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侘び寂びのデザイン

2019-20 茶道/利休好
 茶器のフォルムが猫に通ずるかわいさがあると話していて先生に怒られた.茶会では20代は疎か3,40代にも会えないので先輩方に囲まれるのが楽しい.

 歴史を勉強している過程で,利休を知った事を入口に茶道を学び始めて,茶碗,茶器といったプロダクトや茶室の空間デザインといった衣食住全てへの”デザイン”という概念に感銘を受ける日々.

一度生まれた理想のデザインが職人の人生を動かし続けた数百年.
表面的な見た目の美しさ及び経年劣化によって産まれる新しい美が”寂び”だとして, より形而下的で価値観まで支配するのが”侘び”だなと何となく分かってきたなと思いつつ.理解の範囲は超えていないので見識程度.

 伝言ゲーム的に誤解され続ける”侘び寂び”は茶道の世界でもそうで.
不完全で不如意なものが茶の湯の美意識だと語る人もいるけれど,茶の一服の為に茶室とコンテンツを作り,後は燃やして灰にするという覚悟が侘びでは無いかとも思う.つまりはその場限りの美しさで,桜や挿花に感じ入られる美意識.

 桜がなければ春は結構落ち着いていた気もするけれど,無ければ無いでの寂しさはひと月に留まらないとも思う.(経験抜きに桜嫌いな人っているのか?) 気を抜くと肥大化するゴテゴテした装飾の美意識ではなく,極限まで削ぎ落としたミニマムデザインの美に惹かれる中,無印良品のアートディレクターも茶の湯に親しみがあったと知って腑におちるものがあった.

 削ぎ落とし続けた末に何が残るのか,コンマリ的なハウツーとも少し違う.伝統の上に無防備に自分を置いていると思考停止になるし,利休に憧れると茶の湯に通ずる自分以外は自滅していく気もする.学ぶだけではなく見出すとでも言えば伝わるのか.守破離の守に何年掛ければ良いのか答えが無いから面白い.

 珈琲は5年も手掛けているのに何故好きにならないのかなと思うと,始点と終点までの間に職人の技が途絶える瞬間があるからか,思想が後付けだからか,仲間が少ないからか,と何となく分かってきた.職人の技が途絶えるならそれは別の人が繋げばよいし,思想は生み出せばいい.仲間は増えていくもの.
それと同時に,利休は美意識の表現として茶道をデザインしただけで,それは珈琲でもメディアアートでも何でも良かったんじゃ無いかとも感じる.

 ワイン×懐石をやってみたり,珈琲×茶道をやってみたり,待庵とライブハウスを楽しんだりしていて,何を始点と終点にしたいのか分からなくなる時もあるので,こうしてたまに整理しておく.

400年続く茶道もコロナには勝てず,しばらくお茶会はお休みなのが心侘しい.

#茶道 #デザイン #利休好

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