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【しらなみのかげ】 頭でっかちな「世間知らず」達の暴走 #23


いつの日からか、私はジャパニーズ・ヒップホップが大好きになった。特に、ギャングスター・ラップが大好きになった。

 

元々音楽好きで、あらゆるジャンルを摘み食いしながら聴いてきたつもりだが、このジャンルが取り分け好きになっていった時期があった。

 

昼は大学で授業を受けたり研究に勤しんだりし、週の内二、三日は夜の街で働いて日銭を稼ぐ生活を長く続けていた最後の頃だったと思う。大学の籍が無くなって奨学金を借りられなくなった三、四年前から、前者が見る見る内に出来なくなり、後者ばかりがそのまま生活になっていったら、益々好きになっていった。

 

その時期は丁度、フリースタイルバトルが全盛を迎えていたということもある。それは余りに面白く、YouTubeで延々とその動画を見続けていた時期もあった。巧妙で心地良い韻も、華麗なフローも興味深いのだが、自らの「生き様」を言葉にしてビートに乗せていくその様が何とも素晴らしいのである。フリースタイルバトルに於いて即興で繰り出されるそれも良いのだが、やはりラッパー達が精魂込めて作っている音源を聴くと、又味わいもひとしおなのである(だから私は、フリースタイルバトルにばかり特化したMCの超絶技巧に感心はするものの、アーティストとしての彼等は実は余り好きではない)。

 

当時私が働いていた木屋町界隈が、ヒップホップの盛んな地であることも一つには影響があるだろう。又そこには実際、「ストリート」と言われるものの何物かは慥かに存在していた。しかしそれのみならず、ヒップホップには、「世」を生きる人間達の「生き様」から絞り出された言葉があることが何よりも大きい。その言葉が、渋くカッコいいビートに載せて、届けられる。歌にも喋りにも成り切れずに裏拍を刻み続ける声は、時に喜びや快楽を乗せて、時に絶望や痛みを纏わせて、将又、「上へ登る」気概やカネ・サケ・オンナ・クスリへの下卑た欲望を乗せて、まるで呪文か祈りの様に響き渡る。時に、どんな高等な言葉よりも深く心に響く様な詩情が、俗語で刻まれていく。

 

学問、ではなく大学人の生態と、夜の街の人々の生態の間にあって、前者に何処か余所余所しさや違和感を感じつつあった当時の私を、「世」を生きる者達の歌は攫んだ。今にして思うと、その感覚は、矢張り間違いではなかった様である−今、起こっていることを目の当たりにすると、その思いを強くせざるを得ない。

 

 

 

−オープンレター騒動は、未だ冷めない。

まるであさま山荘事件に立て籠もる連合赤軍の如く、オープンレターズの一部は決して自分達の非を認めないし決して謝らない。

 

礪波亜紀氏がこっそりと呼び掛け人から抜けていたことが與那覇潤氏のアゴラの記事で指摘され、その礪波氏のブログで内部の異様な空気(抜ける旨を告げた礪波氏が「勝手なトーンポリシングのようで、イラっとした」と或る人物に言われる始末である)が伝えられても、複数の偽造署名や実在しない人物の署名がチェックされずにそのまま掲載されていたことが明るみになっても、当の呼び掛け人の一人すら勝手に名前を載せられていて本人が知らなかったという始末でも。ここまで来れば最早、内容の問題以前、オープンレターが引き起こしたであろう結果の問題以前の、それこそ「社会常識」の問題である。

 

呼び掛け人の一人として無理筋でも果敢にオープンレター擁護を続けている、科学史が専門のフェミニスト学者など、オープンレター批判を行う知識人達を「オルタナ右翼的」呼ばわりして腐し、「本当の敵は新自由主義なのだ」と当該問題と何の関係も無い空論を述べて憚らない。恐るべき蛮勇である。誠に天晴れである。まるで自分達の方から炎上の燃料を焚べ続けるかの如きそのおめでたい有様を見ていると、怒りや呆れを通り越して、乾いた笑いが喉の奥から飛び出てくる。

 

挙げ句の果てに、このオープンレターを巡る顛末を彼等彼女等が中心となって書籍化するという声も上がっている。「正義」の実現へと弁証法的に向かっていく悠久の進歩の歴史に、「女性差別的文化を脱する」偉業を以て輝かしき一頁を刻みたくて仕方ないのであろう。今更になって度重なる失言や不祥事を全部無かったことにするのも難しかろうが、恰も、数々の都合の悪い事実を全て闇に葬って書かれたロシア革命の同時代史の如き顛末を綺麗になぞっているように見えて、大変微笑ましい。とは言え、オープンレターが、卑小な、余りにも卑小な事業でしかなかったことが玉に瑕ではある。

 

 

世間からの風当たりが強くなるにつれてセクトは益々過激化するというのはやはり一般的な傾向なのだろうか。

彼等彼女等をみんなで応援する「人文ムラ」の住人達も、その無体な所業に賛同したことを反省するどころか、挙って彼等彼女等の味方を続けている。

 

「呉座氏は悪いことをしたと認めたのだから、悪いことをしたのであり、署名して賛意を示すのにその経緯の詳細は知らなくても良い」という愚の骨頂としか言いようがない御意見を宣うカント哲学と時間論を専攻する哲学者すら出てきた。こんなことを平気の平左で言う大学教授とやらには、ヒトラーを支持したドイツ国民のことを詰る資格も、日本の戦争犯罪に対する(彼等のよく言う所の)「不誠実」な態度を批判する資格も微塵も無いであろう。寧ろ、大学人達から「差別主義者」と言われている人間ならば、例え強制収容所にであっても莞爾として送り出す正義感溢れた気概すら感じてしまい、ここには何か哲学的に深遠な意図でもあるのかと呆れさせられた此方が考え込んでしまう程である。

 

しかも彼等の言動は、こういう無責任極まりない態度表明に止まらない。「アカデミアの人間の大学外部での発言に対してチェックを行う「倫理委員会」を設けるべきである」と、あからさまな言論弾圧を提唱する現代思想専門の著名な名誉教授まで出る始末である。フーコーの規律権力論や生権力論に大変造詣が深いだけに、それを我が都合良く活用されたいのだろうか。御意見の深みも一味違うものである。晩年のフーコーが熱心に説いた「生存の美学」をかなぐり捨ててでも、彼が精緻に分析した歴史を逆さに転用することで権力側に居たいのであろうか。誠に恐れ入る学識である。少なくとも、学界の権威として「生き延び」を敢行するに当たって、その方が便宜的であることは現況を見渡す限り慥かではあろう。

 

 

人文系はどうしてこんなことになってしまったのだろうか。

斯く言う私も固より「人文系」の、「人文ムラ」の人間であるからには、その問いを他の人々よりも重く深く受け止めざるを得ない立場にある。最近は糊口を凌ぐ為に雑業にばかり身を窶していたら学術的成果を全然出せなくなり、幹部をやっていた政治団体の内紛の後始末をやっている内に課程博士論文提出の期限を過ぎてしまった小物と雖も、一応は栄えある査読付き論文も数本は書いたことがある研究者である。

 

況してや、レターの中心人物である北村紗衣氏の弁護士代理人より、「私に対して「性差別的誹謗中傷」を行なったツイートを一週間以内に削除しなければ勤務先に通告する」という旨の内容証明郵便の「お手紙」を、数年間何も来ないから見なくなったポストに送られた身である。それどころか、実際気付かずに居たら、勤務先に通告され、そのトップから呼び出しを食らった身でもある。それはもう、余人を以て代え難い程の「当事者」であるのだから、私は恐らく誰よりも重く深く受け止めざるを得ないのである。

 

 

それだけに、言いたいことは山程ある。

ここでは、差し当たりその一端を記すに止めよう。

 

 

はっきりと言えば、彼等人文系の大学人が「世」を知らぬ癖に「世」について喋々して仲間内で考えた「正義」なり「真理」なり「倫理」なりで「世」を裁こうとする点にこそ、問題の本質がある。余りにも「普通」の感想であるが、そう思わざるを得ない。彼等は無自覚にも、大学の常識がそのまま社会常識だと思い込んでいる節がある。自分達の方こそが特殊な業界に生きているのであり、その一歩外の世界の方が「普通」だということに気を向けない人間が多過ぎる。

 

何せ、学者だけに学がある。これがいけない。

学があるから、珍妙な小理屈でも何でも幾らでも唱えられてしまう。体系立ったイデオロギーを理解する位の知能はあるし、そのイデオロギーを擁護する様々な参照項を用意する為の知識も持ち合わせているし、理論武装する為の装置を生産する位の技巧も持ち合わせている。彼等はその学力的な意味での知性で以して、そのイデオロギーを「真なる善」として、一般的な社会通念のみならず、生活上の社会常識をも「偽なる悪」とする。

 

しかも、それでいて、その外側に広がる広大な「世」を全然知らない。否、知ろうともしないで均質な仲間内だけでいつも固まっている。そのような「学がある」種類の人間が集まれば、自らが大人として恥ずべき単なる「世間知らず」であることすら、論理と知識、そしてレトリックで以て自己正当化出来てしまうのである。況してや、彼等はインテリなので大体外国語が出来る。欧米の様々な「進歩的」諸理論を移入し、それを「正義」だ「倫理」だ「真理」だと振り翳すことが出来る。「世」に生活する「遅れた」「普通の日本人」に何を言われようと、欧米の最新の「進歩的」諸理論に触れている自分達の方が正しく優れているのだと弁明することが出来てしまうのである。

 

通常であれば気味の悪い新興宗教団体の様に見られて一笑に付されて終わる所だが、「大学」という「真理」の言説生産の権威的な場所を根城にしている分、一層タチが悪いものである。彼等は「大学」という場に於いて、お互いにエコーチェンバーを起こし、イデオロギーを固め合い、各々の専門知識を持ち寄って無際限にイデオロギーの細部を付け加えていく。これらが全て、「学問」という権威的な名に於いて行われるのである。

そうして、「トーンポリシング」、「マンスプレイニング」、「マンスプレッディング」、「シーライオニング」、「ホワットアバウティズム」等、次々と禁止項目を増やしていく。その「大学」的な権威によって、彼等が設定する禁止項目は、法的裏付けも欠いたまま社会運動に於いて実効化されてしまう。そうして、「世」の秩序を生活習慣レベルから破壊していかんとするのである。自分達は専門家であり知識人であり、「正義」なり「倫理」なりで「世」を裁く権利を持っているのだ−きっと、意識的にか、無意識的にか分からないが、そう考えているのであろう。

 

 

然し乍ら、彼等の様な「人文ムラ」の人間達は知らないだけで、「世」というものはそもそも事実として多様極まりないものである。

これは、彼等が金科玉条の如く振り翳す倫理である「ダイバーシティ」以前の問題、端的な事実である。彼等の様な了見の狭い人間には到底理解出来ない話が、「世」には沢山転がっている。彼等の様な賢しらに満ちているものの「世」を知らぬ人間には到底感知し得ぬ類の美徳と悪徳が、「世」には満ち満ちている。抑も「世」を見渡してみれば、人々の各々の立場も、恐ろしい程迄に違っているではないか。それは或る意味で、理窟は勿論、善悪や真偽を超えたこの「世」の実態なのである。

 

しかし本来、人文学とはその原義からしてその様な「世」を前にしての、その只中にあっての「人間の解釈」ではなかったのか。酸いも甘きも含めて、人間を知ろうとする営みではなかったのか。それは「人間性の陶冶」の為の者であって、今の「人文ムラ」の住人の如きことを行う為に人文学を学ぶのではない筈である。書物に没頭することも重要であるが、「世間という書物」を読むことは或る意味に於いて、より重要である。

 

受験勉強的な価値観とイデオロギーが接合され、「大学」や「学問」の名に於いて自らの幼稚さを権威で糊塗するばかりに終始している者共を見ていると、私は深く落胆する。狭き世界に生きるならば、せめて「分相応」に、その有様を見詰めなければならない。その様な形で「分を弁える」ことは、何時何処に於いても其々異なる形で求められるものではないだろうか。そして、そうするのが大人というものではないか。

 

しかしふとした時に書物から目を離して「世」を見れば、例え無学であれ、頭でっかちなだけで世間知らずの者達よりもずっと溢れんばかりの強度の「生き様」を示している者達も大勢いる。

私は例えばギャングスター・ラップを聴く時、ふと、そんな者達の「生き様」を聴いている様な気がするのである。

 

 (この文章はここで終わりです。皆様からの投げ銭をお待ち申し上げております。)

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