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実存的ジレンマ:心と肉体の二元性と相関性

 ちょっとだけ困った時は、大体歴史に答えがある。「愛とは何か」とか居酒屋で議論する前にフロムの「愛するということ」を読んでから話せと思うこともある。そして今の自分には自分の3年前の記事が役に立つ。

 また3年後にでも、無力感や孤独、誰しもが陥る病に悩むことがあったら、これから記すことを読んでくれる自分に期待して、自分だけが分かるエクリチュールという形で綴っておく。

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 思索する者にとって、「卵が先か鶏が先か」という問いは永遠の課題である。それは因果関係の根源的な問いを示している。同様に、我々人間は自身の実存を問い続ける。「肉体の衰弱が心の疲労を引き起こすのか、それとも心の疲労が肉体を蝕んでいくのか」。この問いへの解は固定されず、我々の生きる道のりは実存的な不確定性の中に揺らいでいる。

 数多くの治療法が既に存在するという事実は、頭では理解できても、肉体がそれを受け入れることは容易ではない。そこには無限の疲弊と倒錯があり、それによる疲弊が我々の心と肉体を交錯させ続ける。しかし、その疲弊の中に新たな可能性が存在する。

 私の尊敬するキェルケゴールは、「生活の最大の悲劇は、ほとんどの人々が死ぬまで、本当に生きることがないということだ」と言った。我々はここで、生きることの本質を再考させられる。心が疲弊し、肉体が弱り切っても、真実の生活はそこから始まる。自身の感情、人間性が困難を通じて深化し、我々は新たな自己に出会う。その過程は、人生の余白を創り出す。この余白こそが、我々の未来、未知の可能性を示している。

 敬愛するドストエフスキーは、「痛みは人間を思考へと導く」と言った。肉体的な痛み、心の痛み、その両方が我々を深遠な思索へと誘い、我々自身の内面を直視する機会を与える。痛みと直面することで、我々は生命の本質に触れ、そこから何が生まれるのかを見つめることができる。

 3年後の自分に残しておく。また肉体と心の双方或いは何れかの疲弊で迷い、どちらが先かを問う意味を見失ったとき、静かに心の中に目を向けてほしい。あなたがここに生きているという事実、それは実存的にはとても美しい。家族がいなくても、必要とする人がいなくても、ペンのように目的が先に存在しているのではない。目的なく存在できるものは全て等しく美しい存在である。あなたの心と肉体の交錯、それはあなたの人間性と感情を掘り下げ、より深く理解する機会を与えてくれる。実存的な価値を認識できる環境を作り続け、思索することと情念に囚われることとの区別をできるだけの人間で居続けられるなら。

 痛みと直面すること、それはあなたの新たな自我の発見、人生の新たな余白の創造へとつながっていく。肉体と心、それぞれの疲弊は、今ここにいる自信への理解と繋がり、そして、その理解があなたの新たな可能性を拓く。新たな自己、新たな余白が、あなたを待っている。この生きる道のりを歩み続けていけば、その新たな自我と余白が必ず見つかるだろう。心に、その可能性を持ち続けて。命を燃やすとは、そういうことだ。灰も煙も出る。煙たがられることもあれば、灰が吹き飛ぶこともある。そこで残るものに目を向けて欲しい。

 


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