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バレエ小説「パトロンヌ」(50)

クラシック・バレエにあって「マリウス・プティパ」の振付は王道中の王道だ。コンテンポラリーのように全くのオリジナル演出であればいら知らず、「プティパをベースにマイナーチェンジ」は、よっぽどの自信と説得力がなくては容易には着手できない。そこに、甲斐は果敢に斬り込んでいった。

ジゼルが倒れた時、通常ならアルブレヒトは、動かなくなったジゼルにしがみつき嘆くものの、直後ジゼルの母親に払い退けられる。加えて従者にも、面倒に巻き込まれないようその場を早く立ち去るように促され、王子は後ろ髪を引かれる思いを抱きながらも退場して第一幕は終わる。
王子の振る舞いを、「ジゼルを見捨てて保身に走る無責任男」と取るか、それとも「高い身分にある者の悲しい限界」と取るか。それによってジゼルへの愛情の深さも違って見える。観客にとっては、いわば玉虫色の幕切れだ。

ところが、バレエKの「ジゼル」は違った。いつも通り舞台後方の木立の向こうへ走り去っていったアルブレヒトだったが、なんと、戻ってきたのだ! 従者を振り切り、王子は帰ってきた。そしてジゼルを抱きしめ号泣。そこへ、幕。

これまでにない演出に、バレエ界は「そう来たか!」と色めきたつ。王子はジゼルを愛していた。そのことが、完全に可視化されたのである。
思えば「身分違いの恋の破綻」それも薄幸の娘の犠牲があって男は身分が保障され、かつ心は成長するという物語に、21世紀の今、いったいどれだけの観客が共感するだろうか。
「若様、ここにいては御身が危のうございます」と促され、「でも…」と戸惑いつつ、しかし結局は立ち止まらず逃げ去る男。好きな女が死んでしまったのに、その場から立ち去る男を、「卑怯」以外のどんな形容詞も当てはめることはできない。

もちろんバレエは「踊り」を見せる芸術で、ストーリーなどあってもなくてもいい、と考える向きもある。しかし「ジゼル」は究極の愛の物語。その「愛」は、ジゼルにしか求められていないのか? アルブレヒトは、ただの添え物か? 
舞台上で繰り広げられているのは、絶対的な王権が全てを支配する中世の物語かもしれない。でも、観客は中世には生きていない。現代人の私たちが見たいのは、時を経ても変わらない「愛の形」のゆくえである。愛の深さに身分の上下はなく、そして男も女もない。そのことに、甲斐は敏感だった。
そう。ジゼルは息絶えてもアルブレヒトを待っている。愛しているから。そこへ彼は戻ってきてくれたのだ。自分の弱さを振り切って。厳然として立ちはだかる身分の差も飛び越えて。そう、観客もアルブレヒトを待っていた。この誠実さがあればこそ、2人の恋は永遠となり、ジゼルは死してなお、アルブレヒトを全力で救う。

しかし数日後、甲斐がこれとも異なるアルブレヒトを演じることになるとは。その違いを、リカは見逃さなかった。(つづく)

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