見出し画像

コミュニケーション力の必要ない世界線にドロップキック

 毎年恒例の騒動をみていた。クリスマスの風物詩とも言えるだろう。

 で、酔っ払っているついでに、横で真剣に本を読む妻に、どう思う?とまとめ記事を読ませてみたところ「こういうのをわざわざ書き込むのも、絡んで反論しにいくのも賛同しにいくのも、私からしたら全て暇人にしか見えない。世間の大抵の人は年末でクソみたいに忙しい」と、身も蓋もないコメントを頂いてしまった。ちなみに続けて「まともな人はそんなもので時間は費やさないし」と私に冷たい視線を投げかける。ごめんなさい。

 しかし、思うのだ。妻に暇人と罵倒されるのを覚悟で書くのだが、プレゼントを選ぶのって、凄く楽しいじゃん、と思うのだ。私は恋愛経験なぞ殆どないが、独身時代に妻に贈るプレゼントを選ぶのは楽しかった。何が欲しいか、さりげなく聞き出したり、ウィンドーショッピングしながら、TVを見ながら欲しがっていた物をきっちりと頭に放り込んでおいたりしていた。そういうのが凄く楽しかった。今はもうない「キラキラした時間」だったと思う。子供が生まれてからは、何をプレゼントしようかと妻と一緒に考えたり、選んだりするのが至高の時間だった。あれほど楽しく幸せな時間は、そうないと思う。子供が少し大きくなってきて、意思表示が出来るようになって、サンタの中の人がバレないようにしながら欲しいものを聞き出している時、こっそりとサンタに扮してプレゼントを置くとき、どれも最高の思い出だ。思い出すだけでニヤついてしまう。今となっては、すっかりサンタなど信じなくなったが、それでも子供の欲しいもの以外にも、妻とじっくり相談しながら親からのプレゼントを贈っている。その選んでいる時間は今も至高の時間だ。最高に楽しい時間だ。

 もちろん貰うのも嬉しい。プレゼントを選ぶのは楽しいだけじゃなく、最終的なプレゼントを決めるまでの苦労もある。それを想像すれば、何を貰っても嬉しいし、楽しい。海外の出張に行くと、カウンターパートからお土産をもらうことがある。個性の強いお土産も色々と貰ってきたが、一生懸命選んでくれたんだなと思うと楽しくなる。きっと日本人は何を喜ぶんだろう?とか、伝統とか、荷物にならなさそうなもの、とか色んな思いを込めて選んでくれたものだろう。ある国の友人は、滞在中ずーっと酒浸りだった私の健康を気遣ってω-3 のサプリをくれた。その際に「これ、日本で買うと高いだろうから持って帰りな。必ず飲むんだぞ」と。今でも、その友人とは関係が続いているし、たまにメールでやり取りすると、酒の量は減ったか?体重は落ちたか?と聞かれる。

 何が言いたいかというと、プレゼントというのは物のやりとりじゃなくて、贈る側と贈られる側のコミュニケーションだと思うのだ。ぶっちゃけてしまえば、プレゼントというのは気持ちのやりとりなので、コミュニケーションが上手く出来ない相手とは贈るのも贈られるのも難しく感じてしまうのも事実だ。会ったことも、喋ったこともない人から、物を貰ったりしたら何かおかしいと感じるのも、そういう本来あるべきコミュニケーションがプレゼントのやり取りをするための土台として存在していないからだと思う。

 クリスマスが来る度に、こうやって「貰った物を晒してバカにする」ことをする人が現れる。見ていて感じるのは圧倒的に「物>>>>気持ち」なんだろうなと。私みたいな昭和のオッサンはモヤモヤする。でも世の中が「効率さ」を追求する中で、そういう「気持ちのやり取り」みたいなのは面倒だ、と排除する風潮が広がりつつあるのも事実だと思う。気持ちのやり取りを排除すれば、プレゼントは純粋に「物」でしかない。気持ちを察すること、そのものをバカにする風潮が強くなるのを感じる。察して動いて欲しいくらいなら表にして指示してくれ、みたいなのが絶賛されるのは、そういう「非効率的」なものを忌み嫌うようになってきているからだと思う。相手との距離感を探り合ったり図ったりすることは無意味だという風潮を感じる。

 実際、うちの学生を見ていても「相手お構いなし」の学生がどんどん増えている。お客さんがいようが、誰かと会話をしていようが、お構いなしに自分の用件だけ伝えてくる。他大学から来たお客さんを接客中に、すいませんの一言もなく、お客様に挨拶もなく、ずかずかと近づいてきて、そのまま一方的に会話に割り込んできた時は驚いた。相手のお客さんも驚いて口が開いたままになっていたのが印象的だった。流石に後から注意したら「マナーとか常識とか知らんし、気分悪いわ」とツイッタランドに(実際はもっと過激な言葉で)書かれてしまった。しかも、それに対して無責任な同情が集まる。そのうち「接客中は話しかけないで下さい」とお願いを文字に書いてぶら下げておかないと話しかけても良いことになりそうで怖い。

 くそド田舎の底辺の大学だからかも知れないが、そういう空気の読めない学生はどんどん増えているように思う。それが悪いとかじゃなくて、このままいけば、そういう「気持ちのやり取りを全て排除した」世界がスタンダードになる日が来るかもしれないと思うのだ。「全て書いてあることしか出来ない/やらないでOK」「行間なんてくそ食らえ」「気持ちを察しろなんて論外」「マナーや常識は全て箇条書きにして貼っておけ」「事前に示されていないものは何もしない」「指示しない方が悪い」、全て今の若者が求めるものだろう。そういうのが全て排除された世界線を今の若い人達は求めている。昭和のおっさんとしては、そんな世界線にはドロップキックかまして、吹っ飛ばしてやりたいところだが、そんな勇気はない。こういう騒動を見る度に生きづらい世の中が来るな、と絶望する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?