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猫の名前


マフラーに顔をうずめていた帰り道。風に揺れるブランコの音に紛れて小さな猫の鳴き声が聞こえた。

「どうした、おまえ。捨てられたのか?」

道端に置かれたダンボールを覗き込んだ。しゃがみこんで手を入れると小さな猫が指に絡まってきた。

「今どきダンボールってなぁ、酷いよな?どうするんだ、おまえは」

僕は小さなこいつを抱えあげながら話しかけた。当のこいつはごそごそと腕を登ってコートの懐に入ってきた。

「そうか、寒いか……うち来るか?」

言ってる事がわかったのか、コートの中から返事が来た。

「じゃあ一緒に帰ろうか」

「名前はなんていうの?」

突然、声をかけられた。

「え、こいつ?知らないよ、そこに居たんだ」

「へぇ、そうなんだ。やさしいね」

僕は彼女を知らない。彼女は腕の中のこいつを撫でた。

「一緒に考えようよ」

何気なしに言った。なんとなく言っただけだった。

「いいね」


名前の知らない猫を拾ったつもりが名前の知らない女の子がついてきた。

床のカーペットの上にで彼女は猫と戯れている。

「コーヒーでいい?」

「うーん、甘いのがいいかな」

「ココアにする?」

「うん、ココアがいい」

2つのマグカップを机に置いた。

「あのさ……」

「ねぇ、今日泊まってもいいですか?」


翌朝。僕はベットを彼女と猫に取られて床で寝ていた。

「にゃんとかにゃるかにゃぁ……」

猫を腕に抱いた彼女が寝言を言っている。

「んん……っあぁ」

伸びをした僕の声に猫が少し顔を上げたが、またすぐに彼女の腕に潜った。

僕は着替えた後、朝食を2人分用意して1人分だけ食べると机に置き手紙をして大学に向かった。

『起きたら電話ください』


大学で2限の講義が終わる頃、スマホが震えた。液晶には『いえ』と出てきた。

「……もしもし」

『あ、おはよぅ。これ食べてもいいの?』

「うん、いいよ。あと1時間くらいしたら帰るから」

『わかった……あ、ゴローのご飯どうしよ』

「ゴロー?あぁ、猫?そうだね、忘れてた」

『じゃあ一緒に買いに行こ?』

「わかった。じゃあ家で大人しく待ってて」


家に帰ると奥から猫が走りよってきた。

「お、ただいま」

猫が足に擦り寄ってくるので顎の下を搔いてやった。

「おかえりー」

彼女もちゃんと待っていたようでふわふわと歩いてきて、僕にハグをしてきた。僕はびっくりしたけどハグを返した。

「うん、ただいま。ご飯たべた?」

「食べたよ」

「そっか」

「ニャン吉のご飯買いに行こ」

「名前、変わってるよ」

「しっくり来ないんだよね」


僕達は近所のスーパーで猫のための買い物と2人分の食料を買い込んだ。帰りに彼女が寄りたいところがあるからと別れて先に帰った。

しばらくすると、彼女は小さなリュックを背負って帰ってきた。

「ただいまです」

「うん、おかえり。それ、何?」

「着替え。しばらく泊めて?」


あの日からずいぶん経った。彼女の「しばらく」が一体いつまでなのかはわからないが気づけばタンスの一部は彼女のものになり、僕が家具屋で出会ったお気に入りアンティークのソファは彼女と猫のものになった。

「じゃあ行ってくるね」

僕が玄関から声をかけた。

「うん、行ってらっしゃい」

彼女は駆け寄ってきてハグをしてくれた。僕もハグを返した。

「いってきます」

足元の猫も「いってらしゃい」と言ったかのように鳴いた。


いつも通りの大学。何も変わらない日常。うつらうつらしながら講義を受けて仲間とくだらない話をしながら昼食をとってまた講義に戻る。それが終われば日が落ちる前に家に帰る。

「ただいま」

中から返事はない。猫も来ない。

部屋に入ると彼女と猫はソファに抱き合って寝ていた。

「ったく……」

僕は起こさないように毛布をかけてあげた。その寝顔をみて「僕は何をしてるんだろう」と思った。

僕が片付けを始めると彼女が目を覚ました。

「……ん、おかえりぃ」

「ただいま。ご飯作るからちょっと待ってね」

「手伝う」


僕達が狭いキッチンで早めの夕食の準備をしていると猫が目を覚ました。

「あ、三吉が起きた」

「そろそろ名前決めない?」

「君はなんて呼んでるの?」

「タマ」

「あの子は白くないよ」

「知ってる」


僕達は夕食のあと、窓枠の影が伸びてきているテーブルに座った。

「それでは、あの子の名前決定会議を始めます」

「よろしくお願いします」

「私は『又三郎』を提案します」

「僕は『次郎吉』にします」

「1匹目なのに?」

「それで言えば、『三吉』とか『又三郎』だって3番目じゃないの?」

「たしかに。じゃあ……」

会議はなかなか煮詰まらず、気づけば窓枠の影はベランダに伸びていた。

「……まぁ、いいか」

「そうだね」

結局最後まで名前は決めなかった。それぞれが好き勝手な名前で呼ぶのはまるで僕達の関係のように自由で良かった。


その週末。僕はゆっくり寝る予定だったが彼女に起こされた。

「起きて。ねぇ、起きて」

「……なに?どうした?」

「今日はデートに行きます」

提案ではなく断言された。

「……は?」


誘ってきたにも関わらず特に行きたいところはないという彼女に連れられて近所の公園に来た。もう春だってのにずいぶん寒かった。

「うぅ、寒い……」

「そうだね」

「……手」

彼女は冷たくなって少し赤くなった手を伸ばしてきた。

「ん……はい」

僕は彼女の手を握るとそのままポケットに突っ込んだ。

「へへ、あったかい」

「ね?」

「ソファの上はあったかいのにね?」

「あそこはもともと僕の場所なのにね?」

「違うよ。私とコロの場所だよ」


2人は1時間ほど散歩をしたら昼ご飯を外のカフェで食べて家に帰った。

「ただいまー。きなこー?」

「あれ?寝てんのかな」

部屋に入ったが猫の姿はなかった。

「どこいったの?」

2人で部屋の隅々まで探したが見つからなかった。

「あ。ねぇ」

僕は彼女を呼んだ。

「なに?あ……」

窓の鍵が開きっぱなしになっていて少し隙間が開いていた。そこからはまだ少し冬の香りを残した風が吹き込んでいた。

「出てったのかな」

「そうかもね」

「見つけれるかな?」

「どうだろうか。あいつは名前がなかったから」

「そっか…………」


数日たってもあいつが戻ってくることはなかった。僕達はテーブルに向かい合って座っていた。

「私、出ていくね」

「行くところはあるの?」

「……わかんない。でももう決めたんだ」

「……そっか」

彼女はまとめた荷物を持って玄関に向かった。扉を開けると彼女はこちらを向いた。

「今までお世話になりました」

「気を付けてね」

「うん」

「何かあればまた来ていいからね」

「うん」

しばらく沈黙が流れた。彼女がうつむいていた顔を上げてこっちを見た。

「じゃあ行くね」

「あのさ、」

僕は小さく息を吸った。

「名前はなんていうの?」


ーー


彼女が出て行ってからずいぶん経った。結局彼女の名前は知らないままだ。その方が僕達らしい終わり方だったから。

夜はふかふかのベッドで寝れるようになったし、休みの日は日当たりのいいアンティークのソファでうたた寝できるようになった。

元に戻っただけだった、名前の知らない猫を中心に名前の知らない彼女と一緒に過ごした生活から。そのはずだった。それなのに……


やっぱりちゃんと決めておけばよかったなぁ



猫の名前。




<完>

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