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失いたくないから

僕達を見下ろす太陽がかいた汗までも奪うような暑さで睨みつけてくる。夏休みのグラウンドに青春の歓声が響き渡る。

コンクリートが少し欠けた水道の壁にタオルをかけて蛇口を捻った。溢れだした水を手ですくわないで顔を近づけて直接喉に流し込む。

勢いよく流れ出す水の向こうに雲一つない青空が見えた。斜めに見上げるあの空はいつも僕のことを見守ってくれていた。

頭に水をかぶって水道の水を止めた。水道が閉まるキュッ、という音の後にさっきまで収まっていた蝉の鳴き声がまた盛り上がる。蝉の鳴き声に囲まれた校庭で首を伝う水滴をタオルで拭きながら顔を上げた。

校庭の土から浮かび上がる陽炎の向こう側で譜面台とフルートを抱えた君が友達と笑いあいながら校舎から出てきた。夏の日差しを照り返す白いシャツとグレイのスカートが揺れたのは陽炎のせいか、それとも吹いた夏の風のせいか。

僕はタオルを首にかけてそこにしゃがみこんだ。ほどけてもいない靴紐に手をかけて、校舎の陰で友達と譜面台を立てて真剣な表情で練習している君の横顔を眺めた。

そんなことしかできない自分が情けなくって、あほらしくなって空を見上げた。いつも見守ってくれているこの広い空は何でも知ってそうな顔をしているのに恋の正解はどうやら教えてくれないようだ。


他人事なら「ひとりでもいいじゃん」と言えるのに。他人事なら「強気にいけ」と言えるのに。

きっと人が誰かを好きになるのはひとりが寂しいからで、そのくせに誰かを好きになると臆病になってしまう。

口ではなんとでもいえるけど、瞼を閉じれば君が思い浮かぶ。

そんなことで頭がいっぱいになるひと夏の恋。乾いたのどはすぐに癒せるけど足りない心は今日も何かが沈んでいく。


部活が終わった帰り道で忘れ物を思い出して学校まで戻った。忘れ物を取った後に部室の鍵を職員室に返しに行く。職員室前の廊下から眺めたグラウンドはさっきまでの乾いた色とは違って雲が大きな影を落としていた。

校舎を出てしばらく歩くと突然辺りが重く、暗くなってバケツをひっくり返したような雨が降り始めた。僕は慌てて屋根の下に駆け込んだ。

体育館裏の屋根の下。夕立の中、向こうから頭の上に学生かばんを翳した君が駆けてくる。

「わぁ、びちゃびちゃだよ……」

「タオル使う?」

「いいの?ありがとう」

「急に降り出したね……」

「ねぇ……ついてないね」

そう言って君は笑顔を浮かべた。

そうか。今のこの関係を失いたくないんだ。だから臆病になって、一歩踏み出せないんだな。


狭い屋根の下で身を寄せ合って話し込んでいるうちに雨が上がった。また空は元通りの広い群青色に戻った。

「あがったね」

「うん……あ、ねぇ。こっち来てみてよ」

「なに?」

屋根から出て上を見上げると体育館の上に虹がかかっていた。

「わぁ、きれい」

「うん、きれいだね」

君と一緒に見上げてもやっぱりこの空はだんまり決めこんで恋の仕方は教えてくれないみたいだ。教えてくれないなら自分で何とかするしかないと思った。

虹を見上げる君の横顔に向かって声をかけようとしたとき、君が笑顔のままこちらを振り向いて少しドキッとした。

「帰ろっか」

「……うん、そうだね」

ダメだな、やっぱり。やっぱり今の君のこの笑顔を


失いたくないから。


<完>



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