 新しいガーゼを出してお客さんの顔に被せる。

***

おま、お前〜。


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