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ないものねだり

私は小さなベッドの中で毛布から足が飛び出してしまわないように慎重に寝返りを打った。木目の床が底冷えしている真冬の夜。

枕もとのスタンドライトの灯りひとつ。薄暗いベッドの上で文庫本のページをめくる。最後の小説は「君の膵臓をたべたい」。いつもの古本屋に初めて行ったときに店主に勧められた一冊。

お気に入りの小説の世界に頭をもたげながら静かに呼吸を繰り返す。現実と小説の世界の違った時間の流れの中を行ったり来たりするかのように時間はゆっくりと流れる。

世間の時間は慌ただしく流れて社会の喧騒と人と人との関わりが縦横無尽の駆け巡っては私を雁字搦めにしていく。

絡みついた鎖で傷つけられた心を癒すかのようにベッドの上でひとりになり、小説を読むこの時間が私はいつの間にか好きになっていた。

やがて少しずつ眠くなっていき、そのまま夢の中へ入っていく。私の顔を頼りなく照らしてくれているスタンドライトは付けたままで誰のことも気にしないで微睡むことができる自由。私はこの瞬間の幸せだけで生きていける。

なぜ人は誰も目の前にあるこの幸せだけで今日を生きられないの?もう充分でしょう?

私はこれ以上の幸せを望まない。何かを失うならそこまでして欲しいものはひとつもない。今持っているすべてが私のすべてでいい。


明日の朝、目が覚めてもこのままでいい。私、ないものねだりしたくない。




だからどうか。また明日も同じように小さな幸せだけでいいから。


明日が来てほしいなんて、一番の……



ないものねだり。


<完>


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