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Ghost in the Ark【オーディオコメンタリー&2ndPureJapanese感想】


  前回のnoteにも前々回と同じくすごい反応をいただき、本当にありがとうございました。未だに読まれているのを見るとニコニコしてしまいます。あと感想も! 名前とURLを呟いてくださった方には本当に頭が上がらないしめちゃくちゃ嬉しかったです。本当にありがとうございます。この場を借りて御礼いたします。ちなみに前回のnoteも小川真司プロデューサーとディーンフジオカ氏にガッツリ読まれていたようで……なんだか恥ずかしい。最後オタク丸出しだったしね。まあ狂ってる男は大好物だからね……仕方ないね……。

 そして、そんなことがあってから数日後に2回目を見に行きました。いやあ……関西PureJapaneseに恵まれとらん。本当に辛い。でもコメンタリー付きがどうしても観たかったんだ……。といいつつ実際に始まったらやっぱりなかなか引き込まれてしまって最後の方とかほとんど聞いてないです。ごめんなさい。だって面白いんだものあの映画。そら本編見ちゃうよね。あれ見ながらコメンタリー聞けるのは聖徳太子だけだと思います本当に。

 というわけで今回も長い前置きですね。2ndPureJapaneseをキメてきましたので、トチ狂った感想がまた湧いちゃったんだよなあ……。目が滑るはずなので読み飛ばしてもらって結構です。というかこの時点でめんどくせえなと思った人はブラウザバックしようね。読んだ後の責任というかこんなので時間を取りやがって! 許せん! とか言われても知らんですよという話です。

1 立石大輔は「ニホン」の亡霊なのか?

 さて早速考えていきましょう。

 タイトルにした「Ghost in the Ark」というのはまあわかる人はわかると思いますが「Ghost in the Shell/攻殻機動隊」の文字りです。なぜこんな書き方にしたのか、というと多分知ってる人はせやろなになると思います。OSという側面で考えた時に若干攻殻機動隊に似てるよな……となったんですよね。

 「Ghost in the Shell/攻殻機動隊」の非常にざっくりしたあらすじを言っておくと、いわゆる電脳化の話なんですよね。義体/サイボーグの中にヒトの脳みそを移植できる時代になっていますよ、というSFです。で、その中で自我を持つAI=Ghostが登場して、そのGhostと主人公の草薙素子が一悶着あるのが劇場版でした。まあもちろんそこには政治的な話が関わったりしていくんですけれど、まあまあざっくりそんな感じ。

 で、まあ日本語OSってのを考えた時に、我々のフィジカルと日本語での思考というのは義体と自我の関係に似てんのかなと思うわけです。ここまではこの前書いた通り。

 じゃあ立石大輔は? を考えた時。前回は英語OSを持っているのにハードウェアは日本人だから立石大輔はエラーが起きてるみたいに言いました。しかし2回目見てみるとどうも違う。彼は英語OSで日本語OSを構築しちゃったタイプなのかなと。

 その理由が、いくつかの日本人「らしい」言動です。瓶ビールのラベルを上に……とかってのはあれは確実にエラー部分なんかなとか思うんですけど、なんだろうな、意外と彼のフィジカルは日本人なんですよね。こう、壊された招き猫をもう一個持ってくる時の持ち方、とか。もちろん演者の身体的な言語が表出してるんでしょうけれど、それ以上におそらく「立石大輔」という個人は予想以上に日本人だな……と2回目見て思いました。

 もちろん彼の中身は英語なので絶対に誤作動が起きてんですけど、歩き方とかは意外と……あれ……? 日本人だ……みたいになるんですよね。身体論はまっっったく1ミリも触れてない、読んだのは高校時代の現代文の授業くらいなんですけど、でも少なくとも「ハリウッド俳優が頑張ってサムライの仕草を覚えました」ではないのがあの映画の変なところですよね。ああそうそう、喋り方とか。口の開け方がネイティブ日本人なんですよね。あとは走り方がちゃんと「日本人が忍者走りしてる」感じというか。あのタッパで逆に難しくない? みたいな走り方してる……と思います。ごめん私本当に詳しくないのであまり確定したことを言えないんですが、でもそれはおそらく立石くんがすっごい日本人化しようとした結果なんじゃないかな、とか思っていました。

 ただ、その日本人化の要素がどうしたって時代劇とか、「サムライ」とか、「ニンジャ」なんですよね。そしてそこが彼が「日本の亡霊」たる所以なのではないかな、と。

 立石の歩き方は独特です。日本人でありつつすり足で、もしかすると剣道も嗜んでいる以上両手両足同時の、江戸時代までの歩き方ももしかすると知っているのかもしれない。だけど、やっぱり彼はプログラミング言語が英語なんですよね。なおかつ、彼は現代の日本で生まれ育ったわけでないので「現代の日本語OS」を搭載しているわけではないんですよ。日本を知るために「過去の」日本を英語で理解し、しかしそのOS構成には大いに現代日本の影響を受けながら構築されたモノ。それはおそらく英語OSでありながら過去の日本の亡霊としか呼べないモノなんじゃないかな、と。だからこそ、私は立石大輔を日本の過去の亡霊が搭載された方舟、Arkと呼べるんじゃないかと思うわけです。ああもうここら辺書いてると意味わかんないですね。

 つまり、立石大輔は欧米を含め他文化と触れなかった、ある種「純粋な」日本を学んでいるわけです。少なくとも武道なんていう非日常の動作にはまだ残っていると考えられる。だからこそ行動が現代日本、つまり近代化され日本語という「想像の共同体」でもって構成された日本人とは少し違うんですよね。

 だけど、やっぱり根っこというか要素は似ているから彼はある意味日本人ではあるのです。でも日本語人としては違うんですよ。だって彼の学んだ日本というものは海外と触れず純粋培養されていた時代の日本だから。みたいなね。立石大輔の行動自体が、彼が保存容器たる方舟の証左である、というか。

 というかそう考えると我々の動きっていうかフィジカル的なモノって、すっごい変わっていってるんでしょうね……。なんかこう、「日本人ぽい仕草」とかサラッと言っちゃってるけど、なんかこう……だいぶん変わっているのに「日本人ぽい」ってなんだろう? みたいになるんですよね。ディーンさんが今回の映画を作るにあたって「日本のアクション俳優はすごい」みたいな話してたの、あれすごいってのもそうだけど、それ以上に今の日本のフィジカル的なアクションを記録しておこうみたいな取り組みではないんじゃないかな……とか思ってしまう。

2 PureJapaneseの中の「死」と「生」

 というわけでがっつりここからコメンタリーネタバレです。

 まず、立石大輔の「死」という表現を考えていきたいんですけども、実は立石大輔のエア切腹は禊だった、という話が一番わかりやすいですよね。そっか……みたいになっちゃったよ。あんなしんみり言われるとは。

 でも確かに、彼の禊はあそこで終わるはずだったんだろうなあというのは言われてみればって感じですよね。逆に隆三さんの死の原因になってしまったのでちょっと軽いかな……とか思ってたんですけど、でもよくよく考えれば住処も職も切ってどこかへ行くのは人として「死ぬ」よね。それが一つの彼のケジメだったんだなあと思うと、本当にしんどい……となりました。しかもコメンタリーのネタバレ的に考えると立石はあれを何回も繰り返してた、少なくとも「暴力衝動の発露後はそうするのが定型になっていた」のではないかなあ……。何度も死んで、何度も転生して、を繰り返していたのが立石大輔という男なわけです。でもこれってメタファーでもありますよね。異分子で、かつ何者にも括られない、「立石大輔」のような人間は何回だってアイデンティティを自ら殺してはどこか自分の場所を探してるんだから。でも絶対日本の中では居場所は見つからないんです。そして海外にもないんです。だって、彼は日本人だけど海外の人間で、海外からしても異分子ですから。

 そりゃあ彼はどこへ行っても「マレビト」なわけですよ。「賓」とも書きますけどね。「マレビト」がこの場合は正しいかな。過去の日本では村落においては旅人は神様であり、一方で祟る存在と考えられていました。もてなして「送り出す」存在だったわけです。そう考えると彼は「神様」なんだな、と。別に祀られるわけではないけれど、でも海を渡って日本に来るわけだし、「人脈」の招き猫を持ってきたりあのバーの中のごちゃっとした宗教観の中でもしっかり存在している。そういう意味での「神様」です。だから神社なのかあ……と。そんなことを考えてました。

 の割にはエア切腹が恍惚として、いわゆるちょっと絶頂したみたいな顔になってる意義を考えてたんですけどね。

 これは前に呟きましたがフランス語の「甘き死」とか「小さな死」みたいな意味とエア切腹が似てるから、って感じかなあ……と思った一方で、いやこれPureJapaneseだぞ? と考え直したんですが、あれって結局一つの安堵なんですよね。そこはすごい日本人的というか。いわゆる日本人の「己が責任取っておけば」を抽出した結果なんかな……とかね。でもなー……なんかそれだけじゃない気もしますけどね。もちろんエア切腹っていうのは一つの社会的な死であり臨死体験でありケジメなんですけど、それだけで包括できない意義を含んでいるのはわかります。私でさえ。だけどそれだけじゃいえない。それこそ三島由紀夫の割腹自殺と同じテキスチュアで語られているんだろうし、おそらくそれは我々が武士道と呼ぶものに限りなく近いんですが絶対に交わらない、いわゆる漸近線でしか理解できないモノなんだろうけれど。

 でもあのエア切腹の場面って、なんともいえないですよね。あれと薬研でゴリゴリして火薬作って手榴弾作るのって、実は似てると思うんですよ。どっちも「死ぬための用意」でもあるので。おそらく立石は無意識下で死に場所を探してんじゃないのかな、と思うわけです。だからエア切腹なんかできちゃうのな、と。武士の切腹は「責任をとって死ぬことで数多の死を防ぐ」という意義がメインとはいえ、一つの墓標でもあるから……とかぐるぐる考えてしまう。エア切腹、まだ考え足りない部分なんですが今のところこんな感じの解釈。

 で、もう一つの生死といえばやっぱり「アユミ」ですよね。私本当にアユミが好きでたまらなくて、彼女の「おひいさん」な感じはすごいなーと思って見てたんですけど、それはそれとして最後のシーンはどう解釈してもいいよというコメンタリーがね、ああそうなんだ! ってなりました。

 確か1回目のnoteでホラー映画の子どもの霊と同じ動きというか理論である、みたいな話をしてたので、えっあっそうなの!? みたいになったんですけど、でもまあ彼女は割と子どもで、だからこそ死と生が曖昧なところに存在しているんですよね。女子高生ではあるけど、彼女はおそらく「おひいさん」なんですよ。隆三さんは彼女の後見人みたいな、ね。まあ源氏物語でいうところの若紫時代というか、そういう若さと子供を感じるのが「アユミ」です。

 源氏物語の中で若紫は後見人の尼さんを散々心配させてたわけですが、本当にアユミと隆三さんの関係もそんな感じで本当に面白かった。ただアユミの場合は若紫と違って光源氏はいないんですが。むしろ彼女の場合は無意識のうちに立石という男を配下につけてしまっているので、どっちかいうと若紫超元気バージョンみたいになってるんですよね。いやまあこれはだいぶん違うんですけど、でも本当に彼女の場合は「連れ出して!」な白馬の王子様を待つタイプなわけでも、若紫のように男主人公に拉致され初恋の人の身代わりにされるわけでもないんです。

 ただ彼女は育った田舎を出たいだけ。それだけで動いている、ある意味ではバイタリティの塊です。幽霊っぽい動きなのにすごいエネルギッシュ。でもよく考えればホラー映画の子どもの霊だってかなりアクティブにやりたいことやってますから、そういう意味では彼女はほんっとうに「子ども」なんですよね。

 そして育った田舎を出るのに使えそうな人間は全て利用しようとする。そう考えるとアユミはすごい「生」の力強さに溢れたキャラクターだと思います。そしてそれはおそらく意図的になされている。なぜなら立石大輔という人間がどうしたって「死」の側の人間だから

 多分アユミは絶対的な居場所があるんですよね。隆三さんという居場所が。死んだとしても、遺産などを含めて隆三さんですから。何より彼女は田舎というコミュニティがある。だからこそ東京に行きたいし東京で生きていくビジョンが見えてるんですよね。

 でも、立石は死に場所一つ求めて彷徨う人間です。彼は根無草で、だからこそ「死」という絶対的なものでおそらく最後の居場所を作ろうとしてたんじゃないかな。

 彼のメタファーとして出てくる線香花火ですが、線香花火を含めすべての花火は「序破急」を基本に作られているそうですね。立石大輔の生き方は序破急なんだな、と思うわけですが、それだけじゃないのだろう、と思います。やっぱり最後の赤と白の鮮烈さとか、あの白い鳥がばささって飛び立つ場面とか、まあもちろん線香花火の火花のところとか、あとはあの刀かけてある部屋の、刃の反射ですね。ああそうそう「反射と暴力衝動」のあの反射もですね。全部白をあえて印象的に立たせてるんですよ。まあもちろんアユミのラストの服もですが、全体的に薄いグレーのフィルターがかかったような色の中で「白」あるいは時折赤だけが、印象的にしている。

 それはおそらく立石大輔の中の「白」なんですよね。白、つまり死装束であり死の色。彼の目に映る白だけをピックアップしてるんです。彼自身は白を着ないんですから。

 一方のアユミは白を着るんです。制服で。最後のシーンで。

 あれの対比とかってのはおそらく立石の死にたがりというか、死が日常のあちこちに散らばっている感じかつそこに同化したい願望っていうのかなあ……それを表現したいんだと解釈しました。そしてそういうのを見るたびに立石はある種の死人なんだなと思います。一方のアユミは白を着ているんですが、あれは巫女でもあり産着でもあり、でも少なくとも立石の目には強烈な墓標だったのかな、と。何せ彼女も夏に白を着ているから反射なわけですよ。彼の中の「死」のイメージなんですよ。でもそんな彼女が最後の方で頼ってくるわけで、だから最後立石はアユミのために戦えたんじゃないかな。アユミが墓標だから。だから「ありがとうございます」「こちらこそ」なんかな、とか思ってました。いやなんで? と思いませんでした? あのシーン。でも立石にとってはもしかすると初めて死に場所を与えられたと感じたのかもしれんな、と思うわけですよ。とか考えるとラストシーンのアユミは完全に「立石の墓標」として存在している気もしなくもない。それこそ生死はどうでもいいんですよ。立石の中の話なので、あそこは。

 そう考えるとPureJapaneseの生死の書き方って独特というか、ほんといろんな要素を入れ子式に混ぜてる感じがします。

3 PureJapaneseというタイトルの意義

 “Learn to speak pure English”Van Wyck Brooks

Van Wyck Brooksさんという方はイングランドの文芸評論家の方だそうで、19世紀に活躍した方だとか。全然知らないのですが、「堕落した英語ではなく純正英語を話すために学ぶ」みたいなことをおっしゃったそうです。これはnoteなので……という言い訳で文献を書いてません。それどころかそもそも私自身どこの文献に書いてあったのかはわからなかったのでご存じの方ご一報ください。めっちゃ又聞きで本当にごめん。

  とまあ、PureEnglishという考え方が正解かはさておき、おそらく一つ対になるものとしてPureJapaneseがあるのだろう、というのは思います。

 PureJapaneseというのが「純正日本語」と考えたときに、うわーーーーってなりました。日本語。純正日本語。それはボディランゲージも含めて「日本語」であり、「日本人」なんです。Japaneseで日本人と日本語を兼ねるというのは、おそらくそういうこと。つまりやっぱり我々は日本語人でしかない、という話なんですけども。純正日本語と今の日本語。その隔たりも一つのテーゼだったのかな、と思います。

 例えばPJキットの場面。コメンタリーだとめちゃくちゃ逡巡したシーンがバッサリカットされてたとおっしゃってましたね。まあでも立石くんの性格的にはああいう輩に押し付けられたものって……ってなるんかなと思いました。それこそ海外にいた時にマフィアとかそういうのを見てるから、押し付けられたモノがあまりに信用できないって思ってるっぽいですよね。意外と彼は「ヤクザ」の概念がわかってなさそうですごく好きです。日本人がマフィアと言われてもどこかピンとこない一方でヤクザと言われると身近に感じるし具体的な例が思い浮かぶのと同じように、立石くんはヤクザがピンときてないのかもしれない。あるいは、「これがヤクザなのか」となったのかもしれない。わからないけれど、そういうところに見える認識のずれがあーOS! となってましたね。

 あとはそうだな……まあでもやっぱり「後輩にアドバイス」って言われて生真面目に応じてしまうところとか。あれ京都人だからかな、めっちゃ皮肉やん……て思ったんですよ。あんなに「役立たず」の立石大輔にアドバイスさせるって本当に意地悪ですよね。でも立石は愚直に飲み込んじゃう。日本語の意味はわかっていてもOSがずれているから「わからない」。テキスチュア的に「これ自分イジられてるな」「いじめられてるな」がわからない。彼のいじめられていた少年時代もおそらくそうだったんだろうなあ……と推察できる作りになってるんですが、いやーでもそれもこれも立石がある意味「純正日本語人」だから発生しちゃうバグなのだと思います。正しいものごとが必ずしも良いわけでも適する訳でもないというか。日本語ってこういうニュアンスを元に成り立っているところが多分にあるんですよね。一昔前に「KY」なんて言葉が流行りました。逆に言えばそれまでは空気は当然「読む」ものだった。空気が読めないっていうのはつまり言葉以外の文脈も読み取るということです。それができないことが悪になるのは、つまり日本語がそういう言語であるから、だと思うんですよ。

 だから、立石大輔は尚更愚直に見える。彼は日本語を操ってはいないのです。正しい日本語文法と正しい日本語を使いながらも、彼は日本語ではなくどこまで行っても英語なんですよね。

 しかも彼が幼少期に学んだのはあの人種のるつぼ/サラダボウル社会と名高いアメリカです。イギリスじゃないんです。イギリスはどっちかいうと日本語のようなところがあり、それこそ先程引用したイングランドの文芸評論家のような「純正英語」とかの文化であり言語です。しかしアメリカは自分の意志をそのままどストレートに言葉にしなければ伝わらない。

 そう考えると、尚更立石大輔の中の言語というのは日本語のようでありながら絶対に日本語になり得ないんですよ。おそらく。日本語のテキスチュアに則って喋れない以上、純正日本語でありながら日本語じゃない。そしておそらくその「純正」自体が幻想にすぎない。なぜなら我々日本語を喋る人種全体が喋る言語こそが日本語だから。言語というものは変わっていきます。その変化というのはおそらく母語とする人間だけでなく日本語を喋る人が気づかない変化。日本語を内面化してしまっている以上は、おそらく気づかないんです。だからこそ立石大輔の日本語は「純正」ゆえにおかしい、と感じるんですよね。

 そう考えると「PureJapanese」という言葉自体がすごい変なものに思えてくるわけですが、一方で現在の日本ってやたら「正しい」日本を求めているんですよ。

 例えば日本文化を見直そう、というテレビ番組。例えば「正しい日本語とは」というSNS上の議論。正しい日本を古き良き日本とする風潮。はっきり言って、日本代表をアスリートに求めるオリンピックだってそういうことだと思います。結局のところ、あのプレスシートという名前の文章で小川真司プロデューサーが載せていたのはそういうことなんじゃないか、と思います。

 古き良き日本を否定するわけではないですが、我々が現代というフィルターにおいて無自覚に自らの純正を示すため取捨選択した「古き良き日本」の残像。それは、ある種の民族主義なのではないか。少なくとも立石のような人間を排除しやすい素地を作っているのではないか。

 もちろんそれも一つの思想としては間違ってはいないし、思想をそもそも否定するのはナンセンスでしょう。だけれど一方で本当に正しいのか、あるいは本当にそんな取捨選択でいいのか? みたいなところまで突きつけてきたのがあの映画なんじゃないでしょうか。

 我々が生きている日本とはどういう国で、どういう世界的な立ち位置で、どういう風潮なのか。我々が思考するツールとしての日本語というのはどういう言語なのか。それをわかっていないまま漫然と「日本人」で在ることは、おそらく簡単です。だけどそれだけでいいんだろうか。純正を問うことは、そのまま我々の存在を問いかけているのではないか。

 PureJapaneseは実験装置だそうですが、何の実験かというと「日本ってなに?」を問いかけるための実験装置、なのかもしれません。

4 葉隠/ザ・カブキ/三島由紀夫

 モーリス・ベジャールが振付し演出したモダンバレエの傑作「ザ・カブキ」をご存知でしょうか。

 最後に考えたいのは、ザ・カブキとPureJapaneseの共通点です。

 そもそもなぜこのモダンバレエを取り上げたのか、というとPureJapaneseがどう見ても歌舞伎も意識しているからに他なりません。……って言いつつ違ったら申し訳ないんですが。

 ザ・カブキというのはいわゆる文楽の忠臣蔵を題材にしたバレエです。忠臣蔵なのでもちろん歌舞伎要素も入っているんですよね。そして「立石大輔」と「大石内蔵助」は似てるんですよ。生き方とか。しかも人形浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」などにも登場する、顔世御前が出てくるしおそらくこれはアユミポジションじゃないかな、とかね。

 そして一番わかりやすいのは立石とアユミが赤い服や返り血をつけているあの画像ですね。二人ともヒーローとヒロインポジションなので赤なんでしょうけど、これは完全に歌舞伎の色を意識してるはず。そして黒崎は「黒」ですから、歌舞伎でいえば悪人であり権力者なんですよね。

 とまあそういう共通点で考えるとまあまあ、PureJapaneseは歌舞伎を意識しているだろうと思います。しかしそれだけで考えるとなかなか遠いので、同じ「外からの目で見た歌舞伎」を考えようと思った所存です。

 実は、モーリス・ベジャールは大の日本ファンで、すっごい日本に精通していたそうです。でも作ったのは批判される際に「安易なジャポニズム」と称されてしまうバレエだった。だけどそのバレエを作り上げる際彼が参考にしたのは三島由紀夫や、あるいは三島の愛読書「葉隠」だったようです。

 「葉隠」という書籍は江戸時代に書かれたものですが、知らない方も「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」って言葉くらいはご存知でしょうか。あれです。あの言葉が「葉隠」の中に書いてあるんですよ。

 もうここまで書くと一部の方はお分かりでしょうけれど、そういうことです。PureJapaneseも三島の、そして「葉隠」の影響を受けているんじゃないだろうか、と。立石の中の倫理観念というのは確実に「武士道」なんですね。生死関係なく冷静に判断すること。そして死に隣り合わせに生きること

 おそらくですが、「葉隠」の書かれた背景もPureJapaneseに似ているんですね。「葉隠」ってのは結局江戸の安穏とした空気の中でいかに「武士」として戦国時代のような生死隣り合わせの空気に身を置くか、って話なんですよ。そう考えると、武士道に生きる立石と安穏と生きる日本人の我々のこの、分かり合えない溝みたいなのがすごい明確になる。

 というのも、立石は人を殺したことで一層自分の死が身近になっちゃったんじゃないだろうか。だけど我々普通の日本人というのは生も死も遠くに生きてるわけです。そのギャップを埋めるためにも、おそらく立石大輔は「武士道」を持ち合わせていった。そうでなければ、彼の体験というのはブラックボックスのまま、ラベリングできないですから。

 そして、結果その姿はザ・カブキの「由良之助」=大石内蔵助につながるわけです。結局のところ忠臣蔵のあの事件も江戸の平穏な世に急に発生した、ラディカルな武士道の発露だったわけですよ。だからこそドラマになる。そして、さらにそれを冷静に見る第三者がいるから、ザ・カブキもPureJapaneseも面白いんですよ。

 さらにですね、立石大輔はおそらく浅野内匠頭も内包した存在です。彼のエア切腹という論理を武士道で考えれば、浅野内匠頭の「平穏な世の中で抜刀した科で切腹」と似たところがあるんですよ。まあもちろん浅野の悪いところは江戸城内で抜刀したことなんですが、生きる誇りを汚されて抜刀するのは武士として当たり前の倫理なんですね。武士の精神ってそういうもんだから。で、立石の場合はおそらく「ガイジンといじめてきた相手」も「うっかりハリウッドで殺しちゃった相手」も「隆三さん」も、事故ではありつつもある種立石大輔の希望を潰してきたっていうのかな、まあどっちにしたって汚してきやがってみたいな相手なんだと思うんですよ。ここはまだうまいこと言語化できてないですけど。

 そう考えるとエア切腹というのはある種理不尽な刑罰である「切腹」の要素を上手いこと抽出してんのかな、と。

 まあそういうことを考えた上で、やっぱりラストシーンはすごいですよね。ザ・カブキもですが、ちゃんと悪vs正義の姿にはなってるんです。だけど、やっぱり根底にあるのは現代日本の悪vs正義でもなく、あるいは欧米的なものでもなく、ちゃんと武士道の上での悪vs正義なんですね。

 そしてそれを評価したのがモーリス・ベジャールの「ザ・カブキ」であり、答えをくれないのがPureJapaneseではないのかと思うわけです。なにせ、黒も着てますからね立石大輔。立石大輔を絶対正義と描かないのが本当に面白い。ただただ冷静に描き出す。そもそも彼の正義を彼自身が決めるのが尚更面白いですよね。認識によって悪も正義も変わるわけですから。

 そう考えると本当にすごいな……と思います。おそらく商業主義にふるなら勧善懲悪でよかったのかもしれない。だけど、あえてそうしていない意図よ。だからこそ安易じゃないし、何回も見たい! ってなるんですよね。

5 結びに替えて

 というわけで三つも書いちゃったよ。PureJapaneseで。今この時点で

 11000字超え……ですってよ奥さん。

 いやーでもね、本当に面白かったんだよね……。あれはおそらく芸術としての映画だと思うんですよ。作品というか。こう……なんだろう、原作があってそれ劇場版にしましたお金稼ぎましょうみたいなそういう映画ではないなと思います。もちろんそれも重要だし、おそらくこの映画に足りてないのはそういう商業的なダイナミクスだとも思います。だけどそれが悪いとは思えない。だってその分魅力的なんですよ。

 実はPureJapaneseの後、某映画を見に行きました。それも結構面白かったんですけど、なんだろうね、人の死に方がすっごいこう、リアルじゃないんですよ。だから東京が燃えても花火にしか思えない。PureJapaneseの場合はちゃんと命と温度を持った人が死んでいく。もちろんどっちがいいわけでもないし両方面白かったですが、本当にPureJapaneseの方はちゃんと「死」をしっかり描いているのがすごいなと思います。

 もちろんコメンタリーの感想ももっとあるんですけど、いかんせん私が聖徳太子じゃないのと観に行ってから書くまでに時間かかった結果忘れてってるんですよね…‥もったいない。

 また観に行きたいんで、また観れたら、もっとこう、熱量高いレポートしたいな……と思ってます。

 ここまでお読みいただきありがとうございました。

 オカモト


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