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#誰も消さない 為に余白と当事者性の獲得の中で手を動かす2024

 今年も松蔭先生の墓前で志を改めながら、新年から落ち着かない気持ちで過ごすことになりました。有事の時は特に、そうでない時こそ着実に、人への想像力と、想像した先にある備え、そしていつ自分が当事者になっても行動し続けられる不屈さと、求められた時に十分に動けるだけの余白を、持ち続けたいと思います。

今年も松陰先生に志の宣言を(住まいを暈すようなF値)

 これ以上、誰にも被害が起きずに穏やかな日常が訪れることを祈るばかりですが、私がいるチームヘラルボニーのメンバーが迅速に対応してくれた #障害者を消さない のこの記事のように、あなたにとって、いついかなる時も決して世界から存在を消しては欲しくない存在を第一に考えて過ごして欲しいなと烏滸がましくも考える仕事始めです。

 何かを話すことは簡単でも、耳を傾けることは難しい。こうして新年にまた志を記すことは簡単ですが、人の心に耳を傾けることは容易ではありません。無数の当事者性がある中で、一体どこまで耳を傾けられているかは、日々苦悩する点でもあります。

 HowではなくWhyを考え、循環をつくることで前向きに歩いている人と後ろ向きに歩いている人が出会うこともある。個別複雑な問題に日々向き合いながらも、循環をつくるにはどうすれば良いか、なぜその循環をつくりたいのか思考停止しないことも大切です。考え過ぎることと同じくらい、手を動かすことも好きです。

AIと仲良く新しい景色が見たい

 毎年、年末年始にはアートや音楽に触れ、内面に向き合いながらも良い刺激を受けられるような過ごし方を意図的にしています。唯、今年のように直近バイアスで心が乱れることもあるし、幾ら内面に向き合う時間を改めて作ったからといって、数日前の考えが大きく変わるものでもありません。寧ろ軸を再確認するような感覚です。

 宣言通り、今年のテーマは「余白」です。「余白」は心にも、時間にも、脳の中にも、人間関係にも、あらゆる場所に必要なキーワードだと感じています。日々、仕事で手を動かし続けることの先には、履歴書に書くような美徳(美徳ですらない)しかつくれないのかもしれません。唯、余白を持って、少しだけ長い目線と、自分の心を大事にする余白を持つことで、弔辞で読まれるような美徳がつくりだせるかもしれません。

 正直、生きている間に他人にどう思われようが構いませんし、弔辞の時にボロクソ言われたとしても、本質的な価値(本質的、の意味については対話を繰り返した人としか共有できない言葉です)を生んで、誰か1人でも生きていて良かったと思える景色をつくり、何十年も後にも誰かが祈りにきてくれるお墓を作れればそれが良いなと思います。

 今日誕生日のK君の年齢ももうすぐ超えそうで、松蔭先生の年齢は1年も越してしまい、そんな大分長く生きてきた私が、私なりに遺したいものを考え続けられる余白を、日々の忙しさの中でもつくりつづける必要がありそうです。

強烈なアート体験 / 美術館は余白のある避難所になり得る

 自己の身体と心の健康にも焦点を当てます。過去の経験から、身体的、精神的な健康がどれほど重要かを学びました。内面的な成長と外面的な成功の間でバランスを保ちながら、自己の価値を追求します。自己と他者との間の関係を深め、共感と理解とを保ちながら、共鳴できる瞬間にのみ喜びを覚え、より良いコミュニティを築いていきます。

 最も大切なのは、自分の心に忠実であり続けることです。2024年も、自分に必要な全ての挫折と経験を通じて、自分と他者の理解を深め、人間の本質を探求し、それに基づいて行動することで、これまでの自分の限界を超える新たな境界線を描き出します。少しでもご恩は返せるように。

自分の作った作品を撮る質量とデジタルの往来がしたい

 年末年始もアートでの心の機微を感じる以上に、考えさせられること、やるせないこと、想像力のない自分に悔しさしか覚えない瞬間もありましたが、それ以上に、先日の恩師の言葉を反芻させる時間が長かったなと振り返ります。

 障害というのはいつ当事者になるかわからない.当事者になったときの驚きや焦りは皆が持つことです.病気になったときに気づく人もいるし,足を切った時に気づく人もいる,親になったときに気づくこともある.もちろん医療やテクノロジーの発展で過ぎ去ってしまうこともある.過ぎ去ってしまったらそのときのことは正確にはもう思い出せない.でも人生の困難や岐路に,何かなすべきことがある,そういった自分を突き動かす熱が生まれたとき,自分がプロフェッショナルとして何ができるか,どう貢献できるか.その能力を持ち寄れる社会を作っていくことが,多様性ある社会になるための条件だと思います.だから僕は一番深い瞬間は,自分が当事者として自分を自覚したときがだったと思います.それはその瞬間にしかない熱があるんだと思います.

プロフェッショナル 仕事の流儀 落合さん

 「過ぎ去ってしまったらそのときのことは正確にはもう思い出せない」ことを、私は悔やんでは絶対にいけなくて(自分で自分を許せないことの最上級に位置する)、それは私が思う「豊かな後悔」ではなく「貧しい後悔」にあたるからです。

 「豊かな後悔」の多い人生を余白を持って送りながらも、刹那的に自分が当事者として自分を自覚した瞬間には全てをそれに投じる覚悟で、そして圧倒的な想像力と傾聴力であらゆる当事者性を獲得できる人間になるまで、2024年も泥くさく生きていきます。

 以前綴った想いで数年は軸が変わらなそうですが、あらゆる当事者性を獲得した後に、人に貢献できるプロフェッショナルであり続けることは当然のこととして、淡々と進めていきます。

 いつも抱負的なものは誕生日に書くのが通例ですが、今の心の機微も、このタイミングで残しておきます。何にも執着のない心の余白が乱れた時にこそ、こうした記録の意味があるなと、感じるこの頃です。

 長らく辞めていたSNSを意識的に使った1年でしたが、noteが自分の為だけの備忘録として有用なのは変わらず、Instagramは唯々日記的、Xは情報収集用、Threadsはnote以上の価値が見つからず使っていない...ということで帰着しました。もはやnoteだけで良さそうなので、恐らく仕事以外ではまた使わなくなりそうです。

 それよりも、余白の時間はアート表現とデジタル空間の行き来、フィルムとカメラと暗室の行き来、ジビエの狩猟と調理と食事の行き来、茶道の茶と礼と侘び寂びの往来に投じていきたい一年です。皆様の心が健康でありますように。

一昨年も昨年も今年もこの場所で。中身は毎年ほぼ別人。

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